第1話 非番の朝は早い
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よろしくお願いします。
朝霧がゆっくりと晴れゆく森の静寂の中、湯気の立つハーブティーを一口含む。
鼻腔を抜けるのは、今朝摘み取ったばかりの『銀霧草』が放つ爽やかなメントールの香り。澄んだ琥珀色の液体が、心地よく喉を潤していく。
「ふぅ……。やっぱり、朝摘みのハーブティーは格別ね」
木漏れ日が柔らかく差し込む白いテラス席で、リーゼロッテ・フォン・アルステットは深く息を吐き、背もたれに身を預けた。
身に纏っているのは、身体を締め上げる窮屈なコルセット付きの豪奢なドレスではない。吸湿性に優れた上質な麻のブラウスに、動きやすい柔らかな仔鹿革のワークパンツ。足元は脱ぎ履きのしやすい手入れの行き届いた革靴だ。
手首には土汚れ防止のリストバンド。腰のベルトには、薬草採取用の専用ナイフと、小型の携帯魔導天秤が吊り下げられている。
およそ大貴族たる公爵家の令嬢に相応しい格好ではない。
だが、今のリーゼロッテにとって、これ以上に機能的で幸福な装いは存在しなかった。
王都の外れ、鬱蒼とした原生林に隣接する広大な土地に建つ、アトリエ付きの白亜の別邸。
ここが、現在のリーゼロッテの活動拠点であり、至高の城だった。
わずか一ヶ月前。
学園の卒業記念夜会において、第一王子ジークハルトが彼女を断罪し、公然と婚約破棄を叩きつけようと大芝居を打ったあの日――。
当の主役であるリーゼロッテは、ギルドから舞い込んできた『暴食竜の緊急討伐要請』を優先し、迷宮深層で泥まみれになりながら巨大竜を五分で解体していた。
主役不在の壇上で一人相撲を演じ、社交界の笑い草となったジークハルトは、国王の怒りを買って王位継承権を剥奪。今や北方の極寒の修道院で、寒さに震えながら反省の祈りを捧げさせられているという。
後日、公爵邸に怒鳴り込んできた元王子に対し、リーゼロッテが返したのは怒りでも嘆きでもなく、書類一枚の事務処理のような「謹んでお受けいたしますわ」という快諾だった。
愛など最初から微塵もなかった政略結婚だ。
王妃教育という名の無意味なマナー講習と、無能な男の機嫌取りから永久に解放された。
おまけに実家のアルステット公爵からは「苦労をかけたな……お前の好きに生きなさい」と、この広大な別邸と潤沢な研究開発費まで分与されたのだ。
「むしろジークハルト殿下には、感謝状を贈りたいくらいだわ」
心底から湧き出る本音を呟いた、その時だった。
「――お前があのボンボンに礼状なんか送ったら、あいつ胃に穴が開いて倒れるんじゃねえか」
低い、呆れ混じりの男の声が頭上から降ってきた。
見れば、テラスを囲む生垣を片手でひょいと乗り越え、長い脚を器用に下ろして庭先へ着地する人影があった。
ボサボサに伸ばされた無造作な茶髪に、眠たげな灰色の瞳。
だらしなく着崩しているように見えて、羽織っている黒革の外套には、金糸で精密に刺繍された『王立冒険者ギルド中央本部』の紋章が鈍く輝いている。
左耳に揺れるのは、ギルド中枢と直結した魔導通信ピアス。手には分厚い羊皮紙の巻物と、真鍮の金具で留められた黒革の手帳が握られていた。
カイン・レドフォード。二十四歳。
元Sランク冒険者にして、現在は大陸全土のギルド規約を取り締まる『中央本部直属・特務監察官』である。
「おはよう、カイン。今日も正面玄関という概念を忘れてきたみたいね」
「門番のセバスチャンに捕まると、朝の挨拶だけで十分は足止め食らうからな。『お嬢様の御身に万が一があれば』って、あいつの小言は近衛騎士団長より重いんだよ」
カインは肩を竦めると、慣れた足取りでテラスの空いている木製チェアを引いてどっかりと腰を下ろした。
リーゼロッテは苦笑しながら、予備の白磁のカップをソーサーに載せ、立ち上るハーブティーを注いで差し出す。
「はい、どうぞ。思考をクリアにする特製ブレンドよ」
「ありがとよ。……ん、相変わらずいい香りだな。王宮の腐った貴族どもが飲んでる茶より百倍美味いぜ」
「当然よ。今朝の日の出前に、庭の結界内で採取したばかりの特上品ですもの。……それで? ギルドの中央本部が誇るエリート監察官様が、わざわざこんな王都の外れまで朝駆けしてきた理由は?」
リーゼロッテが琥珀色の瞳をすっと細めると、カインはカップを置き、机の上にドンと羊皮紙の巻物を広げた。
精巧な多色刷りの魔導インクで描かれた、複雑極まりない立体構造図。
紙面の上部には、紫色の巨大な封蝋とともに、隣国『ガルディニア帝国』の国章が刻印されていた。
「頼まれてたやつだ。隣国の未踏迷宮――『常闇の螺旋穴』の最深層までの観測地図と、特別踏破認可証だ」
「……っ!」
リーゼロッテの表情が、目に見えてパッと華やいだ。
先ほどまでの冷徹な貴族令嬢の仮面は一瞬で剥ぎ取られ、未知の領域に挑む学者にして討伐者の爛々とした光がその瞳に宿る。
「本当に取れたのね!? あそこは隣国の管理が厳しくて、他国の冒険者には地下三十層までしか立ち入りを許可しないはずじゃ……!」
「普通ならな。だが、お前が先月討伐した『奈落の暴食竜』の素材、うちのギルド本部経由で隣国に流しただろ。あっちの魔導兵装庁が喉から手が出るほど欲しがってたコアだったからな。ギルドマスターがそれを交渉材料に使って、特例の『学術調査および危険度査察ライセンス』をもぎ取ってきた」
カインは懐から取り出した真鍮の留め金の手帳――『特務監察手帳』をパチンと叩いてみせた。
「ただし、条件が一つある。お前の単独突入は全面禁止だ。俺がギルド中央本部の『特命監察官』として全行程に同行し、お前が隣国で暴走して外交問題をらかさないよう監視することが義務付けられてる」
「監視? あなたが?」
「そうだ。本国のギルドマスターから直々に辞令が出た。『アルステット公爵令嬢の規格外の武力行使を抑制し、国際ギルド規約に則った運用を維持せよ』だとよ。……要するに、お前の首輪役兼、公務としての出張査察だ。断っておくが、俺は仕事で付き合ってやるんだからな」
「あら、心強いわね。荷物持ち兼、面倒な書類仕事の代行役がついてきてくれるなんて」
「おい、誰が荷物持ちだ。俺の役職言ってみろ、特務監察官だぞ。全冒険者が震え上がる階級なんだが?」
「はいはい、優秀な監察官様。お茶のおかわり淹れてあげるから拗ねないで」
「……まったく、お前と話してると調子が狂う」
カインは深いため息をつきながらも、注ぎ足されたハーブティーを大人しく啜った。
元Sランクの腕利きであり、若くして監察官に抜擢されたカインと、公爵令嬢でありながら単身で深層ボスを解体するリーゼロッテ。
ふたりの間に、世間一般の男女が抱くような甘い空気や色恋沙汰の気配は、ただの塵芥ほども存在しない。
互いの実力を誰よりも把握し、己の領分とルールを厳格に守り抜く、極めてドライで快適な仕事上の相棒関係。だからこそ、リーゼロッテにとってカインは、この上なく気の置けない相手だった。
「――それで、リーゼ。あそこの最深部は地下百層だ。観測史上、誰も足を踏み入れたことのない未踏の地獄だぞ。本当に潜る気か?」
「愚問ね」
リーゼロッテはカップを置き、地図の最深部に描かれた巨大な空洞の印を、白くしなやかな指先でなぞった。
「地下百層にのみ自生すると言われる伝説の霊木――『万能霊樹』。その樹液から採れる『万能霊樹の雫』は、あらゆる呪詛と魔力障害を霧散させ、損壊した細胞すら即座に再生させる究極の触媒よ。ずっと探していたの。あれさえあれば、私の魔力調律理論を組み込んだ、完全無欠の『超濃縮ポーション』を完成させられるわ」
その言葉の端々には、一切の迷いも恐怖もなかった。
地下百層という、他国のエリート部隊が挑んで全滅すらあり得る死地を、まるで「裏山へ山菜採りに行く」かのような平熱のトーンで語っている。
「……はぁ。やっぱりお前の頭のネジ、三本くらい迷宮に落としてきてるだろ」
「失礼ね。私は常に極めて合理的かつ安全第一で動いているわ。身体強化の燃費計算も、解体手順も、すべてミリ単位でシミュレーション済みよ。……ところでカイン、出発はいつにする?」
「ギルドの手続きはもう済ませてある。お前の準備さえ良ければ――」
「なら、明日ね」
リーゼロッテは迷いなく即答した。
「善は急げよ。アトリエの保存庫の整備も終わったし、携帯食糧の乾燥肉と高カロリーポーションの仕込みも昨晩完了したわ。愛剣の手入れも万全よ」
「……相変わらず行動が早すぎて引くぜ。分かったよ、明日の早朝、国境行きの高速魔導馬車を手配しておく」
カインが椅子から立ち上がり、監察手帳を外套の内ポケットにしまい込む。
その時、テラスへと通じるガラス扉が控えめにノックされ、銀髪を完璧に撫で付けた老執事――セバスチャンが静かに姿を現した。
「お嬢様、朝のお寛ぎのところ失礼いたします。……おや、カイン様。また生垣を飛び越えていらっしゃいましたね。我が家の薔薇に傷一つでもついておりましたら、ギルド本部へ損害賠償を請求いたしますよ」
「げっ、セバスチャン……! い、いや、枝一本折ってねえよ、ちゃんと無傷だ」
普段は王宮の役人相手に冷徹な態度を崩さないカインが、執事の冷え切った視線にわずかに後ずさる。
セバスチャンはフンと誇らしげに鼻を鳴らすと、手にした銀のトレイから一通の書状を取り出し、リーゼロッテの前に掲げた。
「お嬢様、王宮の『王立魔導院』より、至急の親書が届いております。新任の魔導院長に就任された、バルタザール伯爵からのものですが……」
「バルタザール伯爵?」
リーゼロッテは首を傾げた。
ジークハルトの失脚に伴い、王宮の魔導関連のポストが総入れ替えになったという噂は耳にしていた。その筆頭に収まったのが、確かその男だったはずだ。
「内容は?」
「『前任者たるアルステット家が保管していた、王都大結界の管理権限コードおよび予備の魔力触媒の即時引き渡しを要求する』……とのことです。非常に尊大かつ無礼な文面でございましたので、破棄して暖炉の薪にいたしましょうか?」
セバスチャンの眉がピクリと不快そうに跳ね上がる。
だが、リーゼロッテは穏やかに首を横に振った。
「いいえ、必要ないわ。引き継ぎの書類なら、退職……じゃなくて婚約破棄が成立した翌朝、魔導院の執務デスクの上に全部わかりやすくまとめて置いてきたはずよ。術式の起動順序も、触媒の配合比率も、すべて正確に記してあるわ」
「……あの、お嬢様。お言葉ですが」
カインが横から、何とも言えない顔で口を挟んできた。
「お前が書いたその『わかりやすい書類』って、もしかして全部、お前独自の魔力調律理論と、深層モンスターの素材を前提にしたレシピで書いてねえか?」
「ええ、もちろんよ? それが一番低コストで高効率ですもの。無駄な予算を浪費しないための現場の知恵よ」
「……あのなぁ、リーゼ。お前以外の魔導士が、深層素材の魔力波長をミリ単位で調律できるわけねえだろ。普通の宮廷魔導士から見たら、ただの古代語の呪文か暗号文書にしか見えねえよ」
「あら。専門職を名乗るなら、その程度の基礎理論くらい解読してほしいものね。まあ、読めないなら読めないで、自分たちで一から新しい結界を組み直せばいいだけの話よ。国家予算もたくさんあるのでしょうし」
リーゼロッテは一切の未練も執着もなく、澄ました顔で言い切った。
すでに自分は王家の人間ではない。ただの自由な研究者であり、ギルドの一冒険者だ。国の防衛システムをどう運用しようが、それは残された王宮のエリートたちが責任を持つべき仕事である。
「セバスチャン。返信は不要よ。『引き継ぎ書はすでに執務室に納品済みであるため、そちらを参照されたし』とだけギルド便で伝えておいて」
「かしこまりました、お嬢様。清々しいほど冷徹なご対応、感服いたしました」
セバスチャンは満足げに一礼すると、優雅な足取りで屋敷の中へと戻っていった。
カインは頭を抱え、深く、深いため息を吐き出した。
「……本国の王宮、近いうちに絶対にやらかすぞ、これ」
「他所の心配をする暇があるなら、明日のパッキングを済ませなさい、カイン。隣国の迷宮は逃げてくれないわよ」
リーゼロッテは立ち上がり、テラスの柵に手を置いて、どこまでも広がる抜けるような青空を見上げた。
面倒な義務も、偽りの愛を囁く婚約者も、窮屈な宮廷のしがらみも、もう何一つ彼女を縛るものはない。
あるのは、どこまでも広がる自由と、未知なる世界の探求だけだ。
「さて、明日は早い朝になりそうね」
悪役令嬢として断罪されかけた少女は、極上の笑顔を浮かべ、明日から始まる『長期有休』へと胸を高鳴らせるのだった。




