9
一人になったあたしは部屋の中をぐるぐると回る。
我が子の産声を待つ父親のように、あるいは発情期の熊のように。
どういうことだ。
どういうことなの?
混乱していた。
だから、何の前触れもなく扉が開いた瞬間はその場で飛び上がりそうになったし、振り返ったそこに、あたしに答えをくれる存在を認めるなり、駆け出して懐に収めてしまったのだ。
「ルー!」
叫んだ瞬間、あたしは自分の過ちに気づいた。獣の体は四つ足歩行なので、人を抱きしめるようにはできていないのだ。変な風に圧迫されて、苦しそうにする息遣いを感じて、慌てて解放した。その勢いであたしは肩から投げ出すようなかたちで床にぶつかったが、少年の体はきちんと二つの足でその場に立っていた。
「ごめん! けがはない?」
あたしはすぐさま起き上がって、小さな体にソワソワと鼻を押し付ける。
「……大丈夫」
ルーに手を伸ばされて、あたしはピタリと動きを止めた。もう余計な動きで小さくか弱い少年を危険にさらすつもりはない。
ルーはあたしの顔を両手で挟むようにつかまえる。俯いたり、目をじっと合わせたり、頬の皮を釣り上げてみたり、髭を指先だけてとかしてみたりと思う存分思案に時間を割いてから、ルーは口を開いた。
「心配してくれたんだ」
それはそうだ。あたしの体は大きくて力持ちで、扱い方を違えると簡単に相手の体を損なってしまう。そういうリスクの塊だ。
あたしは尾を垂らして反省する。
絶対にもう飛びかかったりしない。興奮しても動転しても、無理やりにでも落ち着くべきだ。それが力持ちの責任だ。
「本当に大丈夫? 頭ぶつけてない?」
「うん、……気持ちよかった」
ああ! やっぱりどこかぶつけたんだ!
全身が震えた。将来のある人の子供になんてことをしてしまったのだあたしは。
「は、早くお医者さんにみてもらおう」
提案するが、ルーはあたしの顔面をつかんだままである。
「平気だよ。何ともない」
そう言いながらルーは顔から滑らせた手であたしの肩に触れた。先ほどぶつけたところである。痛みを尋ねられたが、そんなことはどうでもいい。あたしなんて丈夫すぎるほどに丈夫なのだ。だてに野生で育っていない。
「どうでもいい」
あたしの正直な回答に、なぜか少年は眉をしかめた。
「……自分のことを大事にできない子に、心配されたくない」
頭をハンマーで叩かれたような衝撃があった。
何という正論!
それでも「あたしとあなたの体のつくりは違う」と言い募りたいのを堪えて、あたしはモゴモゴと口をつぐむ。彼が言いたいのはもっと精神的なことだ。ルーの立場に置き換えたら、確かにあたしだってイラっとするだろう。あたしはうなだれた。そしてなるべく正確に状況を伝えた。
「今は全く痛くない」
「倒れた時は痛かった?」
「わかんなかった」
そんなことに割く神経はなかった、と付け加えると、ルーはまた俯いてしまった。
「君の何が、魔だっていうんだろう」
その呟きに対する答えは持ち合わせがなかった。
生まれた時からあたしはそうなのだから。もっといえば、あたしが望んで選んだんだから。まあ、ここまで徹底的に好かれない性質だとは想定していなかったが、ルーに拾われてからはそれも忘れかけていたしね。他の魔の娘に比べたら、イージーモードもいいところだろう。
魔、と言われてあたしは思い出した。目下重要なのは、そこだ。
アンニュイな空気のルーに尋ねるには酷かもしれないが、あたしは確認しなくてはならない。
「さっき、ルーのお兄さんが来たんだけど、あたし捕まらなかった」
そう、あたしはてっきり、お縄を頂戴するのだとばかり思ったのに。
顔をあげたルーは、その表情を緩めた。気分は落ち着いたらしかった。
「兄上は君に会いにきたんだ」
「なにしに?」
当然の疑問を浮かべるあたしの首を、ルーはなだめるようにさする。
「君のことは兄上にも話してたから」
あたしは嫌な顔をしたと思う。ルーはごめんと口だけで言うが、悪びれなかった。それどころか口を尖らせる。
「……僕がどんなに尽くしても、二言目には自分を手放せって、そればかり言うって」
そしてそんなとき、ルーが具合を悪くした。あたしを庭に出した翌日だったから、使用人たちはこぞってあたしの「魔」の仕業だと囀った。ルーは良くなってもあたしのところへは来ず、ぐちぐちと日頃の文句を兄にぶつけていたらしい。兄がもう自分で言いに行けと言っても、「けんかして気まずい」と言う。
「だから、兄上は君に直接確認しに行ったんだ」
「確認って、できるの」
「兄上は祝福を受けてるから、魔の力には敏感なんだ。言わなかった?」
聞いたっけ?
覚えがあるようなないような。
じろじろ見ていたのはそういうことだったのか。ていうか祝福って言葉だけじゃないんだ、とあたしは失礼なことを考えた。
「それで?」
あたしの適当な記憶力に何か言いたいことはありそうだったが、ルーは穏やかに答えをくれた。やっぱり人間の出来がいいな。
「君は最初の時から何も変わってないって」
どうせ初対面時の禍々しさを維持している、とか何とか言ったのだろう。
「僕もね、おかしいところはないって」
あの兄の口ぶりを思い出してちょっとイラっとしているあたしをよそに、ルーは一層ニコニコと続けた。
……おかしいところがない? いやいや、十分におかしいだろう。
そうだ、なんでこの子供は笑ってるんだ。あたしが何を言ったか、覚えていないわけはない。
また両手で顔をすくい上げるようにして、少年はあたしをのぞきこんだ。
「これで、君を父に渡す理由はないよ」
至近距離にある海色の瞳に陰りはないのに、あたしは落ち着かない気分になった。
だって、それとこれとは、違うはずだ。
あたしは依然として魔の娘である。忌々しい神を欺くなんとやらである。
そしてルツロア少年はこの国の王子で、あたしにはよくわかんないけど、本来ルーの兄のように、魔を寄せ付けないもののはずだ。
今現在あたしがルーに害をなしていないとして、この先どうなるか保証はないし、あたしたちが変わらなくても、周囲の目は変わらないだろう。この屋敷の中でさえ、ルーの立場は既に危ういんじゃないか?
「僕は、君を守るよ」
あたしの思考を見透かすのか、それとも完全に気づかないふりをしているのか、ルーは楽しそうに笑う。あたしに触れて、抱きしめる。慣れ親しんだ人肌だ。
「君は、僕が、守るんだ」