10
ルーは人が変わったようにあたしにベタベタし始めた。リルゼに言っても「いつも通りです」と全く取り合ってもらえない。それで勉強が疎かになっていれば文句も言えるのだが、むしろ捗っていると、少年は朗々とあたしには意味のわからない長々とした文言を暗唱してみせた。
そうしながらルーはあたしの両前脚を拾い上げて、肉球に触りながら爪を勝手に出し入れしている。傷つけるわけにはいかないので、そのムズムズに耐えながら髭を震わせていると、「いい子だね」と鼻に唇をあてられた。
……。
「ルツロア」
「突然なに? 恥ずかしいよ」
滅多にあたしから呼ぶことのない正式な名前をむずがゆそうに聞いているが、それは完全にあたしの台詞である。
「ルー、大丈夫?」
「元気だよ」
だから、違う、そうじゃない。
ルーはあたしを解放すると、鼻歌をうたいながら巨大な籠に寄り添った。その手には彫刻用のナイフが握られている。籠に背をもたれ、手元の型にナイフを当てて削り始める。
……そうなのだ、この籠の装飾の原型はこの少年の手によるものだったのだ。
これを知った時、あたしはめまいがしそうだった。……前々回倒れた時も、これに熱中していたらしい。
バカじゃないのか。
内心暴言を吐きながら、窓の埃を拭き取る世話係の方へ歩み寄る。ルーはせっかく集中しているので放っておきたい。
「リー」
「……なにか? もうお昼ですか?」
数瞬遅れて反応がある。あんまりにも驚かれないので、あたしはつい彼女のすぐそばにまで来てしまった。
「お昼はさっき食べた」
「ああ……そうでしたか」
さすがのあたしも違和感を持った。リルゼ、様子がおかしくないか。
……いや、おかしかったんじゃないか。
「体調が悪いの?」
「いつも通りです」
この答え。
あたしはふわふわとした足取りでリルゼが去ったあと、ナイフから丁寧に屑を落とすルーに声をかけた。
「なんかリーがおかしい気がする」
「そう?」
それだけ言ってナイフを横におき、あたしの喉を撫でた。直前まで刃物を握っていた手だと思うと、微妙な気分になるな。
そういえば最近リルゼに対するルーの文句が少ないな、と思いあたる。あたしは気にもしていなかったが、彼女の不調を知っていて放置しているのかもしれない。
いやまさか、と思い直した。いくらなんでも、この優しい心の少年がそんな悪どい企みを持つはずがない。
しかし翌日になって、あたしはその考えを改めることになる。
朝一に訪れたリルゼは、目に見えて顔色が悪かったのだ。
そこであたしはルーに休ませるよう進言したが、彼女の方を一瞥もせず、またも「そう」と笑うだけであった。
「辛そうだよ」
「それなら、辞めたらいいんだ」
あたしはその口ぶりに確信した。
もはや頼るまい。
あたしは「なにかあったの」とリルゼに尋ねた。
はじめは「何も」と取り合ってくれなかったが、顔を合わせるたびにそうしていたら、ついにある朝、ガチャンと食事の皿がテーブルにはねた。ルーは出かけていていなかった。
リルゼは自分の立てた音に目を見開いたけれど、あたしが「顔色が悪い」と煽ると、耐え兼ねて声を荒げた。
「なによ、うるさいわね。しつこいのよ。どいつもこいつも……」
「しつこいんだ?」
あたしのとぼけた合いの手に、リルゼは目をいからせた。
「ネチネチネチネチ……言いたいことがあるなら言えばいい。気味が悪いって。汚らわしいっておぞましいって。仕方ないじゃない、私は買われたんだから。出ていけって言われないと、捨ててもらえないんだから」
言葉の断片からするに、彼女はルーの兄に買われて、あたしにあてがわれたらしかった。人を人とも思わない所業である。
そしてそのことで、屋敷の人間に辛くあたられているのだ。
リルゼはやけくそのように結い上げた髪を引っ張った。
「あんたのせいよ。あんたのせいで、私はこんな色だし、こんなにしんどいんだ。魔なんか、大嫌い。あんたなんか死んじゃえばいい」
そしてつやつやした烏色の髪も、真っ直ぐ見つめてくる黒真珠みたいな瞳も、この文化の中では魔に属するとして受け入れられないものだと、あたしはこのときやっと知り得た。
彼女がひとしきり毒を吐き、息が整い、所在無さげに身を縮こまらるのを待って、提案する。
「あたしを恨んだらいいよ。慣れてるから」
びくりと震える小さな肩を抱きしめて女は言い放つ。
「言われなくても、大嫌いよ」
「そう」
「もう出てく」
「そうなの」
あたしは背中を丸めて、それならそれでしかたがないと思った。最初のように戻るだけだ。
そしてルーはまた倒れ、あたしは今度こそ管理できない獣として、処分されるのだろう。
胸は痛む。小さなルーが気の毒だから。報われない彼が哀れだから。
だけどきっと、うまく生きられる。あのこは愛される。獣の時から、あんなにかわいらしかったんだから。
それにひょっとしたら、あたしの死と共に辛い記憶が消失したりはしないだろうか。
「馬鹿みたいに理解がいいのね」
「よく言われる」
「坊ちゃんに? 坊ちゃんしかいないか。あんたと話すのは」
そう突き放してからリルゼはあたしの顔色をうかがうけれど、意味のないことだ。あたしはちっとも動じていなかった。はじめから、本当のはじめから覚悟していたことだからだ。あたしは幸せに生きることを、望んだことはないからだ。この僅かに立ち上がるもやもやとした心地は、昨日晩ご飯を食べすぎたからだ。
「……坊ちゃんが、気の毒だわ」
あたしは頷くけれど、リルゼは首を振った。
「あの子はあんたを亡くしたら、後を追って死ぬわよ」
世話係はあざ笑った。不快にはならなかった。それはルーと、あたしを気遣う心がなければできない顔だった。
そしてだからこそ、その言葉は響いたのかもしれない。
「……それは困る」
あたしの存在が少年の生死をわけるなんて、そんなのはダメに決まっていた。
「困るじゃないわよ。何よ、あんたなんにもわかってないじゃない」
「リーは頭がいいんだね」
「ばかにしてるの?」
あたしの素直な賞賛に毒で応じてから、そんな子供の甘えたようなあだ名ではなく名前で呼べと怒られた。
あたしは仕方なく「リルゼ」と口にした。ルーよりは抵抗なく発音できる。何度か舌の上で名前を転がしていると、リルゼは思い出したように、
「あんた名前は」
「ない」
「付けてもらってないの?」
「うん」
それで不便を感じたことはない。リルゼは呆れた声を出した。
あたしだって昔の名前で呼ばれても困るし、ルーだって以前には名前もなかっただろう。あたしは今の状態で構わないし、不足とも思わないのだ。だけどリルゼの苛立ちはあたしのためだとわかるから、あたしは特に言い訳しなかった。
ルーの前ではリルゼは丁寧なつもりの言葉遣いを変えなかったけれど、ふたりきりだと気やすく話しかけてくれた。あたしが「リルゼ」と呼ぶとルーはわかりやすくへそを曲げたけれど、本人は隠しているつもりのようなので黙っていてあげた。
あたしは昼ご飯を食べながら、窓枠に腰掛けた世話係を見上げた。
「祝福って、必要なものなの?」
「……坊ちゃん?」
あたしは返事の代わりに口の中のものを飲み込んだ。
「ルーは心配ないっていうけど」
「そうね、連中もよく言ってるわ。祝福を受けていないから、魔に魅入られたりするんだって」
あたしに愚痴を言うとき、リルゼは使用人のことを連中とひとくくりにする。
そんなことより、ルー、結構まずくないだろうか。
「んん、それって」
食べていた口をそのままに顔をあげると、あたしの冷静な世話係は、「食べてから話しなさいよ」とお母さんのようなことを言った。そして素直に従うあたしの上から、脱け殻のような悪意で怨ずるのだ。
「魔の民からみれば、王子ってだけで生まれながらに神の祝福を受けているようなものだわ」
魔の民、とは、そのカラーリングだけで生まれながらにヒエラルキーの下位に押し込まれる人々を総称する呼び名だ。つまり、黒髪に黒い瞳のリルゼは、世間的にはあたしのお仲間なのだった。
世話係の言葉を何の気なしに覚えていたあたしは、しょぼくれた様子で帰ってきたルーに、同じ話をした。
「生まれながらに……」
あたしの言葉を反芻するように、ルーは考え込んだ。
――『祝福』には手順がある。それには臣下や神官たちの前で、王に剣を向けられるというくだりがあるそうだ。
小さな獣の記憶を持つルーが耐えられないのは当たり前だ。実際無理やり敢行されかけた時は、気を失ったらしい。
その当時のこともあって、ルーには良くない噂もまとわりついたらしかった。そして現在進行形で、あたしの存在がその火種を煽っているわけである。
ルーがいくら勉強に精をだして、秀でた才覚を示そうとも、祝福の有無は少年の未来に大きく立ちはだかるのだ。
何もできないあたしは、せめて「こんな考え方もあるよ」くらいのニュアンスで伝えたのだが、意図しないスイッチを入れてしまっただろうか。
ルーは突然立ち上がって、あたしの頭をわしわしと撫でてから、すぐ部屋を出て行った。
あたしはひとりになると、ルーの座っていたベッドに顎をのせて、目を閉じた。
これから自分が向かう先は、どう転んだって変わりはしない。
ルーの希望は身を結ばないし、近い未来、あたしは償いを完遂する。
このとき、確かにそう確信していたのだ。
それなのに。
――年月を経て、ルツロア・シュノーエルは、『生来神の祝福を受けて』魔を従える敬虔な王子となる。
つまり、どうにかしてそういうことで言いくるめたのである。
よって、あたしは、まだここにいる。




