面白い勝負
海面が夕暮れに揺れる中、赤い旗を掲げた小舟が一つ、血の臭う浜へと近づいてくる。
他の舟に動きはなかった。沖で列をなしたまま、小舟の動向を静かに見守っている。
一方、浜には白い旗指物が並び、鎧兜に身を包んだ男たちがいた。小舟に気づくと、刀や薙刀など、それぞれが得意とする武器を構える。
本日の合戦はまだ終わっていない。
白い旗の軍勢は優勢にあったが、海を渡る足を大きく欠いていた。舟の数で劣る以上、もし追撃に出れば、それは豪胆ではなく、無謀となる。赤い旗の軍勢が沖合に退いた時点で、手詰まりという状況だった。
そこに、相手の方から近づいてきたのだ。
ただし、小舟が一つのみ。普通に考えるなら、一時停戦か何かを求める使者だろう。
浜の男たちが身構えていると、いきなり小舟が停止した。浜まではおよそ六十尺(十八メートル強)の距離がある。
これは一体どういうことか。浜の男たちは不審がる。
交渉決裂で斬られるのを恐れた使者が、いつでも逃げ出せるようにと考えたか。浜まで来なくとも大声を出せば、用件を済ませることはできるだろう。
しかし、あの場所では浜から放った矢は届く。弓を得意とする者たちはこぞって矢を握った。まだ弓には番えない。大将からの指示を待つ。
戦場の目という目を集める中、小舟の上で、一人の男が立ち上がった。その兜及び鎧の胴は赤く、なかなか見事なものだ。それに負けず劣らず、男自身も立派な体躯をしている。臆病者のようには見えないが、はたして・・・・・・。
浜にいる者たちが一様に違和感を抱える中、大将からの指示が下った。まずは相手の出方を見る。矢を射てはならない。
小舟の上で仁王立ちする男は、鋭い眼光で浜を見据えていた。
その背後の沖合では、赤い旗の者たちが静まり返っている。
それに呼応するかのように、白い旗の者たちも次第に言葉少なくなっていった。相手の意図がわからない。
次の変化を皆が欲していると、小舟の男がゆっくりと動いた。
畳まれた扇を手に取ると、親指の腹で滑らせながら、誇示するように広げていく。
扇の内には、金箔が厚く貼られていた。たとえ都の貴族とて、そうそう所有できる代物ではない。
そして、扇の中央だけは金色ではなく、赤い円に染め抜かれていた。
本来の夕日とは別の夕日が、衆人環視の海上、二つの軍勢の前に現れる。
完全に開ききった扇を、小舟の男は自らの兜、その頭頂部に当てた。前もって兜に細工を施していたらしく、手を離しても扇が落ちることはない。しっかりと固定されている。
これは挑戦状だ。
浜辺の男たちは口々に騒ぎ出した。
相手は、あの扇を狙えと言っている。
余興のつもりに見せかけているが、いや、本当に余興のつもりかもしれないが、この挑戦に対する結果は、敵味方の士気に大きく関わってくる。
かといって、ここで挑戦を無視するわけにもいかない。そんなことをすれば、「白い旗の連中は、サムライの風上にも置けない臆病者の集まりよ。HAHAHAHAHA!」と伝聞する材料を与えてしまう。
天下に名を轟かせるために始めた戦い。相手が正々堂々と向かってくるなら、こちらも正々堂々と相対すべき。
したがって、赤い旗の陣営がわずか小舟一つで挑んできている以上、我先にと大勢で矢を放つわけにはいかない。一発必中を旨とし、誰が挑戦するかを決める必要があった。
その時である。
それまで小舟のすみに座っていた女が、ゆるりと動いた。仁王立ちする男に近寄ると、無言で何かを渡している。
随分と厚みのある革手袋で左手用。手の部分しか守れないので、本来なら戦に用いる物ではない。
さらに白い球体も渡している。こちらは男の手のひらに収まる大きさだ。
それら二つが何を意味しているのか、浜の一同は即座に理解する。
なるほど。さすがに弓矢で狙うには距離が近くて面白くないということか。この戦いを見守る者たち全員が、のちのち「俺は見たぜ」「私も見たよ」と自慢気に語りたくなるような勝負を、相手は所望しているらしい。
この勝負、あの扇を仕留めるのは至難の業だ。
大きな手柄を立てる機会ではあるものの、浜辺にいた男たちの多くが警戒を解き、見物役に回った。
あの扇に見事当てれば、のちの世に語られるような英雄になるだろう。
しかし、狙いを外せば、敵だけでなく仲間からも罵られることになるのは必然。分の悪い勝負だ。どれだけ腕に自信があろうと、よほどの精神力を持たぬ限りは、そうそう挑めるものではない。
だからこそ、考え方によっては、なかなか面白い趣向とも言える。
味方には当てて欲しいが、もし外せば、その者は閑職に流される。最悪、切腹だ。自分たちが栄職に就く上で、競争相手が一人減るのは悪くない。
ここは一つと、蹴落としたい相手の名前を推挙した。
すると、いやいや、そちらこそいかがかな、と相手も応酬してくる。
そういったやり取りが、浜辺のあちこちで一時的に流行した。
この状況に、「こちらの団結を挫こうとする敵の策か」と疑った者もいたが、すぐに己の考えを改めた。
今名前が挙がるのは、それだけ他者から評価されているということでもある。浜辺のそこかしこで見られる薄ら笑いは、本心を隠すための接待用の仮面ではなく、本心から溢れ出る満足の表情が多いようだ。追撃に出られず手をこまねいていた時と比べて、味方の士気は随分と高まっているように感じる。
あとは、我らの大将が誰を選ぶかだが・・・・・・。
「他人の推挙は無用だ。我こそはと思う者は名乗り出よ。腕に自信がある者なら、一切の経歴は問わぬ」
白い旗の軍勢、その中央に陣取る大将が、浜全体に響く声を発した。
はたして、名乗り出る者は現れるのか。
ほとんどの者が口を結び、視線だけを徘徊させる中、
「拙者にお命じください」
痩せた馬にまたがった若い男が名乗り出る。手に持つ弓や背負う矢筒はそう悪くない品だが、鎧は中の下。兜を持っていないのか、頭を守るのは白い鉢巻のみだ。
――誰だ、あいつは。
そんな囁き声が浜に充満する。多くの者にとって、この男は無名であった。
味方でさえそうなのだから、敵が知っているはずもなく、沖の船団からも、浜と同種の囁き声が聞こえてくる。
が、小舟の男だけは違った。
わずかに口元を緩ませると、革手袋をはめた左手に、白い球体を持った右手を何度も打ちつけ始める。
馬鹿にしている・・・・・・にしては、ちと様子がおかしい。もしや、喜んでいるのか?
多くの者が訝しむ中、小舟の男と同じように笑みを浮かべた者が二人いた。
白の大将と、白い鉢巻の男。彼らは小舟の男と近い心境にあった。
大将は口元を隠して思考する。今回の勝負、実力の釣り合う者同士でなければ、つまらない。小舟の男が笑ったのは、嘲笑ではなく、白い鉢巻の男を好敵手たり得ると、一目で見抜いたからこそ。
なかなかどうして、敵ながら見事なり。もし奴が小者なら、強者との真剣勝負ではなく、弱者との児戯を好むだろう。
一方で、鉢巻の男も同じ理由で微笑しているようだから、これは心強い。一流は一流を知るということか。言葉をかわさずとも、気配だけで会話し、一瞬で互いを認め合っている。
大将の考えはすでに定まっていたが、
「その道では、かなりの腕を持つようです。今回の勝負には適任かと」
側近の一人が耳打ちしてくる。
「やらせてみよ」
大将の言葉に、鉢巻の男が馬から下りた。
浜の男たちは腕を突き上げるようにして、味方を鼓舞する。景気づけにと、勢いのある楽曲を法螺貝で奏でる者も現れた。さらに、楽器の数が少ないのは寂しいからと、鼓の代わりのつもりなのか、矢筒を叩く者まで出る。
これに対して、沖の者たちも負けてはいない。それまで座して見ていたのが、今やほぼ全員が立ち上がり、声を揃えて船ばたを叩き、小舟の男を激励している。
白い旗も赤い旗も全て、嵐の中のススキ畑のごとく揺れていた。
鉢巻の男は弓と矢筒を従者に預けると、一本の棒を受け取った。棍棒の一種だが、太さは普通の棍棒よりも細い一方、その長さは普通の倍近くある。
大きな方の夕日が、水平線の奥に半身を沈めていた。夜の来訪まで、あまり時間がない。
いざ尋常に勝負。
鉢巻の男が小舟の男の正面、その延長線上で構えた。通常の刀の構えではなく、半身をねじらせて、体の横で棍棒を構えている。
小舟から浜までの距離は、およそ六十尺(十八メートル強)。
だから、勝負は一瞬でつく。
海も人も緊張していた。
小舟の男の頭上では、金色の扇がその身を賭けて、戦いの行く末を見守っている。
ほどなくして、海の上から完全に言葉が消えた。浜からもだ。
数多の視線の中心で、小舟の男が大きく振りかぶる。男の体躯がさらに一回り膨張したかのような迫力だ。周囲で見物しているだけでも身をすくめたくなるくらいだから、直接相対している者は、これ以上の重圧にさらされていることになる。
いやいや待てよ、皆の衆。鉢巻の男もなかなかどうして、見事なものだ。一毛の恐れも感じないのか、構えた姿勢を全く崩さず、毅然と立ち向かっている。まさに不動。
ついに、小舟の上から白い球体が放たれた。
見ている者の視線を食い破るかのごとく、浜までばく進してくる。目で追うことさえ、ままならない。それほどの一球。
だが、浜からは快音が上がった。鉢巻の男が、あの棒で打ち返したのだ。
普通なら、これで勝負ありだが、今回は少し趣向が違う。ただ打ち返せばいいのではなく、金色の扇を狙わなければならない。あの的を仕留めてこそ、勝利と言えるのだ。
ここにきて、多くの者たちは自らが誤解していたことに気づく。
この対決の本質は、どちらが勝った負けたというものではない。
扇の的を仕留めれば、両者勝ち。
仕留め損なえば、両者負け。
そういった勝負だ。
だからこそ、小舟の男は小細工抜きに、相手が最も打ちやすい場所に、全力で直球を投じてきた。
あれが変化球であったなら――
もっと違う場所であったなら――
さらに言えば、そういう疑念を勝負の前から抱いていたなら――
あの白球を打ち返すことは容易ではなくなる。
鉢巻の男は最初から、小舟の男を信頼していたのだ。
必ず直球を投げてくると。
最も打ちやすい場所に投げてくると。
一流は一流を知る。ゆえに、言葉をかわさずとも、心で会話するのだ。
浜から打ち返された白球は、矢さながらの勢いで小舟へと迫っていく。
向かってくる白球に対して、小舟の男は眉一つ動かさない。信じている。必ず扇を仕留めてくれると。
一本の風が小舟を貫いていった。
勝負の行方はいかに。
小舟の男は革手袋をはめていない右手で、ゆっくりと兜の上を探った。
そこに扇の感触はない。
すぐさま視線を上に向けると、夕と夜とが混在した空に、金色の扇が鳥となって舞っていた。
決着はついた。
海も人も歓喜する。
そして――
これだから、「野球」は面白い。
ドーム球場の巨大スクリーンに現れた文字に、数万の観客たちが歓声を上げた。
野球の世界一決定戦、決勝。日本とアメリカが対決し、この時代の最強を決定する。
試合前の演出として流れた今の映像に触発されて、ドーム球場全体が喝采に揺れていた。歓喜の中から飛翔するジェット風船、さらにポップコーンやビールの泡も宙を舞っている。
観客たちの中には、決勝を戦う二チーム以外のユニフォームも混じっていた。彼らは野球を心から愛する者たち。決勝戦が始まるのを早く早くと心待ちにし、今回の趣向を大いに楽しんでいた。
そんな喧噪冷めやらぬ中、再びスクリーンに映像が流れ始める。
観客たちは興奮を口にしたまま、映像を見つめた。
ナレーションが語る。
海面が夕暮れに揺れる中、
赤い旗を掲げた小舟が一つ、
血の臭う浜へと近づいてくる。
さっきと全く同じ。運営側が気を利かせて、アンコールに応えたのだろうか。
映像は滞りなく進んでいく。
そして、対決の場面。
小舟の男が投げたボールが、浜へと一直線に飛んでいき――
ここで、一回目とは違う展開が待っていた。
豪速球はあろうことか、鉢巻の男の脇腹に命中する。時速一六〇キロ以上なので、よける暇などない。鉢巻の男はバットを落とすと、体を曲げて悶絶している。
直後、両軍の間を激しい怒号が飛びかった。
この事態、声だけで収まるはずもなく、浜にいた男たちが小舟へと殴りかかっていく。
それに対して、沖にいた船団も小舟の方へと急接近してきた。
さぁ、乱闘の始まりだ。
これは、さっきの映像の別バージョン。
男たちが殴り合う様子をほんの少し流してから、ドーム球場の巨大スクリーンに、次の文字が現れる。
何が起こるか、わからない。
だから、「野球」は面白い。
野球の日本代表、WBC優勝おめでとうございます。




