005 First Day
VRMMOへのログイン。
現実から仮想世界に移動する際のブラックアウトは死にも例えられる。一時的ではあるものの、五感を完全に失う。かりそめの肉体であるアバターに感覚が接続されるまで、意識はあるのに何も知覚できない空白が存在していた。
どちらかと云えば、それを苦手とする人の方が多い。
しかし、ハヤテはリアルの消失を最高の解放感とも考える。
現実から仮想世界に、まるで飛び立つような気持ち。
ヘッドギアタイプのHMDが主流だったVRMMO黎明期に比べて、ハードウェアもソフトウェアも格段の進歩を遂げている。
仮想世界は一瞬で広がり行く。
個の意識は一滴の雨粒のようなもので、それが仮想世界という巨大な通信インフラの海に落ちて、あっさり希釈されていく。
自分が自分でなくなり、もっと大きな何かに拡散されて行く。
波の広がり。
現実で目を閉ざし、ゆっくり開けば、そこに広がるのは今まさに生まれ行く新世界だ。
HAYATEは覚醒する。
自意識はクリア、五感もリアル以上にハッキリしていた。何も問題はない。むしろ、スキルや装備によるステータスの補正効果で心身ともに健やかに感じられた。
風の匂い。
太陽の柔らかな光。
これは皮肉かも知れないが、世界がどんな風にできているのか、どんな風に美しいのか、仮想世界にアバターで降り立った時の方が鮮やかに感じられる。
今日は、特に普段以上だ。
子供の頃からプレイしている優楽堂の〈クロス〉ならば、拠点とも云うべきパーソナルスペースで目覚める。
今日は違った。
運命の日。
仮想世界と云っても、ここは〈クロス〉ではなく、『Power Four』のいずれでもなく、世界が待ち望んだ新世界『THE FIFTH WORLD』。
HAYATEの視界に映っているのは、生まれたての世界の風景に加えて、VRMMO特有のパラメータ表示である。どこまで進化しても、これはゲームなのだ。視界の左上に浮かぶライフメーター、パッシブスキルによる索敵レーダー、システムログが次々に浮かんでは消えていく。
その表示のひとつには、こんな風に記されていた。
――『現在地:はじまりの街』
様式美である。
ドラマチックなストーリーを売りにするような旧時代のゲームならば、スタートと共に壮大な物語が幕開けるものの方が主流だったかも知れない。オープニングムービーから始まり、まるで映画の主人公になったみたいにゲームプレイが開始される。没入感を生み出すためのアイデアとして、それは決して間違ったものではないだろう。
しかし、現代のVRMMOのやり方としては相応しくない。『第二の現実』と呼ばれる程に肥大化、複雑化したVRMMOでは、いきなり目まぐるしいドラマが始まると情報過多になってしまうのだ。
VRMMOは、現実と遜色ないリアルを持ち合わせる。
もしも、初心者プレイヤーがアイテムの装備の仕方もわからないまま戦場に放り込まれたりすれば、ゲームとわかっていても心にトラウマを負うかも知れない。
そのため、『Power Four』のいずれでも、初心者プレイヤーはひとまず静かに〈はじまりの街〉に降り立つのが当たり前になっていた。
安全平和な初心者のための街を散策して、そもそも仮想世界とはどんな場所か、VRMMOはどんな風に楽しみ、何を目的とすれば良いのか、ゆっくりじっくり理解していけるような仕組みになっているのだ。
HAYATEは今、『THE FIFTH WORLD』のはじまりの街を目の前にしていた。
初心者プレイヤー。
じわじわとその意味を飲み込み、思わず笑ってしまう。
「僕が、初心者か。傑作だな」
優楽堂の〈クロス〉ではトッププレイヤーだったHAYATEも、『THE FIFTH WORLD』という新しいゲームでは初心者プレイヤーである。
もちろん、今回のプロジェクトの目的や意味を踏まえれば、真の意味での初心者というわけではない。国際仮想統一機関により招集された『Power Four』のトッププレイヤー四千人。これまで培ってきたレベル、アイテムが失われたわけではない。それらはすべて、『THE FIFTH WORLD』に完全に引き継がれた状態でゲームスタートするのだから。
運営である国際仮想統一機関も、わざわざかき集めたトッププレイヤーたちを初心者扱いしているわけではないはずだ。ゲームのスタート地点は〈はじまりの街〉であるというミームを踏まえ、それでトッププレイヤーたちに初心を思い出させるという小粋なジョークなのだろう。
「笑わせてくれるな」
HAYATEはニヤニヤ笑いを、狐の白面で覆い隠した。
仮想世界は少し前から、イメージの限界に達したとも云われている。
人間が想像できる風景で、もはや仮想世界に創造されていないものはないというわけだ。数十年間の運営による『Power Four』のアップデートでは多種多様なフィールドが生み出されていたし、それよりも何よりも、プレイヤー自身もあるタイミングから生み出す立場に変わっていた。
プレイヤーによるフィールドの作成。
そうした自由が与えられて、仮想世界の領域は加速度的に増え続けた。
世界中の人々が内心期待していたのは、『THE FIFTH WORLD』のスタート地点にどんなフィールドが準備されているのかということだった。
国際仮想統一機関による『THE FIFTH WORLD』プロジェクトの電撃的な発表は、大衆に再び、異世界バトルGPと同じだけの熱狂と歓喜をもたらした。
βテストに選ばれたトッププレイヤーたちは羨望の的となり、プロジェクト発表から現在までの数カ月間、βテストに関係のない人々もひたすら最新情報を求め続けたものだ。
国際仮想統一機関により、『THE FIFTH WORLD』の情報は徹底的に秘匿されていた。それが逆に、大衆の興奮と興味を煽っていたらしい。
HAYATEは期待していた以上の景色を、今、見ている。
はじまりの街。
その街全体を覆うぐらいに、なにか巨大なもの。
本日の仮想世界は、快晴。
雲ひとつない青空に向けて、宇宙まで突き出すぐらいの大樹。あまりに大き過ぎて、HAYATEも思わず目を丸くしたぐらいだ。最初は樹木であるとも気づけなかった。まるで世界を分かつ壁のようである。
システムが『名称:世界樹』と表示するが、どうでもいい。
名前なんて、大したことではない。
肌で感じられるものの方が大事である。
HAYATEは目を凝らした。大樹の幹には虫食いのような小さな穴が見えた。よくよく見れば、窓である。樹の外観には吊り橋や階段も見えていた。煙突のようになった突起からは料理の煙まで立ち上っていた。
どうやら、世界樹の内部は居住スペースにもなっているようだ。天を衝くぐらいの大きさの樹であるから、内部を丸ごと活用できた場合はどれだけのプレイヤーが拠点にできるのか、ちょっと想像もできない。
そしてまた、はじまりの街自体も十分広大のようだ。
世界樹はあくまで象徴的な街の中心に過ぎない。
ハヤテは、どこか見慣れた感のある雑多な街の中に立っていた。和洋の混じり合った独特の雰囲気は、忘れようにも忘れられるものではない。まさかと思った次の瞬間には、基本スキル〈空蝉〉を発動させていた。本来ならば敵の攻撃を避けるためのスキルだが、その効果を活用して上空へ瞬間移動していた。
空高くから、街全体を見渡してみる。
世界樹を中心とした正円の街。
はじまりの街は、綺麗に四分割されたエリアで出来ていた。
ハヤテがログインしたこのエリア、なんとなく見慣れた感があったものの、当然である。優楽堂の〈クロス〉のはじまりの街と同じデザインだった。
そうなれば推測は簡単である。
四等分された街のエリア、他はGW社の〈ワールド・ワールド・ワールド〉、リオールの〈リオール・オンライン〉、シュノインの〈ゲルタニア〉――それぞれの始まりの街のデザインを踏襲しているのは間違いなかった。
トッププレイヤーにはベテランが多い。遥か昔に通り過ぎたはずのフィールドが、新しいゲームで再び出発点として用意されている。このデザインを手掛けたものの心意気がハッキリ感じられて、HAYATEは地面に着地した後でさらに笑った。
「ああ、楽しい」
ハッキリと口にする。
ゾクゾクと背筋を駆け抜けていくものは、強敵と認めたプレイヤーとバトルする時にも感じられるものだ。
未踏のフィールドを目指す開拓者と呼ばれるプレイスタイルが存在するが、彼らもこんな喜びを味わっているのだろうか。前人未到という言葉は、今、この瞬間に似合う。太陽を呑み込んだような心地で、HAYATEは思わず叫び声を上げた。
似たような歓声が、あちこちで上がり始める。
周囲を見渡せば、はじまりの街にプレイヤーが続々とログインしていた。
βテストの開始日。
選ばれた四千人のトッププレイヤーで、この瞬間を待ち望んでいなかった者はいない。誰よりも早く、そして一分一秒でも長く。新しいゲームを楽しみたいと思うのは、VRMMOのトッププレイヤーならば当然の感覚である。
無邪気に駆け出す者が多い。そうした者たちを横目にして、始まりの街を懐かしんでゆっくり歩こうとする者もいるけれど、余裕と貫禄を示そうという振る舞いは見事に失敗していく。皆、自然と足早になっていた。こんな風に最高のおもちゃを与えられて、昂ぶる気持ちを抑えられないのだ。
HAYATEは我慢しない。
全力で駆け抜ける。
ごく単純なステータスの数値で云えば、HAYATEは〈クロス〉で最速のプレイヤー。先に駆け出していたプレイヤーたちもあっさり追い抜いて、世界樹の根本まで一気に突き進んでいく。
到着。
HAYATEと同じタイミングで、別のエリアから登場するプレイヤーもいた。
「さすが! 早いな、〈虐殺鬼〉!」
暑っ苦しく挨拶して来るのは、〈リオール・オンライン〉のトッププレイヤーである。本来ならば、他所のVRMMOのプレイヤーとは面識も何もないけれど、彼とは一年前の異世界バトルGPで直接勝負した因縁があった。『Power Four』の最速を決めるというキャッチコピーで繰り広げられたそのバトルは、HAYATE自身が云うのもアレだけど、万人を魅了する名勝負だったはずだ。
「同着だな。悔しい」
「おい、〈虐殺鬼〉。云っておくが、スピードで負けたつもりはないぞ」
「バトルに負けた奴の虚しいプライドか? どっちでも、僕の方が上だよ」
「あれから、一年……。さらなる修行を経て、オレは強くなった」
「へえ……。さて、同じ期間で、僕の方も強くなったとは想像しないのか?」
「安い挑発には乗らない。決着ならば、いつか絶対につけてやる!」
「ああ、云ったな。覚えておくぞ。いつかなんて云わず、すぐに……」
相性の悪さから罵り合い。
ヒートアップしかけた二人は、そこで反射的に黙り込む。
いつか――。
すぐに――。
HAYATEは顔を伏せて笑う。相手の方は、隠すつもりもないようで満面の笑みである。ああ、そうなのだ。この記念すべき日を迎えて、本来は交わることのない異なる仮想世界のプレイヤーが二人、いつでも勝負が可能となっていた。
そして、それは〈リオール・オンライン〉で最速の彼だけではない。まだ出会ったこともない未知の好敵手が、『THE FIFTH WORLD』には大勢集っている。
当然ながら、彼女も――。
「ひさしぶり」
背後から声をかけられて、HAYATEは振り返る。
ALICEは、リアルの彼女とはまったく異なる無表情でそこに立っていた。