020 winter-2
「人生は何事も経験であり、ハヤテ様が意外と主夫に向いていると知れたのは、それはそれで大きな収穫かも知れませんよ?」
シチューの準備で野菜を切っていると、背後から唐突に、からかいの言葉。レシピを見るため、颯がエアディスプレイを起動させた直後のことだった。
「いきなり冗談を云いながら、入って来ないでください」
「冗談ではなく、大真面目と云ったら?」
「余計にタチが悪いです」
振り返れば、無駄に広々としたキッチンの片隅に、一人の女性が立っていた。
「いつもながら、神出鬼没ですね。さらに云えば、不法侵入ですね」
「お言葉ですが、セキュリティは一流の物件をお嬢様に用意しましたので、不法侵入は不可能です。当主様から『鍵』を預かっておりますので、それで堂々と正面から入って来ております」
お嬢様、あるいは、当主様。
この口振りから察せられる通り、気品のある彼女は、シュノインの関係者である。
「インターホンを鳴らしましょう、アイズさん」
「家族同然の使用人ということで、ご容赦ください」
外見は、二十代の落ち着いた女性。丁寧な物腰、淑やかな仕草。本人曰く、家事よりも業務補佐が得意な女性執事ということで、いつもダークスーツに身を包んでいる。
「今日は、何の用事ですか。アリスを起こしましょうか?」
「いえいえ、お気遣いなく。お嬢様が元気にされているか、ただの定期的な確認ですから」
アイズは楽しそうに、にこにこと笑っている。
「ハヤテ様にかいがいしく面倒を見ていただいているので、私が足繫く様子を見に来る必要はないかも知れませんね。お嬢様の機嫌を損ねないように、こうして盗み見に来るのも、少しずつ頻度を減らしましょうか」
アリスが寝ている時や風呂に入っている時、さらには着替えのために自室に引っ込んだ一瞬の隙を見逃さず、アイズは神出鬼没で現れる。執事というか、ほとんど凄腕のスパイである。
最初は不審者かオバケかと思い、悲鳴を上げそうになったものだ。今では慣れてしまい、「うん、そろそろ出て来るぞ」と、タイミングすら予想できるようになってしまった。
「こそこそ影から見守るだけでなく、普通に会って行けば良いのに……」
颯は前々から思っていることをつぶやきながら、料理を続けていた。
「当主様と喧嘩して、家出して……かなり強引に、異国での一人暮らしをスタートさせたのは、お嬢様のハッキリとした意思によるものです。私たちは、お嬢様の初めてのワガママを尊重したいと思っているのですよ」
「でも、貴方たちのことを話題にする時のアリスは楽しそうですよ」
最近は四六時中、アリスと共に過ごしているので、互いの思い出話をする機会だってある。颯が亡き父のことを語れば、アリスは世話になった使用人たちについて語ったりする。そうした過去に触れる時、アリスは野花を愛でるように穏やかである。
「楽しそう? そうですか。ハヤテ様は、お嬢様の顔色がちゃんとわかるのですね」
アイズに云われて、颯は一瞬考えてから、うなずく。
「あれで、めちゃくちゃシンプルな性格ですからね」
「何気なく仰っていますが、お嬢様は表情に乏しく、口数も少なく、ご自分を飾って表現しないため、まるで感情のないように扱う人が多かったもので……」
ほんの少し、彼女は表情を曇らせた。
「私たちは身の回りのお世話だけでなく、お嬢様をもっと笑顔にできたのではないかと、思い悩んだことも多くありました。今の日々を垣間見るだけでも、お嬢様はハヤテ様に出会われて、良かったと思います」
「買い被られている気がしますね」
「いえ、感情のない機械のように見えてしまうから、便利に利用できる道具のように思う人も、愛でるだけの人形のように思う人も、理想を託した偶像のように思う人も……。ドロドロに混ざり合った絵の具のような感情を、お嬢様はずっと、押し付けられて来ました。何よりも不幸なのは、すべて受け止めてしまうだけの才能がお嬢様にあったことで——」
云いかけたところで、アイズは探るように、颯の表情を見つめた。颯はそれに気付いたので、「珍しくもない、トッププレイヤーならば」と、あえて素っ気ない調子でつぶやいた。
彼女が、アリスについて『才能』と評したもの。
最初から、わかっていることだ。それこそ異世界バトルGPの準決勝で戦っている最中から、颯はそうだろうと見抜いていた。大したことではないと、颯は本気でそう思っている。
アイズはそれでも、嬉しそうに笑った。
「お嬢様は一目惚れだったようです」
颯は、まな板の上の野菜を床にこぼした。
「……い、いきなり、なんの話を?」
「曰く、『欠片ほどの好悪もなく、興味もなく、〈虐殺鬼〉の見開かれた眼は、私ではなく、私を殺すという結果だけを見ていた。道端の花を気付かないまま踏みにじるように、殺された。私は最期、徹底的に無視された』。それは、お嬢様には初めての経験であり、それゆえ、あまりに感動的だったようです」
「いや、感動的な要素が、どこに……?」
颯は自分のことながら「なんて酷い奴なんだろう」と呆れてしまうが、アイズは柔らかい口調で、感情を込めて続けた。
「何者にも思われないという初めての経験に対して、この人には本当の自分を見てもらいたいと、初めての感情を抱いた。なかなか美しい話だと思いませんか?」
颯は反射的に云い返そうとするも、上手い言葉は出て来なかった。颯がどんな風に解釈したところで、アリス自身からはハッキリ告げられているので、そこを歪めることはできないのだ。
理由や理屈に正解みたいなものがあったところで、アリスに「好きです」と云われた事実からは逃げられない。
リビングの方から、唐突に声が割り込んだ。
「ハヤテ?」
コタツで寝入っていたアリスが目覚めたらしい。
颯は一瞬、アイズから視線を外した。「ああ、起きたのか?」と、何気なくリビングの方に呼びかけた後で振り返れば、女性執事は神隠しのようにいなくなっていた。
「逃げられた……いや、あっさり帰ってくれて、むしろ良かったのか。必要以上に突き詰めたい話題でもなかったから——」
寝ぼけ眼でふらふらやって来たアリスは、ほんの一瞬前までアイズがいたことを知る由もなく、猫のように颯の背中に身を寄せてくる。
至極当然のように、腰元に抱き着かれる。
過剰なスキンシップに抵抗することはできるものの、その場合、「好きな人と触れ合いたい。その気持ちはダメですか?」と、これまた厄介な議論に持ち込まれるのは想像に難くない。
果たして、逃げ場はあるのだろうか?
考えるまでもなく、何処にもなさそうだ。
「そろそろ、私を好きになりましたか?」
強火のままにしていたシチューが、いつの間にかグラグラと煮え立っており、颯は慌てて蓋を取ったので、指先をほんの少しだけ火傷した。




