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第一次信長包囲網の終焉と新たなる鳴動

 元亀元年 六月六日 


 大安である六日を選んで、織田家と包囲網陣営の和議が結ばれた。


 信長にしてみれば和泉は戻ってきたものの、摂津の領地は奪われたままで、決して良い条件ではなかった。


 山城、河内、紀伊の状況は変わらず、良い面と言えば、大和の筒井順慶が降伏し、配下になった事くらいであろう。


 三好はまだ良いとしても足元の長島や同盟国の三河、そして背後の朝倉に加賀の一向一揆。これがやっかいだった。


 そのため、ひとまず仕切り直しをするために和議を結んだのだ。


 ■小谷城


「その後、どうじゃ景紀(朝倉義景の父孝景の弟・敦賀郡司)は?」


「は、相変わらず甥の景鏡(義景の父孝景の弟景高の息子・大野郡司)と口論絶えずして、同じ場にいることすら嫌悪している始末にございます」


 浅井長政の問いに答えているのは、若狭制圧のための調略の立役者である宮部継潤である。


 若狭武田氏の家老である粟屋勝久を籠絡して味方に引き込み、小浜を事実上支配する事を可能にしたのだ。


「ははは、当主の義景が京かぶれの文人であるからな。父上(久政)には悪いが器ではない。景鏡も景紀も、それがわかっておるから、われこそは朝倉ぞ、と存在感を示したいのであろう」


「はい、おそらくは」


 事実、史実でもこの二人の対立は朝倉家中の団結を弱め、信長の越前制圧の一因となっている。


「では、景紀の調略は引き続き続けよ。義兄上が越前を攻略した時、われらは敦賀さえ手に入れればいいのだからな。組屋源四郎には敦賀への荷を増やし、郡司と昵懇になるように伝えよ」


「はは」


「越後屋や古関与左衛門らとも親交を深めよ。いずれ敦賀を手に入れた際には役にたつ」


「かしこまりました。……して殿、丹後の一色はいかがなさいますか」


「うむ。その前に、公方様への献上品は怠っておらぬであろうな? 丹後を手に入れて、守護となるには、痩せても枯れても公方様の力が必要だからの」


「は、それはもちろん。公方様には弾正大弼様より、様々な物が献上されておると聞き及んでおります。それゆえ、蝦夷地の産物をお贈りしております」


「ほう、どのようなものだ」


「は、熊皮、鹿皮、ラッコ皮、アザラシ皮などの獣皮に、熊の、鷲羽、干しザケ、串貝、いりこ、昆布、干しダラなどの干物、さらには海狗オットセイ恵布里古エブリコなどの薬物を贈っております」


「おお、なんと素晴らしい。しかし、勝久も愚かよの。これだけの権益をわしに渡すとは。無論、多少はわけるが、あくまでも多少じゃ。組屋にはよく言っておくのだぞ」


「心得ております」


「うむ。……そうだ、丹後の話であったな。聞けば、丹後の一色義道は苛政にて民を苦しめておると言うではないか」


「はい、それゆえ国人の離反や一揆も起きております」


「無理もない。若狭武田に長年押され、かろうじて守護という名で丹後を治めておったのだ。ようやっと若狭武田の脅威が去った今、軍備を整え丹後の支配を固めようとしておるのだろう」


「急いては事をし損じる、という事にございますな」


「その通り。そちは加佐郡の矢野氏、黒川氏、小西氏らの国人衆、そして与謝郡や竹野郡の国人も同じく声をかけるのだ。義道の圧政に立ち上がるは今ぞ、力を貸す、とな」


「はは、それと殿」


「なんじゃ」


「よからぬ噂を聞いたのですが」


「ほう、どのような噂じゃ」


「あくまで噂にございます。それを念頭に聞いて下され」。


「わかった。早う申せ」。


「は、実は公方様の事になるのですが……。実は、その、近ごろは、織田弾正忠様を快く思われていないとか」


 長政は一瞬、きょとんとして固まったが、すぐに大声で笑い出した。


「あはははは! なんだ、そのような事か。知っておるぞ。どのような経緯かは知らぬが、殿中御掟、あれが噂を呼んでいるのであろう。確かに、公方様の性格では腹も立とうがな」


「しかし殿、噂とは言え、この先どうなるかわかりませぬ。事は慎重に運ばねばなりませぬぞ」。


「その通りじゃ、わかっておる。義兄上と決別などあってはならぬ事じゃが、万が一公方様が違う道を歩む時がくれば、切るのは公方様じゃ。ゆめゆめ忘れてはならぬ」。


 事実、信長が義昭に提示した二十一箇条の殿中御掟は、義昭を傀儡とするためのものだというのが通説であった。


 しかし近年では、幕府の通例に基づいて作られたものだ、との見解もある。


 信長と義昭が共同で出した物で、信長も幕府全体に及ぼす影響力はなかったとしているのだ。


 元亀元年の段階では、義昭は信長と対立はしておらず、包囲網は信長陣営であった。


 対立が深刻化していくのは翌年の元亀二年以降である。


 ■甲斐 躑躅ヶ崎館


「なに? 公方様から御内書が?」





 従四位下大膳大夫(武田信玄)へ


 我が力のみでは及ばず弾正忠殿(信長)の加勢を仰ぎて、畿内に静寂がもたらされたものの、三河、駿河、北陸、東国においては依然として争いが続いておる。


 そのようななか、親族である今川の家が衰えるは、余も心を痛むる。


 しかるに新たなる駿河の主として、民のため善政を施さんとするならば、これを避けざるを得ずと見受ける。


 さりとて徳川とは国境の問題にて、なおも争いが続くと聞こえて来たり。


 さらなる争いは我が望むところに非ず、左京大夫(徳川家康)との協議を重ね、戦を絶やすことを願うものなり。


 従三位征夷大将軍源朝臣(足利義昭)





 ■安芸 吉田郡山城





 従五位下右衛門督(毛利輝元)へ


 既に元就公の崇高なる御霊は昇天してよりはや二年。毛利家は西国の覇者として、因幡、伯耆、出雲、備中、備後、石見、安芸、周防、長門の九カ国を治めり。


 民を愛しむとともに善政を敷かんと聞こえて来たり。しかるに、備前、美作の浦上や宇喜多との戦をせんとも聞こえたり。


 麾下である備中の三村と備前の宇喜多とは、親を討たれし犬猿の間柄と聞こえり。家々の事情もあるとは存じるが、ただ領民と天下の安寧を第一とし、和議を求め協議の場を設けんことを望む。


 従三位征夷大将軍源朝臣(足利義昭)





「見よ、公方様から御内書が届いた。われらの事情など知るよしもないであろうが、言うは易し行うは難しじゃ」





 ……同様の御内書が、越後の上杉謙信や相模の北条氏政などの諸国の大名に活発に送られた。


 差出人の義昭にしてみれば、戦乱のつづく各地の大名間を取り持ち、調停を行うことで幕府の権威を高めようとしたのであろう。


 しかし、それがまた畿内に新たな戦乱を生む種となるのであった。

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