第1話 宣戦布告
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もともと八百万の神は実体を持たない。ただ、概念的な存在ではない。
現世とは異なる世界――神界にそれぞれが固有空間を有し、そこで現世の様子を見守っている。固有空間というのは、神が形成する、自らの領地のようなもので、形成した神の許可がなければ何人たりとも侵入することはままならない。
神によっては、実体化する術を持ち合わせている者もいて、現世に姿を現すこともある。とは言いながら、外見は人の姿をしているため、その正体に気付く者はいない。
もちろん神同士であれば互いを認識できるが、実体化しているときは、自らを護身する程度の能力しか持ちえないため、現世で直接抗争に至るケースはまずあり得ない。
過去に神同士の抗争は何度か起きている。ただ、神が直接戦ったわけではない。戦いの場は現世で、戦ったのは神が加護を与える人々。現世をチェスのボードだとすれば、神はプレイヤー。様々な駒を駆使してチェックメイトに至る戦術を展開する。
終わってみれば、現世では甚大な被害が発生し、本来恩恵を与えるはずの神が人に災いをもたらす結果となる。そう考えれば、過去に起きた、戦争や災害のいくつかは、神がゲーム感覚で行ったものなのかもしれない。
なお、それぞれの神には、対照神なるものが存在する。
水と火がその一例であり、神が持つ力の均衡が保たれることで、神界、引いては現世の秩序が保たれる――が、時として、その均衡が崩れることがある。
邪な野望を抱いた神が、欲望に身を任せて暴走する。その際、暴走した神を抑え込むため、対照神が戦いを挑む。このように、神の中には、本来の役割を忘れている者がいることも否めない。
★★
水の神・ミヅハノメは、過去に一度だけ、火の神・ヒノカグツチと対峙したことがある。
一六五七年四月某日――明暦の大火から一ヶ月が過ぎた頃、ミヅハノメのもとに一通の信書が届く。差出人はヒノカグツチ本人。共有空間にて、実体化した状態で話がしたいとのことだった。
神同士が話をするのは、決して珍しいことではない。ただ、対照神からの申し出となれば話は別。敵同士と言ってもおかしくない関係だけに、信書や遣いを通しての間接的な会話以外は、まずあり得なかった。
申し出について、ミヅハノメには思い当たる節がなかった。ただ、放っておくわけにはいかないと思った。
ヒノカグツチがプライドの高い野心家であることは神々の間でも有名で、これまでも不審な行動を起こしたのは一度や二度ではない。彼に対して、強い危機感と激しい嫌悪感を払拭できないミヅハノメは、今回の申し出が伊達や酔狂の類でないことをヒシヒシと感じていた。
普通に考えれば、ヒノカグツチと対峙するのはリスクが大きい。しかし、実体化した状態での面会ということで、互いに大した能力を使うことはできず、さらに、共有空間には、神眼監視装置が設置されている。間違っても拉致されるようなことはない。
ミヅハノメは、ヒノカグツチの申し出を受諾する。
★★★
「――ミヅハノメ、よく来てくれました。神界一の気高さと美しさを持ち合わせているというのは、単なる噂ではなかったようです。あなたに会えてとても光栄です。神様という神様に心から感謝したい気分ですよ」
東洋風の装飾が施された、両開きの扉を開くや否や、一人の男がミヅハノメのもとへ駆け寄り、社交辞令とも取れる賞賛の言葉を浴びせる。
ミヅハノメの青い瞳に映っているのは、深紅の羽織袴に身を包み、赤い髪を後ろで束ねて満面の笑みを浮かべる伊達男。初見であれば、彼のことを悪人だと思う者は誰もいないだろう。
しかし、ミヅハノメは見逃さなかった――燃え盛る業火のような、真っ赤な瞳は笑ってなどいないことを。
「はじめまして。ミヅハノメと申します。いただいた信書に基づき、はせ参じた次第です」
振袖のような装束の上に、清らかな水の流れを彷彿させる、青と白、二種類の羽衣を纏ったミヅハノメは、腰まで伸びた、青く美しい髪を肩越しに散らすと、涼やかに切れ上がった、青い瞳で男の顔を睨みつける。
「堅い話は止めにしましょう。今日は砕けた話をしたいと思っています。立ち話もなんですから、お掛けください」
ミヅハノメから滲み出る敵意が気になったのか、ヒノカグツチは、努めて柔らかな口調で言う。
二人は、部屋の中央に設けられた掘炬燵の座椅子に腰を下ろす。
「何か飲まれますか? 冷たい緑茶であれば、ここに用意してあります。もちろん新しい茶碗もあります。あっ、その髪型、奇抜な感じが素敵ですね。現世ではあまり見掛けませんが――」
「――飲み物は結構です。それより、わたしへのお話というのは何でしょうか?」
ヒノカグツチの話の腰を折るように、ミヅハノメは毅然とした口調で尋ねた。
両肩をすぼめて苦笑いを浮かべたヒノカグツチは、茶碗の底に残っていた緑茶をグイっと飲み干す。
「あなたが僕と友好的に話をしたくないのは理解しました。会う前から薄々わかってはいましたけどね。でも、僕としては、ぜひ聞いて欲しいんですよ。数分で終わりますから、我慢して聞いてください」
ヒノカグツチは、テーブルの上に両肘をついてスッと手を組んだ。
その瞬間、ミヅハノメの背中に冷たいものが走る。ヒノカグツチから攻撃を受けたわけではない。仮に攻撃されたとしても、実体化した状態であれば、能力は微力でありダメージを受けることはほとんどない。
変わったところがあるとすれば、その表情だけ――口角がグッと上がり、邪悪で薄気味の悪い笑みが浮かんでいる。
「明暦の大火では、たくさんの人が亡くなりました。六万人とも七万人とも言われています。火をつけたのは僕ではありませんが、火を司る者として心が痛みます……。さて、ここで質問です。亡くなった人の中に、幕府の要人の一団と、ある置屋に所属する芸子たち、併せて百人程度がいたのをご存じですか?」
ミヅハノメは、平静を装うように黙って首を横に振る。
「そうですか。じゃあ、教えてあげましょう。本来、百人は死ななくてもよかった者ばかりです。僕の意思で死んでもらったのですよ」
ミヅハノメは、眉間に皺を寄せて訝しい顔をする。
確かに、ヒノカグツチが、誰かを使って、罪もない人を手に掛けたことは許されることではない。ただ、水の神である自分をわざわざ呼びつけて話す内容なのか、疑問だった。
「なぜそんな話をしたのかわからない、といった顔をしていますね? では、種明かしをしましょう。ここからが、僕があなたに伝えたいことです」
言葉が放たれた瞬間、頭の後ろで結ばれていた、深紅の髪が解けて炎のように立ち上る。まるで無数の蛇のように蠢きながら、高温の熱を帯びた、凄まじいオーラを発している。
ミヅハノメは、反射的に、身体に巻いた羽衣で障壁を作り、邪悪なオーラをガードした。
「ミヅハノメ、これは、あなたへの宣戦布告です。明暦の大火で、僕は、百人が一人の歌姫に向けた、凄まじい憎しみを使って憎悪の炎を起こしました。そして、それを無限に増幅できる仕組みを完成させたのです。僕としては、あのシオンとかいう歌姫に足を向けて寝られませんよ。これでもう誰も止められません。すべては焼き尽くされるのです」
「何を言っているのです! 水と火の均衡が簡単に崩れるわけがありません! わたしが……水の神がいる限り、あなたの勝手にはさせません!」
声を荒らげるミヅハノメを見下すように、ヒノカグツチはフフンと鼻で笑う。
「あなたは何もわかっていない。僕とあなたの力が均衡していても、憎悪の炎は暴走する。江戸の街から発せられる、負のエネルギーを勝手に吸収して、勝手に増大する。そして、いつしか世界を焼き尽くす。世界は無に帰るんだ」
「なぜ、そんなことをするのですか!? 長い年月を掛けて芽生えた生命を根絶やしにする権利など誰にもありません! ましてや、生ある者を導くのは神の責務です! あなたはそれを放棄すると言っているのですよ! 恥ずかしくはないのですか!?」
「あなたは根本的に間違っている。もともと、世界を創造したのは火の力だ。火が造ったものを火が無に帰して何が悪い? よもや、生命の根源が水にあって、あなたが今の世界を創造したなどと言うのではないでしょうね? それはとんだ戯言だ。おこがましいにも程がある。
生命を誕生させる環境を整えたのは火であって、火がなければ水の存在など無意味だ。もともと水は火の足元にも及ばない。水が火の対照神となったのは、火に対抗できるとしたら水だと言っているだけのこと……まぁ、いくら説明しても、あなたは屈服するような人ではないでしょう。僕の言っていることが嘘かどうかは、その目で直接確かめればいい。本日は御足労いただき感謝していますよ。では、また」
「お待ちなさい! ヒノカグツチ!」
ミヅハノメが叫んだとき、既にヒノカグツチの姿はなかった。
一人残されたミヅハノメは、荒い息をつきながらギリギリと歯軋りをする。
「あなたの思い通りにはさせません。見てなさい。わたしを苔にしたこと、絶対に後悔させてあげますから」
喉の奥から呪いのような言葉を吐き出すと、ミヅハノメは、テーブルの上の緑茶を茶碗になみなみと注いで一気に飲み干す。そして、怒りが収まらない様子で肩を上下させながら、天井の一点を見つめた。
「歌姫のシオン……とか言っていましたね」
つづく




