人狼という生き物
「っ、おねがい、やめて」
覆い被さる男の手によりベッドに縫い付けられ、あまつさえブラウスのボタンまで外されてしまっている。
キスをされた時に流れ落ちた涙さえ凍ってしまったこの状況で、脳内ではひたすらに警鐘が鳴り響いていた。
そんな怯えに気を良くしたのかは分からないが、こちらを見下ろす色違いの双眸がふわりと細められる。
「自分がどういう状況か、やっと理解したみたいだな」
──そうして、刹那。
不意に、温かい手のひらがブラウスの隙間から中へと侵入してきた。
「──っ!!!」
瞬間ぞわりと全身に鳥肌が立った。声にならない悲鳴をあげ咄嗟に胸板を押し返したが、視界を支配するそれはまるで壁のようにビクともしない。
そんな焦燥を嘲笑うように、彼は自身の皮膚に指を滑らせていく。鎖骨、胸の近くと皮膚の薄いそこを弱い力でなぞられるたびに「ぅぁ……」と、口からは全く意図していない甘くか細い声が漏れた。
翔の前でさえ恥ずかしいような声を他人に聞かせてしまう自身が、酷く憎くて仕方がない。
(やだ、おわって……)
そうして、誰に願うでもなく心の中で叫んだ時。
ふと、鎖骨から横へと滑るように移動したシュウの手がある場所に触れた。周りよりも皮膚が硬くなっているその上で、ゆるゆると撫でていた動きが不意に止まる。
「……は、やはり一生モノか。哀れだな」
次に耳朶を打ったのは先ほどまでとは打って変わった、どこか諦め混じりの翳りを内包した声色だった。
そうして手がゆるりと撫でるのは左肩。そこに走る、幼少期に付いたらしい肩を回り込む2本の傷跡。
(っ、なに……)
緩く、まるで壊れ物に触れるような手つきでシュウは自身の左肩に触れる。あの繁華街で怒気を孕んでいたのが嘘のように、その指先はガラスを滑るように繊細な動きで。
そんな感覚に支配されていれば不意にぐらりと、目の前が暗くなるような目眩を覚えた。
「……え」
過度の緊張が一気に解ける感覚。まるで身体ごと堕ちるようなそれに抗うことも出来ないまま、次第に弛緩していく口では満足に酸素を取り込むことすらままならない。
(っ、くるし……)
そうして呼吸を求めはくはくと唇を動かしていればふわりと、温かい手があやす様に頬に触れた。
「いい子だから落ち着け」
低く落ち着いた声が耳朶に染み込んだかと思えば次第に思考が輪郭を失い、ふわふわと奇妙で心地よい感覚に陥り始める。
目の前にいる恐怖の対象にさえ身を預けてしまうような、眠る前の倦怠感にも似た感覚。そうして今になってじわりと頬を熱いものが流れ落ちれば「芽衣」との呼びかけとともにふと、骨ばった指先が眦を拭った。
そして朧げに霞む世界に映る彼の顔は苦しそうに、それでいてわがままな幼子を前に狼狽えるような表情を浮べていて。
「……俺が、そんなに嫌か?」
「っ……」
弱さを感じる呟きではたと意識を引き上げられれば、目の前にはどこか不安げにこちらを見やる色違いの双眸があった。こんな状況だというのに少しばかり心が揺らいだ芽衣を見据えるその瞳が、どこか弱くも感じられて。
「他の人間ならどうでもいいのにな。いい子だから、ほら泣くな」
ふと、鼻腔を甘い香水の匂いが擽る。そして次に感じた体温で、自身の首筋に唇を寄せた男の存在を認識した。
しかしそれを押し返せるほどの余力は、最早芽衣には残されていない。
「……なんで」
「ん?」
無意識に口から言葉が溢れれば、それに返ってくるのはまるで恋人を相手にするような柔らかな相槌。別人の様な優しい声に促されるまま、芽衣の口は意思とは無関係に言葉を紡ぐ。
「なんで、いい子って、何回も言うの……?」
ぽつりと、そんな問いが融け消える。しかしそれに対する返答は曖昧にはぐらかすような、明確な意味を避けたもの。
「……さあな。もういいから寝ろ、何もしないさ」
どこか遠くから聞こえた言葉を飲み込むこともできないまま「ほんと……」と、思考の浅瀬に浮かんだ言葉が滑り落ちていく。
すると一瞬ひたっと空気が止まったが、次に歪んだ世界に移ったのはふわりと柔らかい笑み。
「言ったろう、キス以上を無理強いはしないと。それに俺は約束は守るさ、お前と違ってな」
ぷつりと意識が沈む前、遠くでそんな声が聞こえた気がした。
ーーね、どしてケガしてるの?
***
「久しぶり、ちょっと用があって来ちゃった」
「おや、和海に翔。丁度いいところに来ましたね」
だんだんと葉が色を変える時期に差し掛かった森の奥。木々の音だけが辺りを吹き抜けていくそこに佇む家で交わされるのは、何百年という永い月日を生き続ける親子の穏やかな会話。
芽衣が拉致された翌々日の日曜日、翔が兄に連れられ訪れていたのは彼らの生家だった。そして彼らを出迎えたのは、父である誠泰。
しかし一言紡いだのも束の間「はあ」と、父からはあまり聞いたことのないため息が途端耳に届いた。
「お前たちの他にも2名来ているのですが、ご飯をせがまれまして。量を見誤ったので、どうせなら食べていってください」
やれやれとでも言いたげなほどに呆れた様子の誠泰に対し「海斗と、あとは誰だろう?」と和海が呟く。その愉快そうな声色に対し特に答えを述べることもなく、彼は踵を返すと木の香りが広がる室内へと足を進めた。
そうして台所に消えた父を見送り辿り着いた一室の襖を開ければ、次に目に飛び込んできたのは話に花を咲かせる2名の人物。
「あれ」
そう溢した和海と共に、翔も刹那の間動きを止める。
視線の先、片方は兄の予想通り海斗。そしてもう片方は、とても久しぶりに思えるとある男だったためである。
「叔父さん、久しぶり」
思わずといった感じで和海が呟けば、次の瞬間それまで海斗へと落とされていた色違いの双眸がこちらへと上げられた。同時にゆるりと、まるで無邪気に喜ぶ子供の様に口角が上がる。
「お、久しぶりだなァ。2人とも大きくなって、特に和海はマサそっくりだな」
快活にケラケラと笑いながら翔たちを手招きをしたのは、誠泰の双子の弟である実彰。そんな彼は、普段から丁寧な接し方をする誠泰と違い外見から中身まで、まるで誠泰とは似ても似つかない男でもあって。
「最近ふらっと帰ってきたかと思えばこの調子で。まるで居候です」
「あんまりな言いようだ」
そうして緩く組んだあぐらに頬杖をつく姿だけでなく、和海よりも薄い灰色の髪や明るい顔つきなど、本当に双子なのかと疑念を抱くほどに父には似ていない。更には外見だけでなく、比較的穏やかな父に比べて彼は豪快な男だったと記憶している。
唯一似ているところといえば、父とは左右逆の緑と青の双眸だけだろう。
そんな彼も、父と同じく会うのは200年ぶりほど。久しく会っていないせいで新鮮にも見える顔から視線を外して横を見やればふと、大きな緑の双眸が叔父とこちらを交互に見ているのが目に入った。
自身らがここを訪ねるまでかなり熱心に叔父と会話を交わしていたであろう弟に対し、感心したとでも言いたげに兄が口を開く。
「海斗はほんと懐くの早いね、会った記憶ほぼないんじゃない?」
「え?先月から僕も叔父さんも結構ここ来てるよ?」
「うん、初耳だね。じゃあ別に久しぶりじゃないんだ」
それに対し「正解」と愉快そうな実彰の声が届く。そんな彼は確か旅好きであまりこの家に寄り付かなかった記憶があるが、父の発言からして今は偶然この家に来訪しているといったところか。
そうして海斗に話の内容を問えば、彼は表情を明るくしながらこう答えた。
「叔父さんの旅の話とか昔話だよ〜。僕もいつか遠くに行ってみたいな」
目を輝かせながらそう口にした海斗。しかしそれを受け、不意に和海の青の双眸が動きを止める。
そうして次の瞬間には何かを思い出したように、ぽつりとその口から言葉が溢れ落ちた。
「そうだ海斗、昔人狼の話してたよね?」
「うん、いきなりどうしたの」
「昨日の翔の電話相手と会ってきたんだけどね、まさかの人狼くんだったんだ。何か知ってることない?」
ふと、木々の葉の擦れる音が辺りを支配する。
それに混じって「え」と、静かな空間に海斗と自身のそんな声が落ちた。




