ミエルテの魔法使いとカエルの手のひら① ――Checkmate! // It was fragment of End of the story――
「夢じゃねえって言ってんだろッ! こんなの全然っ、痛くなんてねぇんだからな!! いい加減にしろよ、こンの⋯⋯っ、馬鹿お嬢ッ!」
気がつけば、流れ落ちてくる鮮血を思い切り拭った俺は、出血と失血の重ね掛けで、まるで利かなくなってしまった両目と、口を衝いて飛び出した、容赦ゼロの怒声をレベッカに差し向けていた。
「な⋯⋯ッ、ばっ、馬鹿ですって!? 貴方こそどうして死なないのよ!」
途端、風切り音とともに飛来する鋏。ひゅう。焼夷弾の落下にも似たその手触りを血濡れの指で握りながら、チューニングがわりの口笛を観測気球のつもりでひと吹き分。挟んで、告げる。
「あんなに痛がって、血塗れだったのにってか?」
視界は皆無。けれど問題ない。魔法が戻ってきている。最小限の足の運びだけで目で追うことさえなしに、紙片一枚ほどの差で鋏を躱す。さらに踏みつけ。色めきだった自分自身とは真反対に、息が上がってすらいなくなった俺の声音。
込み上げる歓喜を抑えつけているせいで、却って平板になったトーン。そいつは、お嬢様にしてみたら十二分な脅威だったらしい。
鋼板を仕込んだ靴裏と腐葉土の間で藻掻く彼女の魔法越しに、震えるような戸惑いが伝わってきた。そいつを半身分の膚という膚で存分に「見」つめながら、俺は、半ば恐慌状態に陥りかけている彼女へと淡々と言葉を向ける。
放たれた「ッ」――レベッカが息を呑む音が放つ些細な挙動さえ、空気越しに易々と手のひらで掴み取る。
「なんでって思ってるよな? だったら教えてやるよ、ひとつ。アンタの鋏は、俺を容赦なく痛めつけ過ぎたんだよ。意味がわかるか?」
未だ真っ暗な視界の中で、形の良い眉を寄せたレベッカの姿。手に取るように分かる、笙真と同じくらいの背格好になったお嬢様の前で、俺はどかりと腰を下ろした。据わった目線を合わせ、続ける。
「決め手になったのはコレだよ。失血量からして、どう転んだって頭から噴き出すどころじゃねえもん。だから、どうにかできた。循環機能が無事に生きてんなら、これはただの出来の悪い悪夢だろ、ってさ」
割れた柘榴そっくりの派手な傷口を指して、心底呆れ返った口調で白状すると、彼女の認識も上書きされたらしい。額から顎先へと流れていた、しとどに濡れた生温さと鉄錆の匂いが、唐突に消える。
「⋯⋯リベのじめつってこと?」
「言い方はワリィけどな」
矛を収めるようでいて、そのくせ拗ねた丸みを帯びた声音。俺の隣にいたはずの少女の気配がふっと揺らいで、入れ替わるように、背中に伸し掛かる重み。甘えられてる気がする。
なんとなくそんな感触を抱いた俺に、「甘えてるわけじゃないもん⋯⋯」、幼さを再び着込んだ、レベッカのつぶやき。
俺は無言で肩を竦めて、彼女の軽さを受け入れる。
見上げた視野。その先に確かにあるはずの空の青さは、まだ闇の中だった。
流石にあれを膚で拾うのは無理だな。信じ込むには、遠すぎる。――夢だから、身体が俺であれば「読み」が使用可能。その認識を崩さずに、視力だけ戻せねえかな? 不便だしさ。⋯⋯流石に都合良すぎか。レベッカの甘えに引きずられているに違いない、子供の戯れ言めいた思考回路。
「⋯⋯ねえ、レベッカ様」「なに」「あんたには今の俺はどう映ってる?」
「どうって、笙真君より、少しだけお兄ちゃんで⋯⋯、統君よりは、ちょっと年下? 自信ないけど⋯⋯」
俺に背負われた、レベッカから声。 ひと息ごとにくるくると移り変わる彼女の重みに、ひょっとして、俺の目が利かないのは、見られたがっていないこの娘のせいじゃねえかな? そんな疑念が浮かぶけれど⋯⋯お嬢様に伝わったら、また《鋏》の魔法が飛んできそう。 夢特有の、論理飛躍の著しい思考を蹴散らかす。
俺たちが、こんな|支離滅裂な目に遭わされているのは⋯⋯。彼女の魔法に追い回されるに至った「きっかけ」へと意識が向きかけ、俺はゆっくりと首を振った。
俺の意図を早合点した魔法がつぶさに描写してくる、レベッカ・ルキーニシュナ・ペトロワの惨憺たる有様。居た堪れないくらい踏み荒らされた、令嬢としての彼女の輪郭に、これ以上は、言葉にすまい。そんな心持ちで、“止まれ、”。膚の上をもう一巡りしかけていた「読み」に、“⋯⋯止まれってんだ。” 即刻停止を言い渡す。
俺の意向を今度は聞き入れられたらしい。鼻を鳴らすような手応えを最後に、「読み」としての肌感覚が奥に退いて、入れ違いにもたらされた一倍ちょうどの五感が伝えてくるのは、レベッカのものらしい片方分だけの、滲んだ視界。
お嬢様として、最低限の体面をぎりぎりで保っている。そう言い切るには、あまりにはしたなくさせられた裾を整えることすら叶わない十四歳の彼女と二人して、木々の向こうに垣間見える、暮れなずみの空をぼんやりと見上げていた。
「⋯⋯ごめんな、リべ」
傍らで不意に響いた、俺が初めて耳にする統の肉声。その続きに耳をそばだてようと意識を傾けた俺の脳裏に、堰を切ったように大渦を巻いたのは、焼き鏝を圧し込まれたみたいな眼窩内の熱と、それを支える頬骨の辺りまで、一様に苛んでくる赤と黒の奔流。酷すぎる激痛に、堪らず踵を返した俺の心がうち上げられたのは、肘の真ん中。関節の内側の、柔らかな窪みにじわりと残る、指の形をした鬱血の疼き。
息をするのも億劫なくらい、散々なぶり抜かれて軋む全身を、レベッカよりは多少マシ。そう言い表すしかない、ぼろぼろの青年の両腕で抱き起こされて、俺たちの目の前にあるのは、彼女がこれから飲まされることになる「過去」。
乾いた泥や血が爪の間にこびりついた統の指先。そこに摘まれた正体に、今の俺は、息を詰めるのが精一杯だった。
半分に欠けた世界に、統そのものでもある影が落ちる刹那、
――飲まないって、リベは決めてたのよ? あいつのことを睨みつけようとしてか、俺の心を溶かし込まれた、令嬢の片目に少しだけ力が戻る。言い訳じみた少女の声が同時に過ぎった。
それから、どれくらい経ったのだろう。
「お願い。⋯⋯笙真君には絶対に秘密にして欲しいの」
再び耳元で囁いてきたのは、切実と評すにはあまりに静かで、頑なで、そのくせ、ほんのちょっとだけわきの甘い、願い事。
なあ、統。役得どころか、厄介事すぎねえ?
十年分の付き合いがあったはずの、ここにいないかつての相棒に向かって、お前なぁ、こんな秘密があったんなら、言っとけよ⋯⋯。あらゆるものを忘れさせられても、猶お残ってしまっていた、持って行き処のない二人分のつらみ言を、心の奥底でそっと吐き出した。
見つめる視界に、雨でも散らなかった桜の花弁。サイズオーバーにもほどがあるくらい、ぶかぶかで濡れそぼった七分袖。
知らぬ間に振り注いだ、身体中の至る所に張り付いている、色の殆ど残っていない花殻。わずかに赤いそいつを緩慢な仕草で払い除けて、俺は立ち上がった。呆然としている暇なんてない。
「レベッカ様」
差し向けたのは、落ちていた沈黙に爪をかけるような、五歳の子供にしては、大いに不相応な硬い声音。
レベッカが、寸分たりとも聞き逃さないとばかりに、胸の裡で身を強張らせていることまで、過不足なく拾い上げてしまった俺の心が、「ポーリャは」、その先を続けるための息継ぎを置こうとした瞬間。
「⋯⋯リベ、様?」
信じがたいくらいタイミングの悪すぎる呼びかけが、極限まで研ぎ澄まされていた、幼女としての耳朶の内側へ、滑り込んできた。




