和葉姫物語
和葉は一人部屋で本を読んでいた。男子禁制のこの屋敷。自分を軟禁するためだけに作られたこの場所から、和葉は一度も外に出たことはなかった。身の回りの世話をしてくれる女中達ともあまり会話をしたことがない。自分が周囲から一線を置かれている事を和葉はよく理解していた。だからいつも本を読んでいた。本を読んでいれば周りに気を遣わせることもなく、また自分の気を紛らわすこともできたから。でも本を読んでいると時折辛くなった。本の中の世界は自分のいる世界と違ってどこまでも広がっている。本の中にいる人々のような感動を自分は体験することができないと言う事実が、心を苦しめていた。
「和葉。今日も本を読んでいるのかい?」
そう声を掛けられて和葉は顔を上げた。
「お兄様。また忍んできたのですか?ここは男子禁制の巫女姫の屋敷。いくらお兄様とはいえ、男の方が入ってきて良い場所ではありませんよ。」
いつものようにそう咎める和葉の口調は柔らかく、表情は穏やかで、自分を訪ねてきた兄を喜んで迎えていることは明白だった。
「人払いはしてある。少し外に出て話をしないか?」
兄にそう言われて和葉はおとなしく兄に従った。
庭に出て、空を見上げる。今日も空は高く、とても遠かった。高い塀に囲まれた小さな庭。その小さな庭から見える小さな空。外の世界は自分には余りにも遠い。和葉はそう感じて視線を庭に落とした。
「お前ももう十四歳。あと一年でお前も十五。成人を迎えるのだな。」
その兄の呟きに耳を傾け、和葉は覚悟はできていますと呟いた。
「幼い頃、わたしを哀れに思い逃がそうとしてくれた方がいました。しかし、その方は葛宮の巫女姫を拐かし国を貶めようとしたとして、罰せられてしまいました。あの方がわたしに語って下さった事が事実なのでしょう?十五になればわたしは生け贄に差し出される。それは、わたしが物心つく前から決められていた事なのでしょう?お父様が魔物と交わした約束。葛宮の中でも強い霊力を持って生まれたわたしを魔物に差し出して、その代わりにこの国を護ってもらう。葛宮の霊力により護られてきたこの国に魔物が入り込み、まして祓うことができなかったなどあってはいけないこと。この国を、民を護るためにお父様も苦渋の選択をしたのでしょう。」
「だからといってお前を贄に差し出すなど。それで奴が本当に我々を見逃すかどうかも解らないというのに。」
そう言う兄は辛そうだった。
「しかしお兄様。魔物は約束を守り、わたしが成長するこの間ちゃんと待っていてくれていますよ。わたしが成長するまで待っていてくれている方が、わたしを手に入れたからといって約束を破るとは思えません。わたしは贄になるために育てられてきたのです。それがこの国を背負う葛宮の娘としてのわたしの役目。ならばわたしはその役目を全うするしだいです。お兄様、どうかわたしのことで心を痛めないで下さい。真実を知ったあの時からずっと考えていました。そしてわたしは贄となる覚悟を培ってきました。わたしはもうこの生を終わりにする覚悟はできているのです。」
そう言って和葉は兄の手をそっと握った。
「お兄様、ずっとわたしを想ってくださりありがとうございました。お兄様が差し入れて下さるもの全てにわたしは励まされ、心を和まされてきました。わたしを逃がそうとしてくれたあの方やお兄様がわたしを想って下さるように、わたしも皆様のことを大切に想っております。ですから、わたしは皆様のお役に立ちたいと思うのです。この身一つで全てが救えるのなら、それに超したことはございません。」
そんな和葉の言葉を聞いて兄は顔を顰めた。
「お前が贄に差し出される時、民には弱まった結界を補強するためお前を人柱にした儀式を行ったことにするそうだ。破魔の葛宮が魔物を祓うことを諦めるなどとは。魔物が今時を待っているのも、充分にお前の霊力が高まりより強力な力を得るため。その先の保証などはない。お前は世間を知らないから、そんなに純粋に物を考える事ができるのだ。」
そう言って兄は和葉に世間を見てきなさいと言った。
「あと一年。その間お前はここを出て世の中を見てきなさい。準備はしてある。一年ぐらい人の目を欺くことなどたやすい。世間を見て、それでも贄になることを選ぶなら、その時はここに戻ってきて葛宮の巫女姫としての役目を果たしなさい。」
そう言って兄は和葉に部屋に戻るように促した。
部屋に戻ると、そこには和葉と同じ年頃の背格好がよく似た少女がいて、和葉に着物一式と刀を一降り差し出した。
「和葉姫さま。僭越ながら、私がしばらくの間姫様の代役を務めさせて頂きます。お召し物をこれに替えて下さいませ。これからは姫様一人でやらなくてはいけません。今から教えますことしっかりと覚えて下さいませ。」
そう言われて和葉は少女に着物の着方から身の振り方、話し方など、細かく指導された。
「和葉姫様。くれぐれも姫様が姫様であると気づかれぬようお気をつけて下さい。姫様の健勝をお祈り申し上げております。」
そう少女に言われて、和葉は困ったようにありがとうと言った。そして続けて何かを口にしようとする和葉の言葉を遮って少女は和葉を外に追いやった。外で待っていた兄に導かれ、気が付けば屋敷の外に出て、和葉は国の外まで来ていた。
「わたしが一緒に行けるのはここまでだ。」
そう言われて和葉は兄の顔を見た。
「和葉。色々思うことはあるだろうが、兄から妹への最後の願いだと思って、今はどうか旅だってくれ。逃げろと言っているのではない。ただわたしはお前に世間を見てきて欲しいと願っているだけなのだ。時が来れば戻ってくればいいのだから。」
そう言う兄の目に強い意志を見て、和葉は泣きそうな顔で笑った。
「わかりました、お兄様。和葉は、一年の間、外の世界を見て勉強して参ります。」
「和葉。その言葉遣いはやめなさい。それでは出自が解ってしまう。外にいる間は身分を隠さなくてはいけないのだから。」
そう言われ、和葉ははいと返事した。
「では、さようなら。」
そう言って和葉は踵を返し旅立った。
屋敷の中から出たことのない和葉にとって、野道を歩くことは厳しいことだった。しかし歩みを止めることはなかった。歩みを止める訳にはいかなかった。あんなことを言いつつ兄が自分を逃がしたのだと解っていた。逃がしたところで一人で生きていく事などできないと思っているに違いない。どこかでのたれ死んで終わりだと思っているに違いない、でも、それでも自分を逃がした兄の気持ちを想って、和葉は歩みを進めた。手足が痛い。目がかすむ。のたれ死ぬくらいなら、贄になって死んだ方がまだ人の役に立てるのに。屋敷にいるのがわたしではないと解れば、身代わりとなったあの娘も、わたしを逃がしたお兄様も無事では済まないのに。自然と涙が溢れて止まらなかった。叫びたい衝動に囚われながらも和葉はそれを必死に抑えながらただただ歩いた。歩き続けて、そして、足を踏み外し、川に落ちて意識を失った。
○ ○
和葉がふと気づくと、川辺に打ち上げられていた。生きている。そう思って、安堵と同時になんとも言えない感情が胸を締め付けてきて、和葉は苦しくなった。立ち上がり、周りを見回して和葉は息を呑んだ。そこには沢山の人の死体が転がっていた。
いったい何があったのだろう。そんなことを考えながら、恐怖に身を縮こませ和葉は歩いた。進んだ先にも転々と人が倒れていて、和葉は怯えながらも誰か息のある人がいないか覗いて歩いた。進んだ先でうめき声が聞こえて、和葉ははっとして声のした方へ駆けていった。そして木に背を預けてぐったりしているその存在を見て和葉は驚いた。うめき声を上げていたのは深手を負って血まみれになった鬼だった。まだ生きてる。でもどうしよう。傷が大きすぎて自分が持っている薬じゃ足りない。そんなことを考えながら和葉はなんとか手当をしようと本で読んだ知識を元に奮闘した。水を汲み、傷口を洗い流す。傷口から流れる血は止まらず、和葉は意を決して自分の霊力を鬼に送った。その瞬間、酷い痛みに襲われて和葉は顔を顰めた。
気が付くと和葉は火の海の中に立っていた。周りは瓦礫と死体の山。それを眺め、和葉の中に酷い憤りが溢れた。
「どうしてこんなことになった。もう沢山だ。いわれのないことでとやかく言われんのも、戦争になるのも、もうまっぴらだ。」
そんな言葉が聞こえ、続いて誰かの叫び声が響いた。それは強い怒りだった。それは強い悲しみだった。どうにもならない強い感情が身体を支配し、そして世界が赤く染まった。
はっとして、和葉は意識を取り戻した。今のはいったい何だったんだろう?そう思いつつ、傷口に視線を戻す。良かった、血が止まってる。そう思って薬草を探して自分の持っている薬に足して軟膏を作り、傷の手当てをする。手当をしながら和葉はさっきの自分の感じた思いに寄り添った。あれはこの鬼の想いなのだろうか。この鬼は大切なものを戦争でなくして辛かったのだろうか。そんなことを考えながら、和葉は優しく鬼を撫でた。酷く苦しそうに見えるこの鬼が少しでも楽になったら良いと思う。そうやって撫でていると少しだけ鬼の表情が柔らかくなって、和葉は安心したように微笑んだ。鬼とは破壊の権化だと言うけれど、そうではないのかもしれない。そんなことを考えて、和葉はなんとなくおかしい気持ちになった。そうやって暫く和葉は鬼の傍に寄り添っていた。
疲れに和葉がうとうとし始めた頃、鬼が何かを言った気がした。顔を上げると鬼と目があって、和葉は目が覚めた?と声を掛けていた。
「沙依。お前も無事だったのか、良かったな。」
鬼はそう言って軽く微笑むと、意識を失うように再び目を閉じた。その姿が、みるみる小さくなって男の人の姿になっていき、和葉は息を呑んだ。
「鬼は人だったのですか?」
思わず口に出したその声が大きく、和葉は自分で自分の声に驚いた。その声の大きさに、鬼だったその人も目が覚めた様子で、目を開いたその人は不思議そうに辺りを見回していた。鬼だったその人は、今は背の高い目元涼やかで精悍な顔立ちをした男性だった。
「俺は、元に戻ったのか?」
自分の手を眺め男はそう呟くと、ようやく気が付いたように和葉に視線を向けた。
「お前が傷の手当てしてくれたのか?ありがとな。」
そう言って笑顔を向けられて、和葉はようやく鬼が人になったと言う事実を飲み込むことができて、今度は一気に顔が熱くなって目を背けた。
「どうかしたのか?」
「ふ・・・服。あなた、その、肌が・・・。」
しどろもどろに和葉がそう口にすると、男が、あぁ服着てねーなと、どうでも良さそうに呟いた。
「鬼になった時に破れちまったか?だいぶでかくなってたみたいだし。しかたがねーからそこら辺に転がってる奴のはいで着とくか。」
そんなことを言いながら男が立ち上がろうとして、よろめいて覆い被さってきてそのまま一緒に倒れ込み、和葉は頭が真っ白になった。
「悪い。ちょっと血が足りてねーみたいでよろめいた、大丈夫か?」
普通にそんなことを言いながら男が手を差し出してきて、和葉は思わずその手を取っていた。引っ張り起こしてもらい顔を真っ赤にさせて俯いて黙り込む和葉の様子を横目で見ながら、男はそこら辺に転がっていた死体から衣類を剥ぎ取り身につける。
「お前、どこの箱入り娘だ?身につけてる格好の割にお前いいとこの嬢ちゃんだろ。なんでそんな格好でこんなとこに一人でいるのか知らねーけど、危ないからとっとと家に帰れよ。」
そう言われて和葉は泣きそうな顔で笑った。
「わたし、帰る家がないの。」
和葉のその言葉を聞いて男はそうかと短く答えた。
「この格好と刀を一振り渡されて家を追い出されちゃったんだ。一年は帰ってくるなって。」
「お前はその言葉の通りで一年経てば帰れると思ってんのか?」
「思ってない。思ってないけど、もし一年無事に生きていられたら帰ろうと思う。」
和葉はそう言って笑った。自分一人で一年も生きていける訳がない。でも、もし運良く生き延びる事ができたら、戻ってわたしは贄になろう。そう思う。そんな和葉をじっと見て男は面倒臭そうに頭を掻いた。
「ならその一年、俺が用心棒してやるよ。このままじゃお前、運が良くても人攫いにあってどっかに売り飛ばされて終わりそうだしな。」
そう言って男は笑った。
「俺は田中隆生。お前は?」
そう訊かれて和葉は一瞬言葉を詰まらせ、和葉と答えた。本当の読みのカズノハではなくカズハと発音をして。
「和葉か。なぁ、和葉。お前刀は使えるのか?」
そう訊かれて和葉は首を横に振った。
「なら俺にかせ。いくらあまり得意じゃないつっても、全く使えねーお前が持ってるよか俺が持ってたほうが役に立つ。」
そう言われて和葉は言われるままに刀を隆生に渡した。それを見て隆生は、お前は少し人を疑うって事覚えた方がいいぞと呆れたように言った。
「俺が悪い奴だったらどうすんだ?」
そんなことを言いながら隆生がそこら辺の死体から金目のものを盗っていく。
「あなたが悪い人だったら。どうしたらいいんだろ?」
本当に困ったようにそう言う和葉を見て隆生は、どうしたら良いかは解らないけど、確実にお前詰んでんなと呟いた。
「お前、俺が怖くないのか?」
そう訊かれて和葉は怖くないよと答えた。それを聞いた隆生はそうかと呟いた。
「和葉。お前、俺の傷塞ぐのに術式使っただろ?人間にとって練気を消費するっていうのは命を削ることだ。あまり使うなよ。」
言われた意味が解らなくて和葉は疑問符を浮かべた。術式とは、練気とは何だろう?そんなことを考えていると、隆生が困ったように沙依がいてくれればなと呟いた。
「あいつなら説明も力の使い方も教えれるんだろうけど、俺はあまり術式にゃ詳しくないからな。」
そんなことをぼやく隆生を見て、和葉は沙依って誰?と訊いていた。
「友達だよ。感覚的には姪っ子の方が近いけどな。」
そう言う隆生の目が辛そうに見えて、和葉はそれ以上は聞かなかった。
「軍資金も集めたし、じゃあ行くか。どっか当てはあんのか?」
「いえ、ないです。」
「じゃあ、適当に一年間ふらふらして回るか。どっか行きたいとことかしたいことができたら言えよ。」
そう言われて和葉ははいと答えていた。そうして二人の旅は始まった。
○ ○
隆生との旅が始まってすぐ、和葉は熱を出した。
「お前な、しんどいならしんどいって言えよ。なんで何も言わねーんだよ。」
呆れたようにそう言いながら看病をしてくれる隆生に和葉はごめんなさいと呟いた。
「別に目的のある急ぎの旅じゃないんだ。ゆっくり行けばいいだろ。」
そう言われて和葉はそうだねと言って笑った。
「隆生が余りにも当たり前にすいすい歩いて行くから、それが当たり前なのかと思って。隆生も同じくらい辛いけど歩いてるのかと思ってたけどそうじゃないんだね。」
熱に浮かされてぼんやりした様子でそう言う和葉の言葉を聞いて隆生は心底呆れたような顔をした。
「そりゃ歩ける距離もなにも人によって違うに決まってるだろ。お前、息は切れてたけど、ずっとニコニコしながらついてくるから、平気なのかと思って・・・。」
そうぼやいて、隆生は悪いと謝った。
「なんで隆生が謝るの?」
「そりゃ、気づかないで無理させたからな。」
そう言いながら隆生は和葉の首筋に手を当てて、まだ熱いなと呟いた。
「隆生の手、冷たくて気持ちいいね。」
そう言うと、お前は本当脳天気だなと言われて和葉は疑問符を浮かべた。
「休んで治りゃ良いけど、薬かないときついかもしれないぞ。」
そう言いながら額の布を取り替える隆生に和葉は、大丈夫と呟いた。実際はどうだか解らない。でも大丈夫だと思えた。
「隆生。ありがとう。」
そう呟いて、和葉は眠りに落ちた。こんなに安心して眠ったのは初めてかもしれなかった。幼い頃は一人部屋で眠るのが酷く寂しく感じていた。昼間感じている孤独が夜になると膨らみ、自分がどうしようもなく独りぼっちなのだと感じて辛かった。自分が贄になる運命だと知ってからはいつだって怖かった。一日が終わり眠りにつくのが怖かった。目が覚めて新しい朝を迎えるのが怖かった。一日一日が過ぎる度に自分の最後に近づいて行くのを感じ、年が巡る度、自分の身体が成長していくのを実感する度に自分が贄になるときのことを考えて怖くなった。贄になるとはどういうことなのだろう。贄になると言うことが死を意味していることはわかる。でも、その死とはどのようなものなのだろう。けっして安らかな眠りではないのだろう。そう思うからこそ怖かった。
目が覚めて、そこに隆生の姿を見つけて和葉は笑った。そこに彼がいるということがとても嬉しく感じた。よく寝てたな。具合はどうだ?なんて訊かれて、それも嬉しく感じた。こうやって誰かに寄り添ってもらったことも初めてかもしれない。体調を崩したことがないわけではない。看病をされたことがないわけではない。いつだって誰かは傍にいた。でも、寄り添ってくれる人はいなかった。大切な生け贄である自分に何かがないように、贄となるその日まで生きながらえ傷がつかないように、世話をされ見張られていた。自分を哀れに想う人はいても、自分を普通に扱ってくれる人はいなかった。お兄様も、自分を逃がそうとしたあの人も、きっと、わたしのことをただのかわいそうな娘だと思っていたに違いない。そんな思いが頭をよぎり、和葉は胸が苦しくなった。
「もしも一年後、わたしが家に戻りたくないと、あなたと旅を続けたいと言ったのなら、あなたは一緒にいてくれますか?」
和葉のその呟きを耳にして、隆生はさあなとそっけない返事をした。
「その時になってみないと解らないだろ。ただ、俺は人間じゃないから、あまり永く一緒にいない方がいいと思うぞ。」
「本当の隆生は、人ではなくてやはり鬼なの?」
和葉のその問いに、隆生は驚いたような顔をした。
「お前、俺が鬼の姿の時に会ったのか?」
「わたしが見つけたのは、大けがを負って動けなくなっていた鬼だった。傷の手当てをして、暫くしたら人の姿になって驚いた。でも、人もまた強い感情に心が縛られてしまうと周りが見えなくなって鬼と化すと本で読んだことがあるわ。それは比喩だと思っていたけれど、あなたを見てそうではないのかもしれないと思った。だから人の姿に戻れた隆生は感情に縛られた心が解放されたのだと思って良かったと思った。どんな感情であっても、きっと周りが見えなくなって鬼と化してしまうような思いに囚われてしまうというのは、きっと辛いことだと思ったから。でも、隆生が人ではないというのなら、今のあなたの姿が偽物で本当のあなたは鬼なのかしら?なら、鬼が破壊の権化だというのは嘘なのね。だって隆生はこんなにも優しいもの。」
まだどこか朦朧とした様子でそう言う和葉の言葉を聞いて隆生は暫く何か考え込むように黙り込んで、それから口を開いた。
「俺はターチェだ。ターチェっていうのは、地上の神と人間の間の子供の子孫の総称で、俺たちターチェは不老長寿の身体を持ってる。大昔はお前等人間から山神様って崇められてた。それがなんでかな。良く解らねーけどなんか誤解があってな。お前等人間と全面戦争になっちまった。それで、俺の住んでた国は滅びちまった。俺たちターチェにも色々あってさ、別に戦争には慣れっこだったはずだったんだけどな。自分が生まれ育った場所が瓦礫の山になって炎に包まれて、軍人もそうじゃない奴も、よく知ってる奴らの死体が転がってて、そんな光景目にしたら頭ん中が真っ赤に染まってた。それで気が付いたら鬼になってた。意識はあったんだけどな、自分が止められなかった。目につくもの全て壊してた。大怪我で動けなくなかったら、きっとお前の事も殺してたと思う。」
そう言って隆生は、良かったなお前が見つけたのが俺が動けないときでと言って笑った。
「鬼なんてそんなもんだ。いくら怪我してるからってむやみに近づくなよ。俺の時はたまたま運が良かっただけだ。鬼に近づいたら殺される。それが当たり前で、それは本人にも止められない。だからもし俺がまた鬼になったら、その時は逃げろよ。自分が止められなくてお前を殺しちまうなんてそんなこと、俺はしたくない。」
そう言う隆生に和葉は大丈夫だよと言った。
「隆生はわたしを殺さない。絶対、わたしを殺したりなんかしない。」
そう言って笑う和葉に隆生は、本当にお前は脳天気だなと言って笑った。
「なんかお前の声聞いてるとほっとするな。お前の声聞いてるとなんか大丈夫な気がしてくる。でもな、和葉。世の中そう甘くはないぞ。俺は自分の中にまだ鬼になった時の激情がくすぶってるのが解る。これにまたいつ身体が支配されるかも解らない。そうなれば、お前が何言ったってどうにもなんねーよ。だからな、この先家に帰ることをやめることにしても、俺といるんじゃなくてどこか落ち着いて生活できる場所を探すようにしろ。それくらいの間は付き合ってやる。」
そう言って隆生は、俺は水汲んでくるからもう少し寝とけと言って去って行った。そんな隆生の後ろ姿を見送って和葉は目を瞑った。これからのことを考えてみる。もし国にわたしが戻らなかったらどうなるだろう。きっとお兄様はわたしが戻ってくるとは思っていないだろう。でも、それでもわたしは葛宮の娘として帰らなくてはいけない。わたしが贄にならなければわたしの生まれた国はなくなってしまうのだから。自分にはあまりにも遠く、決して生きて目にすることはないと思っていた世界。その世界に今わたしはいて、それを感じている。これからきっと知らなかったことを知ることができるのだろう。ずっと憧れていた世界をこの身で体験して、自分が決して感じることのできないと思っていた感動を体験することができる。一年間、それを満喫して、わたしは・・・・。そんなことを考えながら、和葉の意識は再び深い眠りに落ちていった。
○ ○
「いつの間にこんな怪我してた。こんなに腫れて、いったいいつ捻ったのか言ってみろ。」
そう言われて和葉は、いつだったかなと首を傾げた。
「どっかの岩場で足滑らしたときかな?」
「それ、だいぶ前だろ。その場で言えよ。」
「痛かったけど、歩けるから大丈夫かなと思って。歩くのが辛いくらい痛くなってきたから声をかけたんだけど、遅かった?」
呑気にそう言う和葉に隆生は、呆れたように遅すぎだと言った。
「あのな、捻挫はその場で冷やして固定しとかないと後で大変なことになるんだぞ。ちょっとでも痛いとか、何か違和感があったらその場で言え。全く、お前って奴は・・・。」
そう言いながら隆生は湿布薬になる薬草を探して患部に当てると、服を裂いて包帯代わりにし固定した。
「我慢強いんだか呑気なんだか。本当にお前はどうしようもないな。今までどんな生活してればそんな風に育つんだ?」
そんなことを言いながら隆生がおかしそうに笑ってきて、和葉もつられて笑った。そうすると隆生が目を細めて見てきて、和葉はなんだか気恥ずかしい気持ちになった。
「もう少し先に集落があるのが見えたから、そこまで行って休むか。久しぶりにちゃんとした場所で横になれるぞ。」
そう言いながら隆生に抱きかかえられて和葉は小さな悲鳴を上げた。どうかしたか?なんて不思議そうに訊かれて、その顔がいつもよりずっと近くて和葉はどぎまぎした。
「えっと。急に持ち上げられたから、その、吃驚して・・・。」
しどろもどろにそう言う和葉に隆生は、そっか悪かったなと言って歩き出す。
隆生に抱えられて、彼の胸に身体を預けて、和葉は心臓が高鳴り顔が上げられなくなった。こんなに軽々と持ち上げられて不安げな様子なく運ばれるなんて。そういえば熱を出したときもこうやって運んでもらったんだっけ。あの時は意識が朦朧としてて良く解らなかったけど、男の人って凄い。隆生の逞しい腕や胸の感触を感じながらそんなことを考えて、和葉はなんだか凄く恥ずかしくなった。
「この魔物め。その娘をどうするつもりだ。」
そんな言葉が聞こえ、石が飛んできた。
「あぶねーな。当たったらどうすんだよ。」
飛んできた石をこともなげに避けてそう言うと、隆生は声のした方を睨み付けた。
「人の姿をしていても騙されないぞ。お前は魔物だろう。その娘を離せ。」
そうやって敵意を向けてきたのは、十歳前後の少年だった。
「なんだガキか。人に喧嘩売るときはもう少し考えてからにしろよ。そんな売り方してたら痛い目見るぞ。」
呆れたようにそう言う隆生に、少年はガキじゃないとくってかかった。
「俺はこの村を護る術師だ。魔物なんかに負けない。その娘を離してさっさと立ち去れ。」
少年が叫びながら何か印を結び、隆生は身体の自由が奪われて驚いた。しかし、それも一瞬のことで、隆生が普通に動けるのを見て今度は少年が驚いた顔をした。しかし、ひるむことなく次の手を打って向かってくる少年を見て、隆生は目を細めて笑った。それを見て憤り、更に勢いを増してかかってくる少年を足をかけて転ばせて足で押さえつけると、暴れる少年に隆生は少し落ち着けよと声を掛けた。少年は全く歯が立たないと解ると悔しそうに歯を食いしばって呻いていた。
「くそっ。何で俺の術が効かないんだ。俺がまだ未熟だからダメなのか?俺は・・・。」
そう嘆く少年に隆生は呆れたように、そんな闇雲にくってかかってたら勝てるわけがないだろと呟いた。
「お前、俺と体格差どんだけあると思ってんだよ。お前の使った術式なんざ気合いでどうにでもなる。最初の術だけはちょっと驚いたけどな。あれは人ならざる力を封じるためのものだろ。普通の奴ならあれで動けなくなるだろうけど、コーリャンの俺には効かねーよ。」
隆生のその言葉を聞いて、和葉はコーリャンって何?と訊いていた。
「普通のターチェより神の力を強く受け継いじまった奴のことだよ。」
「じゃあ、隆生も神様の力を使って何か凄いことができるの?」
そんな和葉の問いかけに、隆生は何か凄い事って何だよと言って笑った。そんな二人のやりとりを聞いていた少年が、お前は魔物じゃないのか?と訊いてきて、隆生は俺が魔物ならお前とっくに死んでんだろと言って声を立てて笑った。
少年は罰が悪そうに謝って、二人を自分の家に案内した。少年は元晴と名乗った。
「お前から確かに鬼の気配を感じたんだ。だから、鬼が人の姿に化けて娘を攫っているのだと勘違いしてしまった。」
そう言う元晴に、隆生はあながち間違ってないぞと言った。
「俺が人間じゃないのは確かだし、俺は一度鬼に落ちた身だから、俺から鬼の気配を感じるのもおかしくないだろ。」
何でもないことのように隆生はそう言って、それを聞いた元晴の顔が強張った。
「なぁ元晴。俺が人間か人間じゃないか、それは重要なことなのか?人間でなければ俺はお前の敵で、俺とお前は殺し合わなきゃいけないのか?」
そう言って隆生は面倒くせーなと呟いた。
「そんなことどうでも良いだろ。自分と違うから相手を殺すなんて物騒なこと考えんなよ。まぁ、相手と自分にあまりにもあからさまな実力の差があったら、そりゃ生き残るためには相手がこっちに危害を加える前にやらなきゃならねーってのもあるんだろうけどな。俺は、そういうのはまっぴらだ。」
そう言うと隆生は立ち上がった。
「お前術師なんだろ?人間が術式使うなんざ本来命を削ることだって言うのに、術使ってもお前の生命力が落ちてる気配がほとんどない。つまり命をできるだけ削らないでなんとかする方法があんだろ?和葉にそれ教えてやってくれ。こいつ無自覚に術が使えちまうから、早死にしかねないからさ。」
そう言って隆生は扉に向かった。
「何処に行くの?」
和葉のその問いかけに、隆生は俺はここに居ない方がいいだろ?と言って笑った。
「一年間の約束は守るよ。ちゃんとお前のこと見れるとこに居るから。ここにいたけりゃそうすりゃいいし、また旅に出たくなったら俺んとこに戻ってこい。どっちにしろ、こいつから教わるべき事は教わっとけ。」
そう言って出て行く隆生の背中を追いかけたいと思ったが、足を痛めた和葉にはそれができなかった。和葉は胸が苦しくなって、彼の出て行った扉をずっと眺めていた。
「俺は間違っているのだろうか。」
逡巡するようにそう呟いた元晴の声が聞こえて和葉は彼の方に視線を向けた。
「俺は魔物の言葉に耳を傾けてはいけないと教わってきた。でも本当は言葉を交わし合えば解り合えるのだろうか。魔は祓い滅するべきものだというのは間違いなのだろうか。」
思い悩むようにそう言う元晴に和葉はどうなのでしょうねと声を掛けた。
「言葉が通じるということは、心を通じ合わせることができるのかもしれません。しかし、同じ言葉を交わしても人間同士も解り合えないことがままございますでしょう?魔物と人もまた同じではないのでしょうか?人にも色々あるように、きっと魔物にも色々あるのでしょう。わたしは争わずにすむのならそれがいいと思いますが、お兄様も隆生も世の中はそんなに甘くはないと言います。きっと、あなたの教わってきたことも間違いではないのでしょう。ですが、悩むのなら、自分が納得できるところまでとことん考えて、そして自分の在り方を決めれば良いのではないでしょうか。自分がどう在るか、それを決めるのは自分自身でございましょう?」
そう言って和葉は元晴に笑いかけた。そうして驚いたような顔で自分を見つめる元晴の視線を受けて和葉は自分の口を押さえた。
「あなたは、やはり葛宮の・・・。」
元晴のその呟きに、和葉は困ったように笑って内緒ですと言った。
「長年使い慣れた言葉というのはなかなか抜けなくて困ります。だいぶ自然に普通の言葉遣いというものができるようになったと思っていたのですが。ダメですね。」
「あなたの破魔の気。様子から見て葛宮の隠し子かなにかなのかと思っていたのですが。」
「今あなたが気が付いたことは秘密にしていてくれますか?」
そう問われて元晴は一つ頷いた。
「元晴。わたしの怪我が治ったら、一緒に隆生の所へ行かない?ちゃんと話した方がいいと思う。」
そう言われて元晴は少し考えるような素振りをしてから頷いた。
「あとね。わたしに術の使い方を教えて欲しい。わたしの霊力が強いことはわかってるから、これをちゃんと使えるようになったら、わたしでも何かの役に立つことができる気がして。お願いできるかな?」
そう言われて元晴はそれに関しては二つ返事で了承した。
○ ○
「なんだ、お前も一緒に来たのか?お前は俺と会いたくなんかないだろ。」
そう隆生に言われて、元晴はすまなかったと謝った。それを聞いて、隆生が怪訝そうな顔をする。
「あれから色々考えた。魔物は祓い滅するべきものだということが間違いなのかどうか、俺にはまだ解らない。だが、お前は滅すべきものではないと解る。お前は俺を殺さなかった。俺を気遣って離れていった。だから、お前が人ではないからといってお前と解り合えないとは思わない。俺はもっとちゃんと知りたいんだ。色々知って、考えたい。自分がどういう術師になるのかを。」
堅くなってそう言う元晴を見て、隆生は笑った。
「お前は頭でっかちで面倒くさそうだな。まだガキなんだから、そんな気負わず自由に生きろよ。」
「ガキじゃない。確かにまだ成人もしていないが、物心ついた頃から修練を続け、七つの時には一人前だと認められた術師であり、俺にはこの村を護る義務がある。もう、俺しか居ないんだ。だから、俺がやるしかないんだ。子供だからって役目から逃げるわけにはいかない。」
拳を握りしめてそう言う元晴に、隆生はなんかあったのか?と訊ねた。
「一年前。この村は魔物に襲われた。とても強大な魔物だった。俺の家は代々続く術師の家系で、ずっとこの村を護っていた。村に張った結界が破られ、侵入され、次々に家が破壊され、そして俺の家族はみんな殺された。俺は言われるがままに村の皆を神社に誘導して、神社の結界の境界に立ってずっと補強してた。そうやって自分の家族が殺されて食われてくのをずっと見てた。戦ってた皆が死んで、一緒に結界の補強してた姉ちゃんが、後はよろしくねって、笑って言ったんだ。それで、出てって俺の目の前で・・・。姉ちゃんは自分ごと魔物を殺した。」
そう言って元晴は涙をこぼした。
「魔物は霊力の強い人間を狙ってる。霊力の強い人間を食らうことでより強力な力を得られるらしい。だから俺は、霊力の強い和葉をお前が抱えてるの見て、和葉が酷いことされて食われちゃうんじゃないかって・・・。助けなきゃって。なんとかしなきゃって。あんな風になる前になんとかしないとって思ったんだ。それにこの村の近くにまた魔物が出たって思ったらさ。強い魔物は霊力の高い人間を狙ってるけど、でも、普通の人間が魔物に襲われないわけじゃないし、戦えるのが自分しかいないなら、俺がなんとかするしかないだろって。もう誰も助けてくれない。もう俺しか戦える奴はいない。泣いたって喚いたって、みんな帰ってこないんだ。俺がこの村を護らなくて誰がやるんだよ。だから俺は、魔物と戦うしかないんだ。でも、弱いから、後先考えずに突っ込むしかできなくてさ。俺は。俺は・・・。」
そう言って、ぽろぽろ涙を流し続ける元晴に隆生は、お前は良くやったよと呟いた。
「人を食らって霊力を奪うね。魔物って言うのは獣だな。大昔にはいなかったのに、いつからそんなのができてたんだか。大昔は人間も術式なんか使えなかったのに、いつの間にか使える奴がごろごろしてるしな。これも成長ってやつなのかね。まぁ、そういう災いから自分達を護ってくれる存在を自分達で滅ぼしちまったんだから、自分の身は自分で護んなきゃならねーのはしょうがないよな。」
そんなことをどうでも良さそうに呟いて隆生は元晴を見た。
「術式の事はよく解らねーけど、戦い方なら教えてやれるぞ。幸いに俺は第一部特殊部隊、つっても解らねーか。守備、後方支援部隊の隊長してたからな。防衛戦は得意なんだ。」
そう言って笑いながら隆生は元晴の頭をがしがし撫でた。
「男がいつまでもぐずぐず泣いてんじゃねーよ。強くなりてーんだろ?なら泣いてないで訓練するぞ。」
隆生のその言葉を聞いて元晴が顔を上げる。
「ほら、どうする?訓練するのか、しねーのか。俺に教わるのが嫌だって言うなら別にそれでもいいけどな。」
そう言われて元晴は、すると大きな声で答えていた。それを見て隆生が小さく笑う。
「ガキじゃないんだろ?じゃあ、容赦しないからしっかりついてこいよ。」
「お願いします。」
そんな二人のやりとりを見て、和葉は良かったなと思った。隆生はやっぱり優しいと思う。こんなに優しい隆生がなんで鬼になってしまったんだろう。鬼とはいったい何なのだろう。隆生はまだ自分の中に鬼になった時の激情が残っていると言っていた。またいつ鬼になるか解らないと。彼が彼のままでいるためにはどうしたらいいのだろう。自分に何かできることはないのだろうか。そんなことを考えて、和葉は元晴に相談してみようと思った。
和葉は元晴から術を教わり、元晴は隆生から戦い方を教わり、そうやって二人は数ヶ月の間を元晴の村で過ごした。
「元晴。これでどうかしら?」
そう言って和葉が差し出した七宝を見て、元晴は充分だと答えた。
「ここまで七宝に霊力を込めるにはずいぶんと無理をしたんじゃない?」
そう言われて和葉は微笑んだ。
「あと一つ季節が過ぎて年が明ければ、わたしの旅は終わるから。わたしの傍に居てくれたあの人に少しでもお礼ができたらと思う。だから、仕上げはよろしくね。家まで送ってもらったら、あなたの元に来るように伝えておくから。」
そう言う和葉に元晴はなんとも言えない視線を向けた。
「このまま彼と逃げるという選択も、ここで俺と術師になるという選択も君にはあるんだよ。」
「あなたに役割があるように、わたしにも役割がある。わたしはわたしの役割を果たすために帰らなくてはいけない。あなたなら解ってくれると信じてる。」
そう言う和葉に真剣な目で見つめられ、元晴は口をつぐんで視線を逸らした。
「葛霧の国で結界を強めるために人柱をたてる儀式が執り行われると、こんなところにまで噂が届いている。葛宮の巫女姫様が国のために柱に立つと。」
そう言って元晴は和葉を見た。
「俺にはどうすることが正しいのか解らない。でも、君たちを見てるとこのままがいいんじゃないかって思ってしまう。君は、彼が好きなんだろ?その気持ちを伝えなくてもいいのかと考えてしまうんだ。」
そう言われて和葉は微笑んだ。
「口に出してしまえば止められなくなってしまうのではないかと思うから。止められなくなるのが怖いと感じてしまう程の想いを知ることができて、わたしは幸せです。あと少しの間だけあの人の傍にいられるのなら、それでいい。とても楽しかった。わたしは本当に楽しかった。こんなに沢山の楽しい思い出ができて、わたしは本当に幸せだと思う。一生自分が得ることはないと思っていた沢山のことを手に入れて、わたしは本当に・・・。」
そう言って和葉は少しの間目を閉じた。そして、元晴をまっすぐ見つめて、ありがとうと言って笑った。
「元晴。あなたにも出会うことができて良かった。あなたと友達になれて嬉しかった。本当に色々とありがとう。あなたにも何かお礼ができればと思うけど、わたしにはなにも渡せる物がなくて。ごめんなさい。」
そう言う和葉に元晴は微笑んで、俺にはいいんだと言った。
「俺も楽しかった。君たちと出会えて良かった。」
そう言って、元晴は何かを言おうとして、口をつぐんだ。
「あなたのこれからの武運と健勝を祈ります。」
「俺も、君たちの無事を・・・。」
言葉の途中で声を詰まらせて、元晴は俯いた。
「和葉。和葉は、和葉はさ・・・。」
そう言って元晴は涙の溜まった目を和葉に向けた。
「ねぇ、そこまでして和葉は護りたいの?自分の全てを捨ててまでしなきゃいけないほど大切なことなの?人柱なんて、そんなもの。結界が弱くなる度に誰かが犠牲になるなんて。そんなのおかしいよ。きっと違う道がさ。君が犠牲にならなくてもいい道があるはずだって。和葉。お願い、行かないで。」
普段とは打って変わって年相応の子供のように、元晴は和葉にしがみついて泣いた。泣きじゃくる元晴をそっと抱きしめて和葉はあやすように彼の背中を撫でた。
「ありがとう。元晴。本当にありがとう。」
そう言って和葉は元晴の頬にそっと両手を添えて、彼の顔を覗き込んだ。
「わたしは人柱になりに行くんじゃないの。本当はね。わたし、十五になったら魔物の贄になる予定だったの。わたしが赤子の頃に結界が破られて魔物に入り込まれて、お父様は国を護るために魔物にわたしを差し出す約束をした。お兄様は、わたしが贄になったところでどうせ国は滅ぼされると思っていたから、わたしを逃がした。」
そう言って和葉は笑った。
「わたし、あなたと出会って自分にできる事が解った。あなたに術を教わって、それができる自信がついた。人柱になるんじゃない。わたしは魔物を倒しに行くの。あなたのお姉さんと同じようにこの身をとして国を護るの。それが葛霧の国の国主の娘としてわたしがやるべきことだと思うから。」
そう言って和葉は、これも二人の秘密ねと言った。それを聞いて元晴の目に再び涙が溢れた。
「俺は君に術を教えるべきじゃなかったのかもしれない。」
「あなたが教えてくれなければわたしはただの餌になっていたのよ。」
「教えなければ、できる事が解らないままなら、君は戻らず逃げてたかもしれないじゃないか。」
「いいえ。わたしは戻ってた。誰が何と願おうと、自分にできる事がなくても、わたしは戻っていた。だって、もしかしたら本当にわたし一人で満足してくれるかもしれないでしょ。それに、約束の時にわたしがいなければ魔物は怒って国を滅ぼしてしまう。だから、約束を破ってわたし一人逃げるなんてできないから。」
そう言って和葉はまた、ありがとうと言った。お互いそれ以上何も言わなかった。そうして別れを偲んで、次の日、和葉たちは元晴のいる村を後にした。
○ ○
ぼやける視界で、和葉は隆生の姿を見つけた。その姿を見て不思議と安心感が湧いてきた。
「おい。その汚ねー手で和葉に触るんじゃねーよ。」
恫喝する隆生の声が頼もしく感じる。
隆生が少し離れている間に和葉は野党に襲われた。下卑た笑みを浮かべる男達に囲まれて、逃げようとして捕まって、そんな時に駆けつけてくれた彼の姿を見てとても安心したのに、男に捕まった自分の姿を見た隆生の顔が怒りに歪んで、その姿がみるみる大きく赤黒く変わって行くのが見えて、和葉はダメと叫んでいた。
鬼の咆哮が聞こえ、男達がちりぢりに逃げて行った。和葉はその場にへたり込み、鬼が逃げ惑う男達を次々に殺していく様を呆然と眺めていた。男達を殺し終わった鬼が振り向いて目が合う。そこに怒りの感情しか読み取れなくて、また自分が鬼になったら逃げろと言った隆生の言葉が、自分が止められなくてお前を殺したくないと言った隆生の言葉が脳裏に蘇って、和葉は涙が溢れた。
「隆生・・・。」
彼の名前を呟いて、和葉は鬼に手を伸ばした。
「危ないから下がっていなさい。」
そう声がして、和葉はいつの間にかそこにいた男性に抱きかかえられて、鬼から引き離された。その瞬間、鬼が崩れ落ちるのが見えて和葉は目を見開いた。
「流石にこれほどの大きさの鬼は一撃で仕留められないか。」
崩れ落ちた鬼の後ろに立っていた美しい女性が眉根を寄せてそう呟き、持っていた短刀で鬼の首を掻こうとするのが見え、和葉は叫んでいた。
「ダメ。殺さないで。」
和葉の叫びを聞いて女性の動きが止まる。和葉は男性の腕を振り払って鬼の元に駆け寄ってその身体を抱きしめていた。
「何してるの?離れて。」
女性がそう言ってきたが、和葉はイヤイヤをするように首を横に振って鬼にしがみついていた。そんなことをしていると鬼が意識をとり戻した。女性がそれを見て焦ったのと裏腹に、和葉は目が覚めた?と言って嬉しそうに笑った。
「あなた、早く離れなさい。鬼は言葉が通じる相手じゃない。それはもうあなたの知ってる人じゃない。鬼になったら最後、殺す以外ないんだよ。」
女性の悲痛な声が聞こえたが、和葉はお構いなしに鬼の目を覗き込んだ。
「隆生。大丈夫。もう大丈夫だよ。ねぇ。隆生。意識はあるんでしょ?自分が止められなくてわたしを殺してしまうのは嫌なんでしょ?なら頑張って。わたしの声を聞いて。大丈夫。もう大丈夫だから。あなたはわたしを殺さない。わたしはあなたを信じてるから。お願い、戻ってきて。約束、守ってくれるんでしょ?あなたがいないとわたし、家に帰る前にのたれ死んじゃうよ?」
そんなことを言いながら和葉は優しく鬼を撫でた。鬼の怒りを静めるように、自分の霊力を使って彼の心に語りかけながら。触れた肌が痛い。彼の痛みが流れてきて和葉は苦しくなった。最初に出会ったときと同じ赤く染まった世界が見える。やはりこれが彼を鬼に変える原因なんだ。そんなことを考えながら和葉はだだずっと話しかけ、霊力を持って彼の中から止めどなく溢れてくる穢れを祓い続けた。そうしていると次第に鬼の目から怒りが薄れてきて、鬼の身体が小さくなり人の姿へと戻っていった。
「お前、逃げろって言ったろ。」
呆れたような隆生の声が聞こえて、和葉は笑った。
「隆生はわたしを殺さないって信じてた。ちゃんと隆生はわたしを殺さなかったよ。」
「まったく、お前って奴は。ありがとう。お前が居てくれて良かった。本当、お前の呑気な声聞いてると安心するな。お前の声聞いてると怒ってる自分がばからしくなってくる。お前が傍に居てくれれば、色々なこと忘れられそうな気がするよ。」
そんなことを言う隆生に抱きしめられて、和葉は胸が苦しくなった。
「こんなことがあるなんて・・・。」
愕然とした女性の呟きを聞いて、隆生がようやくそこに居た和葉以外の人物達を認識した。
「あぁ、お前も生きてたのか。無事で何よりだな。」
そう言う隆生に女性が、お前が鬼になるなんて思ってなかったと呟いた。
「お前、どうやって鬼から戻った?鬼になったら最後、もう戻れないと思ってた。だから、わたしは・・・。」
そう言いながら女性の目から涙が溢れてきた。
「鬼になったら戻れないと思ったから、だからわたしはずっと殺してきたのに。どうやったら戻れるの?どうやったらさ。戻れるなら、今までわたしがしてきた事って何だったの?わたし何のために皆を殺してきたの?そうしないと、ずっと怒りに縛られたまま皆苦しいままだと思ったから殺してきたのに。感情に縛られて望まない破壊を続けるより、死んでまた生まれ変わって来た方がいいって、そう自分に言い聞かせて、ずっと殺してきたのに。わたしのやってきた事は間違ってたっていうの?」
そう捲し立てる女性の肩を掴んで、男性がやめとけと言った。
「沙依。気持ちは解るが、それを彼らにぶつけても何にもならないぞ。良かったじゃないか、鬼から戻せる可能性が見つかって。希望が見つかったんだ。ここは喜ぶべき所だよ。それに、知り合いと再会できたこともまた幸いだろ。これを喜ばないでどうするんだ?」
そう言われて女性は男性の方を振り向いて、彼にしがみついて泣いた。そんな彼女の背中をさすりながら、男性は隆生に視線を向けた。
「とりあえず、君は服を着た方がいいんじゃないか?その姿で女性を抱きしめているというのはちょっと問題だと思うぞ。」
男性のその言葉を聞いて、そうだなと何でもなさそうに答える隆生と裏腹に、和葉は自分の状況を認識して顔が一気に熱くなった。それを見た隆生が、お前、俺の裸見るの別に初めてでもないんだからそんな恥ずかしがるようなことでもないだろ、なんて、さらっと言ってきて、和葉は言葉が出てこなくてあわあわした。
「お前、反応がいちいちかわいいな。」
立ち上がりながらからかうようにそんなことを言って隆生が笑ってきて、和葉は顔を伏せた。隆生と男性が和やかに自己紹介をしあい談笑する声が聞こえて、和葉はほっとした。気が抜けると急に意識が朦朧としてきて、そのまま和葉は意識を失った。
目を覚ますと、目の前に鬼になった隆生を殺そうとしていた女性がいて、和葉はなんとなく胸がざわついた。
「目が覚めた?」
心底ほっとしたようにそう声を掛けられて和葉は疑問符を浮かべた。
「さっきはごめんなさい。あなたがどんな覚悟を持って隆生を元に戻したかも知らずにあんなこと言って。」
そう言って女性は和葉の手を取った。
「もう二度とあんなことはしない方がいい。今回はたまたまわたしが傍にいたから、わたしの練気をあなたに譲渡して命を繋ぎ止めたけど、次はないよ。人の身で鬼の穢れを祓おうだなんてそんな無茶、本来なら一発で死んでもおかしくないんだから。」
そう言って女性は辛そうに顔を顰めた。
「元来人間は奇跡体現が起こせるようにはできていない。奇跡体現を起こすためには気脈に流れる気を、他の物に干渉できるように変換させなくてはいけない。その変換させた気のことをわたし達は練気と呼んでいる。それはあなたたちが霊力と呼ぶのと同じものだよ。つまり、霊力が強いというのは、より多くの気を奇跡体現ができる形に変換できているということ。でも気っていうのは、元来生きるために必要な物だから、それを他の事に使うということは、生きていくために必要な気を失うということなの。そして気を使い果たせばそこに待っているのは死。人間が奇跡体現を行うというのは寿命を削ると言うことなんだよ。」
そう言われて和葉は解ってますと言った。
「わたしがしていることが一時しのぎでしかないと言うことも。隆生の感情の揺れに合わせて汚れはどんどん溢れてくる。一度鬼に落ちてしまえばきっと、完全に戻ることはできないのでしょう。それでも、少しでも永く彼が彼のままで居てくれたらと思います。少しでも永く、彼が辛い思いに身をやつさなくてもいい時間が続けば良いなと思います。」
そう言って笑う和葉に女性は、どうしてと問いかけた。
「どうしてあなたは隆生のためにそこまでするの?」
「わたしがあの人の傍にいられるのはあと少しの間だけだから。わたしに、わたしが憧れていた世界を見せてくれたあの人に、少しでも多く感謝の気持ちを伝えたくて。」
そう言って和葉は、好きなんですと呟いて笑った。
「一緒にいた男の人が、あなたのこと沙依と呼んでいました。初めて会った時、隆生はあなたの名前を呼んで、お前も無事だったのか、良かったなって言ってました。隆生は友達だと言っていたけれど、隆生にとってあなたはとても大切な人だったのでしょ?まっさきに名前が思いつくくらい、大切な人だったんでしょ?」
そんなことを口に出して、和葉は自分はいったい何を言っているんだろうと思った。わたし嫉妬してるんだ。隆生の言っていた人を目の前にして、その人が今まで見たこともないくらい綺麗な人で。自分じゃ絶対に敵わないと思うから。こんな綺麗な人を想っていたなら、わたしなんて霞んでしまう。きっとわたしと別れたら、わたしのことなんか忘れてしまう。そんなことを考えて、自分はなんて醜いんだろうと和葉は思った。自分がいなくなった後もずっと彼に覚えていて欲しいなんて、彼の中で生きていたいなんて、そんなことを思っている自分がどんどん出てきて、和葉の目に涙が溜まった。
「ごめんなさい。わたし。どうしたんだろ?こんな風になるなんて、こんな風に自分がなるなんて思ったこともなかった。」
そんなことを呟いて、和葉は泣きそうな顔で笑った。苦しかった。胸が締め付けられてとても苦しかった。でも、そんな自分の感情を感じて和葉は嬉しかった。どうしようもないくらい嬉しかった。
「わたし、隆生のことが好きです。どうしようもないくらい、好きです。」
「わたしは勢三郎のことが好き。あの人に、あの人の国に戻ったら結婚してくれって言われたの。わたし、それに応えようと思ってる。」
そう言い合って、二人は笑い合った。
「わたしは青木沙依。あなたは?」
そう訊かれて和葉は、和葉ですと答えた。
「和葉ちゃん。どうしてあなたはあと少ししか隆生といられないの?」
そう問われて、和葉はそういう約束なんですと答えた。
「一年間だけわたしの用心棒をしてくれるって約束なんです。年が明けたら、家に送ってもらって、それで彼とはお別れなんです。だから、わたしが彼に恋をしたのは内緒です。わたしのこの想いはわたしの中で大切な思い出になって、わたしが最後を迎えるとき、きっとわたしの人生は幸せだったと思わせてくれるに違いないと信じています。」
そう言って和葉は、愛しいものをそこに抱いているように胸に手を当てて目を閉じた。
「沙依さん。勢三郎さんと幸せになって下さいね。」
そう言って笑う和葉に沙依はなんとも言えない視線を向けていた。
○ ○
「和葉姫様。少々お話したいことがあるのですがよろしいでしょうか?」
耳元で和葉だけに聞こえるほど小さな声でそう言われて、和葉ははっとして勢三郎を見上げた。勢三郎に視線で促されて、そのまま彼の示す方について行く。そして人気のないところへ来て、勢三郎に恭しく頭を下げられて和葉は戸惑った。そして顔を上げた勢三郎に真剣な目を向けられて、和葉はたじろいだ。
「僭越ながら忠告させて頂きます。あなたはもう国に戻らない方がいい。このまま隆生とお逃げ下さい。彼にはあなたが必要だ。そして、彼ならあなたを守ってくれる。」
そう言われて和葉は、あなたはいったい何者ですかと訊いていた。
「そうですね。この島の国々を纏める連合の、偉い人たちの便利な道具でしょうか。姫様は知らない方がいい。そういう類いの人間ですよ。」
そう言って勢三郎は困ったように笑った。
「葛霧の国はもう手遅れです。あそこに入り込んだ魔物は余りにも強大で対処ができないと、この島の連合から見放されました。しかしこのまま見過ごす訳にも、葛宮の霊力を奪われより強大化される訳にもいかない。そこで連合は葛霧の国ごと、魔物を消滅させる事に決めたのです。あなたが人柱となる予定のその日。葛霧の全ての人間を人柱に強大な術を発動さることになっているのです。だから、あなたはもう戻らない方がいい。あなたにできる事など何もないのだから。」
その言葉を聞いて和葉は頭の中が真っ白になった。何を言われたのか理解できなかった。理解することを心が拒絶していた。
「大丈夫か、和葉?」
隆生にそう声を掛けられて和葉ははっとした。どうやって戻ってきたのか解らない。でも気が付いたら皆の元に戻っていて山道を歩いていた。
「わたし達が向かうのはこっちだから、ここでお別れだね。しばらく一緒に旅してたから、なんだか寂しいな。」
沙依にそう言われて和葉は、そうだねと言って笑った。
「和葉ちゃん。ありがとう。」
そう言われて和葉は疑問符を浮かべた。
「あまり無理はしないでね。くれぐれも命の無駄遣いはしないように。あと、それから・・・。」
そんな風に沙依が色々と声を掛けてきて、和葉は大丈夫だよと言って笑った。
「沙依さん達もお元気で。二人の幸せを祈っています。」
そう言うと沙依に抱きしめられて、和葉は戸惑った。
「和葉ちゃん。わたしも和葉ちゃんの幸せを願ってる。」
そう言って沙依は暫く和葉のことを抱きしめていた。その横で男達は男達で言葉を交わして別れを偲んでいた。
そうして沙依達と別れた後、和葉は少し考えて隆生に声を掛けた。
「隆生。少し早いんだけどわたしのこと家まで送ってくれる?」
そう言う和葉に隆生は、あぁと短く返事した。
「隆生。わたし旅ができて楽しかった。あなたと出会えて良かった。」
「俺も、お前が見つけてくれて良かったよ。お前がいなけりゃ俺はきっと鬼として最後を迎えることになってたと思うしな。」
「隆生はわたしを家に送った後どうするの?」
「そうだな。元晴の所に行って封じてもらおうかと思う。きっと俺の中の鬼はずっとこのままだからな。お前の呑気な声が聞けなくなったら俺はすぐ鬼になっちまいそうだし、また鬼になるくらいならずっと閉じ込められてたほうがマシだ。」
そんなことを言って笑う隆生を見て、和葉も一緒になって笑った。
「隆生。元晴にね、あなたに渡して欲しいものを預けてあるの。だから、元晴の所に行ったら受け取ってくれるかな?」
そう言う和葉に隆生は、俺に渡す物って何だよと訊いた。
「内緒。元晴から聞いて。」
そう言って和葉は隆生を見上げた。
「隆生、わたし本当に楽しかった。色んな事ができて、色んな人に会えて、色んな想いを知ることができて、わたし本当に嬉しかった。わたし、ずっとあなたと旅したこと忘れないと思う。隆生も、わたしと一緒にいたこと忘れないでいてくれる?」
そう言うと隆生が、どうだろうなと言ってきて和葉は胸が苦しくなった。
「俺は寿命がないからな。これからどれだけ生きるか解らねーけど、何千年も何万年も先になったら覚えてられる自信はないや。でも、お前みたいな奴のことそうそう忘れられないと思う。お前の顔も声も思い出せなくなっても、お前がいたことはずっと覚えてるかもな。お前は俺の恩人だし。」
そう言って笑いかけられて、和葉も笑い返した。嬉しかった。自分の顔も声も思い出せないくらい先の未来まで彼が自分のことを忘れないでいられるかもしれないと思えるほど、彼の中に自分の存在が生きていることが嬉しかった。これでもう心残りはない。わたしはもう大丈夫。和葉は心の中でそう呟いて、最後を迎える覚悟を決めた。
○ ○
「何故だ、和葉。どうして戻ってきた?」
兄にそう言われて和葉は笑った。
「お兄様に言われた通り、和葉は世間を見て勉強して参りました。少し時は早いですが、もう充分だと思いましたので戻って参りました。」
そう言う和葉を兄は苦痛の表情で見つめていた。
和葉が国に戻ると城中が騒然とした。父には怒られ、兄には悲しまれ、大事な贄に何もなかったか身体中隅々調べられ、清められ、着替えさせられ、和葉はその全てを静かに受け入れていた。
「わたしの不在は既に魔物に知られているのでしょう?予定より早くはありますが、魔物が怒り狂う前に、わたしの存在を明らかにし、贄と差し出す儀式を行いましょう。見ての通りわたしの霊力は充分に蓄えられております。たかが数十日儀式が早まったところで、魔物もまだ早いなどとは言いますまい。」
静かにそう言う和葉の言葉に反対するも者は誰もいなかった。これでいい。こうするほかに手はないのだから。そう考えて、和葉は小さく拳を握った。勢三郎さんの話しが本当だとしたら、本来儀式が行われるはずの日の前に魔物を倒すしかこの国を守る術はない。国中の人を人柱に立てる等という大それた術、準備にはそれなりの時間が必要なはず。今ならまだ、今倒せればまだ、きっと皆を助けることができる。そんなことを考えながら、和葉は父を促し、人を動かし、大急ぎで儀式の準備をさせた。
「和葉。この国を離れている間に、お前はずいぶんと変わったのだね。」
兄にそう言われ、和葉はそうですねと言って目を伏せた。
「わたしはもう、世間知らずの何もできないただのかわいそうな娘ではないのですよ。」
そう言って和葉は兄の目を真っ直ぐに見つめた。
「お兄様。お兄様の願った形ではないのかもしれませんが、わたしは旅に出て沢山のことを知ることができてとても幸せでした。あの時お兄様がわたしを連れ出して下さらなければ、わたしはこんな経験をすることはできなかった。お兄様。本当にありがとうございます。和葉はもう思い残すことはありません。ですので、心置きなく和葉は、葛宮の娘として、自分の役目を全うして参ります。」
そう言って笑う和葉を見て、兄はもう何も言わなかった。
そうして迎えた儀式の日。覚悟をして挑んだはずのその日だったが、和葉の身体は恐怖で震えていた。一人祭壇に座り、和葉は目を閉じて、今までのことを思い返した。思い返すことと言えばやはり隆生と過ごした時の事ばかりで、和葉は胸が苦しくなった。でも、隆生のことを考えると恐怖が少し和らぎ、少しだけ身体の震えが収まって、和葉は小さく微笑んだ。
落としていた視界が陰り顔を上げると、そこに恐ろしい魔物の顔があって、和葉は思わず息を呑んで硬直した。
「これは美しい娘に成長したな。」
そう言って大きな舌で舐められて、和葉は怖気が走った。顔だけでも自分の身体よりはるかに大きい魔物を前にして身体が動かなかった。怖い。でも、やるしかない。そう思うのに、思うように身体は動かなくて、術を発動させることもできなくて。和葉はただされるがままに嬲られていた。このまま、何もできないままわたしは食べられてしまうの?結局、わたしにはなにもできないの?そんなのは嫌だ。わたしは、わたしは・・・。
「まったく、お前は何でこういう大切なことを言わねーんだよ。」
聞き慣れた声がして、和葉が顔を上げるとそこに隆生が立っていた。
「どうして?」
「なんとなく気になって戻ってきてみりゃ、この大騒ぎ。嫌でもお前の居場所がわかる。」
そんなことを言いながら、邪魔をされて怒った魔物の攻撃をこともなげに躱し、隆生は反撃していた。いったい刀一つでどうやったのか、いつの間にか魔物の舌は切り落とされ、魔物は倒れ横たわっている。
「お前の言う神様の力を使った何か凄いこと見せてやろうか?」
笑いながらそんなことを言いつつ、お前は見ない方がいいぞと言って隆生は和葉に目隠しをした。そんなことをしておきながら、お前はもう俺が人殺してんの散々見てるから今更か、なんて言って目隠しを外されて、和葉は目の前の光景に驚いた。魔物がいたはずのその場所には魔物の姿はなく、ただの血の湖が広がっていた。
「無茶はすんなよ。実戦なんかしたことないくせに、いきなりあんなでかいの相手にお前一人でなんとかなる訳がないだろ。こういうときは素直に頼れよ。俺はお前の用心棒なんだからさ。」
そう言って笑い掛けられて、和葉は泣きながら笑ってありがとうと呟いた。
「まったく、お前って奴は本当に・・・。」
そう言って隆生が固まって、吐血した。
「隆生?」
その場に蹲る隆生の背中に矢が刺さっているのを見て、和葉は息を呑んだ。
「隆生、大丈夫?しっかりして。」
そう声を掛けている間に次々に矢が飛んできて、和葉は止めてと叫んでいた。葛霧の国の兵隊が矢を構えて祭壇を囲んでいた。これはどういうことなの?何が起こっているの?和葉が状況についていけず混乱していると、蹲っていた隆生の身体が変色し徐々に大きくなって行くのが視界に入り、和葉は慌てた。
「ひっ、鬼。鬼がいる。」
誰かの悲鳴が聞こえた。
隆生の姿はもうほとんど鬼だった、でもぎりぎりの所で止まっているのを感じて、和葉は彼を抱きしめた。
「隆生。ありがとう。助けに来てくれて本当に嬉しかった。あなたがいてくれて本当に良かった。」
そう言って、和葉は鬼になりかけた隆生の頬に両手を添えて彼の目を覗き込んだ。
「隆生。わたし、あなたのことが好き。例えあなたが完全に鬼になってしまっても、わたしは最後まであなたの傍にいたい。わたしの呑気な声を聞いてれば安心できるんでしょ?ならずっと、わたしの呑気な声を聞いて、心穏やかにいてほしい。」
そんな和葉の言葉を聞いて、隆生の姿は人の方へと戻っていった。
「和葉・・・。」
そう呟いて、隆生は笑った。
「ありがとな。でも、お前はここに居るべき人間だろ。お前はお前のいるべき場所に戻って安穏と暮らしてくれ。お前にはさ、箱入り娘が似合ってる。」
そう言うと、隆生は周りを囲んでいた兵隊を乗り越えて去って行ってしまった。彼の去って行った方をじっと見つめて和葉は小さく笑った。
「フラれちゃった。」
そんなことを呟いて、和葉の頬を一筋の涙が流れた。
○ ○
「お前のせいで貶められた葛宮の名を回復させるのにどれだけかかったか解るか?全く、葛宮の巫女姫が鬼に魅入られ誑かされたなど。その噂を払拭し、お前をこの国の英雄にしたてあげたのだ。解っているな和葉。お前はその伝説の巫女姫という役割をしかと心得、勤めるのだぞ。」
父にそう言われ、和葉は頭を下げた。
「解っております、お父様。和葉は葛宮の娘として恥じぬよう精進いたします。」
そんな和葉の様子を見て父は満足そうに笑った。
「鬼に汚された等という噂もありながらも、鬼を従え魔物を祓った伝説の巫女姫となったお前をぜひ嫁にと望む声が数多在る。その中でより良い縁談を纏めた。解っているだろうが、くれぐれも粗相のないように。相手の言うことを良く聞いて、勤めを果たすのだぞ。」
そう言われ、和葉は頭を深く下げて、はい、お父様と呟いて、酷く胸が苦しくなった。
自分の部屋に戻り、一息をつく。あれから三年。隆生はどうしているだろうか?言っていた通り、元晴の元で封じられたのだろうか?そんなことを考えながら和葉は溜め息を吐き、窓の外に目をやった。
「和葉。あの時、あのまま逃げなかったことを後悔しているのかい?」
窓の外を見つめる和葉に兄がそう声を掛けた。
「いいえ、お兄様。わたしは後悔などしておりません。少しだけ、あの時隆生がわたしを連れて逃げてくれていたらと思ってしまう時がありますが、フラれてしまったものはしかたがありません。」
そう言って和葉は兄に顔を向けて笑った。
「名のある家に生まれた女は政治の道具になるのが常です。贄とならずにすんだ今。わたしもまたその常に倣うだけでございます。この家に生まれた時からわたしの運命は決まっていたのです。あの一時が夢物語。一時でも夢を見ることができて、わたしは幸せ者です。」
そう言って和葉は兄に恭しく頭を下げた。
「お兄様。今までありがとうございました。わたしに夢を見させて下さり、ありがとうございました。和葉は嫁に行き、葛宮の繁栄のため努めて参ります。」
そう言う和葉に兄は、どこか物悲しげな視線を向けて、そうかと呟いた。
「和葉。わたしはあの時、この国など、葛宮の家など滅びてしまえばいいと思っていた。今も少しだけ、こんな家が続く意味があるのかと思ってしまう自分がいる。」
「次期葛宮の当主様がそんなことを言ってはいけませんよ。」
「そうだな。それでも思ってしまうのだ。破魔の葛宮とは過去の栄光。魔を祓うこともできず、ただ見栄と虚勢を張り続け、繁栄を望んだ先になにがあるのかと。」
兄のその言葉を聞いて、和葉は小さく笑った。
「お兄様。ならばお兄様が本来の葛宮を取り戻せばよいのではないですか?見栄と虚勢ではない破魔の葛宮を、お兄様の手で取り戻すのです。この国をどのように導くか、それはお兄様の手の中にもあるのですから。お兄様もお父様と同じ所へ向かわなくてはいけないなどとは定められていないのですから。」
和葉のその言葉を聞いて、兄も小さく笑った。
「そうだな。わたしが取り戻せば良いのだな。」
兄がそう呟いて、兄妹は揃って窓の外を眺めた。
婚礼当日。和葉は花嫁衣装を身につけて、お披露目の様式に乗っ取り、嫁入り道具やお付きの者と行列をなして歩いていた。向かう先に夫となる人が待っている。夫となる人はどんな人なのだろう。優しい方なら良いと思う。そんなことを考えながら、和葉の想いは隆生と旅をしたあの時に戻っていた。幸せだったわたしの夢物語。わたしの夢はもう覚めたのだから、わたしはわたしの現実を生きていかなくてはいけない。そう思って、和葉はそっと自分の胸の痛みに蓋をした。
少しの間目を伏せて、自分の気持ちを整理して、和葉は真っ直ぐ前を見た。すると、前方が何か騒がしくなって、和葉は自分の目を疑った。
「来い。和葉。」
そう声がして手が差し出される。それを見て、和葉は躊躇うことなくその手を取っていた。引き寄せられ、抱きかかえられ、和葉はこれはわたしの夢なのかしらと思った。
「逃げるぞ。」
そう言って笑う隆生の顔が近くて、和葉の顔は熱くなり胸は高鳴った。
「どうして?」
自分を抱えて走る隆生に和葉はそんな言葉を投げかけていた。
「やっぱ、お前の事が惜しくなってな。」
そう言って笑う姿につられ、和葉も笑った。
「花嫁衣装も着てることだし、そのまま俺のとこに嫁に来るか?」
そんなことを言われて和葉は、喜んでと答えていた。わたしの夢が戻ってきた。わたしはまた夢の続きを見ることができる。幸せが胸の中いっぱいに広がって、和葉の目から溢れた。
「ずっと、あなたの傍にいさせて下さい。」
そう言ってしがみついてくる和葉に隆生が、せっかく綺麗に化粧してるのに落ちるぞ、とからかうように声を掛け、二人はお互いに笑い合った。




