罠に落ちた 猿と麒麟 蒲生氏郷 第六章
第六章:三成の算盤と、麒麟の「正解」
本能寺の煙がいまだ京の空を濁らせている最中、氏郷はすでに動いていた。
謀反人・明智光秀から届いた「味方せよ」との密書。氏郷はそれを一瞥だにせず、忌々しげに囲炉裏の火へと放り込んだ。
「狸(家康)は静観を決め込み、光秀は血迷うた。ならば、今は『猿』を担ぎ出すのが、信長公の遺志を繋ぐ唯一の道か」
氏郷は、家康の泥を啜るような「待ち」の姿勢が、反吐が出るほど嫌いだった。
すぐさま備中の秀吉へ向けて密使を放つ。
「兵糧、弾薬、替え馬。すべて日野と近江のルートに積み上げた。迷わず駆け戻られよ」
この氏郷の電光石火の「現場判断」と、周到なロジスティクスこそが、結果として秀吉に天下を掴ませる決定打となったのである。
だが、運命とは皮肉なものである。
秀吉が天下の差配を握ると、その傍らには、氏郷が最も苦手とする「理屈の塊」が控え始めていた。
石田三成である。
「蒲生殿。此度の普請、兵糧の支給が三合ほど過分にございますな。計算が合いませぬ」
三成は、氏郷が戦場で流した血も、提供した物資の持つ重みも、すべてを無機質な数字へと置き換えた。
三成という男にとって、氏郷の誇る「義」や「度胸」といった不確定な要素は、組織の規律を乱すノイズでしかなかったのである。
「三成。数字で戦ができるなら、算盤を抱いて敵陣へ突っ込め。俺は現場で起きている『熱』を信じる」
氏郷が吐き捨てた言葉に、三成の細い目がピクリと震えた。
それは、武功で太刀打ちできぬ者特有の、劣等感という名の毒であった。
三成は、兵糧の微細な差配、理不尽な普請命令、そして重箱の隅をつつくような事務連絡という名の武器で、氏郷をじわじわと精神的に絞め殺しにかかる。
「麒麟よ。いくら高く飛ぼうとも、地面を這う蜘蛛の糸からは逃れられぬぞ……」
三成が弾く算盤の音が、不気味なカウントダウンのように、氏郷の周囲で執拗に鳴り響き始めたのである。




