第二話 崩落の午後 ~迦陵の息~
昭和六十二年、十月二十八日。午後一時四十分。
長野県の山間部を走る県道は、秋の陽射しに照らされて穏やかに見えた。
中学校の修学旅行生を乗せたバスが、宿泊施設を目指してゆっくりと登っている。
車内からは楽しげな歌声と笑い声が漏れていた。少年たちはまだ、何も知らない。
一方、香澄博士、藤原、山本の三人は、急襲計画ポイントのすぐ近くに各々の役割の配置についていた。
博士は小型の無線機と双眼鏡を握りしめ、息を潜めている。
「もうすぐ……午後二時十五分だ。」
その声は低く、緊張でかすれていた。
藤原は設置した複数のカメラ映像を確認しながら、唇を噛む。
「どうか万事上手く……。あれは……!二人共聞いてください!TK497です。あの被験体が直接参加してくるなんて……。」
博士は無言で双眼鏡を覗き込んだ。
香澄たちは知っていた。成果品として力を得た被検体でも通常は我々には従順ではない。それでも迦陵頻伽という男が、組織に「協力」していることを。
しかし、その協力の理由は不明である。
ビンガは三十代半ばの瘦せた男で、実験の副作用で髪が白く、目だけが異様に鋭い。
組織は彼を「忠実な番犬」として扱っていたが、施設外にまで連れ出すというのは想定外であった。
それでも博士は半ば納得した様子で無線に呼びかける。
「我々は計画の詳細を知らされていなかった、ということのようだ。ビンガがいるということは、彼が崩落を実行するのだろう。
爆薬の無効化を図るのではなく崩落の軌道を少しでもずらすことに全力を上げよう。山本。分かっているな?もうあとには引けん。」
山本が頷いた。
「TK497迦陵頻伽……通称『ビンガ』。神格化実験の初期成果品……。よりによって彼がいるとは……。」
午後二時五分。
予定より若干早めに9台のバスがポイントに近づいてきた。
7台のバスが通過する。そして最後尾の2台がポイントに到達しようとするそのとき……。
博士たちが傍受していた無線からの声。
「実行。作成開始。」
ビンガが宙に舞う。非常識な高さまで跳躍したのだ。
光学迷彩でもあるのか?彼の姿は視認しにくい。
斜面に向けてビンガが手をかざす。
次の瞬間――
山の斜面が、轟音を上げて崩れ落ちた。
しかしこれに合わせた博士たちの作戦も同時に実行された。崩落している土砂が不自然な方向に逸らされる。
しかし、それでも片側1車線を塞ぐほどの土砂と岩が道路を直撃し、2台のバスは急ブレーキをかけたものの後ろのバス1台は前のバスに直撃してしまった。
この勢いで前の1台のバスが派手に横転。
悲鳴が上がり、パニックが広がる。
「やはりビンガが相手では、完全には防げなかったか!」
博士は叫ぶ。
だが彼らの目的はただ一つ。
生徒たちを全員、組織の手から救うこと。崩落そのものを阻止することが目的ではない。
組織の計画では2台のバスを土砂で完全に孤立遮断させ、少年たちを拉致することだった。
しかし博士たちの小さな反撃で、組織側にとって想定外の時間を稼ぐことができた。
このため交通量の多くない道路とは言え、無関係の反対車線を走行してきた一般車両が少しずつ崩落現場手前で立ち止まり、何事が起きたかを不安げに見守る人々が集まり始めた。
狙われた2台のバスの後続車は暫くなかったが、こちらにも徐々に車が止まり始めていた。
安否確認のため学生たちに向けて呼びかける者。車から降りて慌てて救助に入る者。救急車を呼ぶよう叫ぶ者。
バスからよろめきながら出てくる者。泣き叫ぶ者。
引率の責任者として気丈に振る舞う教師もいれば、生徒よりも怯える教師もいる。
無傷ですんだ生徒たちも、この凄惨な状況を目の当たりにしてふざけるような者は誰一人いなかった。
そんな群衆の中にいつのまにか迦陵頻伽も紛れていた。
白い髪をなびかせ、バスに近づいている。
「撤収する。ウイルス感染の処理は後だ。プランBに移行する。」
ビンガの声は冷たく、感情が薄い。
そして、その瞬間――
ビンガの周囲の空気が、ほんのわずかに歪んだ。
その目を細めて呟く。
「……さっきのはオレと同じか?」
土砂崩れの混乱の中、生徒や教師、バスガイド、ドライバーたちは次々と安全な場所へ運ばれた。
横転したバスは大破したが、奇跡的に死者は出なかった。
しかし意識不明の重態者が23名。最終的に駆けつけた救急車両によって搬送された。
ビンガは最後に、まるで気づいているかのように博士の方を一瞥した。
その目に、ほんの一瞬だけ、何か複雑な感情が浮かんだように見えた。
博士の無線に、震える声で藤原からの通信が入った。
「……博士……まずいです。このままでは時間が……。」
(第二話 終わり)




