夏の始まり 後編
私たちは一緒には暮らしていなかったけど、
お互いの家を行き来し仕事以外のほとんどの時間を共に過ごした。
けれども、うさぎと暮らしているしレンの働くバーからも近いから、
私の部屋で過ごすことの方が多かった。
レンは、静かで質素な生活を好み、
忙しく息が詰まりそうなときには『やらないことリスト』を手書きで作り、
今自分が出来ることを精一杯やるという、そんな単純なことを意識する丁寧な暮らしをしていた。
休みの日には、駅構内にあるツバメの巣をふたりで見に行きかわいい雛の写真を撮ったり、
ふたりでハリーポッターを遅くまでひたすら観たりして、
お金のかかりそうなデートはしなかった。
仕事の帰りには、わざと回り道をしてレンの働く店の前を通る。そして小さく手を振り合う。
まるで少年少女の付き合いのようだった。
私が仕事で失敗をし、眠れない夜を過ごすときは
仕事の終わる夜中の2時頃に忍び足で部屋に入ってきて、
「大丈夫大丈夫。深呼吸をして。考えているほど物事は難しくない」と励ましてくれた。
赤ん坊にするみたいに、背中をポンポンと優しく叩く。
レンが、だいじょうぶだいじょうぶと呪文のように唱える。
レンの目が暗闇でキラキラ輝く。フワフワした前髪がくすぐったい。
手の甲にレンの唇の熱を感じる。
そうすると、やっと眠りにつくことが出来る。
明け方、私が支度を始めようと起きると、
ぎゅっと後ろから抱きしめ、
「素直で正直で綺麗な希さんが好きだ。だからそんなに怯えないで。こわいときは思い出して」と優しく耳を撫でるように呟く。
ホーホケキョと窓の外で鳥の鳴き声を聞いていた。
軟膏と絆創膏のように、
献身的な愛情で私の魂は再生へと向かっていった。