5
「何だ……?」
八代さんは立ち止まった。全身が震えていた。恐る恐る背中から顔を乗り出してその後継を覗いてみると、そこには――。
「佐々木さん……?」
お隣の佐々木さんが、ゴミ袋から生ゴミを手掴みで取り出し、腕にぶら下げた籠の中に放り込んでいたのである。そのゴミ袋は、私が出したものだった。私の手から無理矢理生ゴミを奪っていく佐々木さんの事を思い出した。
「ひっ――!」
思わず叫びそうになると、佐々木さんがこちらを向いた。
目が合った。
八代さんは、私の手を繋ぎながら急いで一緒にハイツへ戻っていった。
部屋の前で、八代さんは「今日見た事は、明日話し合おう。明日、仕事が終わったら君の部屋に行ってもいいかい?」
私は考える間もなく頷いた。そして、動悸が治まらぬまま部屋へ戻っていき、直ぐに扉の鍵をかけた。夜、私は佐々木さんの事ばかり考えて全く眠れなかった。暫くして隣の部屋の扉が閉まる音が聞こえた。佐々木さんが帰ってきた。何かブツブツと声が聞こえた。男の人の声もする。さっきの事を話しているのだろうか。私は恐怖心で、暑さも厭わず布団に潜り込んだ。今日起きたことが悪夢なら良かった。私は、次にどんな顔で佐々木さんに会えばいいのだろう。
*
翌朝、私は静かに部屋から出た。佐々木さんにバレないように。ゴミ袋を抱えながら、物音を立てないように、ゴミ捨て場まで歩いていった。
「真澄さん」
普段よりも低く重みのある、聞き覚えのある声に、背中がぞくりと震えた。振り返ると、表情のない佐々木さんが私の方を見つめていた。私は、恐怖で、その場から走り去っていった。
(何なの……!何なの……!?気持ち悪い、気持ち悪い)
私は、早くあの嫌な場所が見えないところまで遠ざかりたくて、必死に走った。
いつもより、早い時間に仕事場についた為、上司には褒められたが、私は午後まで上の空だった。無論、仕事にも身が入らずに、パソコンのレイアウト上の、〝美しさは進化する〟〝時間の旅を始めよう、あの頃の私に会いに〟などのフレーズを打ち込んでは消してを繰り返していた。
お昼ご飯も、あの光景を思い出してしまって、なかなか喉が通らずにいた。
弁当を半分だけ残し、ため息をついて俯くと、最近仲良くなった同僚の美波晶子は、からかい半分で私の肩をつついた。
「元気ないね。ご飯も残してるし。もしかして、フラれた?」
「恋人いないってば……」
「じゃあ、片思いとか?」
「違うって」
晶子はとても前向きな女性だ。その性格を示すかのように髪も化粧も流行的で、華やかさが溢れ出ていた。
「あのね、私が引っ越したところね」
「ああ、あのおばけ屋敷ー?」
「おばけ屋敷ではないって、近いけど」
「ごめんごめん。それで?」
「隣の人が、変なの。夜、私の出した生ゴミを漁って自分の籠に入れてるの」
「え、それマジ?気持ち悪っ」
「通報した方がいいかな」
「うーん、でも何か事情があるんじゃないの?」
「事情って?例えば?」
「ほら、旦那が働かないせいで、食べ物に困ってるとか」
「そんな風に見えないけど。旦那さんとは一度も会った事がないからわからないけどね……。でも、共働きっぽいよ」
「旦那が事故で障害を持ってしまって、介護までしなくちゃならなくなったとか」
晶子はこう見えて、多方面に想像力を働かせる方だった。
「旦那が稼いでたら、あんなとこに住まないでしょ」
「それは確かに……そうだけど。転勤とかかも」
「まあ、深く考えたら余計精神やむよ。とりあえずはっきり止めて下さいって言って、また始めるようだったら通報しな」
「うん、そうする。今日、八代さんに相談するつもり」
「八代さん?」
「もう片方のお隣さん。50歳くらいの男の人でね、とても親切にしてくれるの」
「ふーん、もしかして、美代子って年増キラー?」
晶子は、良いニュースでも知ったと言わんばかりにこちらを見た。
「そんなんじゃありませんから」
私は否定して、席を立った。晶子は尚も茶化してくる。
「そっちはその気じゃなくても、あっちは違うかもよ」
「どっちもないってば」
だが、私は八代さんの事を考えて、少し気がかりになった。あの人こそ、色々と参っているのではないだろうか。同居人さんの件もしかり。私は密かに、八代さんが同居人さんとの関係に上手く区切りをつけれていることを祈った。
*
会社から帰宅する道中のこと。私は早く八代さんに会って、昨夜の出来事について話し合おうと、足早にヒールを地面に叩いた。
だが、最悪なことに、私が歩いている目の前に佐々木さんが現れたのだ。
私は、殺されると思って逃げようとした。が、佐々木さんは、私の肩を掴んで言った。
「この事は内緒にして」
私は、佐々木を力一杯振り切り、溜まっていたものを、発散するように言ってやった。
「あんな気持ち悪い真似二度としないで下さい!」
そう、言い切ると、佐々木さんを睨みつけてハイツへ早足で歩いていった。佐々木さんが、後ろから何か喋りかけていたが、何も聞こえない振りをした。
部屋に帰ると、扉の前には八代さんが立っていた。私は安堵して、八代さんに近づいていった。
「こんばんは、待っていたんですか?」
「月をお供にね」
「今、開けるんで」
私は鍵を取り出して、自分の部屋の扉を開け、八代さんを招き入れた。八代さんは「お邪魔します」と、丁寧に頭を下げながら、靴を脱いで部屋に上がった。私は遅れてから部屋に入り、鍵をしっかり閉めて確認した。
「今、何か飲み物持ってくるので、寛いでて下さい」
「ありがとう。よろしく頼むよ」
私はキッチンに行き、冷蔵庫から麦茶を出してコップに注いだ。
「そういえば、さっき、ばったり佐々木さんに会ったんですよ」
麦茶を注ぐ音と一緒に、世間話のように切り出した。
「えっ?大丈夫だったか?何かされなかったか?」
「いえ、特には。一言言ってやりました」
「そんな事をして平気だったのかい」
八代さんの心配する声に、私も少し不安になってきた。テーブルの上に麦茶を置く。八代さんは、喉が渇いていたのか、直ぐに手をつけ半分位飲みこんでいた。
「緊張してね。昨日、私も一言言ってやったもんだから」
「ってことは、方がついたんですか?」
私は八代さんの横側に座り熱心に話を聞き出した。
「一応、明日出てってもらうことにした」
「良かったじゃないですか」
「うん。でもやっぱり少し寂しいよ」
八代さんは、いつもの親しみやすい笑顔を精一杯浮かべようとしていたが、無理しているのが見るからに分かった。
「ごめんなさい。私、無神経ですよね」
「いや、そんな事はないよ。君のおかげでようやく決心がついたしね。感謝しかない」
「本当ですか?そう言われて安心しました」
「君みたいな人が彼女だったらなと思うよ」
私は、突然の八代さんの言葉にどきっと心臓を高鳴らせた。本心でなくても、そんな風に言ってもらえたことが嬉しくて堪らなかった。
「私も八代さんみたいな恋人が――」
そう言いかけると、突然誰かが扉を、うるさく乱暴に叩いてきた。直感で誰が来たのか分かった。佐々木さんだ……!
扉をノックしても開かない事が分かったのか、今度はドアノブをガチャガチャと忙しく動かし始めた。それから、扉の向こう側から私を呼び始める。
「真澄さん?真澄さん、ねぇいないの?ねぇ、開けてったら、真澄さん!」




