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私は八代さんの顔が見れなかった。その理由が何でなのかは分からなかったが、思いの外、返ってきたのは沈黙ではなく、八代さんの大笑いだった。
「すまない。君の部屋で起きた事だから、それは気にするよな」
「悪夢とか見るんです」
「悪夢?どんな?」
八代さんに、詳しく私が見た悪夢の内容を話してみた。八代さんは、真剣に頷きながら聞いてくれた。
「君の精神は、相当その事件の事が占めているんだろう。だが、夢などただの夢だ」
「ただの夢、ですよね」
私は自分に言い聞かせるように、そう繰り返した。
私達は、いつの間にか駅まで歩いていた。この場から離れたくないと急に惜しく思った。
苦久駅に到着して、ハイツの前まで戻ると、八代さんは急に立ち止まった。私も歩くのをやめ、八代さんの顔を見て首をかしげた。
「どうかしましたか?」
「猫だ」
八代さんが、今までにないくらいの笑顔でしゃがんだ先には野良猫がいた。ただし、猫といっても薄汚れていて、目やにも沢山ついていて、病気なのか所々毛が抜けていた。私は正直、少し躊躇していた。だが、八代さんは、私の存在など気にすることもなく、猫に夢中になって、愛おしそうに頭から体を撫でている。
「猫、ですね。好きなんですか?」
「あ、ああ。すまない。ちょっと夢中になって。好きだよ。とても、可愛いじゃないか」
「はあ……」
「君は、嫌いなの?」
「嫌いじゃないです。でも、ちょっと」
私は言いづらそうに頬をかく仕草で誤魔化した。八代さんは膝の上に猫を乗せている。猫も八代さんの膝の上で安心しているようだった。
「身寄りがないんだ、可哀想に」
「病気なのかも」
「私が飼ってやろう」
「八代さんが?でも、同居人の方は大丈夫なんですか?」
私の声が聞こえていなかったのか、八代さんの返事が返ってくる事はなかった。
「さあ、お腹が空いているだろう。私が何か食べさせてあげよう」
猫を抱えあげ、八代さんは立ち上がった。
「あの、私そろそろ……」
「そうだったね。付き合わせて悪かった。また、出来たらお昼ご飯でも一緒に食べよう」
「はい、是非」
私は軽くお辞儀をして、自分の部屋へと帰っていった。八代さんが、動物にも優しいという事が分かったが、反対に、自分の心の醜さにも気づいてしまった。八代さんのような、大人になれたら良いなと思った。汚れた猫を撫でている八代さんの姿が頭から離れなかった。
*
「おはようございます」
「あら、おはよう」
佐々木さんとの朝の挨拶が定番になっていた。それから、佐々木さんの息子さんも。まだ一度も言葉を交わした事がないが。そういえば、ご亭主とも顔を合わせた事がない。タイミングが悪いのだろう。
「ゴミ出し?私が持つわよ」
「そんな、いつも悪いですし」
「いいのよ、ついでなんだから」
佐々木さんは、私の手から半ば強引にゴミを奪っていった。
「私も、仕事でこれから出るので本当にいいです」
私は、佐々木さんの手に渡ったゴミを取り返そうとすると、佐々木はこちらを睨みつけて言った。
「私が出すって言ってんでしょ!!」
あまりの迫力に、驚き押し黙るしかなかった。佐々木さんは、それから慌てだした。
「ごめんなさいね、つい大声を出して。いいから、私に任せて。折角お隣なんだから」
「じゃあ、お願いします」
私はなるべく丁寧な口調で言った。
「あなたもお仕事頑張ってね」
「ありがとうございます」
「こんなに残して勿体ない……」
佐々木さんは、ゴミ袋の中身を覗き込んでそう呟いた。「え」と耳を疑うと、佐々木さんは息子の手を繋いで先へ行ってしまった。
(変な人……今度から、時間変えて出よう)
私は余りいい気分ではないまま、会社に向かって歩いていった。
*
その日は、遅く帰ってきた。会社の同じ部署の人達が新人歓迎会を開いてくれたのだ。私は、ビールやハイボールを結構飲んだせいか、ふらふらになってハイツに戻ってきた。時刻は0時を回っている。
扉を開け、靴を乱雑に脱ぐと、一目散にベッドに仰向けになった。
「はぁ……疲れた。おやすみ」
独り言を吐き捨て、そのまま眠りにつこうとした。
『 ……い!…んだ!…に、…お前…だ!』
静寂の中から、幽かに声が聞こえた。それは隣の壁から聞こえてきた。よく耳を澄ますと、それは八代さんの声だった。こんな時間に同居人の人と喧嘩をしているのか。こんなに、怒った八代さんの声を聞くのは初めてだった。
『……』
私が鼓膜に集中をしていると、向こう側からの声は止まった。代わりに、隣の扉が開く音が聞こえた。私は、すっかり目が冴えきってしまい、ベッドから這い上がり外へ出ていった。扉の横には夜の暗闇にしゃがみこんでいる八代さんがいた。
「あの、大丈夫ですか?」
八代さんは、私に気づき、申し訳なさそうに眉を下げた。
「聞こえていたか。こんな深夜に、申し訳ない」
「いや、いいんです。私もさっき帰ってきたところですし」
「確かにスーツ姿だね。夜遅くまでお疲れ様」
心なしか、八代さんは弱っているように感じた。私は、八代さんの隣に座って、肩をさする。
「もし良かったら、私の部屋に来ますか?」
そう尋ねると、八代さんは吃驚したように顔を上げたが、手と首を横に振った。
「心配しなくていいよ。心遣いは嬉しいが」
「力になれないと思いますけど、何か相談したい事があれば言ってくださいね」
私がそう言うと、八代さんは少し口を窄めて何か言いたそうにした。その動作を眺めながら、次の言葉を待っていると、八代さんはようやく話し始めた。
「親友と言ったが、あれは嘘だ」
「嘘?」
「出会ったばかりの君に嘘をついた事、謝るよ」
「どうして、そんな嘘を」
「あいつは、私の最愛の彼女だった。だが、最近少し変わり始めてね。私と出会った頃とは違くなった」
「彼女さんなんですね」
八代さんは、遠くを見つめていた。きっと、思い出の中の彼女が頭に浮遊しているに違いない。
「大好きだった。心から。しかし、私の金であいつは美容整形をし始めた。それから、性格もあの頃の謙虚さは消え、傲慢で他の男にも色目を使い出すようになった。私は、苦しくなって、彼女の言葉にも反応せざるを得ず、あんな喧嘩を……。何故だ?彼女は、私を愛しているのか?それとも、自分を愛しているだけか?今となっては考える事自体阿呆だ。答えは誰が見ても分かる。私は何者なんだ」
八代さんの声は苦痛を帯びていて、聞いているこっちが胸を締め付けられた。私はなんて声をかけたらいいのか、分からなかった。頭の引き出しから選び抜いたつまらない単語を放つ事しか出来ない。
「八代さんは、とても素敵な男性です。それに、八代さんの素晴らしい面に気づけないなんて、彼女さんは愚かですよ。八代さん、もう次へ進んだらどうですか?あなたにはもっと相応しい女性がいますよ」
「それは本心かい?」
「もちろんです」
「ありがとう。君のおかげで心が楽になった。今晩あいつと話してみる事にする」
「喧嘩は程々に」
「分かってるよ」
重苦しい空気が洗い流されるように、小さく二人で笑いあった。
「もうこんな時間だ。君は寝なくていいのかね?」
じめじめした暑さも、スーツ姿であることも忘れていた私は、八代さんの言葉で深夜であることに気づいた。帰ったらシャワーでも浴びて早く寝なくてはならない。明日も早い。
「それじゃあ、もう寝ます。八代さんは……」
「あいつももう寝ただろう。私も帰ることにするよ」
二人同時に、立ち上がると、ガサガサと不自然な音が前方から聞こえた。私は思わず八代さんの顔を見る。
「野良猫ですかね」
そう決めつけようとすると、再びガサガサと、ビニール袋か何かを漁る音がした。
「私が見に行こう。美代子さんは部屋に戻りたまえ」
「私も行きます!二人の方が対処しやすいですから」
ガサガサガサガサ。音は一向に鳴り止まない。明らかに変質な事態に、歩く足が慎重になる。音はゴミ置き場の方から聞こえてきた。一歩、二歩、三歩……ガサガサ。歩く度にその音は大きくなっていく。それに伴い恐怖心と鼓動が高まる。八代さんに隠れながら私はゆっくり歩いていった。ガサガサガサガサ……。




