2
寝起きで上手く働かない上体を起こし、気だるげな視線を掛けたばかりの時計にやる。既に針は16時辺りを徘徊していた。余程疲れていたのだろう。私は、菓子折を持って隣人に挨拶をしに行く事にした。
部屋から出て直ぐ右隣の103号室へ。だが、呼び鈴は無かった。もしやと思って私の部屋の扉を見ると、やはり呼び鈴が無かった。私は愕然とした。最悪、自分て設置する必要があると考えた。大きく息を吸って、扉を三回ノックする。
「すいません!隣に引っ越した真澄と申します。挨拶しに参りました」
そう配慮を濁らせての大声で言うと、数秒で「はーい」という気のいい女の人の声が聞こえてきた。
扉が開いて出てきた相手は、優しそうで穏やかな三十後半くらいと思われる女性だった。
「突然申し訳ありません。あの、これつまらないものですが……」
「あら、わざわざどうもありがとう」
にこにこと微笑みながら、私が差し出した菓子折を受け取り頭を下げてくれた。
「あ、私は佐々木って言うの。ここって表札がないから不便でしょう。でもその分顔と名前で覚えるから頭の体操にいいわよ。 もし何かあったら、遠慮なく言って頂戴ね。 」
「ええ、ご親切にありがとうございます」
そういえば、今気づいたが表札がない。荷物受け取りの時はどうするのだろう。完全に部屋番号だけで把握するのだろうか。そんな事を思いつつ私も、深々と礼をした。
「それじゃあ、失礼します」
「またね、真澄さん」
そう言って相手は扉を閉めた。とりあえず、気の許せそうな人が一人いて良かった。こんな場所で四面楚歌にあったらたまったものではない。続いて私は左隣の101号室の前へ移動する。そして同じようにノックをした。
「すいません。隣に引っ越しました真澄です。ご挨拶に伺いました」
さっきとは違い、向こう側から声は返ってこなかった。それどころか、待てども一向に出てくる様子もない。再び扉を叩き、静けさだけが返事をすると、流石に留守だろうと諦めてかかとを返した。だが、その時ガチャリと扉が開く音がした。振り返ると、少し年齢が高めの男性がこちらを伺うように見ていた。
「あ、ごめんなさい。もしかして、お取り込み中でしたか?」
すると、私の問いかけに、男性はにっこりと口角を上げて首を振った。
「いやいや、問題ない。同居人と少し口喧嘩をしてね。で、君は?誰だい」
「真澄です。隣に引っ越したので、挨拶を……これ、良ければどうぞ」
「すまない。気を遣わせて」
男性は目がなくなる程の笑顔を浮かべ、私が渡した菓子折をありがたそうに受け取った。笑顔が、昔良くテレビドラマに出ていた俳優にそっくりだった。身長も高く若い頃はさぞモテていただろうと安易に想像がついた。
「同居人とは、馬が合わなくてね。君に迷惑かけるかもしれないが」
「いえ、そんな」
「隣人が来てくれて良かった。もう一生隣に人が来ないかと。前住んでた人もあまり顔を見せてはくれなかったがね」
「そうなんですか」
確か、インターネットの事件の記事には、自宅に引きこもり住人には余り知られていなかったと、書かれていた。第一発見者は、隣人なはずだったが、どちらが発見したのだろう。文字で見るだけでも酷いものなのに、実際に目の当たりにすると相当な恐怖ではないだろうか。
「何かあったら言いたまえ。女性の一人暮らしは怖いからな」
「ありがとうございます。そうさせてもらいます。そういえば、お名前聞いてもいいですか?」
「ああ、そうだった。私の名前は、海堂だ。よろしく」
「海堂さん……。わかりました。それでは失礼します。同居人の方とは仲良く」
「君がいたら、同居人も口を塞ぐのになぁ」
冗談を言いながら、手をぐーぱーとさせさよならの合図を海堂さんはした。私も自然と笑顔になりながら、自分の部屋へと戻っていった。
*
翌朝、ゴミを両手にぶら下げ、面倒くさそうに廊下へ出ると、103号室の佐々木さんと顔を合わせた。ぺこりとお辞儀をすると、下の方に小さな男の子の存在があった。
「おはよう」
私が目をあわせて男の子に挨拶をすると、もじもじと恥ずかしそうに佐々木さんの後ろに隠れてしまった。
「ごめんなさいね、この子人見知りなものだから」
そう言う、佐々木さんの顔には少し違和感があった。
「あら、ゴミ出し?」
「はい」
「私がついでに出しといてあげるわよ」
「え、でも悪いですよ」
流石に、昨日知ったばかりの人にそんな事を頼むのは気が引けた。だが、佐々木さんは尚も引き下がらず。
「いいのよ、この子を保育園に預けてくるついでに」
「じゃあ、お言葉に甘えて……すいません」
「お隣同士なんだから、気にしないで」
親切心溢れる表情で、私の手から強引にゴミ袋を受け取った。
「ありがとう、ございます」
私は佐々木さんの背中に向かって言った。佐々木さんはゴミを両手に歩いていってしまった。
部屋に戻って、私はもう少しだけベッドの上で寛ぐ事にした。ふと、カレンダーにここに来たばかりの日にちに印を付けようと、机の上のペン立てからペンを取り出した。カレンダーの7に丸を描いた。今日は日曜日。明日から新しい場所での仕事の為、また忙しなく動かなくてはならない。
(今日は、お昼は外で食べようかな)
私は束の間の気分転換を存分に味わうことに決めた。
お昼頃、白いTシャツに長いスカートを履いて、近くの店でランチを食べに出掛ける。
ネットで調べてもこの辺にはお洒落なカフェは見当たらなかったので、仕方なしに駅をまたいでランチをしようと思った。
二駅またぐと、都会のような活気のある町並みに景色は変貌した。やはり、心が落ち着いた。あの辺はじめじめしていて、カビが生えているようで、余り居心地が良くない。
駅を降り、少し歩いて見えてきたカフェに入った。私はこの空気を味わっておきたくて、店の外の席に座った。 心地よい位の陽気だったのが幸いだ。
店員が私のところへやって来る。私はメニューを開いてアイスコーヒーと、ランチセットを頼んだ。本当に開放的な気分になり、思わず大あくびを漏らした。
「あれ?真澄さん?」
と、頭上から声をかけられ振り向いてみると、海堂さんが立っていた。
「え?海堂さん。こんなところで会うなんて奇遇ですね」
「いやはや、君を見かけたから思わず声をかけてしまった。私もここへは良く来るんだよ。どうかな、一緒にいたら迷惑かな」
「迷惑なんて、とんでもない。どうぞどうぞ」
私は海堂さんに向かってするように、真向かいの席を掌で指し示した。
「ありがとう。普段いつも一人だから嬉しいよ」
海堂さんは、物腰優しい動作で席に座った。
「何か頼みますか?」
「いや、私は。あまり食欲がなくてね、レモンティーだけもらおう」
「そうですか。それじゃあ、レモンティーお願いします」
「もう慣れたかね?」
「何がです?」
「あそこだよ」
「慣れたって、まだ引っ越して日が浅いんですよ?」
私はくすくす笑いながら海堂さんに言った。
「そりゃそうだな。でも、何かあったらちゃんと言うんだよ」
「大丈夫です。私そんなにか弱そうな女に見えますか?」
「君は美人だから変な男につけ狙われかねない」
私は耳を疑った。今まで美人と呼ばれた事は一度もなかったからだ。もちろん自分では中位だと信じたいが、少し目の前の人物の老視を心配した。私が反応に困っていると、店員がアイスコーヒーとランチ、レモンティーを持ってきた。
「ごめんなさい。食べてるところ見させてしまうけど」
「ああいいんだよ。私のことは気にせずに」
私はお皿の上のスパゲッティをフォークで口に運んだ。だが、さっきの言葉が忘れられなかった。
「あの、美人って本気ですか?」
言った後に後悔した。お世辞に決まっているのに、困らせるような事を聞くなんて。完全に勘違いした痛い女と思われているだろう。しかし、海堂さんは気にもとめない様子で頷いた。
「もちろん本気だよ。会社でモテるだろう?」
「いや言われたことないです」
お洒落は好きだが、顔は素朴ではっきりとした顔立ちではない。目立つような華やかさもない。現に最後に告白されたのは、中学三年の時だった。
「そうなのか。私の審美眼は間違っていないと思うがね」




