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この小説には、精神的に不快になるようなシーンがあります。閲覧にはご注意ください。
仕事の都合で仕方のないことだと了承はしていたはずだが、出来ることならあの承諾を無かった事にすれば良かったと、今になってしみじみ思う。
私の目の前にあるハイツは、いかにも老築といった建物のヒビ割れや、様々な染みや剥がれがあり、一瞬入るのを躊躇う程。
だが、これは仕事なのだ。仕事の金で、無理にこの場所を借りられた。この地区では一番安いハイツだからだ。それだけではなく、私の仕事において最も重要な鍵がこのハイツに隠されているのだ。
私は、無愛想な管理人から受け取った鍵で、203号室の扉を開ける。長時間の移動で疲れた私の手は、部屋に入るなり、勝手に旅行鞄を床に投げ出していた。
中を見渡すと、三畳一間の部屋が襖で二つに別れており、床は畳で、玄関前の廊下に台所やトイレなどのスペースが少しあるようである。
私は用意されていた布団の上に体育座りをして、背を壁にもたれ、不自然に張り替えられている真っ白な壁紙を見つめる。
「被害者はこの壁に張り付いていた。人間の形をしていないで。しかも、その状態は何ヶ月も続いていた。それなのに、加害者の男はずっとこの部屋で過ごしていた……」
ふと、 前にここで起こったおぞましい歴史の事を振り返った。前のこの部屋に住んでいた女性は、ここで気味の悪い死を遂げた。その事件があったのは三ヵ月前のことで、今もなお原因不明の未解決事件なのだ。
加害者の動機すら、想像が出来ない。被害者との接点のある人物を片っ端から調べたものの、有力な情報は手に入れられず。
壁に張り付いていた肉の塊……、それを見ながら加害者は何を思い、過ごしていたのだろうか。肉の塊は、食された形跡もない。つまり、加害者は肉の塊を大事に置いているだけだった。それを考えるだけで体が震える。
これくらい事故物件とは思えない綺麗な部屋で激安の家賃で暮らせるのなら、気にならない人ならばきっと食いつく人もいるだろう。
私の場合、それは無理だった。その事故のことを想像する度、吐き気を催してしまう。私は、鞄からスマートフォンを取り出すと、動画アプリを開いた。〝肉塊事件 恐ろしい犯行 加害者の目的とは〟と貼ってあるリンクをクリックする。
*
毎日繰り広げられるニュースを、頭の中から遮断することは容易い。朝のトースターのベルの音で紛らわせればいい。もしくは、忙しい日常で上書きをする。そうして他を気にかけなくすればいい。
だが、その時見たニュースだけは違った。朝の支度をしながら、たれ流されていたそれは、妙に私の意識を奪っていった。
『 昨晩、苦久駅のハイツで、45歳で無職の鮃 片義羅さんが死亡しているのを、隣人の男性が見つけて警察に通報しました。死亡していた男性は、人の形状を保っておらず、自室の壁に張り付いていたそうです。現在警察が詳しく調査を行っております』
化粧の分厚いニュースキャスターの女は神妙な顔をして言った。
トースターがチンと音を立てると、私はびくりと肩を揺らした。フライパンの中のベーコンは既に煙を吐いて黒くなっている。焼き終えたトーストにベーコンを乗せ、一口かじる。当然のこと、味は美味しくない。
私は、生温いコーヒーをすすりながら、さっきのニュースの事を思い出した。
(気持ちが悪い。あのアパートも古くて気味が悪いし……。あんな所に住むのなんて、ごめんだわ)
壁時計に目をやると、もう7時50分になっていた。
(急がなくちゃ!)
鞄を持って玄関の姿見の前に立ち、スーツの皺を伸ばし、肩まで伸びた髪を手櫛で軽くセットすると、急いで家を出た。
*
「真澄くん。社長が呼んでいる」
シュレッターをかける音にまぎれて、上司である│横透《 よこすか》はこちらを見下ろして、手招きした。
「え、社長が?何ですか」
横透は、顔を曇らせたまま、何も喋らずにいた。私は不信に思いながらも席を立ち、呼ばれるまま社長室へと行った。
コンコンコン。扉を叩き、社長の声が聞こえると、「失礼します」とお辞儀をしながら部屋に入る。
「ああ、真澄くん。来たか」
横幅の広い白髪混じりの男は、社長椅子に深々腰を沈めたまま、笑っている。
「横透さんから、社長が私を呼んでいると聞いたので」
「うむ。言いづらいのだが」
社長の唇が窄んだので、私は嫌な予感がした。
「君は転勤することになった」
「転勤?そんな話聞いてません」
「これは確定事項なのだよ。とにかく君に後日転勤場所の住所を知らせておくから」
「わかりました」
私は腑に落ちないながらも、自分の意見の効力のなさに気づいて首を縦に振った。
*
転勤場所の詳細がパソコンで送られてきた。最寄り駅は苦久駅で、徒歩十分のところに勤務地があるらしい。
(苦久駅って、何か聞いたことがある)
私は、勤務地を調べようと検索をした。すると、知っている記事が目に入った。
《最も残虐で悲惨な、某ハイツで起きた肉塊事件》
あの例のニュースで取り上げられた事件の事だ。
私は思わずその項目をクリックし、リンクを開いた。モザイク越しに例の建物が浮かび上がり、横に文字が羅列されている。
《 8月21日、隣人の通報により、警察が駆けつけたハイツの中は悲惨な状況であった。被害者の男性である鮃さんの遺体は、生前の形状を保っておらず、まさに肉の塊となって壁に張り付いていたのだ。遺体から薬品反応を調べたところ、その薬品は不明であった。 鮃さんは、普段から外に出ることは余りなく、自宅に引きこもっており、他の住人達からも余り知られていない存在であった》
私は無意識にその事件の事を考えた。犯人は何故そんな酷いことをしたのだろうと。凶悪犯罪者の気持ちなど分かるはずがない。きっと犯人は恐ろしい顔をしているに違いない。そんな人でなしの行為が出来る頭の持ち主なのだから。私はぞくりとした。次の転勤が、急に不安な雲が立ち込めてならなかった。
モザイク越しなのに、その建物は嫌な気質を放っていて、汚さと周囲に放つ臭いまでも想像出来る。
こんな建物が建っている場所と同じ土地で暮らさなければならないのか。私はなるべく、ハイツからは離れた遠い転移先を探した。
早速、不動産に連絡し、予定を開けてもらうことになった。
*
「申し訳ありませんが、この辺で空いている部屋はこの裏野ハイツしかございません」
気弱そうな猫背で白髪混じりのおじさんは、苦笑いしながら言った。
「裏野ハイツって……」
私は青ざめた。
資料の写真に映ってるのは、あの曰く付きの建物に違いなかった。モザイクは外されていたが、写真写りがよくなったということは無い。むしろ、おどろおどろしい雰囲気がより一層立ち込めてきた。
「特別に家賃は安くしますよ。何せここは、事故物件ですから」
「他に、他にないんですか?こんな気味の悪いとこ絶対嫌です」
「もう少し早かったらねぇ。203号室は空室だったけど、君の少し前に人が入ってきたんだよ。残念だけど、この辺じゃ空いてるところがここしかないんだよ」
「何か、変わったことはありませんか?」
「いや、その部屋まるごと改装したから新築同然だよ。まあ、あんな事件が起きたんじゃねぇ……」
「わかりました。じゃあ、そこでいいです。何かあったら、責任とってください」
「それは、管理人さんに言ってよ」
おじさんは、七三の髪をポリポリかいて、困り眉をさせた。
私はこうして、不本意ながら曰く付きの裏野ハイツの住人になった。
*
「よし、と……」
引越しの際にまとめたダンボールの中身を出し終えると、腰に手を当てながら背中を沿って筋を伸ばした。不意に、ベッドが置いてある壁をじっと見つめた。その途端にぞくりと背筋に悪寒が走った。
「本当に勘弁してよ」
そう漏らしても誰も切望を叶えてくれる者などいない。私は疲れきった体に喝を入れ、屈んでベッドの下をずるずる引きずった。反対方向にベッドを設置し終えると、今度は体力の限界となり、その場に崩れ落ちて精一杯に呼吸した。
ベッドで眠ればいいものの、私は床の上でしばらくうずくまった。事故物件ということもあり、いつもは置き去りにしたままの静寂の中から何かを探ろうとしている自分がいる。そんな自分に気づいて、素早く他の片付けなくてはいけない件について考えることにした。
(隣の人に挨拶しなきゃなぁ。面倒くさいな。こんな空気の悪いところに住む人達って、どんな人なんだろ)
私は、しばらく眠りに溶け込むことにした。挨拶は、明日の休日に行けばいいと思いながら、そのまま床の上で眠ってしまった。
*
(お前の肉をぐちゃぐちゃにしてやる。太らせてぐちゃぐちゃにしてやる。前の住人の次はお前の番だ)
鋭い先端のナイフをこちらに、向けている男は、マスクから聞こえるくらいの興奮した息を吐きながら近づいてくる。
(大丈夫。胎児になる前に、人間が人間の形状でいる前に帰るだけだ。大丈夫、さあ力を抜いて)
男の顔が視界いっぱいに収まった。目は開ききって血走っている。気が高揚しているのかナイフを持つ手はぶるぶる震えている。
――こわいこわいこわい。だれかたすけて!
意識が覚醒した時、蒸し暑さと背中や腰の痛みが現実を伝えてくれた。
私は額の汗と一緒に顔面を両手で覆った。
(嫌な夢……)
思い返したくもない程、嫌な夢だった。




