第1話 よくある仕様変更と隠れ家
クライアントの急な仕様変更は、定時5分前の17時25分にメールで伝えられた。
確認しようと電話をかけたが、先方はすでに帰宅したと申し訳なさそうな声で告げられた。
直属の上司である係長へ報告すると。
「仕方ないだろ。明日の朝までに仕様変更の確認書を作成しておけよ。当初仕様と比較できるやつな」
「もう定時ですよ。明日の朝までって……」
「22時までには退勤しろよ。深夜残業は上がうるさいからな」
つまり、オレ一人で対応しろってことか。
時計を気にしていた係長は、定時を過ぎると同時に帰り支度をして、挨拶をすることもなくオフィスから消えた。
怒りよりも呆れを感じて、オレは仕様変更のメールを当初の仕様書と一緒にAIへ投げる。
『2つのファイルを比較して、変更事項が一目でわかるように表を作成。また、この変更によって生じる他部署への影響や、納期的なボトルネックが懸念される箇所を抽出して、対応策の選択肢も提示してくれ』
プロンプトを打ちこむと、数秒後に見事な比較表と、予想されるリスクの分析結果が表示された。
誤認している部分を指摘するとともに、修正イメージをAIに何度か伝えて、及第点は取れるだろう資料が完成した。
『この表はクライアントへ提出する仕様変更の確認書です。イントロとエンディングの定型文章を追加して、体裁を整えてくれ』
プロンプトを追加して、確認書のひな型が出来上がる。
30分もかからず出来上がったが……。
係長さえいてくれたら、確認の後にすぐ送信できるんだけどな。
どれだけ時間がかかると思っているんだろう?
「直人君、君が残業とは珍しいね」
AIの作成した確認書をチェックしていると、後ろから声をかけられた。
「山崎先輩ですか、お疲れ様です。なんかオレ、22時近くまで残業するらしいですよ?」
「他人事?」
「作業的にはあと15分程で終わるんで」
「さすが、企画部の期待のホープ」
「AIが優秀なだけですよ」
「AIを正しく使えるのは優秀なんだよ。あれか、高見係長?」
「多分そんな感じです」
3台並んだモニターに当初仕様と変更指示メール、確認書を並べて目視チェックしながら返事を返す。
「早いとこ、わたしのところへの異動願を出しなよ」
「営業だと愛しのAIと話す機会が減るんですよ。情報流出防止で、営業はAIの使用が基本的に禁止じゃないですか」
少々の手直しを行った確認書をプリントする。
未だに、紙に出力しないとチェックできない係長のために。
プリントしたからと言って、眺めるだけでチェックしていないんだけど。
「会話ならわたしとすればいいでしょ?」
「緊張するんですよ、女性と話すのは」
「ん? 直人君が普通に女子社員と話しているのを何度も見たよ。なんなら、告白されている現場も目撃したし」
「山崎先輩は自分の可愛さを自覚した方がいいですよ」
「いや、上司にも同僚にも可愛げないと言われ続けているよ?」
プリンターから印刷された確認書を山崎先輩が持ってきてくれる。
ふと周りを見ると、他の社員はすでに退勤したようで、オレたち二人だけしかいなかった。
「可愛げと可愛いは別物ですよ。先輩が靡かないから可愛げがなくなったんでしょ?」
「ふーん。よくわからないけど、終わったんでしょ? だったら、飲みに行こうよ。金曜日だし」
「え? 金曜日でしたっけ?」
「曜日感覚がなくなるくらい忙しいの!」
「先週までしばらく休みがなかったんで。この資料も明日の朝までとか言われたし……」
「はぁ。高見係長の嫌がらせにも気づかなかったって? 働きすぎだよ直人君」
「そうですね。明日からは休日出勤は控えますよ」
「じゃぁ、わたしの行きつけで飲むってことでいいよね?」
「わかりましたけど、いいんですか? オレなんかと一緒で?」
「直人君じゃないと誘わないよ?」
連れてこられたのは、自宅近くの駅から10分ほどの民家のような小料理屋だった。
「オレ、ここよく通るんですけど。お店だったんですね?」
「看板出ていないからね。知り合いの店なんだよ。隠れ家ってヤツ」
山崎先輩がインターホンを押すと、しばらくしてドアが開けられ、エプロンをした女性が現れた。
「美里、うちは完全予約制なんだけど」
「予約したじゃない、30分くらい前に」
「名刺に予約は前日までって書いてあるはずなんだけど」
「余り物でいいからさ、ねっ。綾乃とわたしの仲じゃない」
「もう。大したものは……彼氏?」
山崎先輩の後ろにいたオレに気が付いた綾乃さんが、ドアを全開にして目を丸くしていた。
「山崎先輩の後輩の柳瀬直人です。ども」
「あ、どうぞ、入って」
綾乃さんが山崎先輩の肩をポンポンと叩いて、奥へ入っていった。
ドアの中は広めのリビングに4人掛けのテーブルセットが4つ並べられており、そのうち3つには先客がいた。
開いていたテーブルの横に綾乃さんが立っていて、ちょっとニマニマしていた。
「あの、急に来てしまって、大丈夫だったんですか?」
「美里みたいのがいるから、満席にしていないのよ」
「ワンオペだと、3セットが限界だったわって愚痴ってたの誰だっけ?」
「飲み物はどうしますか? 料理はおすすめで作らせてもらっていいかな?」
綾乃さんは営業スマイルをオレに向けて、山崎先輩との話を打ち切った。
「えと、料理の合うお酒を選んでもらってもいいですか?」
渡されたドリンクメニューを一通り眺めて聞いてみた。
「美里、何この子。面白い子を見つけたわね!」
「ふふん、いいでしょ。あげないわよ!」
「あの、オレは普通ですよ」
呆れたような眼差しが二人から送られる。
「えと、料理もお酒もお任せでお願いします」
「はい、承りました。美里はどうする?」
「一杯目はビール、その後はお任せで」
綾乃さんは他のテーブルにも声をかけてから、厨房の方へ向かっていった。
「ここ、高いんじゃないんですか?」
「そうでもないよ。あ、今日はわたしがごちそうするからね」
「奢られる理由がないです。払いますから」
「えー。後輩を飲みにつれて行って奢るのに憧れていたんだよ。いいでしょ?」
「それは直属の後輩にお願いします」
「英君は彼女持ちだから無理」
「……なんで、オレなんですかね?」
「優良物件そうだから?」
「もしかしたら、オレにも彼女が――」
「ないない。彼女がいたら、あんな振りかたしないから」
「どこから、どこまで見ていたんですか?」
「あの娘が頭を下げたところから、ビンタしてから走り去るまで」
茶豆とそら豆とビールジョッキを2つ乗せたトレイを持って、綾乃さんが厨房を出てきた。
「仲良さそうだね」
そう言って、トレイの上のものをテーブルへ移していく。
「料理はちょっと待ってね。あっ、食べられないものとかある?」
「バナナとバラ科の果物はちょっと」
「アレルギーか、了解」
彼女は厨房に戻るとすぐさま、料理を乗せて別のテーブルへ向かった。
「忙しそうですね」
「だから、たまに手伝いに来るんだよ」
「友達思いなんだ」
「唯一の親友だからね」
山崎先輩がジョッキを差し出してきたので、軽く合わせる。
茶豆もそら豆も絶妙な塩梅で、ついつい手が進み、ビールも進む。
「仕方ないので、今日はご馳走になります。けど、つぎはオレが奢りますから」
「それって、デートのお誘い?」
「山崎先輩が嫌でなければ」
「へっ!」
ビールジョッキを両手で持ったまま、山崎先輩が顔を赤くする。
平然と流されると思って言ったのだけど、予想外の反応で言葉が出てこなくなった。
しばし、見つめ合ってから、互いにビールを飲み干した。
「お代わりもらってくるよ」
開いたジョッキを持って、山崎先輩が厨房へ歩いて行った。
あの顔は反則だろ。
と思いながら、上目遣いでじっと見てくる山崎先輩の表情を思い出す。
山崎先輩が持ってきたトレイには、山盛りの唐揚げと小さな泡を立てた琥珀色のジョッキが乗せられていた。
「あれ? ビールじゃないんですか?」
「わたし、ビールは一杯だけって決めているんだ」
「太るからですか?」
「違うわよ! 美味しく飲めるのは一杯目だけだからよ」
「そんなもんですか。オレ、あまりビールは飲まないからわからないです」
「そうなの? 今どきは『とりあえずビール』もなくなったらしいしね」
「今どきって……山崎先輩、オレと2つしか変わらないですよね」
目の前に置かれたジョッキの匂いを嗅ぐと、ちょっとだけ薬臭い感じがした。
「ハイボールじゃないんですか?」
「バーボンソーダだよ。唐揚げにあうんだって」
揚げたての唐揚げを一つつまむ。
醤油と生姜の香りが鼻を抜けて、噛むほどに肉汁が溢れてくる。
柔らかいが、ほどよく弾力があり、鶏の味もしっかりと感じられた。
「うまい!」
「そうでしょ、ここの看板メニューだからね」
次いでバーボンソーダに口をつけると、バーボンの独特の匂いで鼻が、ソーダで口の中がリセットされる。
「永遠に唐揚げを食べ続けられそうな気がしてきました」
「ついつい食べすぎちゃうのよね」
いくつかの料理といく杯かのお酒を楽しみ、夜は更けていった。
「山崎先輩、揺れていますよ。大丈夫ですか?」
「……美里」
「はぃ?」
「サシ飲みした仲になったんだから、美里」
「酔ってます?」
「酔ってるよ、そのために飲んでいるんだもの。で、美里」
「会社じゃ『美里さん』なんて、恥ずかしくて呼べないですよ」
「呼んでくれた方がいろいろと牽制になるんだけど」
「なんの牽制ですか」
「直人君を狙っている娘と、わたしを狙っているヤツ?」
「後半は疑問形なんですね。……考えておきます」
トレイに徳利を2本とお猪口、お新香を乗せて綾乃さんがやってきて、美里さんの横に座った。
「おじゃまするわね」
「邪魔ではないですけど。美里さん、まだ飲むんですか?」
美里さんは手酌で日本酒を飲み始めた。
「今日は金曜日だからね。美里は眠くなるまで飲むわよ」
「初めから、ここに泊るつもりだったと」
「直人君も泊まっていきなよ。部屋ならあるわよ」
「さすがに遠慮しますよ。オレのうち、歩いて15分もかからないですから」
「ご近所さんだったんだ」
綾乃さんがお猪口を渡して、お酒を勧めてくる。
受け取って、軽く口をつける。
「美里さんと綾乃さんはいつからの付き合いなんですか?」
「直人君! なんで綾乃は最初から綾乃って呼んでいるの?」
「だって、苗字を知らないですから」
「田中だから、田中さん!」
「綾乃さん、酔っぱらいがいるんですけど。田中さんのほうがいいですか?」
美里さんから徳利を取り上げて、綾乃さんへお酌する。
「いまから田中さんだと、距離をおかれたみたいになるじゃない。それにしても、直人君はお酒強いんだね」
「そこそこです」
美里さんがお猪口を差し出してくるので、仕方なく注いでやる。
「私たちは高校の同級生なんだ。もう10年以上の付き合いになるね」
徳利を2本空にしたところで、美里さんが瞼を重そうにしていたのでお開きとなった。
「それじゃあ、ごちそうさまでした。綾乃さん、とても美味しかったです」
「ありがとう。気を付けてね」
「直人君、バイバイ」
美里さんがトロンとした顔で手を振る。
手を振り返して店の外へ出たところで、大きなため息が出た。




