撤退
スコールの残滓のような湿った空気が、静まり返った泊地を覆っていた。
かつては「太平洋のジブラルタル」と呼ばれたこの場所も、今ではその面影すら薄い。
岸壁のクレーンは折れ曲がり、滑走路は各所に大穴が空き、所々に残る爆弾痕には雨水が溜まり、濁った鏡のように空を映している。
対空陣地はほぼ全滅し、今では
定期的に飛来する敵偵察機の迎撃すら
困難だ。
二ヶ月前、米機動部隊による空襲で壊滅的な打撃を受けたトラック泊地は、未だ息を吹き返してはいなかった。
その静寂の中に、異様な存在感を放つ艦があった。
戦艦「加賀」である。
艦体各所には応急修理の跡が生々しく残り、焼け焦げた装甲板の隙間からは、まだ微かに鉄の匂いが漂っている。第四砲塔は完全に失われ、三番砲塔も砲身を下に向けたまま沈黙している。
「応急修理、ひとまず完了だ」
たまたま停泊していた工作艦「明石」の士官が、疲れ切った声で報告する。
「航行には支障ありません。ただ、出せる速力はせいぜい15ノットです。」
言葉を選びながらそう付け加える。
加賀の艦長は短く頷いた。
「それで十分だ。呉まで持てばいい」
それ以上は求めていないし、求める余裕もないだろう。
2日後。
艦隊は静かに泊地を離れた。
先頭を行くのは戦艦「土佐」。その後方に戦艦「長門」、そして最後尾に傷を負った「加賀」が続く。
左右には引き続き第三水雷戦隊が
展開し主力艦の護衛につく。
中でも水雷戦隊旗艦である軽巡大淀は
先の戦闘でも傷を負っていない。
その防空火力はいまだ艦隊随一だ。
そして、相変わらず空に友軍機の姿はない。
もはや飛行機を飛ばせる飛行場が存在しないのだ。
誰もそれを口にしなかったが、全員が理解していた。
─────
トラック出港より八時間後。
艦隊は荒れた海に突入していた。
海面は白波で覆われ、二時間前から
雷跡と見間違った報告が多発している。
そんな状況で、それは突然起きた。
「駆逐艦若竹、被雷した模様!」
見張員の叫びが艦橋に響き渡る。
それと同時に艦橋を爆発音らしき波が
通り抜けていった。
防弾窓から艦橋後方を覗き込むように見ると、駆逐艦若竹が艦首から海面に突っ込んでいた。
艦尾のスクリューは水面に露出し
艦中央部からは火の手が上がっている。
「対潜警戒を厳に。
駆逐艦浜月を救援に残せ。」
艦長の命令は簡潔だった。
駆逐艦浜月が若竹のそばに寄っていき、
他にも数隻、特型駆逐艦が
周囲に爆雷を投下していくのが見える。
そして次第に景色の後方へ流されていった。
────
数日後。
本土、呉。
曇天の下、戦艦「土佐」と「加賀」はゆっくりとドックへと入っていく。
その巨体はまだ健在だったが、もはや以前の姿ではない。
戦艦「加賀」に関しては
艦後方が鉄くず置き場のように
引き裂かれている。
出撃時の威容は無く、かつての旗艦は既に
海底に沈んでいた。




