9
数日後のよく晴れた日のこと。
シオンとリシェルの乗せた馬車が村の中を行く。
護衛二人が馬に乗り、二人が乗る馬車に並走していた。
小さな村を抜けた先に広がる町は、リシェルの想像よりもずっと活気があって、露店の間を行き交う人々の声が賑やかに響いていた。
「……人が、こんなに」
リシェルは人波に少し気圧されて、足元を見ながらつぶやく。
「心配するなよ! アランと俺が両側にいるんだぞ」
カイルが笑ってそう言うと、アランは視線を村の奥に向けた。
「シオン、あまり目立たないように。あなたは遠目にも目立つから」
「わかってる。フードを深くかぶってるから、大丈夫だ」
そう言いながら、シオンはきらきらした金髪を隠すように、フードの縁を指先で引っ張った。
彼が“王子”であることを知らない村人たちは、彼を気に留める様子もなく、普通の旅人として扱ってくれる。それが今は、何よりもありがたかった。
「喉が渇いたな」
「よし、俺らに任せとけ。すぐに買ってくるから、二人ともここから動くなよ」
カイルとアランが近くの店の中に入っていった。
そのすぐ後、静かな時間が、ふいに崩れた。
「きゃっーーーーー!」
叫び声と同時に、何かが地面を転がる音。
騒ぎの方を振り向くと、小さな荷車が坂の上から転がり落ちていた。
目の前には、転んで座り込んだままの女の子。
「――っ!」
咄嗟に駆け出したのはシオンだった。フードが脱げないように掴んで、彼はまっすぐ子どもの前へと走る。
だが、あと数歩というところで、その手が止まった。
女の子に手を伸ばしかけた瞬間、彼の顔に苦悩が浮かぶ。
触れない。
それでは、荷車の方を止めようと、一瞬、荷車を見る。
無理だ。止めるには勢いがつき過ぎている。
「任せてくださいっ!」
リシェルの声が割って入る。
息を切らして駆け寄ったリシェルが、地面に膝をつきながら女の子を抱え、土の上に転がるように避けた。
「くっ……!」
荷車はそのすぐ横を走り抜けていき、男たちの怒鳴り声が遠くから響く。
リシェルは女の子をしっかりと抱きしめたまま、息をついた。
「お姉ちゃん、ごめんなさい……! わたし、転んじゃって……」
小さな女の子が泣きながら、リシェルに謝る。
「ううん、謝らなくていいの。怖かったね。もう、大丈夫だよ」
リシェルが優しく微笑むと、女の子が更に泣きじゃくる。
駆け寄ってきた母親が、娘を抱きしめながら、リシェルの前にひざをついた。
「娘を助けてくださって、本当にありがとうございました! あのままだったら……!」
「い、いえ! 怪我がなくて、よかったです!」
そう言いながら立ち上がろうとしたリシェルの足元がふらりと傾く。
「っ……!」
足首に走る痛み。彼女は思わずうずくまり、地面に手をついた。
「あなた、足が! どうしましょう!」
「リシェル!」
カイルとアランがすぐさま駆け寄る。
そして、その横に、フードをかぶったまま立ち尽くしていたシオンがいた。
「リシェル、足、痛めたのか?」
「うん……ちょっとくじいちゃったみたいです。これくらい平気……」
それでも立ち上がろうとする彼女を、シオンが黙って見つめる。
彼は、ただ拳を握りしめていた。
「俺は何もできない……」
その言葉は、風に紛れるほどの小さな声だった。
カイルがリシェルの前で膝をつく。
「俺がおぶってやろう。さ、乗って」
「ええ? 侯爵家のご令息の背中に私が? ええ? まさか!」
「リシェル、早く」
「あ……ありがとう、カイル様」
カイルの背に身を預けながら、リシェルはどぎまぎしながらシオンの方をそっと見た。
だが彼は、フードの影に表情を隠したまま、何も言わずに後ろを歩いていた。
◇
別荘に戻ったあと、シオンは皆から離れて、一人、庭の片隅に座っていた。
日が傾き、木々の隙間から差し込む光が、地面にまだらな影を落とす。
「僕は無力だ……」
呟いたその声は、誰に届くこともなく、風にさらわれた。
自分は、子供を助けたかったし、リシェルを馬車まで運んであげたかった。
それなのに、触れられないという呪いは、その願いさえも打ち砕く。
そのとき、背後からそっと声がした。
「シオン様。今日、子供を助けようとされていたの、見ていました。でも、王子様が平民を助けちゃ駄目ですよ?」
リシェルの声にシオンは振り返った。
「平民の子供を助けたことで王子様が怪我なんかしたら、荷車の持ち主だけじゃなくて、助けられた子供も罰せられますから。平民のことは平民に任せなきゃ」
「そうなのか?」
「そうですよ。王族が平民を助けちゃ絶対に駄目です。目の前で怪我をしそうな子供を助けられないのはお辛いでしょうけど、子供は怪我以上のお咎めを受けることになります。母親も同様に。
あの場は、まわりにいた平民たちが、もっと早く動かなきゃいけませんでしたね」
「でも、君を馬車まで背負うことくらいはしたかった」
リシェルは、冗談じゃないという風に、顔の前で手を振った。
「私は、さっき、貴族のお坊ちゃんに背負われて、生きた心地がしませんでしたよ。王族に背負われるくらいなら、くじいた足で歩いた方がまだましです」
えへへ、とリシェルは笑った。
シオンは、静かに目を閉じた。
胸の奥が、少しだけ、あたたかくなった気がした。
◇
町から別荘に戻ると、カイルとアランは、部屋の椅子に腰を下ろしていた。
「……シオン、落ち込んでたな」
「当然だろうね。あの人は“人に触れられないこと”で、子供もリシェルも助けられなかった。誰よりも、困っている人をほっておけない方なのに」
アランの言葉にカイルは頷くと、意を決したように立ち上がった。
「もう、シオンのああいう顔、見たくない。……なあ、アラン。今から、今日の“握手会”をしにいこうぜ。俺たちにできることはそれくらいしかないからな」
アランは眉を寄せ、黙って頷いた。そして、躊躇うように言う。
「さっき、シオンは、リシェルと一緒に家に入って来たよな。彼女のおかげで少し元気になったようで安心したんだ。
だが、その後すぐに俺たちを見て驚いたような顔をしただろ? お前、気が付いたか?」
「それは俺も気が付いた。何に驚いたんだろうな。なんか俺、気になって来たぞ。アラン、早く行こうぜ」
二人は、急いで居間へと移動した。
扉を開けると、シオンは、部屋の隅の椅子に腰を下ろしていた。
膝に肘を乗せ、顔を伏せたまま動かない。
カイルとアランは、そっと顔を見合わせる。
「シオン。そろそろ、俺たちと手を繋ごう。痛み、分かち合おうぜ」
カイルの言葉に、ようやくシオンがゆっくりと顔を上げた。
だが、その瞳には、迷いと哀しみが浮かんでいた。
「さっき、階段のところで会ったとき、気づいたんだ。お前たち顔色がずいぶん悪いな」
「……ッ!」
「………」
「俺と手を繋いだ後、具合が悪くなるんじゃないのか? お前たちに無理させているの、わかってたのに……。俺は甘えていた」
シオンの声はかすれていた。
カイルとアランには、まるで、ひとつひとつの言葉が、胸の奥に突き刺さるようだった。
「僕は、みんなに迷惑をかけてばかりだ。いつも助けてもらってばかりで、何も返せない」
苦しげな声に、カイルもアランも、言葉を失う。
今まで笑っていた顔が、どれほど作り物だったのか、今なら痛いほどわかる。
シオンはずっと、自分を責めていたのだ。
大切な人たちに、痛みを分かち合わせてしまっている、その事実に。
「シオン……」
「……俺たちは、シオンに何か返してもらおうなんて……」
言葉にならなかった。
どうして、この人は、こんなにも自分を責めるのだろう。
誰よりも人を想って、誰よりも傷ついて……。
重い沈黙が部屋を支配する。その時。
「失礼します! 話は全部聞きました!」
ひときわ大きな声が響いた。
戸口の前に、リシェルが仁王立ちしていた。