6
森の中。朝の空気がまだひんやりとしている時間帯、カイルとアランが割った薪をまとめている横で、シオンが斧の刃を研いでいた。
「おっと……」
刃がずれ、シオンの指先に浅い切り傷ができる。
「シオン様!」
リシェルが、小さく息を呑む。すぐに駆け寄って、距離を取り覗き込んだ。
「血が……見せてください!」
焦りながら、リシェルはシオンの傷に両手をかざした。
けれど、少し傷がふさがったところで、魔法の光がふっと消えてしまった。
「ああ……また」
シオンの手を見つめたまま、リシェルは小さく首を振る。無力感に泣きたくなった。
「不思議です。以前なら、これくらいの傷はすぐに治せてたのに」
カイルとアランが顔を見合わせた。シオンは首を捻る。
「神殿に行った日から、治癒魔法がほとんど使えなくなったんです」
リシェルは、力なく言葉を続ける。
「力の診断だって言われて、12歳になった時、神殿に連れて行かれたんです。
それまでは、これくらいの怪我なら問題なく治せてたのに。
あの日から、ずっと、治癒魔法を使おうとしても、力が止まった感じで、思うように使えなくなったんです」
言葉が途切れる。リシェルは、握りしめた手を見詰めたが、そこに答えはなかった。
しばらく沈黙した後、カイルが小首を傾げて「うーん」と唸った。
「神殿に行って、治癒魔法が使えなくなるって、少し変だよね」
アランが腕を組んだまま、眉を寄せる。
「力の診断って、神殿が聖女の選定に使うあれか? 特別な水晶で魔力を調べて、聖女かどうか判断するってやつだったか。あの後に、今までできていた魔法が急に使えなくなるなんて、俺は聞いたことがない」
「治癒魔法のことはよくわからないけど、魔力って、普通は年とともに増えるもんじゃないの? アランは魔力に詳しくなかったか?」
カイルが言うと、アランが首を捻った。
「いや、俺も、あまり詳しくはないが……老化や重病ならともかく、若い子、それも12歳の子供が急に魔力を失うなんて、そういうことはないと思う」
リシェルは、驚いたように二人を見た。
「そうなんですか? 私、診断する時、神官様に言われて水晶に力を込めたんです。それで魔力が枯渇したのかなって心配していました。もしかしたら、平民の分際で魔力判定をしてもらいに行ったんで、罰が当たったのかもしれません。本当に私って……」
「リシェル」
シオンの声が、やわらかく割り込んだ。
「どうしてそうなったのか、僕たちにはわからない。でも、今こうして、小さな傷なら癒せる力が残っている。だったら、それを広げていけばいい。少しづつでも前に進めば、それでいいんだ。そういうのって、いつか突然花開くものかもしれないしね。罰が当たったなんて考える必要はないよ」
シオンは、まっすぐに彼女を見た。
「君の夢に届く方法は、無限にあると思う。どんな方法があるのか、今度一緒に考えようか。それに、忘れないで。君の笑顔だけでも、人の心は癒せるんだよ」
リシェルの瞳が見開かれた。
「……シオン様……」
胸の鼓動が激しくなった。このままでは、皆に聞こえてしまいそうなほど強く。
「ありがとうございます」
その時、リシェルの指先から、かすかに淡い光がにじみ出ていたことに、誰も気づいていなかった。
深夜。冷たい水を求めて、リシェルは静かに厨房へ向かった。
森の夜は静かで、月明かりが廊下にほのかな光を落としている。静かに歩いていると、ふと、扉の前で足が止まった。
――シオン様の部屋。
中から、かすかなうめき声が聞こえてくる。
「……っ、う……」
(シオン様の声?)
思わず扉の前に立ち、リシェルは耳を澄ます。
(まさか、傷がまだ痛むの? あれからずいぶん経つのに、まったく治っていないって、どういうこと?)
扉の中からは、ただ、息を殺すような苦しげな声が微かに続いている。
心配と不安を胸に抱えながら、リシェルは厨房へ向かった。手にした水の入ったカップも、手が震えて水がこぼれそうだ。
「……シオン様、痛そうだった……どうして?」
ぽつりとつぶやいたその時。
「リシェル」
「きゃっ!」
背後から声をかけられ、危うくカップを落としそうになった。振り返ると、カイルとアランが立っていた。
「も、もう、驚かせないでくださいっ!」
「ごめん。物音がしたから見に来たんだ」
カイルが苦笑し、アランは静かに厨房の椅子を引いた。
「こんな時間だけど、三人で茶でも飲むか」
三人は音を立てないように席につき、カイルが用意した温かいハーブティーに口をつけた。
「シオン様のうめき声、ご存じだったんですか?」
リシェルが静かに尋ねると、カイルがゆっくりとうなずいた。
「うん。俺たち、何度も聞いたよ。あれだけ我慢強いシオンが声を漏らすなんて……相当な痛みなんだと思う」
アランがカップを見つめながら言う。
「今まで隠してきたけど、シオンの傷……まったく回復していないんだ」
「え……そんな……」
「だから俺たち、ここに来たんだよ。城の誰にも悟られないように」
カイルが言葉を継いだ。
「最近さ、シオンの傷……夜になると、すごく痛むみたいなんだよな。昼間は平気そうにしてるけど、夜はほんとに辛そうで……。で、なんとなくだけど、日中、誰かが触れると、ちょっとマシになる気がするんだ。俺とアランで観察しててさ、なんか夜の痛みが軽くなるっぽい。……まあ、気のせいかもしれないけど」
ふっと、カイルがため息をつく。
「でもさ、もしそれが本当だとしても、シオンは絶対、自分から『触らせてくれ』なんて言わないんだよな。あいつ、そういうとこあるから。自分のせいで誰かが傷つくの、絶対に許せないタイプだからさ」
少し声を落としながら、ぽつりと続ける。
「もし、触れることでシオンの痛みが軽くなるなら、そう言ってくれたらいいのに……。本人が言わない限り、ほんとのところはわからないけどさ。俺には、どうしてもそう思えてならないんだ」
アランが軽く肩をすくめる。
「バカだろ? それが事実なら、俺たちに触れてもいいのに。俺ら、痛みに耐えるくらいなんでもないんだよ。なのに、絶対に触れようとしない。あいつ、全部ひとりで背負おうとするんだ。
あのまま城にいてそのことがバレたら、城にいる奴全員が助けようとして、シオンに触れ始めるに違いないんだ。それを危惧した、というのも、シオンがここに来た理由の1つだ」
「シオン様、みんなに愛されているんですね」
リシェルはそう言って二人を見つめた。
それは、敢えて口に出すまでもなく、みんなが知っている話だ。
だが、噂で聞くのと、いつも一緒にいる友人たちの口から聞くのでは訳が違う。
この二人、本当にシオン様がお好きなのね、とリシェルは少し感動した。
カイルとアランは同時に頷いた。
「俺たち、学生時代からの友人なんだよ」
カイルがぽつりと言う。
「俺は侯爵家の次男。アランは伯爵家の嫡男。高位貴族の子息と王族で、三人は同じクラスだったんだ。
その時、俺は初めて侯爵家に生まれて良かったと思ったよ……そのおかげでシオンと同じクラスになれたからさ。でも、俺は、それ以外では、別に家のことはどうでもいいって思ってる。シオンのそばにいたい。それだけで十分だよ」
アランが照れくさそうに目をそらす。
「俺だって、シオンのためなら伯爵家を継がなくてもいいと思ってる。弟がいるしな」
リシェルは、初めて知った三人の絆の深さと、シオンの痛みの深刻さ、そしてそれを気遣う二人の純粋な気持ちに、胸が締めつけられるようだった。
「俺たちにとって、シオンは大切な宝物なんだ。だから、お願いだ、リシェル。シオンを絶対に裏切らないでくれ。リシェルが、シオンに少しでも寄り添ってくれるなら、俺たちは、君の力になる」
「はい。それはお約束できます。私はシオン様だけじゃなくて、お二人を裏切ることは絶対にありませんから」
リシェルは、胸の奥に温かいものを感じつつ、きっぱりと宣言した。
カイルとアランは満足そうに頷いた。