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もしも、あの魔獣が——エリザベス様だったら。
リシェルは胸の奥に、言い知れぬ不安を感じていた。
誰にも気づかれず、誰にも語れず、苦しみながら彷徨っていた魔獣。
それが「かつてシオン王子の婚約者だった女性」だとしたら――
その後悔の深さと絶望を、想像せずにはいられなかった。
そして、シオンにそれを伝えるべきか、という問いが、何度も脳裏を巡った。
(今のシオン様には……言えない)
シオンは、いつも皆の前では明るく、気丈に振る舞っている。
けれど本当は、とても繊細で、優しい人だ。
その心の奥に傷を抱えていることを、リシェルは誰よりもよく知っている。
「愛していた相手が、魔獣になってしまった。かつて自分を襲い、呪いをかけてきた魔獣は彼女だった」
そんな事実を知ったら、シオンの心はどうなってしまうだろう。
――このことは、伝えるべきではない。
リシェルは唇をかみしめて、静かに決意を固めた。
(私が……エリザベス様を元に戻そう。シオン様に気づかれないように、こっそりと)
それが正しいことなのかは、わからない。
けれど、魔獣の姿に変わり、苦しみ続けている人をこのまま放っておくことはできない。
その上、あの魔獣は、近々実験体にされた後に処分されることが決定したと魔術師団長が言っていた。
そうなる前に、できる限りのことをしたい。
誰かに命じられたわけではなく、自分の意思として。
まずは魔術師団長に相談しよう。
でも、戻した後はどうする?
ふとその疑問がリシェルの頭に浮かんだ。
実家の公爵家に戻れたら一番いいが、今や公爵家は没落寸前という。その原因を作った、娘のエリザベスを今更受け入れるだろうか。
かといって、王家が引き取ることもあり得ない。かつて、シオンを裏切った婚約者なのだから。
本人に希望を聞いて、それから考えるしかないか……。人間に戻った後、知性が残っていればいいんだけど。
(この前はああ言ったけど……アラン様には、話さないでことを進めよう)
アランは誠実な人だ。シオンに絶対の忠誠を誓っている。そんなアランにとって、シオンに隠し事する行為は、耐え難い心労になるだろう。
アランにそんな負担を背負わせるわけにはいかない。シオンに隠し事をするのは、自分だけで十分なのだ。
(この秘密は死ぬまで守って見せるわ。シオン様の心を、守りたいから)
リシェルはそっと胸元に手を置き、魔術師団長のもとへ向かう決意をした。
◇
魔塔の上階にある、魔術師団長の執務室を訪ねると、少し待たされたが、団長はリシェルを執務室に通してくれた。
分厚い本が開かれた机の奥、彼はいつもの無表情な顔で、しかし目の奥には僅かな興味が宿っている。
「珍しいな。授業の時間以外にわざわざ私を訪ねてくるのは初めてじゃないか。何かあったのか?」
落ち着かない気持ちを隠すことなく、リシェルは席に座った。
「実は……お願いがあって参りました」
静かに、しかし一言も漏らさぬように、リシェルは語る。
先日カイルを襲った魔獣の死骸が、浄化魔法で、アイリーンという女性に変わったこと。
彼女はオルドヴァ出身の留学生に惹かれて国を出た、カイルの元婚約者だったこと。
そして、そのことから、魔塔の牢に囚われている魔獣が、シオンの元婚約者であるエリザベスではないかと思うこと――。
「私は……もしも彼女が人間に戻れるのなら、こっそりと戻してあげたいんです」
魔術師団長の表情がぴくりと動いた。すぐに眉間に深い皺が寄る。
「……それは、極めて驚くべき話だな」
低く唸るような声で言って、団長は机から離れ、窓の方に歩いた。しばらく黙り込んでいたが、やがて重々しく口を開く。
「……あの魔獣は、確かに奇妙だと思っていた。従来の魔獣とは違う。動きに知性の片鱗のようなものを感じたこともある」
振り返った団長の目は、鋭くリシェルを見据えていた。
「それが人間の成れの果てだったとしたら……私たちが実験動物にしようとしていることは、決して許されるものではないかもしれんな。
エリザベス嬢は私も子供のころから知っているよ。だが、人間に戻すというのはどうかな? 実験に使わず安楽死させる、ということでいいのではないか?」
リシェルは机の前で、拳を握った。
「そうですね。もしあの魔獣がエリザベス様なら、彼女を人間に戻してあげたいです。人間が魔獣の姿のままで死んでしまうのは哀れすぎます」
沈黙が落ちる。数十秒後、魔術師団長は静かに頷いた。
「そうかもしれんな……許可しよう。君に、任せるよ。だが、くれぐれも慎重にな」
「ありがとうございます」
深く頭を下げ、リシェルは部屋を後にした。
その扉が閉まった直後、執務室の奥にある別の扉が開いた。
そこから、一人の青年が姿を現す。
金の髪、青い瞳、そして、どこか寂しげな微笑み――。
「最近、何かに悩んでると思ったら……そういうことだったのか」
誰にともなく呟いたシオンは、静かにリシェルの出ていった扉の方を見つめていた。
感情の波が、胸の奥で静かに渦巻いていた。




