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リシェルが牢の前に立ったとき、魔獣は檻の隅で静かに横たわっていた。
まるで、訪れる者など最初からいないとでも思っているようだった。
濁った瞳は閉じられ、呼吸だけが、かろうじてその命の在処を示していた。
リシェルはそっと、指先を伸ばした。
――浄化の魔法。
いままでにも何度か使ってきた。しかし、今回は違う。魂の深くに染み込んだ呪いと悲しみを、解きほぐすような繊細な魔力の流れが求められる。
リシェルは息を整え、目を閉じた。
「どうか、あなたの真の姿を……取り戻せますように」
その祈りとともに、魔力が流れ出した。ゆっくりと、魔獣の体から黒い瘴気が立ち上っていく。
長い時間が経過した。リシェルの額に汗が滲んだ。一旦休んで、また始めた。
どれほどの時間が経っただろうか。
やがて檻の中に横たわっていたものの輪郭が変わり始め、骨と肉とが人の形を取り戻す。
リシェルは額の汗を拭い、エリザベスの体にシーツをかけてやろうとしたその時。
「……エリザベス」
背後から声がした。
驚いて振り返ると、そこにシオンが立っていた。
「どうして……」とリシェルが言いかけたとき、シオンはゆっくり檻の前へと進み出た。
「リシェル、ありがとう。君がしてくれたこと、無駄にはしない。後は僕に任せて」
そう言って、リシェルの肩に手を置く。その手がかすかに震えていた。
「それは、どういう意味ですか? まだ治癒魔法をかけていませんが」
リシェルの問いに、シオンはしばし黙したまま檻の中の女性を見つめた。
エリザベスの体は、すでに人間のそれだった。痩せ細り、傷跡だらけの姿。それでも、その顔にはどこか安堵した表情が浮かんでいた。
「……僕の手で、終わらせる」
「そんな……」
リシェルは思わず言った。
「せっかく、人間に戻れたのに。今から治癒魔法をかけます。それで傷跡は消えるでしょう。すぐには無理ですけど、時間が経てば、元の美しい姿に、戻れるはずです」
「いや、彼女は、きっとそれを望んでいない」
シオンの声は優しく、けれど決して揺らいでいなかった。
「彼女は、もう……。自分の姿を誰かに見られること、いや、自分の存在を知られることすら、望んでいないんだと思う。魔獣の姿で過ごした月日が、彼女から全ての尊厳を奪ったはずだ。その過去は、彼女にとって耐えられない記憶だろう」
「それは……」
「それに、今更人間に戻ってどうするの? 僕を襲って、呪いをかけたことで処刑されるかもしれない。ひょっとすると、不法入国したとして、スパイ容疑だってかけられるかもしれない」
リシェルは無言でシオンに檻の鍵を渡した。彼は頷き、鍵を開けた。
「リシェル、これから先は僕の責任だ。自分の過去に、自分でけじめをつけたい」
リシェルは、それ以上何も言えなかった。持ってきたシーツを差し出すと、シオンはそれを受け取った。
彼女は無言のまま深く一礼をして、静かに部屋から出ていった。
シオンと元婚約者がこれから過ごす最後の時を、部外者が見てはいけないと考えたのだ。
それが彼女にできる精一杯の配慮だった。
シオンはシーツを広げ、エリザベスの体を覆った。
エリザベスはかすかに目を開け、シオンを見つめた。その目に浮かんだものは、かすかな光だった。
「……シオン様……ごめんなさい……許して…………」
唇が動く。聞き取れたのは、それだけだった。
シオンは静かに、彼女の手を取り、優しく抱きしめる。そして、そっと額に人差し指を当て魔力を流し込んだ。
それは、彼女の苦しみを断ち切るための魔法だった。
「安らかに眠ってくれ。もう君を害する者はいない」
「……ありが……とう……最後に……あなたと話せてよかった……」
そう呟くと、エリザベスの身体が、微笑みのまま崩れるように永遠の眠りについた。
シオンはそっと目を閉じた。
それは誰の指示でもなかった。
シオン自身が決意したことで、エリザベスの尊厳のために選ばれた結末だった。
◇
リシェルは、窓に背を向けて床に膝を抱えて座っていた。
月明かりがカーテンの隙間から漏れ、静寂の中で部屋を淡く照らしている。
どうしても、シオンの哀しみを湛えた瞳の色が、頭から離れなかった。
魔獣と化していたエリザベスを、人の姿へと戻した――その行為が、結果としてシオンを苦しめることになるなんて、思いもしなかった。
「……わたしのせい……」
シオンを傷つけたくなかった。だからこそ、内緒でやったのに。
それなのに、彼に、自分の手で大切だった人の命を終わらせるという酷い行為をさせてしまった。
扉が小さくノックされ、ゆっくりと開く音がする。
リシェルは顔を上げなかったけれど、その足音だけで誰なのかわかった。
「リシェル」
シオンの静かな声が部屋に満ちる。
彼が近づいてくる気配に、リシェルは膝を抱えたまま、震える声で言った。
「ごめんなさい、シオン様……わたし、勝手なことして……あなたをまた、傷つけてしまった……」
涙は出なかった。ただ、胸が痛くて、言葉が喉につかえて苦しかった。
シオンはリシェルの前に膝をつき、やさしく言葉を紡いだ。
「ありがとう、リシェル」
リシェルは驚いて、思わず顔を上げた。
その瞳は優しさと、どこか穏やかな哀しみをたたえていた。
「エリザベスは、最後に人の姿に戻れて、人としての尊厳を取り戻すことができた。君がいてくれたから、彼女はそうやって安らかに死んでいくことができたんだ」
リシェルは首を横に振る。
「でも……シオン様に、あんなことをさせるなんて……。わたしが勝手なことをしたばかりに……私は、傲慢でした……」
シオンの手が、そっと彼女の頬に触れた。
「僕は後悔していないし、君の行為を傲慢だとも思っていないよ。あれが、彼女にできる僕からの最後の慈悲だった。君が、彼女を人間に戻してくれたからこそ、できたことだ。
何度でも言うよ。ありがとう、リシェル」
その声に、リシェルの胸がじんと熱くなる。
「そして、今――僕が愛しているのはリシェルだ。君だけを、守りたいと思ってる。エリザベスのことはもういい。君の心の方が心配だ」
その一言に、堪えていたものがあふれ出た。
リシェルは彼の胸に顔を埋め、ぎゅっと服を握りしめた。
「……ありがとう、シオン様……」
彼の体温と心の温かさが、夜の静けさにじんわりと溶けていく。
すべてが終わったわけじゃない。
けれど、この温もりがある限り、きっと前に進める——そんな気がした。
「お伝えしたいことがあります」
リシェルは、涙を拭き、先日埋葬したアイリーンの遺体の件を詳細に話した。
シオンは黙って聞いていた。その目にはレイモンドに対する怒りが滾っていた。




