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つきが世界を照らすまで  作者: kiri
早春、梅に雀の事
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思ひ出づるまゝに

 法要も終わり、ようやくひと息つきました。

 春草のことですから、あちらへ参りましても絵を描いていそうな気がします。

 いつまでも蓮の花を描いていたり、誰彼(だれかれ)をつかまえて、そこを動くなだの、もっと手を上げてだの言っていそうですよね。


 思い出せば、私の中の春草はいつも笑っています。

 五浦でも下村様、木村様と違い、春草と、失礼ながら横山様にはあまり絵の注文も参らなかったのですが、それでも毎日が楽しそうでした。


 暇のある時は横山様と釣りに出かけたり、賢首菩薩を描いた時は、模様まで描いた手作りの袈裟を美術院の人に着せていたりしていたのを覚えています。


 こんな様子でしたから、絵筆を持ってはいけないと言われた時の深い悲しみと絶望は忘れられません。

 蛋白性(たんぱくせい)網膜炎(もうまくえん)というのは、絵を描くにはほとんど致命的な病気でした。


 今だからお話できますが、ともすれば呼吸をすることも忘れそうな春草を、なんとかこちらに引き止めておかなくてはと必死で看病したのです。

 あの時、春草があちら側に行くことを選ばず、こちらに留まってくれたのは奇跡のようでした。


 もしも治らなかったらと想像した時は心底ぞっとしました。それほど、簡単に命を捨ててしまいそうで怖かったのです。

 ですから快方に向かった時は本当に安心しました。

 お医者様から制作を許されて帰ってきた時の嬉しそうな顔といったら。きっと、この人は絵を描くために生まれてきたんだな、と思いましたもの。


 絵を描く時は、とにかく気の済むまで十分研究してから取り掛かる人でしたし、気に入らなければ何枚でも描き直していました。

 銀牌四席の絵でも気に入らなくて洗い流してしまったくらいです。


 私を写した時もそうだったんですよ。あれは本当に参りました。

 動くなと言われても慣れていないので、ふらふらになるまで同じ格好でいたのです。それでも気に入らなければ描かないんですから。


 思えば、美校の卒業制作の時は相当に気を遣ってくれていたのでしょうね。一枚描いたら終わりだろうなどと思っていた私は、何枚も描くので驚きましたが、座っていてくれたらいい、と言われただけでしたから。

 

 気に入らなければ描かないのですが、題材が気に入ったり研究するところを見つけると何作も描きました。

 落葉は注文ということもありましたが、だいぶ研究したかったようです。あの樹木も、皆様ここを描いたそこを描いたと想像されておりますが、どこを描いたかくらいは私達だけの秘密にしても罰は当たりませんよね。


 そういえば結婚した当初は画家の勝手というものがわからず、ご依頼くださっている方に早くお届けしなくてはならないのでは、とひとり焦ったこともありました。

 本人はちっともそんな顔を見せないのですから余計に気を揉んだりしたものです。

 でも本画を描き出すと早いでしょう。結局、知らぬ間に仕上がっていて、いつの間にかこういった心配をしなくなりました。


 早春を描いた後はずっと具合が悪かったのですが、今度治ったら素晴らしいものができると始終言っておりました。

 不思議ですね、どう言えばいいのでしょうか。本当に治るから言っていたように思うんです。もう見えないという絶望ではなく、またすぐ見えるようになるからというように。ああ、どうにも変な言い方ですね。

 でも、本当に最期の時でも心の中に希望があるような顔をしていたのです。


 あの日、横山様が来られた時、いつまでも春草が気にかかるご様子だったのは、虫の知らせといったようなものだったのかもしれません。

 性格はまるで違うのに本当に仲のよいお二人でしたから。


 すみません、ひとつ思い出したら、どんどん色々なことが思い出されてきて取り留めのない話になってしまいました。

 なんというか思い出が鮮やかすぎて、まだ春草がそこかしこで絵を描いているような気がしています。



               菱田千代


  菱田為吉様

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