第一章 神降
「よう! 一年ぶりだな、インチキ神官の爺ども!」
シャルル・バロックは自分の声を聞いた。ぼんやりした視界の中で、自分の左手が人を一人つり下げているのが見えた。
その男の爪先は地面から半尺ほど浮いていた。首を五本の指でつかまれ、頭は横に垂れている。
白い鎧は胸元から焼け割れ、神域の紫のアイリスの紋章も端の一片しか残っていなかった。右手は銃と溶け合い、肉と鉄の境目はとうに失われていた。
シャルルはその鎧を知っていた。つい数分前まで、その持ち主があの銃を彼の額に突きつけていたのだから。
(死んだ……のか? どうして俺はこいつをつかんでる?)
左手を開こうとしたが、手のひらは言うことを聞かなかった。
どうにか手を動かす感覚を取り戻そうとしていると、
その手がひとりでに横へ振られた。つかんでいた死体は一瞬で数尺を飛び、さらに百メートル先の石壁に激突して、硬い音を立てた。血の跡を引きながら、階段の脇まで転がり落ちる。
恐怖で全身がこわばった。血肉の潰れた死体を見まいと、とっさに目を閉じようとした。だが、まばたき一つさえ自分の意志ではできなかった。
今度は右手が持ち上がった。五本の指を一本ずつ曲げ、また開く。まるで誰かが、この体を初めて試しているようだった。
(やめろ! やめてくれ!)
指はなおも動き続けた。唇を閉じようとすると、逆に口の端が勝手につり上がった。
笑みにつられて顔の筋肉が動く。その感触はあるのに、元に戻せなかった。
「赫燼尊神のご降臨を、謹んでお迎えいたします」
前方の高壇で、白い長衣を着た十人が一斉にひざまずいた。
誰もが額を低く垂れていた。
そのうちの三人を、シャルルは知っていた。
リリー、モラ、ルカ。
幼い頃から一緒に育ち、学んできた三人だ。
ついさっきまで自分の隣に立ち、十八歳の成人の儀の鐘が鳴り終わるのを一緒に待っていた。
それが今は白い長衣をまとい、同じ高壇にひざまずいている。そして、意味の読み取れない目でこちらを見ていた。
十人の目には恐怖と、わけのわからない崇敬が入り交じっているようだった。
「どれ、見せてみろ」
また自分の口から声が出た。
突然、体が宙に浮いた。まばたきほどの間に、眼前の景色が上から見下ろす眺めへと変わった。
真下には、ひざまずく白衣の十人がいた。
「一、六、八……九。ほう、今回はずいぶん揃ってるな」
自分の目が高壇をぐるりと見渡すのを、シャルルは感じた。リリーのところで、視線が少し止まった。
「六か? 今度はずいぶん綺麗な入れ物に替えたな。見違えたぞ」
リリーは顔を上げ、両腕を交差させて肩に手を添えた。「お久しゅうございます、赫燼尊神」
見慣れているのに見知らぬ者のようなリリーを見て、シャルルは呼びかけたくなった。
お前たち、どうしたんだ。どうして俺たちを殺すんだ。そう問い詰めたかった。
けれど、唇は彼の意志ではぴくりとも動かなかった。
「八は?」
モラが軽く身をかがめ、同じように腕を交差させて肩に手を置いた。「赫燼尊神。十九年ぶりですが、そのご気性はお変わりありませんね」
「お前も相変わらずだな。入れ物を替えても、いけ好かない顔はそのままだ」
その声は冷たく笑った。
(十九年? どういう意味だ?)
この『自分』とモラが何を話しているのか、シャルルにはわからなかった。ただ、何もかもがあまりに馬鹿げていた。
昨日までモラは寄宿舎で飯の味が薄いと文句を言い、大人になったら絶対に外へ行って本物の酒を飲むのだと騒いでいた。
隣でリリーが、食べ物と酒のことしか頭にないのかと怒っていた。
ルカは三人の話を聞きながら、そばで黙々と木の小舟を削っていた。最後には、機会があればみんなで神域の外へ出ようと約束したのだ。
そのとき、シャルルはどこへ行きたいか決められなかった。生まれたときからここで暮らし、知っている世界といえば囲いの壁と訓練場、それに窓越しに見える雪山の一角だけだった。
それなのに、たった一日で、リリーもモラもルカも、まるで自分のことなど知らないようになってしまった。
リリーを見つめながら、成人の儀の鐘が鳴り終わったあと、その場に立っていた彼女の姿を思い出した。
優しかった眼差しが冷たいものに変わり、それから高壇へと向けられた。
モラもそうだった。眠りから覚めたように大きく伸びをして、「また十八年か」とつぶやいた。
三人は高壇へ歩いていった。
高壇では七人の白衣の者が彼らを迎えた。「おかえり、六、八、九」
シャルルもついていこうとした。だが高壇の段に足をかけたとたん、モラに殴り倒された。
「愚民が」
モラは上から彼を見下ろしていた。
「お前ごときが神の塔を穢すな」
幼い頃からモラとは数え切れないほど喧嘩をし、拳も散々食らってきた。けれど、これほどつらかったことは一度もなかった。
もっとつらいことは、そのあとに待っていた。
「十人衆は帰還した。不要物を処分せよ」
高壇の中央に立つ、白衣の者の声だった。
地にひれ伏していた衛士たちが応じて立ち上がり、銃を外した。そして振り返ると、広場で成人を祝っていた少年たちを、残らず石畳に押さえつけた。
「七百三十六万八十番」
ずっと自分の世話をしてくれていた修道女のゲルツィが、帳面を片手に番号を高らかに読み上げるのが見えた。
続いて、恐ろしい音がした。
パン!
銃声が突然、広場じゅうに響き渡った。
そこにいた少年たちは、何が起きたのかわからなかった。悲鳴が上がるまでは。
「ああっ! ひ、人殺しだ!!」
シャルルは衛士に押さえつけられたまま、必死に首をひねった。そうしてようやく、すぐ近くで起きた惨劇が見えた。
一人の少年が血の海に倒れていた。
弾丸に頭を砕かれ、血と骨のかけらが周囲の石畳に飛び散っていた。
シャルルは呆然とした。死体が引きずられていって、ようやくもがき始めた。
だが、いくらもがいても無駄だった。自分を押さえている二人の衛士は、比べものにならないほど力が強かった。
そうだ。トールとマルクスの手から逃れられるはずがない。
二人の衛士は、一人が格闘の教官、もう一人が体力づくりの教官だった。
シャルルが六歳の頃から、ずっとこの子供たちを鍛え、教えてきた二人だ。
それが今では、冷酷な処刑人の手先になっていた。
ゲルツィは目の前で死んだ子供を見ながら、冷ややかに手元の板の番号を一本の線で消した。
「七百三十六万八十一番」
また銃声がした。
今度こそ、その場にいた少年たち全員が、何が起きているのか悟った。
皆が力の限りもがき、命乞いの声を上げ始めた。
それでもゲルツィは冷たい声で、次の番号を読み上げた。
番号が一つ読み上げられるたびに、その場で若い命が一つ失われた。
「七百三十六万九十九番」
帳面を手にしたゲルツィが目の前に立ち、数字の連なりを読み上げるのが見えた。
その隣には、胸に紫のアイリスの紋章をつけた、白い鎧姿の神殿騎士がいた。
神殿騎士は長い銃を手にしていた。ゲルツィが番号を読み終えると、銃口をシャルルの後頭部に押し当てた。
次に処刑されるのは自分なのだと、シャルルは悟った。
懸命にもがいて抗おうとした。爪はもう、石畳の隙間に深く食い込んでいた。
どうして。
幼い頃から世話をしてきた相手が死ぬのを、どうしてこんなに平然と見ていられるんだ。
彼を押さえつけている男が言った。「おとなしくしろ。早く楽になれば、早く生まれ変われる」
その言葉は針のように、頭の中で固く閉ざされていた何かを突き破った。
金属の台が見えた。手足をベルトで縛られ、顔の見えない誰かが注射器を持っている。
次に見えたのは雪だった。燃える建物。そして、全身を血に染めた誰かが、自分に向かって「末序者!」と叫んでいた。
その人の姿ははっきり見えなかった。ただ、自分の手に握られた銃だけが見えた。
(誰だ? 末序者?)
別の声が聞こえた。「十人衆を殺し、この世界を変えろ!」
そしてパン、と銃が鳴った。
シャルルは両目を固く閉じ、弾丸が頭を貫くのを待った。
だが次の瞬間、銃声に加えて悲鳴も聞こえた。
「おい、神様を騙る爺ども。今度は何をやってる?」
彼の口を借りて話す何者かが振り返り、高壇の下、一面に転がる死体を見た。
いちばん前にいた白衣の者が、両腕を交差させて肩に手を置き、答えた。
「赫燼尊神に申し上げます。十八年前の反乱で、我々は六、八、九の三名の神序者を失いました。その三名が転生し、覚醒を経て十人衆に帰還したため、もはや不要となった候補者を処分しているところでございます」
「候補者?」
「はい。この者たちの魂が転生しましたら、改めて身元の登録を行わねばなりません」
その言葉は耳に入ったが、魂をどう登録するのかなど考えている余裕はなかった。
ただ知りたかった。リリーも、モラも、ルカも、本当に自分たちが皆殺しにされるのを黙って見ているつもりなのか。
「手を貸そうか?」その声が言った。「そんな棒切れを使うより、俺が燃やすほうがよほど早いぞ」
高壇で先頭にいた白衣の者が、すぐに答えた。「尊神のお手を煩わせるわけにはまいりません」
「そうか。じゃあ続けろ。俺はもう少し、この体に慣れておく」
自分の体が、体操の号令にでも合わせるように、奇妙な柔軟運動を次々と始めるのが見えた。
恐怖に駆られ、シャルルは何もないところへ叫んだ。
「お前は誰だ! どうして俺の体を乗っ取ってる! 早く返せ!」
今度は、その叫びに返事があった。
「声を落とせ。うるさくてかなわん」
頭の中に突然、澄んだ男の声が響いた。
「俺は赫燼だ!」
「赫燼? なんで俺の体の中にいるんだ。体を返せ」
「返せ?」
シャルルの要求を聞くと、赫燼はいきなり大笑いした。
「はははは! 返してやるとも。もちろんいいぞ!」
まさか、こんなに話のわかる相手だったとは。そう思ったシャルルが喜ぶ間もなく、声は続いた。
「一週間だ。一週間たったら返してやる」
「は? 一週間後? なんでだよ! 今すぐ俺の体を返せ!!」
その要求に、声の主はいっそう面白がった。
「おいおい! あの爺ども、神降のことすら教えなかったのか?」
「神降……」
その言葉を、どこかで聞いたか、見たことがある気がした……。
懸命に思い返した。
そうだ。何年か前のことだった。
あるとき、本の整理をしていた神官がいなくなった隙に、神域の図書室へ忍び込んだのだ。
普段は出入りする人もほとんどいない場所だった。本棚は天井まで届き、多くの本には埃が積もっていた。
本で、外の世界がどんなところか見てみたかっただけだった。
生まれてから一度も、神域の門の外にさえ出たことがなかったのだから。
ところが、本棚にある金色の表紙の本がひときわ目を引いた。好奇心に負け、手に取った。
数ページめくると、神々について書かれた古い本だとわかった。
初めは大して興味もなかったが、読み進むと、書かれていることは思っていたよりずっと面白かった。
その本によれば、この世界には全部で五十二の神位がある。
四柱の母神と四柱の父神、そして四十四柱の子神だ。
関係図も載っていたのを覚えている。四柱の母神の名がいちばん上に書かれ、その下に、それぞれ十一柱の子神が線でつながれていた。四柱の父神は、脇に別に並べられていた。
そのときは、神々の名前などどうでもよかった。
五十二もの名前は、眺めているだけで頭が痛くなる。
本当に目を止めたのは、そのあとの一節だった。
本には、神々がいつまでも神界にとどまっているわけではないと書かれていた。
一週間、つまり十日ごとに、人の世では一度、神降が起きる。
そのとき、一柱の神が誰かの体に入り、宿主の体を借りて人の世で活動する。
十日が過ぎれば神は去り、宿主は体の自由を取り戻す。
面白いことに、神々自身も、次にいつ、どこへ降りるのかを知らず、宿主をあらかじめ選ぶこともできないのだという。
つまり、王であれ貴族であれ、街のありふれた人間であれ、誰もが神の宿主になる可能性があるということだった。
そこまで読んだとき、シャルルは夢想さえした。
もし自分に神が降りてきたら、きっと頼んで、仲間たちと一緒に外の世界へ連れていってもらおう。
とりわけ、話に聞く海を見てみたかった。
神降について思い出したことを、赫燼は読み取った。
「小僧! 安心しろ。ここから連れ出してやる」
「この一週間、おとなしく俺に協力すれば、十日後にはあの爺どもから逃れられるよう、祝福をくれてやる」
「祝福?」
「そうだ。だから今は、黙っていろ!」




