大体生きてる。大体死んでる。
戸を叩けば、キライばっかのステキな世界へ。
昔々――というほど、昔でもない。
ある日、世界中の影が、自分の主人をキライになった。
影たちは主人を襲った。
主人を殺し、その姿を奪い、その場所に居座った。
そうして世界は滅び――
なかった。
人の消えた街には、今日も明かりが灯る。
森では獣が駆け、空では鳥が飛び、海では魚が泳いでいる。
見た目だけなら、昨日までとそう変わらない。
ただひとつ違うのは――
そこにいるのが、みんな影だということ。
主人を喰らい、その姿と居場所を奪った影たちは、それぞれの身体で、それぞれの日常を始めた。
人の姿をした影は街を歩き、
鳥の姿をした影は空を飛び、
魚の姿をした影は水の中を泳ぐ。
世界はなくならなかった。
ただ、そこに暮らすものが変わった。
そんな世界の片隅に、一軒の探偵事務所がある。
看板には、少し歪んだ文字でこう書かれていた。
――探偵事務所《影の針》。
そして今日もまた、扉が叩かれる。
「どうぞ。開いてますよ」
中から聞こえたのは、まだ幼さの残る少女の声だった。
「…………」
「ピチピチッ」
「…………」
「ピチッ」
困りましたね。
ロッソ・グールは玄関のノブに手をかけたままじっと地面を見つめていた。床には鯉がいた。立派な鯉である。
白と墨黒のまだら模様。丸々と太った胴体。つぶらな瞳。つい先ほど、この探偵事務所《影の針》の扉を叩いた、本日最初のお客様だ。たぶん。
「……ご依頼、ですよね?」
「ピチッ」
「…………」
ロッソは少し考えた。
「申し訳ありません。分かりません」
「ピチピチッ!」
「元気なのは分かります」
鯉が跳ねた。びたん、と床を叩き、ちょうど半回転して腹を上に向ける。
「あっ」
「ピチピチピチッ!」
「大丈夫ですか?」
大丈夫なのだろう。少なくとも、水がないからといって死ぬことはない。
目の前にいるのは鯉ではあるが、鯉ではない。かつて鯉だったものを喰らい、その姿を奪った影――主討だ。
ロッソは鯉の主討を両手で抱き上げ、元の向きに戻してやった。
「どうぞ」
「ピチッ」
「いえいえ」
何となくお礼を言われた気がしたので、何となく返しておいた。そして再び沈黙が訪れる。
「…………」
「…………」
鯉は口をぱくぱくさせている。ロッソも試しに口をぱくぱくさせてみた。
「…………」
「ピチッ?」
「やっぱり分かりませんね」
困りました。
依頼人――もとい依頼魚が何かを訴えていることだけは分かるのだが、肝心の内容がさっぱり分からない。
人の姿をした主討なら、こういう問題は起きない。人の口があれば人の言葉を使える。鳥なら鳴き、犬なら吠える。それでも影同士なら、互いの言葉が分かるらしい。
しかしロッソは影ではない。
「うーん……」
頬に指を当てて考えていると、頭の上から小さな笑い声がした。
「ケケッ」
ロッソの眉がぴくりと動く。
「……いましたね」
「ケケケッ」
「いましたね、そういえば」
ロッソの帽子のつばから、ひょこりと小さな顔が覗いた。小悪魔のような姿をした、小さな影。その手には、身体には少々不釣り合いなほど長く鋭い一本の針が握られている。
針子。
ロッソが自身の影を討ったことで得た、影の力だ。
針子はするりと帽子から降りると、机を伝い、椅子を伝い、床へ着地した。
「ピチピチッ!」
「キャッ!」
「ピチッ!」
「キャッキャッ!」
会話が始まった。
「…………」
「ピチピチピチッ」
「ケケッ、キャッ!」
「ピチッ!」
「…………」
ロッソだけが分からない。
「ちょっと待ってください」
二匹がこちらを見る。
「私にも分かるようにお願いします」
針子は鯉を見る。鯉も針子を見る。
「ピチッ」
「キャッ!」
どうやら了承されたらしい。
針子は胸を張ると、まず両手を大きく広げた。
「大きい?」
首を振る。
「たくさん?」
コクコク。
続いて針子は両手を合わせ、身体をくねくねさせた。
「……踊る?」
首を振る。
「泳ぐ?」
コクコクコク。
「たくさん泳いでいる」
「キャッ!」
針子は今度は床を指差した。
「下?」
首を振る。
「床?」
首を振る。
「地面?」
首を振る。
「……池?」
「キャッキャッ!」
「なるほど」
ロッソは満足げに頷いた。ここまでで三分ほどかかった。先は長そうだった。
「では、続けてください」
針子は両腕をいっぱいに広げた。
「たくさん」
コクコク。
泳ぐ仕草。
「魚」
コクコク。
そして――針子は両手を背中に隠した。
「…………?」
ロッソが首を傾げる。針子はもう一度、両手を背中に隠す。
「後ろ?」
首を振る。
「手がない?」
首を振る。
「隠した?」
首を振る。
「…………」
針子は少し考えてから、その場にしゃがんだ。そして両手で顔を覆う。
「いないいない……」
針子が勢いよく両手を広げた。
「ばあ」
「キャッ!」
「…………」
ロッソは鯉を見る。鯉が悲しそうに口をぱくぱくさせている。
「……いなくなった?」
「ピチッ!」
鯉が大きく跳ねた。針子も跳ねる。
「キャッキャッ!」
「なるほど」
ロッソは椅子に座り直した。ようやく話が見えてきた。
「つまり――あなたの暮らしている池から、仲間がいなくなっているんですね?」
「ピチピチッ!」
正解らしい。
ロッソは小さく息を吐くと、机の上の手帳を取った。その横では、通訳という大役を果たした針子が得意げに胸を張っている。
「では、詳しくお聞きしましょう」
ロッソはペン先を紙へ落とし――ふと止めた。
鯉を見る。針子を見る。もう一度、鯉を見る。
「……ピチピチッ……」
まだ詳しく聞く必要がある。
「困りましたね……」
それから、およそ二十分。
「昨日?」
針子が首を振る。
「三日前?」
首を振る。
「一週間?」
「キャッ!」
「一週間前からですね」
ロッソは手帳にさらさらと書き込んだ。
思ったより何とかなっていた。
針子の身振り手振りは決して上手ではないが、こちらもだんだんと癖が分かってくる。何より鯉本人が正解と不正解を教えてくれるので、時間さえかければ意思疎通はできた。
その結果、判明したことはこうだ。
鯉の主討が暮らしているのは、ここからそう遠くない場所にある古い公園の池。そこでは魚の姿をした主討たちが集まって暮らしている。
異変が始まったのは一週間ほど前。
最初に一匹。
翌日に二匹。
それからも少しずつ仲間が姿を消し、昨晩ついに五匹目がいなくなった。
いなくなるのは決まって夜だった。
「ふむ……」
ロッソは手帳を眺めた。
「家出という可能性は?」
針子が鯉を見る。
「ピチピチッ!」
鯉は猛烈な勢いで跳ねた。
「違うそうですね」
これは通訳がいらなかった。
「では、最後にいなくなった方を見たのは?」
針子が固まった。
「…………」
「…………」
「…………」
三人で沈黙する。
針子がゆっくりと両手を上げた。
「お手上げ?」
「キャッ!」
「そうですか」
ロッソは手帳を閉じた。
これ以上は現地で調べた方が早そうだ。
「分かりました。依頼はお受けします。内容は【いなくなった仲間の創作と原因の究明】ですね。」
「ピチッ!」
鯉が嬉しそうに跳ねる。
「ただし」
ぴたり、と鯉が止まった。
空気が一段、重くなる。
ロッソは人差し指を一本立てた。
「お仕事ですので、報酬をいただきます」
「…………」
鯉が口をぱくぱくさせる。
「…………」
一拍。
「…………ピチ?」
針子と何やら短く会話を交わしたあと、針子が両手を三度、ぱっぱっと開いた。
「三つ?」
「キャッ!」
「影の実を三つですか」
鯉が、こくこくと勢いよく頷く。
ロッソは少し間を置いた。
「五つで」
「ピチッ!?」
一拍遅れて、鯉が跳ねた。
さっきより明らかに高い。
「…………」
針子も目を丸くしてロッソを見る。
「なんですか」
「…………」
「適正価格です」
針子は首を傾げた。
「適正価格です」
もう一度、淡々と繰り返す。
その瞬間。
「ピチチチチチッ!!」
鯉が床の上で暴れ出した。
さっきまでの可愛らしさが消え、完全に抗議の動きである。
「そんなに怒らなくても」
「ピチチチッ!ピチッ!!」
「では四つ」
ぴたり。
空気が止まる。
「…………」
「…………」
「…………ピチ」
一瞬だけ、鯉が固まった。
そして、ゆっくりと一度だけ跳ねる。
交渉成立らしい。
「最初から四つにするつもりでした」
「ケケッ」
「本当ですよ?」
「ケケケッ」
ロッソは針子をつまみ上げ、机の端へ移動させた。
影の実。
それは主討だけが生み出すことのできる、この世界では少しばかり特別な実だ。
主討にとっても、影討にとっても、それなしでは生きていけない。
食事と呼ぶには少し違う。燃料と呼ぶのも味気ない。
結局のところ、ロッソはご飯と呼んでいた。
ご飯がなければ困る。
なので値切られている場合ではない。
「そういえば、お仕事は何を?」
「ピチッ」
鯉が一度跳ねた。
針子が鯉を見る。鯉も針子を見る。
「ピチピチッ」
針子は両腕を大きく広げ、それから床を指差した。何かを見回るように、きょろきょろと首を動かす。
ロッソはしばらくその動きを眺めた。
「……管理?」
針子が頷く。
「池の?」
もう一度頷く。
「なるほど。池の管理をされているんですね」
「ピチッ」
鯉が誇らしげに胸を張った。
ように見えた。
鯉なので、よく分からない。
「では、池の皆さんのことも普段から把握されていると」
「ピチピチッ」
「それで、五匹もいなくなったことにすぐ気づいたんですね」
鯉が力強く跳ねた。
びたん。
「……床は壊さないでくださいね」
「ピチッ」
「それでは、さっそく現場を見に行きましょうか」
ロッソは椅子から立ち上がった。
壁に掛けてあった上着を羽織り、手帳をしまう。針子は待ってましたと言わんばかりに机から跳び、いつものようにロッソの帽子へよじ登った。
あとは依頼人についていけばいい。
ロッソは扉を開けた。
「では、案内をお願いします」
「ピチッ!」
鯉が元気よく跳ねた。
びたん。
少し進んだ。
間。
もう一度跳ねる。
びたん。
間。
さらに少し進んだ。
「…………」
びたん。
「…………」
びたん。
ロッソは鯉を見た。
鯉もロッソを見た。
池までは、ここからそう遠くない。
そう遠くないが。
「これ、いつ着くんでしょう」
帽子の上から、
「ケケケッ」
と笑い声がした。
「最初からこうすればよかったですね」
「ピチッ」
鯉を両腕に抱え、ロッソは《影の針》を後にした。針子は帽子の上に陣取り、すっかり上機嫌である。
外へ出ると、少し冷たい風が頬を撫でた。
かつては島国の首都だった街。
道の両脇には背の高い建物が並んでいるものの、窓ガラスの割れたもの、壁の崩れたもの、草木に呑まれ始めたものも珍しくない。
頭上を走る高架道路は途中で大きく崩れ、その断面から錆びた鉄骨を覗かせている。
それでも、街は死んでいなかった。
通りの向こうでは、人の姿をした主討が店先に商品を並べている。屋根の上では鳥の主討が二羽、何やら楽しそうに鳴き交わしていた。
ロッソにはただの鳴き声にしか聞こえないが、影たちとってはご機嫌な世間話なのだろう。
「便利ですよね、影同士の言語。」
ロッソは帽子の上の針子を見上げた。
「キャッ?」
「いえ。ちょっと羨ましいだけです」
「ケケッ」
「その顔は腹が立ちますね」
針子は楽しそうに帽子の陰へ隠れた。
そのまま歩くことしばらく。
街並みが途切れ始めたところで、古びた公園が見えてきた。
入り口の看板は半分ほど錆び、文字もほとんど読めない。ひび割れた遊歩道の隙間から雑草が伸び、遊具には蔓が絡みついている。
その奥に、大きな池があった。
「ここですか?」
腕の中の鯉が勢いよく跳ねる。
「ピチッ!」
「分かりましたから暴れないでください。埋めますよ。大地に」
ロッソは池の縁まで歩き、しゃがみ込んだ。
「では、どうぞ」
両手を水面へ近づける。
鯉はするりと腕から抜け落ち、ぽちゃん、と池へ入った。
そして――
ものすごい勢いで泳いでいった。
「…………」
つい先ほどまで床を一跳ねずつ進んでいたものと同一人物とは思えない。
「速いですね」
「ケケッ」
「やっぱり水の中の方がいいんじゃないですか」
当然である。
ロッソが立ち上がると、池のあちこちから魚たちが集まってきた。
鯉。鮒。金魚。鯰。
どれも色を持たない。
白と黒。灰色。その濃淡だけで形作られた魚たちが、水面近くをゆらゆらと泳いでいる。
主討だ。
ロッソを連れてきた鯉が仲間たちへ何かを話し始める。
「ピチッ、ピチピチッ」
水面から聞こえるのは、やはり水音ばかりだった。
しかし魚たちは一斉にロッソを見る。
「…………」
見られている。
「こ、こんにちは」
とりあえず頭を下げた。
水面から何匹かが口をぱくぱくさせる。
「はい。よろしくお願いします」
何を言われたのかは分からない。
帽子の上で針子が肩を震わせている。
「笑いました?」
「ケケッ」
「笑いましたね」
この後夢に出るほど嫌な思いさせてやる。
ロッソは池の周囲を歩き始めた。
ここからは仕事だ。
まず池そのものを見る。
それほど大きくはない。向こう岸まで見渡せる程度で、水辺の大半は古い石垣に囲まれている。一部だけ背の高い草が茂り、その先には公園を囲う金網があった。
ロッソはしゃがみ、石垣へ手を触れる。
特に変わったところはない。
水面にも目立ったものは浮いていない。
「五匹でしたね」
帽子から針子が降りてくる。
「キャッ」
「一週間で五匹。全員、夜にいなくなった」
ロッソは手帳を開いた。
「でも、ここから自分で出ていったとは考えにくいですね」
魚の身体で陸を進むのがどれほど大変かは、つい先ほど嫌というほど見てきた。
池から出たところで、びたん、びたんと進むしかない。
それが五匹。
誰にも見つからずに遠くまで移動するのは難しいだろう。
ならば――
「誰かが、外へ連れ出した?」
「キャッ」
針子が頷く。
「問題は、どうやって……」
そこでロッソの目が止まった。
池の端。
草の茂った場所に、妙なものがある。
「針子」
「キャッ?」
「そこ、見てください」
二人で近づく。
草が何本か、同じ方向へ倒れていた。
その先の湿った土には、丸い縁を押し付けたようなくぼみがいくつも残っている。
ロッソは指で触れた
まだ形が残っている。
「足跡……ではありませんね」
丸く、何かの跡。
それがいくつも連なっている。
針子が首を傾げる。
「何でしょう」
ロッソも首を傾げた。
「…………」
針子も考える。
「…………」
二人で考える。
「分かりませんね」
「キャッ」
潔く諦めた。
探偵だからといって、見ただけですべて分かるわけではない。
ロッソは手帳に『謎のへこみ』と書いておいた。
そして、そのすぐ横。
草の一本に、細い糸のようなものが引っかかっている。
「これは……」
摘み上げる。
透明で、細く、丈夫な糸。
その先には、小さな金属片が付いていた。
針子が覗き込む。
ロッソも覗き込む。
先端が鋭く曲がっている。
「…………」
見覚えがあった。
人間がまだいた頃、森の近くを流れる川で何度か見たことがある。
「釣り針ですね」
針子が目を丸くした。
ロッソは池を見る。
水面から、魚たちがこちらを見ている。
「なるほど」
手の中の釣り針を眺め、ロッソは小さく頷いた。
「どうやら皆さん――」
少し間を置く。
「釣られてますね」
池がざわついた。
正確には、魚たちが一斉にぴちぴちし始めた。
日が沈んだ。
ロッソは池から少し離れた草むらに身を潜め、じっと水辺を見張っていた。
隣には針子。
さらにその隣には、依頼人の鯉。
「…………」
「…………」
「ピチッ」
「どうしてあなたまで陸にいるんですか?」
鯉が口をぱくぱくさせる。針子が鯉と何やらやり取りしたあと、胸の前で両腕を組んだ。
「……心配だから?」
「キャッ!」
「なるほど」
気持ちは分かる。
「でも、ここにいる方が危ないと思いますよ」
「ピチッ」
帰る気はないらしい。
それから、どれくらい経っただろう。
風が草木を揺らす音。どこかで軋む古い遊具。時折、水面が揺れる音。
ロッソがそろそろ膝の痛みを気にし始めた、そのときだった。
「…………来ました」
公園の入り口。
暗がりの向こうから、のっそりと何者かが歩いてくる。
人の姿をした主討だった。
男だ。
そして――
「…………」
ロッソは目を細めた。
上半身には何も身につけていない。
白黒の肌には汗のような液体がてらてらと浮かび、異様なほど膨らんだ腹が歩くたびにゆさゆさと揺れている。
それだけなら、まだいい。
両腕が太い。
脚も太い。
腹だけがぽっこりと突き出ているというのに、腕と脚には不自然なほど筋肉が盛り上がっていた。
その姿で、大きなバケツと釣り竿を持っている。
「…………」
針子がロッソを見る。
ロッソも針子を見る。
「……話が変わってきましたね」
「キャッ」
針子も同意した。
本来であれば、ここで颯爽と草むらから飛び出すところだ。
『そこまでです』
なんて言いながら。
名乗りを上げて、探偵らしく口上のひとつでも宣う。
しかし、話が違う。
ロッソはもう一度、男を見た。
太い腕。
太い脚。
ぽっこりした腹。
てらてらした身体。
太い腕。
「…………」
もう一度見ても太かった。
何の準備もなしに飛び出していけば、あっさり捕まる未来しか見えない。
絶対乱暴されちゃう。あんなこと、こんなこと…
絶対に嫌だ。
「……もう少し様子を見ましょう」
ロッソは小声で言った。
「キャッ」
決して怖気づいたわけではない。
これは慎重な捜査である。
探偵たるもの、証拠もなしに容疑者へ飛びかかるべきではない。
そういうことにした。
男はロッソたちに気づく様子もなく、池のほとりへ向かっていく。
針子がじっと男を見つめる。
そして、ふと何かに気づいた。
「キャッ?」
針子の視線が下がる。
ロッソではない。
もっと下。
足元。
正確には――ロッソの靴の上。
「…………?」
針子の顔が、にたりと歪んだ。
「なんですか」
針子が指差す。
「…………」
ロッソはゆっくりと視線を落とした。
いた。
白と黒の、丸々と太った芋虫。
もちろん、ただの芋虫ではない。
芋虫の主討だ。
ロッソの靴の上にいる。
「…………」
絶体絶命である。
「針子」
囁く。
「取ってください」
針子は首を振った。
「取ってください」
もう一度、首を振った。
「お願いします」
針子は満面の笑みで首を振った。
「…………覚えておいてくださいね」
芋虫が動いた。
靴の上から、ゆっくり。
足首へ。
「…………」
這う。
「…………」
さらに這う。
「…………っ」
ロッソは必死に池を見る。
今は張り込み中。
声を出してはいけない。
目の前にはどう見ても危なそうな男。
ここで見つかるわけにはいかない。
芋虫はそんな事情など知ったことではない。
足首から脛へ。
ゆっくり。
ゆっくり。
確実に登ってくる。
「…………」
針子の肩が震えている。
「笑ったら、あとで針を没収しますよ」
「ケケッ」
「笑いましたね」
芋虫はさらに登る。
膝を越えた。
「…………あ、わわわわ…」
そして。
太腿へ。
「…………っ!」
限界だった。
「いやああああああああああああああああっ!!」
ロッソが草むらから飛び出した。
「キャッキャッキャッ!」
針子も飛び出した。
「ピチピチピチピチッ!!」
鯉も飛び出した。
「…………え?」
男が振り返った。
静かな夜の公園。
池のほとり。
釣り竿を持った半裸の大男の前に、少女と小悪魔と鯉が一斉に草むらから飛び出してきた。
誰も、何も言わない。
「…………」
「…………」
「…………」
「ピチッ」
ロッソは太腿の芋虫を見た。
男を見た。
もう一度、芋虫を見た。
「む、虫ぃぃぃぃぃっ!!」
ロッソは必死に太腿を払った。
ぽとり。
芋虫の主討が地面へ落ちる。
「…………」
芋虫はしばらくロッソを見上げていた。突然悲鳴を浴びせられたことに納得がいかないのか、
二、三度頭を左右に振ると、何事もなかったかのように草むらへ帰っていった。
「…………」
「…………」
「…………」
「ピチッ」
静寂。
ロッソは乱れた帽子を直した。服についた葉を払い、咳払いをひとつ。
「……失礼しました」
何事もなかったことにした。
男は口を半開きにしている。
「え、何?」
「こんばんは」
ロッソはぺこりと頭を下げた。
「探偵事務所《影の針》のロッソ・グールです」
「探偵?」
「はい」
「草むらから?」
「はい」
「叫びながら?」
「その話は終わりました」
穏やかな声だった。
反論は許さない。背後では針子が肩を震わせている。
「針子」
「ケケッ」
「あとでお話があります」
笑いが止まった。
ロッソは改めて男へ向き直った。
間近で見ると、やはり大きい。
腹も。
腕も。
脚も。
そして、怖い。
だが今さら草むらへ戻るわけにもいかない。
「あなたに、少しお聞きしたいことがあります」
「俺に?」
「はい。この池ではここ一週間、魚の姿をした主討が五匹、夜のうちに姿を消しています」
男の眉が、わずかに動いた。
ロッソはそれを見逃さなかった。
「今日、池のそばから釣り糸と針を見つけました。それから、地面には丸い縁を押しつけたような跡も」
ロッソの視線が男の手へ移る。
釣り竿。そして、もう片方の手には大きなバケツ。
「ずいぶん偶然が重なりますね」
「…………」
男も自分のバケツを見た。
ロッソも見る。
針子も見る。
鯉も見ている。
「……釣りに来ただけだよ」
「ここで、ですか?」
「そうだけど」
「この池にいるのは主討ですよ」
「知ってる」
あっさり返ってきた。
ロッソの表情から、ほんの少しだけ柔らかさが消えた。
「では、何を釣りに来たんです?」
「魚」
「ですから、その魚が主討なんですが」
「だから、それを釣りに」
「…………」
会話が一周した。
嫌な予感がする。
「念のため、お聞きします」
ロッソは慎重に言葉を選んだ。
「これまでにいなくなった五匹について、何かご存じですか?」
「知ってる」
「どこにいます?」
男は自分の腹を叩いた。
ぽん。
「ここ」
「…………」
ロッソは男の腹を見る。
針子も見る。
鯉も見る。
「……ここ?」
「ここ」
ぽん。
「食った」
「…………」
風が吹いた。
ざわざわと草が揺れる。
「…………食べた?」
「うん」
「五匹とも?」
「うん」
「…………」
ロッソはしばらく何も言わなかった。
男は悪びれる様子もない。
「美味かったぞ。鯉はちょっと泥臭かったけどな。鮒は――」
「どうして」
男の言葉が止まった。
ロッソは静かに男を見上げていた。
「どうして、そんなことをしたんですか?」
「どうしてって……魚が食いたかったから」
「魚が食べたいのでしたら、影抜きされた養殖魚を買えばいいでしょう」
男は露骨に顔をしかめた。
「高いんだよ、あれ」
「…………」
「ここの魚ならタダだし」
背後で、小さな音がした。
「……ピチ」
ロッソが振り返る。
鯉は跳ねていなかった。
地面に横たわったまま、男を見ている。
ひれが、かすかに震えていた。
「ピチ……」
いつものような元気なピチッではない。
五匹。
少し前まで同じ池で暮らしていた仲間たちだ。
どこかへ行ってしまっただけかもしれない。
何か事情があって帰ってこないだけかもしれない。
そんな僅かな望みも、今なくなった。
しかも、その理由が。
――タダだったから。
「……ピチッ」
鯉が身を起こした。
びたん。
男の方へ、少しだけ近づく。
「ピチッ……!」
もう一度。
びたん。
針子が慌ててその前へ飛び出した。
「キャッ」
小さな両手をいっぱいに広げて、鯉の行く手を塞ぐ。
鯉は止まった。
「…………ピチ」
悔しいのだろう。
悲しいのだろう。
それでも、怖いのだろう。
目の前にいる男は、自分と同じ魚の姿をした仲間を五匹も殺した。
それでも男へ向かっていこうとする鯉を、針子が必死に押し留めている。
ロッソはその様子をしばらく見つめた。
それから、何も言わずに一歩だけ前へ出た。
鯉と男の間に立つ。
「……タダ、ですか」
「あ?」
「この方たちは、あなたと同じ主討ですよ」
「だからなんだよ。魚だろ?」
「あなたも人の姿をしているでしょう」
男が黙った。
「だからといって、人間ではありませんよね」
「…………」
「同じです」
ロッソの声は穏やかなままだった。
けれど、そこから柔らかさだけが抜け落ちていた。
「影抜きを受けて育てられた魚と、この池で暮らしている主討は違います。この方たちには自我がある。
人格がある。あなたと同じように、この世界で生きているんです」
「…………」
「それを五匹も殺して、食べた」
男の大きな腹へ視線を落とす。
「高いから。こちらならタダだから」
ロッソは小さく息を吐いた。
「それは、理由にはなりません」
池は静まり返っていた。
水面から、何匹もの魚たちがこちらを見ている。
「あなたは影の秩序を破りました」
男の眉が動いた。
「……なんだよ。説教ならもういいだろ」
「説教で済めばよかったんですけどね」
ロッソは困ったように息を吐いた。
本当に、そう思う。
池から魚がいなくなる。
調べてみれば、ちょっと困った主討が勝手に釣っていただけ。
叱って、やめてもらって、依頼人に報告する。
そのくらいの仕事だと思っていた。
ところが五匹。
しかも、食べた。
これはもう、ロッソの裁量で「次から気をつけてくださいね」と帰していい話ではない。
「探偵事務所《影の針》、ロッソ・グールの権限において、あなたを拘束します」
「……は?」
「五件の主討殺害について、秩序院で裁定を受けていただきます」
男はしばらく黙っていた。ロッソも男を見上げたまま、返事を待つ。
やがて男は、ぼりぼりと腹を掻いた。
「……やだ」
「そうですか」
「帰るわ」
「それも駄目です」
男が歩き出した。ロッソはその前へ回り込む。
右へ行けば右へ。左へ行けば左へ。二度、三度と繰り返したところで、男の足が止まった。
「邪魔」
「仕事ですので」
「俺、お前みたいなの嫌いじゃないよ」
「私は嫌いです」
即答だった。
「つれねえなァ」
男がにやりと笑った。
ロッソは一歩下がった。
「針子」
「キャッ」
「この人、やっぱり嫌です」
「キャッ」
針子も同意した。
男は釣り竿を地面へ放った。からん、と乾いた音が鳴る。それまでのどこか気の抜けた様子が消え、太い腕がだらりと垂れる。
「なあ」
「なんですか」
「二人だけでどっか行かね?」
「秩序院でしたら」
「そこじゃねえよ」
「ではお断りします」
「つれねえなァ」
男が笑った。
その笑い方が、嫌だった。
さっきまで魚の味を話していたときとは違う。目がロッソの顔から帽子へ、帽子から服へと、妙にゆっくり動いている。
「そういう澄ました顔、崩れんの見てえなァ」
「…………」
ロッソは無言で半歩下がった。
「照れんなって」
「引いてるんです」
「似たようなもんだろ」
「全然違います」
男が一歩近づく。ロッソが一歩下がる。
また一歩。
また一歩。
「近づかないでください」
「なんで?」
「気持ち悪いので」
「傷つくなァ」
まったく傷ついていない顔だった。
針子がロッソの前へ出る。
「キャッ!」
「ああ、お前もいたな」
男が針子を見る。
「三人は多いな」
「何の話ですか」
「二人がいい」
「だから何の話ですか!」
男が地面を蹴った。
速い。
巨体が一瞬で間合いを詰める。
「――っ!」
ロッソは反射的に腕を上げた。
「さかさまっ!」
男の進行方向が反転した。
「おおっ!?」
前へ突っ込んでいた巨体が、同じ勢いのまま後方へ飛ぶ。男は数歩たたらを踏み、尻から地面へ落ちた。
どすん。
ロッソは身構えたまま固まっていた。
危なかった。
想像より、ずっと速い。あと一瞬遅れていたら、捕まっていた。
男は地面に座り込んだまま、自分の身体を見た。それからロッソを見る。
「……何それ」
「教えません」
「今の、お前がやった?」
「教えません」
「さかさまって言ったよな」
「そこは聞かなかったことにしてください」
「無理だろ」
男が立ち上がる。
笑っていた。
「いいじゃん」
「何がですか」
「もっとやろうや」
「嫌です」
「二人で遊ぼうやァ」
「嫌です!」
男がまた来る。
今度は一直線ではなかった。右へ大きく踏み、途中で左へ切り返す。
ロッソの目が動きを追う。
「さかさまっ!」
反転。
男が右へ弾かれる。
だが倒れない。片手を地面について身体を支え、そのまま脚を振った。
「――え」
低い蹴りが来る。
ロッソは跳んだ。
避けた。
――と思った。
「捕まえた」
足首を掴まれた。
「ひゃっ!?」
世界が横になった。
「離して!」
ロッソは地面へ手をつく寸前で身体を捻る。帽子が飛び、赤と白の髪がばさりと広がった。
「おお」
男の声が弾む。
「髪、そんなんなってんだ」
「見ないでください!」
「なんでだよ」
「いいから離してください!」
ロッソは掴まれた足を引く。びくともしない。
まずい。
力ではどうにもならない。
男は面白そうにロッソを眺めている。
「なあ。もう捕まえるとかやめようや」
「あなたが私を捕まえてるんでしょう!」
「そうじゃなくてさァ」
にたり。
「仲良くしようや」
「絶対に嫌です!」
男の手に力がこもる。ロッソは顔をしかめた。
「つれねえなァ。せっかく俺とお前で――」
「さかさまっ!」
「――仲良く、お?」
掴んでいた力の向きが反転した。
男の指が一気に開く。
ロッソは足を引き抜き、そのまま地面を転がった。すぐに起き上がろうとして、膝をつく。
「っ……!」
足首が痛い。
ロッソは顔をしかめながら立ち上がった。
男は自分の手を見ている。
「……今のも?」
ロッソは答えない。
「さっきは俺が走ってる向き。今は握ってる向き」
男がゆっくり顔を上げた。
「なんでも逆にできんの?」
「…………」
ロッソは黙った。
まずい。
この男。
見た目より、頭が回る。
「へえ」
男が笑った。
「じゃあ当てっこしようや」
「何をですか」
「次、お前が何をひっくり返すか」
男が両腕を広げる。
「当てたら俺の勝ちな」
「勝手に決めないでください」
「俺が勝ったら――」
「聞きません」
「まだ言ってねえじゃん」
「どうせ碌でもないでしょう」
「じゃあ近くで言うわ」
「来ないでください!」
男が飛び込んだ。
ロッソは手を向ける。
「さかさまっ!」
男の進行方向が反転する。
だが今度は、男も分かっていた。
反転した瞬間、自ら地面を蹴った。
逆へ。
つまり。
元の方向へ。
「――なっ」
一瞬で距離が戻る。
男の手がロッソへ伸びた。
ロッソは身体を捻った。肩を掠める。
もう一度。
「さかさまっ!」
男の腕が逆へ振れる。
空振り。
だが、止まらない。
逆へ振らされた勢いをそのまま回転へ変え、男の身体が一周する。
次の腕が来た。
「そんな――」
速い。
考える時間がない。何を反転させる。
腕。
脚。
進行方向。
重心。
どれ。
「キャッ!」
針子の声に反応した瞬間、男の掌がロッソの肩を掴んだ。
「捕まえたァ」
「……っ!」
ぞわりとした。
近い。
顔が。
息がかかるほど近い。
男が嬉しそうに笑っている。
「やっと二人っきりみたいになったなァ」
「……針子がいます」
「細けえな」
「大事です」
「じゃあさァ」
男がさらに顔を寄せる。
「二人だけの秘密でも作ろうやァ」
「いりません」
「遠慮すんなって」
「してません!」
男の手を振りほどこうとする。
動かない。力が違いすぎる。
男が楽しそうに笑った。
「俺とお前、案外いい感じになると思うんだけどなァ」
「どこをどう見たらそうなるんですか!」
「俺がそう思った」
「一人で完結してるじゃないですか!」
「だから二人にしようって」
「会話が気持ち悪い!」
ロッソが男の胸を押す。
当然、動かない。
男はむしろ嬉しそうだった。
「いいねえ」
「何がですか!」
「もっと嫌がってくれよ」
「嫌です!」
「嫌がるのが?」
「あなたがです!」
「あっはは!」
心底楽しそうに笑う。
最悪だ、この男。話せば話すほど嫌いになる。
「……さかさまっ!」
男の目が白目をむいた
「あぁ!?」
視線。
男がロッソを見る、その目の向きを反転させた。
男の目はロッソとは真逆を向く。
「な、なんだこれ!」
「こっち見ないでください!」
「見えねえ!」
「好都合です!」
男の腕が緩んだ。
ロッソはその隙に身体を抜き、全力で距離を取った。
肩で息をする。
足首が痛い。
帽子も落としたまま。
髪もぐしゃぐしゃ。
それでも男はまだ立っている。
「……戻せよ」
「嫌です」
「お前どこだよ」
「教えません」
男は目の裏側を見ながら、耳を澄ませている。
「……そっちか」
ロッソの顔が強張った。
男がこちらへ向いた。
目だけは別の方向を見たまま。
「声は聞こえるもんなァ」
「…………」
「見えなくても、捕まえりゃ一緒だろ?」
一歩。
男が近づく。
ロッソは後ろへ下がった。
「なあ、ロッソちゃん」
「…………!」
初めて。
名前で呼ばれた。
「呼ばないでください」
「さっき自分で名乗ったじゃん」
「あなたに呼ばれるためではありません!」
「いいじゃん。ロッソちゃん」
「嫌です」
「ロッソちゃァん」
「やめてください!」
男が笑う。
「ほら。また喋った」
ロッソが口を閉じた。
「そっちだなァ」
男の顔が、声のした方へ向く。
見えていない。
なのに、ゆっくり、確実に、こちらへ歩いてくる。
「黙って逃げてもいいぞォ」
男が両腕を広げた。
「見つけたら――」
にたり。
「今度こそ、二人で仲良くしようやァ」
ロッソは息を殺した。
ふざけているようで。
この男はもう、《サカサマ》に適応し始めている。
進行方向を変えても戻ってくる。
腕を返しても勢いへ変える。
視線を奪っても、音を追う。
正面から同じことを繰り返しても、捕まる。
ロッソは男を見つめたまま、ゆっくり後ろへ下がった。
その踵に。
何かが触れた。
からん。
「…………」
地面を見る。釣り竿だった。
細い糸。小さな針。
そして、その先。
池。
ロッソの目が止まった。
「…………」
針子が気づく。
「キャ?」
ロッソは答えない。
代わりにほんの少しだけ口元が上がった。
「……針子」
「キャッ」
「ちょっと、手伝ってください」
男が声の方へ顔を向けた。
「なんだァ? 二人で内緒話か?」
ロッソは地面の釣り竿を拾った。
「ええ」
釣り糸を指先で摘まむ。
「あなたには秘密です」
「つれねえなァ」
「よく言われます」
ロッソは男を見る。
今度は、もう下がらなかった。
「……来ないんですかァ?」
男の目は変わらず白目をむいている。
「さっきまで逃げてたじゃん」
「気が変わりました」
「へえ。じゃあ、そっちから来てよ」
「嫌です」
「なんでだよ」
「怖いので」
あっさり認めた。
男の笑みが深くなる。
「いいねえ。そういう素直なの」
「あなたに褒められても嬉しくありません」
ロッソは息を整えた。
足首は痛む。呼吸もまだ戻りきっていない。
それでも、頭だけはようやく冷静になりつつあった。
勝てない、力では絶対に。
なら、力を使えない場所へ連れていけばいい。
ロッソは男の向こうへちらりと目をやった。
池。
「…………」
距離はまだある。
「ロッソちゃァん」
男が一歩踏み出した。
「黙ってると、どこにいるか分かんねえよ」
「それはよかったです」
「そこか」
男が声へ向かって踏み込む。
「さかさまっ!」
進行方向が反転した。
男の身体が後方へ押し戻される。だが、もう驚かない。着地と同時に地面を蹴り、すぐにこちらへ戻ってくる。
「もう分かってんだよ、それ!」
「でしょうね!」
ロッソは横へ走った。男も声を追う。近づかれるたびに《サカサマ》を使い、距離を開ける。
一回。
二回。
三回。
男はそのたびに対応を早めていく。反転させられる寸前に重心を移し、飛ばされた先で即座に踏み込み直す。最初は数歩分あった距離が、少しずつ短くなっていった。
「ほらァ! 効かなくなってきたぞ!」
「そうですね……!」
ロッソは息を切らしながら走る。
効かなくなっているのではない。
もう、効かせる必要がなくなってきている。
一度反転させて右へ。次は左へ。男から逃げているように見せながら、少しずつ位置を変える。
池。
男。
自分。
あと少し。
「さかさまっ!」
男が後方へ跳ぶ。
ロッソはさらに回り込む。
男は笑っている。
「疲れてんじゃん!」
「あなたがしつこいんです!」
「そろそろ捕まってくれよォ!」
「嫌です!」
もう一度。
「さかさまっ!」
反転。
その隙にロッソが位置を変える。
そして
池。
男。
ロッソ。
一直線。
――できた。
ロッソは足を止めた。
「……はぁ、っ……」
男も止まる。
「終わり?」
「…………」
「もう逃げねえの?」
ロッソは答えなかった。
男が笑う。
「じゃあ、捕まえよ」
地面を蹴った。
一直線にロッソへ向かってくる。
待つ。
まだ。
男が迫る。
まだ。
あと少し。
ロッソが手を上げた。
「――さかさまっ!」
男の足が地面を蹴った。
逆へ。
自分から。
「――っ!?」
男の顔が変わる。
ロッソは何もしていない。
《サカサマ》は発動していなかった。
何度も何度も方向を反転させられた男の身体が、掛け声を聞いた瞬間、反射的に逆方向へ踏み込んだだけだった。
そして、その先にあるのは。
池。
「な――」
ざぶん!
巨大な水柱が上がった。
「やった!」
ロッソの顔が明るくなる。
「針子!」
「キャッ!」
待っていた針子が動く。
地面に転がっていた釣り竿。その先から伸びる糸と針を掴み、池へ飛び込もうとする。
水中なら。
いくらあの男でも、陸と同じようには動けない。
一方、影そのものである針子に水の抵抗はない。
あとは針子が――
「――ケケッ」
笑い声。
ロッソの表情が止まった。
針子ではない。
池の中から男が笑っている。
「……え」
水面から、黒いものが伸びた。
細い。
一本。
二本。
十本。
糸。
「っ!?」
ロッソが飛び退こうとした。
遅い。
黒い糸が両手首へ絡みつく。次の瞬間には両足首にも巻きついた。
「な――」
強く引かれる。
「きゃっ!」
身体が宙へ浮いた。
両手。
両足。
四方へ伸びた黒い糸に吊り上げられ、ロッソの身体が完全に地面から離れる。
「な、何……これ……!」
池から男が上がってきた。
ずぶ濡れだった。髪から水を滴らせながら、笑っている。
その足元から伸びる影。
そこから無数の黒い糸が生えていた。
その先にロッソがいる。
「……影の、力」
男が笑った。
「ロッソちゃん、うかつだよ」
ロッソは息を呑んだ。
「主討だって影なんだよ?」
男が指を動かす。糸が張り、ロッソの身体がさらに少し持ち上がった。
「力くらい使えるさ」
「…………!」
分かっていた。
そんなこと。
主討は、主を喰った影だ。
影討だけが影の力を使えるわけではない。
そんなことは、この世界では当たり前だ。
なのに、この男は最初からずっと自分の身体だけで戦っていた。
殴る。
蹴る。
掴む。
走る。
異常な膂力と速度ばかりに意識を奪われていた。
だから、考えもしなかった。
「……最悪」
ロッソの口から零れた。
「ん?」
「私……馬鹿です」
「そう?」
「はい。かなり」
手首を動かす。糸は緩まない。足も駄目だった。
完全に拘束されている。
男が近づいてくる。
気づけば男の目も元に戻っていた。
「でも、いい作戦だったじゃん」
「……どうも」
「途中で気づいたけど」
ロッソの眉が動いた。
「気づいてたんですか」
「そりゃなァ」
男が笑う。
「何回も俺をひっくり返してんのに、お前、全然逃げようとしなくなっただろ」
「…………」
「右行ったり左行ったり。」
男が池を親指で指した。
「だから、なんかあんだろうなァって」
「……それで、わざと?」
「うん」
「池に?」
「うん」
ロッソは目を閉じた。
「…………最悪です」
「二回目じゃん」
「何度でも言います」
完敗だった。
罠に嵌めたつもりで、自分が罠に嵌められた。
男はそんなロッソの目の前まで来た。
近い。一歩もない。
ロッソは身体を後ろへ引こうとした。
動けない。
「……近いです」
「逃げねえじゃん」
「逃げられないんです!」
「じゃあ、ずっとこのままでいいなァ」
「よくありません」
男は答えず、ロッソをじっと見た。
帽子は落ちている。髪も乱れている。服も泥だらけ。さっきまで必死に自分を池へ落とそうとしていた少女が、今は目の前で身動きひとつ取れない。
男の口元が、にたりと歪んだ。
「決めた」
「……何をですか」
「連れて帰る」
「嫌です」
「即答すんなよ」
「嫌です」
「二回言うなよ」
「では三回言います。嫌です」
「つれねえなァ」
男の顔が近づく。
触れてはいない。
それでも近い。
近すぎる。
ロッソは顔を背けた。
「本当に気持ち悪いです」
「照れんなって」
「引いてるんです!」
男が笑う。
「でも、もう逃げらんねえじゃん」
「…………」
「手も」
黒い糸が張る。
「足も」
さらに張る。
「動かねえ」
男が嬉しそうにロッソの顔を覗き込む。
「今度は何を、さかさまにする?」
ロッソは答えなかった。
男の手がロッソの足に伸びる。
「触らないでください」
「だったら逃げてみ?」
指先が近づく。
あと少し。
ロッソは男を見る。
その手。
自分を吊っている糸。
男の影。
池。
そして。
地面に転がったままの釣り竿。
その先から伸びる釣り糸。
「…………」
ロッソの目が僅かに動いた。
男もそれに気づく。
視線を追う。
釣り竿。
「……ああ」
男が笑った。
「それ?」
「…………」
「さっき使おうとしてたもんなァ」
男の影から黒い糸が一本伸びる。
釣り竿へ向かう。
その寸前。
「キャッ!」
針子が釣り竿を掴んだ。
「お」
男の黒い糸が針子へ走る。
針子は飛び退いた。
「残念」
男が笑う。
「それも無理」
「…………」
「もう手ぇねえじゃん」
ロッソは黙った。
本当にない。
男がまた手を伸ばす。
「なあ、ロッソちゃん」
「……なんですか」
「俺の勝ちでいい?」
「…………」
男の指先が近づく。
ロッソは目を閉じた。
「……そうですね」
「お?」
「私の負けです」
男の動きが止まった。
「認めんの?」
「はい」
ロッソは目を開けた。
「ですから」
男を見る。
「もう終わりにしましょう」
「…………」
「疲れました」
男が笑った。
「じゃあ仲良く――」
「さかさまっ」
男が跳んだ。
反射的に。
後ろへ。
「――!」
何も起こらない。
《サカサマ》は発動していない。
男が目を見開く。
「また――」
「はい」
吊られたままロッソが笑った。
「また嘘です」
「てめ――」
「針子!」
「ケケッ!」
男が振り返る。
針子がいない。
「――あ?」
下。
男の足元。
影の中。
針子が飛び出した。
「キャッ!」
男の足を掴む。
「な――」
「今度は本当です」
ロッソが息を吸った。
「さかさまっ!」
男の踏ん張る力が反転した。
「お――」
足が地面から離れる。
同時に、ロッソを拘束していた糸が大きく揺らぐ。
針子が引く。
男が倒れる。
その先。
池。
「おおおおおおっ!?」
ざぶん!
本日二度目の巨大な水柱が上がった。
黒い糸が消えた。
「わっ」
ロッソの身体が落ちる。
「きゃあっ!」
どさっ。
尻から地面へ落ちた。
「いたた……」
痛い。
けれど、今はそれどころではない。
「針子!」
「キャッ!」
針子が地面の釣り竿へ飛びついた。
針。
糸。
男自身がこの池で使っていたもの。
それを掴んで池へ潜る。
「……あ」
水面から顔を出した男が、それを見た。
「お前、それ――」
「ケケッ!」
針子が水中へ消えた。
男が腕を振る。黒い糸が影から伸び、水中を走る。
だが当たらない。
陸ではロッソが目で追うのもやっとだった男の動きが、水の中では目に見えて鈍い。
一方、影そのものである針子に水の抵抗はない。
泳いでいるのではない。
影が。水の中を走っている。
男の背後。
「っ!」
脇。
「待て!」
脚の間。
「クソッ!」
また背後。
針子が通り過ぎるたび、細い釣り糸が男の身体へ巻きついていく。
一周。
二周。
三周。
「おい!」
男が糸を掴む。
腕に力を込めた。
ぶつっ。
一本が切れた。
「……!」
ロッソの顔が強張る。
男も気づいた。
「はっ!」
ぶつっ。
もう一本。
「こんなモンで俺を捕まえられるかよ!」
やっぱり。
細い釣り糸一本では、あの力に耐えられない。
でも。
「針子!」
「キャッ!」
ロッソは池の縁まで走った。
「もっとです!」
針子が笑う。
「ケケッ!」
走る。
四周。
五周。
六周。
腕。
胴。
脚。
同じ場所へ何度も何度も。
細い一本を束にする。
男が両腕を広げた。
何本もの糸が一斉に張る。
「こんなもん――!」
「さかさまっ!」
力の向きが反転した。
外へ引き千切ろうとしていた腕が。
内へ。
「な――」
男自身の力で。
閉じる。
何重にも巻かれた釣り糸が一気に締まった。
「ぐっ!?」
「今です!」
「キャッ!」
針子がさらに走る。
男が身体を捻ろうとする。
「さかさまっ!」
逆へ。
脚を踏ん張ろうとする。
「さかさまっ!」
逆へ。
水の中では地面を踏めない。
力を入れるたび、その向きをロッソに返される。
その間にも針子は止まらない。
ぐるぐる。
ぐるぐる。
男の身体に自分で持ってきた釣り糸が巻きついていく。
「止めろ!」
「嫌です!」
「またそれかよ!」
「最初からずっと言っているでしょう!」
男が大きく身体を捻った。
糸が軋む。
ロッソの顔が強張る。
「針子!」
「キャッ!」
針子が釣り針を掴んだ。
水底へ一直線に潜る。
その先には、古い柵の残骸が沈んでいる。
針子はそこへ糸を通した。
一周。
二周。
最後に針を引っ掛ける。
ぴん。
糸が張った。
「――っ!」
男の身体が止まった。
腕を動かす。
動かない。
脚。
動かない。
身体を捻る。
動かない。
「…………」
池が静かになった。
針子が水面から顔を出す。
「……キャッ」
「…………」
ロッソも動かない。
男も動かない。
「…………」
やがて。
男が水面からロッソを見た。
「これ、俺の釣り糸?」
「はい」
「俺の針?」
「はい」
「俺の竿?」
ロッソは地面に転がっている釣り竿を見る。
「……それは使ってません」
「そっか」
「はい」
「…………」
「…………」
男はしばらく黙った。
「なんか腹立つな」
「奇遇ですね」
ロッソはその場にへたり込んだ。
「私もです」
疲れた。
足首も痛い。
尻も痛い。
服は土だらけ。
髪もぐしゃぐしゃ。
もう何もしたくない。
「……帰りたい」
「俺も」
「あなたは帰しません」
「つれねえなァ」
「針子」
「キャッ!」
「もう一周お願いします」
「待て待て待て!」
「ケケッ!」
「冗談だって!」
針子が楽しそうに池へ潜っていく。
「おいロッソちゃん! 止めろ!」
「その呼び方もやめてください!」
「分かった! ロッソさん!」
「それもなんか嫌です!」
池のほとりに男の声が響いた。
ロッソは大きく息を吐く。
それから、地面に落ちた帽子を見つけた。
立ち上がり、埃を払い、被る。
乱れた髪を帽子の中へ押し込み、少し曲がっていたつばを直す。
「……よし」
咳払いをひとつ。
「失礼しました」
「誰に?」
「こちらの話です」
ロッソは何事もなかったように池の縁へ戻った。
水面から顔だけを出している男を見下ろす。
「では、改めまして」
背筋を伸ばす。
「探偵事務所《影の針》、ロッソ・グールの権限において、あなたを拘束します」
「……もうされてるけど」
「…………」
ロッソは少し考えた。
「その話は終わりました」
「便利だな、それ」
「便利ではありません」
「俺も今度使お」
「使う機会はないと思います」
「なんで?」
「これから連行されるので」
「…………」
男が黙った。ようやく静かになった。ロッソは池の縁に腰を下ろし、大きく息を吐く。
帽子を直したところで、服についた泥まではどうにもならなかった。池から針子が上がってくる。
「キャッ」
「お疲れさまでした、針子」
「ケケッ」
「途中から楽しんでましたよね?」
「キャ?」
「誤魔化しても駄目です」
針子は目を逸らした。池では、遠巻きにこちらを見ていた魚たちが少しずつ水面へ戻ってきている。一匹、二匹と顔が増え、依頼主の鯉も池の縁まで跳ねてきた。
「ピチッ」
「終わりましたよ」
「ピチッ!」
「はい。もう大丈夫です」
鯉は男を見る。釣り糸に巻かれ、水面から顔だけを出している男をじっと見つめた。
「…………ピチ」
その声に、先ほどまでの震えはなかった。ロッソは何も言わない。五匹は帰ってこない。犯人を捕まえたからといって、それだけは変わらない。それでも、これ以上はいなくならない。今は、それでいい。
「……さて。あとは秩序院へ連絡を――」
「おっつかれ様ですぅ〜!」
ロッソの手が止まった。遠くから、とても明るい声が聞こえてくる。
「ロッソさぁ〜ん♪」
夜の池にはまったく似合っていない声だった。ロッソはゆっくり振り返る。まだ秩序院には連絡していない。それなのに、自分の名前を知っている誰かがこちらへ近づいてきている。
「……針子」
「キャッ」
針子がロッソの前へ出た。草むらの向こうで人影が揺れる。
「いやぁ〜、探しましたよぉ。こんなところにいらしたんですねぇ」
がさっ、と草を掻き分けて女が現れた。青かった。ロッソが最初に抱いた印象はそれだった。夜の中でも分かる青みがかった髪。身につけているものにも青が多い。細身で、ロッソよりいくらか年上に見える。そして目が細い。いや、細いというより不自然なほど釣り上がっている。笑っているからそう見えるのかと思ったが、どうやら最初からこういう目らしい。
「ど〜もぉ♪」
女がひらひらと手を振った。
「…………どちら様ですか」
「あらぁ、警戒されちゃいました?」
「まだ秩序院には連絡していませんので。それなのに私の名前をご存じで、こんな時間にこんな場所まで来られた方を警戒するのは普通でしょう」
「なるほどぉ。さすが探偵さんですねぇ」
「答えになっていません」
「あは♪ 怖い怖い」
まったく怖がっていない。女が懐へ手を入れた瞬間、針子が身構えた。
「キャッ!」
「大丈夫ですよぉ」
女が取り出したのは小さな徽章だった。ロッソには見覚えがある。秩序院のものだ。それだけではない。刻まれている印を見て、ロッソの警戒がわずかに緩んだ。
「……影討」
「せいか〜い♪」
女は徽章をしまった。
「秩序院のチェレステと申しまぁす。主討の連行担当になりましたので、ご挨拶も兼ねて来ちゃいましたぁ」
「……連行担当?」
「はい♪」
ロッソは眉を寄せた。
「前の担当の方はどうしたんです?」
「はて?」
チェレステが首を傾げる。
「もう用がなくなっちゃいましたので♪」
「…………」
ロッソは黙った。チェレステは変わらず笑っている。
「……用がなくなった?」
「はい♪」
「異動されたんですか?」
「さぁ?」
「さぁ、って……」
「私、他の方のお仕事にはあんまり興味なくてぇ」
にこにこしている。ロッソはそれ以上聞くのをやめた。何だろう、この人。ものすごく話しづらい。
「それよりぃ」
チェレステがひょいとロッソの横から池を覗き込む。
「あらぁ。ずいぶん面白いことになってますねぇ」
「面白くありません」
「ぐるぐるですぅ」
「かなり苦労したんです」
「ロッソちゃ――」
「あなたは黙っていてください」
男が黙った。チェレステがくすくす笑う。
「仲良しさんですねぇ」
「違います」
「即答ですねぇ」
「当然です」
チェレステは男の前へしゃがみ込んだ。
「この方で合ってますぅ?」
「はい。五件の主討殺害について本人も認めています。池にいた主討を釣り上げ、殺害したうえで食べたと」
「五匹も?」
「はい」
「食いしん坊さんですねぇ」
「そういう話ではありません」
「あは♪」
やっぱり話しづらい。
男がチェレステを睨んだ。
「お前、秩序院なんだろ」
「そうですよぉ」
「だったらこれ外せ。秩序が乱れてんぞ。」
「嫌ですぅ」
ロッソの眉がぴくりと動く。
「今、真似しました?」
「何がですぅ?」
「……いえ」
気のせいということにした。男が水の中でもがく。
「俺はまだ裁定受けてねえんだぞ! こんな糸でぐるぐる巻きにしていいわけ――」
ぶつっ、と釣り糸が少し切れた。
「ちょっと、動かないでください!」
「うるせえ!」
もう一本が切れる。ロッソの表情が変わった。疲れからか、即座に《サカサマ》が出ない。
「針子!」
「キャッ!」
針子が池へ飛び込もうとする。しかし、チェレステは動かなかった。
「大丈夫ですよぉ」
「え?」
「もう暴れさせませんから」
男が腕を広げる。何本もの釣り糸が張り詰める。
「こんなもん全部――!」
チェレステは男の前へしゃがんだ。不自然なほど釣り上がった細い目は、相変わらず笑っているように見える。
「はぁい、没収♪」
男の身体から、力が抜けた。
「…………え?」
さっきまで張り詰めていた釣り糸が一斉に緩み、男の太い腕がだらりと水面へ落ちた。
「な……なんだ、これ……」
本人が一番驚いている。ロッソも男を見た。身体は何も変わっていない。筋肉も、大きな腹もそのままだ。それなのに、何かが違う。目を凝らして、ようやく気づいた。
男の身体を覆っている影。その黒が、ほんの少しだけ薄くなっている。
「……影が薄くなってる?」
チェレステの顔が、ゆっくりロッソへ向いた。
「…………へぇ」
「?」
ほんの一瞬、チェレステの笑みが変わったように見えた。
「そこまで分かるんですねぇ」
「見れば、なんとなく」
「さすが探偵さん♪」
すぐにいつもの調子へ戻った。男が震える腕に力を込めようとするが、動かない。足も同じだった。影から黒い糸を伸ばそうとしても、細い一本が浮かび上がっただけで、すぐに消えてしまう。
「なんで……戻せ……」
「大丈夫ですよぉ。ちゃ〜んと加減してますから♪」
「戻せ……!」
「暴れない暴れない」
チェレステが男の額を指先で軽く押した。それだけで、あれほどの巨体がずぶりと水の中へ沈む。
「今のあなたならぁ、ロッソさんでも腕相撲で勝てるかもしれませんよぉ?」
「しませんよ」
「え〜」
「なんで私がこの人と腕相撲しなくちゃいけないんですか」
「見たいのにぃ」
「見たくありません」
「つれないですねぇ」
ロッソはチェレステを見た。自分があれほど苦戦した相手だった。《サカサマ》を読まれ、拘束され、針子と二人がかりでようやく捕まえた。それをこの人は、たった一言で無力化した。
「どうしましたぁ?」
「……いえ。なんでもありません」
「そうですかぁ?」
「はい」
チェレステはそれ以上聞かなかった。
「それじゃ、この方は私が引き取りますねぇ」
「お願いします」
「報告書はいつも通り秩序院までお願いしまぁす♪」
「……はい」
いつも通り。その言葉で、ようやく仕事が終わった気がした。チェレステは男へ拘束具を取りつけながら、ふと思い出したようにロッソを見る。
「あ。そうそう」
「なんですか」
「これから私が担当ですのでぇ、また会えますね♪」
「…………」
「嬉しいですぅ?」
「まだ一度しか会ってません」
「じゃあ二回目には嬉しくなってますねぇ」
「どういう計算ですか」
「あは♪」
ロッソは小さく息を吐いた。この人とはどうにも肌が合いそうになかった。
チェレステが男を連れていったあと、池にはようやく静けさが戻った。
「…………」
「…………ピチ」
ロッソは池の縁に座っていた。隣には依頼主の鯉がいる。針子はロッソの肩の上で、チェレステたちが消えていった方角を眺めていた。
「……変な方でしたね」
「キャッ」
「また会うそうです」
「ケケッ」
「嬉しそうですね」
「キャッ!」
「私はあまり嬉しくありません」
そんなことを話しているうちに、遠くから聞こえていた男の声も小さくなっていった。
「おい! 歩けねえって!」
「ゆっくりで大丈夫ですよぉ〜♪」
「力戻せよ!」
「逃げないって約束してくれたら考えまぁす♪」
「する!」
「嘘ですねぇ♪」
「なんで分かるんだよ!」
やがて、それも聞こえなくなった。静かになった池には月が浮かび、水面には何匹もの魚の主討が戻ってきている。時折ぱしゃりと水が跳ね、丸い波紋が広がっては消えた。
ただ、五匹だけは戻らなかった。
ロッソは隣の鯉を見る。
「……すみません」
「ピチ?」
「依頼は、いなくなった皆さんを探してほしい、というものでしたから」
何があったのかは突き止めた。犯人も捕まえた。けれど、それは依頼人が望んでいた答えではない。
「助けられませんでした」
鯉は何も言わなかった。
「…………」
「…………ピチ」
やがて、鯉が跳ねた。
びたん。
ロッソの方へ少し近づく。
もう一度。
びたん。
そして、ロッソの靴へ頭を押しつけた。
「……?」
「ピチッ」
ロッソには鯉の言葉が分からない。だから針子を見る。
「針子」
「キャッ」
針子は鯉の前へしゃがみ込んだ。鯉が何度か口をぱくぱくさせる。
「ピチ。ピチッ」
針子が頷いた。
「キャッ」
「なんて?」
針子はロッソを指差し、次に自分の胸の前で両手を合わせると、ぺこりと頭を下げた。
「…………」
ロッソは少しだけ目を丸くする。
「……ありがとう、ですか?」
「キャッ!」
鯉が跳ねた。
「ピチッ!」
どうやら合っているらしい。ロッソは困ったように笑った。
「それなら……よかったです」
鯉がもう一度、靴へ頭を押しつける。
「でも、皆さんは」
「ピチ」
ロッソの言葉を遮るように、鯉が鳴いた。
「…………」
「ピチッ」
ロッソはそれ以上言わなかった。しばらくして、鯉は身体を翻すように跳ね、池へ戻っていった。
ざぶん。
一度水の中へ沈み、また顔を出す。
「ピチッ!」
「はい。おやすみなさい」
「ピチッ!」
鯉が水中へ消えた。ロッソも立ち上がろうとした、そのとき。
ざばっ。
「きゃっ」
さっきの鯉が戻ってきた。口に何かを咥えている。
「……どうしました?」
鯉は池から飛び出すと、ロッソの前まで跳ねてきた。
びたん。
そして。
ころん。
何かを吐き出した。
「…………」
ロッソが見る。
針子も見る。
丸くて黒い。わずかに艶がある。
影の実。
「……あ」
鯉が得意げに跳ねた。
「ピチッ!」
「これ……」
依頼料。
そういうことらしい。
ロッソは影の実を拾い上げ、手のひらの上で転がした。
とてもありがたい。
のだが。
ロッソは鯉を見る。
「……一つ?」
「ピチッ!」
「…………」
針子を見る。
「…………キャッ」
目を逸らされた。
「針子」
「キャ?」
「今、笑いませんでした?」
「キャッ」
「笑いましたよね?」
「キャッ!」
鯉も跳ねた。
「ピチッ!」
「あなたも笑ってません?」
「ピチッ!」
一匹と一影が楽しそうだった。ロッソは手のひらの影の実を見る。
足首は痛い。
尻も痛い。
服は泥だらけ。
変質者には追い回された。
宙吊りにもされた。
そして。
報酬。
影の実、一個。
「…………」
ロッソは深く息を吸った。
「割に合いません」
池に、針子の笑い声が響いた。
「ケケケケッ!」
「針子!」
「ピチッ! ピチッ!」
「あなたも!」
静かだった池が、少しだけ騒がしくなった。ロッソは影の実をポケットへしまう。
まあ、悪くはない。
少なくとも、今夜からこの池の魚たちは安心して眠れる。それなら一個くらいでも――
「……やっぱり二個は欲しかったですね」
「ケケッ」
「聞こえてますよ」
ロッソは帽子を被り直し、池に背を向けた。
「帰りましょう、針子」
「キャッ!」
探偵事務所《影の針》。
今日の依頼。
池から消えた五匹の魚を探すこと。
結果。
五匹は帰らなかった。
それでも、事件は終わった。
そして明日になれば。
また、あの少し歪んだ看板の扉を、誰かが叩くのだろう。
ロッソ・グール、十六歳。
職業、探偵。
影討。
虫は嫌い。
報酬は。
「……やっぱり少ないですよね?」
「ケケッ!」
「聞こえてますよ」
第一章 解決
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