表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
炎上  作者: 柊ゆるな
8/10

第8章 毛利との講和


天正十年六月三日。

備中高松城を見下ろす秀吉の陣営に、毛利の使者が訪れた。

使者の名は、安国寺恵瓊。毛利家の外交僧として知られる男である。

恵瓊は、秀吉の陣幕に通された。

そこには、秀吉と黒田官兵衛がいた。

「これはこれは、安国寺殿」

秀吉は、笑顔で恵瓊を迎えた。

だが、その笑顔は、どこか作り物のようであった。

「羽柴殿、お久しゅうございます」

恵瓊は、丁寧に頭を下げた。

「早速ですが、和睦の件、お話しさせていただきたく」

「ああ、もちろんだ」

秀吉は、恵瓊に座るよう促した。

官兵衛は、二人のやり取りを見ていた。

そして、違和感を覚えた。

この二人は、初めて会うようには見えない。

まるで、以前から知り合いであるかのような、自然なやり取りであった。


恵瓊が、口を開いた。

「本能寺で、織田様が亡くなられたとか」

「そうだ」

秀吉の表情が、一瞬曇った。

「光秀の裏切りによって」

「それは、お気の毒に」

恵瓊の言葉には、同情があった。だが、それが本物かどうかは、分からなかった。

「されば、羽柴殿は京へお戻りになられるのでしょうな」

「その通りだ」

秀吉は、頷いた。

「信長公の仇を討たねばならぬ。そのためには、この戦を終わらせる必要がある」

「毛利としても、これ以上戦を続ける理由はございません」

恵瓊は、静かに言った。

「織田様が亡くなられた今、われらが戦う相手は、もはやおりません」

秀吉は、恵瓊を見た。

その目には、何かがあった。

「では、和睦の条件を」

「はい」

恵瓊は、懐から紙を取り出した。

だが、秀吉は手を上げて制した。

「その必要はない」

「と、申しますと」

「こちらから、条件を提示しよう」

秀吉の言葉に、恵瓊は目を細めた。


「高松城は、毛利に返す」

秀吉の言葉に、恵瓊は驚いた表情を見せた。

「それは……本当でございますか」

「本当だ」

「しかし、羽柴殿はこれほどの労力をかけて、高松城を囲んでおられたのでは」

「それも、すべて返す」

秀吉は、続けた。

「備中、美作、因幡の一部。これらも、毛利の領地と認める」

恵瓊は、言葉を失った。

官兵衛も、驚いていた。

この条件は、あまりにも譲歩しすぎている。

まるで、毛利が勝ったかのような内容だ。

「羽柴殿、それでは……」

官兵衛が口を開きかけたが、秀吉は目で制した。

「ただし、条件がある」

秀吉は、恵瓊を見た。

「今日中に、和睦を成立させること」

「今日中に、でございますか」

「そうだ。今日中に。できるか」

恵瓊は、しばらく黙っていた。

そして、答えた。

「できます」

その答えは、あまりにも早かった。


官兵衛は、その場を見ていた。

そして、確信した。

この二人は、事前に話をつけている。

和睦の条件も、すでに決まっていた。

この場でのやり取りは、ただの儀式に過ぎない。

「では、毛利輝元様には、私からお伝えいたします」

恵瓊は、立ち上がった。

「輝元様も、この和睦をお喜びになるでしょう」

「それは何よりだ」

秀吉も、立ち上がった。

「では、正式な和睦の儀は、後日改めて」

「承知いたしました」

恵瓊は、深く頭を下げた。

そして、陣幕を出ていった。

残されたのは、秀吉と官兵衛だけであった。


「羽柴様」

官兵衛は、静かに言った。

「この和睦は、いつから準備されていたのですか」

秀吉は、官兵衛を見た。

その目には、警告があった。

「官兵衛、お前は何を言っている」

「私は、ただ……」

「今日、初めて恵瓊と会った。そして、和睦の話をした。それだけだ」

秀吉の声には、圧力があった。

官兵衛は、それ以上言えなかった。

「分かりました」

官兵衛は、頭を下げた。

だが、心の中では、疑念が渦巻いていた。

秀吉と恵瓊は、以前から通じていた。

いつからかは、分からない。

だが、少なくとも本能寺の変の前から、接触があったはずだ。

そうでなければ、この和睦の速さは説明がつかない。


その夜、毛利の陣営では、恵瓊が輝元に報告していた。

「羽柴との和睦、成立いたしました」

「そうか」

毛利輝元は、頷いた。

「条件は」

「高松城は、われらに返されます。備中、美作、因幡の一部も」

輝元は、驚いた。

「それは、あまりにも……」

「はい。羽柴殿は、すべてを譲歩されました」

「なぜだ」

輝元は、恵瓊を見た。

「羽柴は、何を考えている」

恵瓊は、しばらく黙っていた。

そして、答えた。

「京へ、急いでおられます」

「光秀を討つために、か」

「はい。そして、織田家の実権を握るために」

輝元は、理解した。

「なるほど。羽柴にとっては、われらとの戦など、もはやどうでもよいのだな」

「その通りかと」

恵瓊は、頷いた。

「羽柴殿の目は、もう天下に向いております」


だが、輝元には、まだ疑問があった。

「しかし、恵瓊」

「はい」

「この和睦は、あまりにも早すぎる。まるで、事前に準備されていたかのようだ」

恵瓊は、輝元の目を見た。

「殿、お気づきでしたか」

「当然だ。お前と羽柴は、以前から通じていたのだろう」

恵瓊は、否定しなかった。

「はい」

「いつからだ」

「半年ほど前からです」

輝元は、息を呑んだ。

「半年前……それは、本能寺の変よりも前ではないか」

「はい」

「ということは……」

輝元は、その先を言うことを躊躇った。

だが、恵瓊が代わりに言った。

「羽柴殿は、本能寺の変を知っていた。いや、関わっていた可能性があります」


輝元は、しばらく黙っていた。

そして、ため息をついた。

「恐ろしい男だ」

「はい」

「主君を裏切り、それを利用して天下を狙う」

輝元の声には、嫌悪があった。

だが、同時に、ある種の敬意もあった。

「だが、われらはどうする」

輝元は、恵瓊に尋ねた。

「羽柴と敵対するか」

恵瓊は、首を横に振った。

「いいえ。今は、羽柴殿と友好を保つべきです」

「なぜだ」

「羽柴殿は、これから天下を取るでしょう。その過程で、多くの敵と戦うことになります。柴田勝家、織田信孝、徳川家康……」

恵瓊は、一つ一つ名を挙げた。

「われらが今、羽柴殿と敵対すれば、彼らと同じ運命を辿ることになります」

「では、羽柴に従うのか」

「いいえ。従うのではなく、友好を保つのです。敵にはならず、味方にもならず」

輝元は、恵瓊の策を理解した。

「中立を保つ、ということか」

「その通りです」


「だが、恵瓊」

輝元は、もう一つ尋ねた。

「お前は、羽柴という男をどう思う」

恵瓊は、しばらく考えた。

そして、答えた。

「優秀です。そして、冷酷です」

「冷酷、か」

「はい。羽柴殿は、目的のためなら、何でもします。主君を裏切ることも、味方を欺くことも」

恵瓊の声には、ある種の畏怖があった。

「だが、それでいて、人心を掴むのが上手い。兵たちは、羽柴殿のために命を懸ける」

「矛盾しているな」

「はい。だが、それが羽柴秀吉という男です」

輝元は、頷いた。

「分かった。お前の策に従おう」

「ありがたき幸せ」

恵瓊は、深く頭を下げた。


翌日、正式に和睦が成立した。

高松城主の清水宗治は、切腹することで和睦の条件とされた。

宗治は、それを受け入れた。

「わが命で、多くの命が救われるなら」

宗治は、船に乗り、湖の上で切腹した。

その様子を、秀吉は遠くから見ていた。

「見事な最期だ」

秀吉は、呟いた。

だが、その顔には、同情はなかった。

ただ、計算があった。

宗治の死によって、和睦は完全に成立した。

これで、秀吉は京へ戻れる。

光秀を討ち、天下への道を開ける。

すべては、計画通りだ。

官兵衛は、秀吉の横顔を見ていた。

そして、思った。

この男は、人の死すら、自分の計画の一部にしている。

清水宗治も、織田信長も、明智光秀も。

すべてが、秀吉の駒なのだ。

官兵衛は、背筋が寒くなった。

だが、同時に、この男についていこうと決めた。

なぜなら、秀吉こそが、天下を取る男だと確信したからだ。


和睦が成立したその日の午後。

秀吉の軍は、備中を発った。

目指すは、京。

中国大返しの始まりであった。

毛利の陣営からは、恵瓊が見送っていた。

「羽柴殿は、天下を取るだろう」

恵瓊は、呟いた。

「そして、新しい時代が始まる」

その言葉には、期待と不安が混じっていた。

毛利との講和は、こうして成立した。

だが、その裏には、多くの密約があった。

秀吉と恵瓊の間で交わされた、密約が。

それは、誰にも知られることなく、歴史の闇に葬られた。

ただ、一つだけ確かなことがあった。

秀吉は、すべてを計算していた。

本能寺の変も、毛利との講和も、中国大返しも。

すべてが、秀吉の筋書き通りであった。

そして、その筋書きは、まだ終わっていなかった。

次の舞台は、山崎。

そこで、光秀を討つ。

秀吉の野望は、止まることを知らなかった。

月は、空に浮かんでいた。

その月が、すべてを見ていた。

秀吉の嘘を。

秀吉の野望を。

そして、秀吉の孤独を。

毛利との講和は、表面上は平和的に終わった。

だが、その裏では、大きな陰謀が動いていた。

それを知る者は、ごくわずかであった。

秀吉と恵瓊、そして、あの影の男だけが。

歴史は、勝者によって書かれる。

秀吉は、その勝者になろうとしていた。

そして、自分に都合のよい歴史を、書こうとしていた。

本能寺の変の真実は、永遠に闇の中に葬られるだろう。

だが、それでも、真実は存在する。

誰も語らない、誰も知らない、真実が。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ