第9章 光秀という駒
天正十年六月十日。
山崎の戦いの前日。
明智光秀は、勝龍寺城にいた。
京から南に下ったこの城が、光秀の最後の砦となっていた。
光秀は、一人、城の櫓に立っていた。
眼下には、秀吉の大軍が見える。その数は、自軍の倍以上であった。旗が風になびき、兵たちの声が遠くから聞こえてくる。
「わしは、負ける」
光秀は、静かに呟いた。
それは、諦めではなかった。冷静な分析であった。
兵力、士気、準備。すべてにおいて、秀吉が上回っている。
これは、もはや戦ではない。処刑だ。
「なぜだ」
光秀は、自問した。
「なぜ、こうなった」
本能寺の変から、わずか十日。
その十日の間に、すべてが変わった。
光秀が天下人になるはずだった。
だが、現実は違った。
光秀は、孤立していた。誰も味方せず、誰も助けない。
本能寺の変の後、光秀は京を制圧した。
そして、諸将に使者を送った。
味方になってくれ、と。
だが、誰も応じなかった。
細川藤孝は、光秀の娘・玉を嫁にもらった息子・忠興の父である。盟友と呼べる関係であった。
だが、藤孝は剃髪して中立を宣言した。
「申し訳ないが、お味方はできません」
使者が持ち帰った言葉に、光秀は衝撃を受けた。
あれほど親しかった藤孝ですら、味方しない。娘が嫁いでいるにもかかわらず。
筒井順慶は、日和見を決め込んだ。
「もう少し、様子を見させていただきたい」
その言葉の裏には、光秀を見捨てる意図が透けて見えた。
他の武将たちも、様子見を続けた。
誰も、光秀につこうとしなかった。
なぜか。
光秀には、分かっていた。
自分が「逆臣」だからだ。
主君を討った男。
そんな男に、誰がついてくるだろうか。
「だが、わしは……」
光秀は、言葉に詰まった。
自分がなぜ信長を討ったのか。
その理由を、光秀自身が明確に説明できなかった。
光秀は、信長に仕えて長かった。
天文二十年頃から、もう二十年以上になる。
忠実に働き、功績を上げてきた。
丹波攻略、近畿の治安維持。多くの難題を、光秀は成し遂げた。
知略に優れ、政治に長け、文化にも通じている。
信長の家臣の中でも、屈指の能力を持つ男だと、誰もが認めていた。
だが、報われなかった。
信長は、光秀を認めなかった。
いや、認めていたのかもしれない。
だが、それを表に出さなかった。
それどころか、最近の信長は、光秀を冷遇していた。
ある時は、人前で罵倒された。
「この役立たずめ」
家臣たちの前で、信長は光秀をそう呼んだ。
光秀は、ただ頭を下げるしかなかった。
ある時は、領地を取り上げられそうになった。
「丹波は、別の者に任せる」
その言葉を聞いた時、光秀の心は凍った。
なぜか。
光秀には、分からなかった。
自分が何か過ちを犯したのか。
信長の機嫌を損ねたのか。
だが、思い当たる節がなかった。
ただ、信長の態度が、日に日に冷たくなっていった。
光秀は、追い詰められていた。
このまま信長に仕えていても、未来はない。
いつか、切り捨てられる。
その恐怖が、光秀を支配していた。
夜も眠れず、食事も喉を通らない。
家臣たちは、光秀の様子を心配していた。
「殿、お体は大丈夫ですか」
「心配するな」
光秀は、そう答えた。
だが、心は壊れかけていた。
そんな時、ある人物が現れた。
僧侶の姿をした、その人物は、光秀にこう言った。
「明智殿、このままでよろしいのですか」
「何を言う」
光秀は、警戒した。
「織田様は、あなたを捨てようとしています」
「根拠のないことを」
「根拠はあります。織田様は、すでに次の丹波攻めの責任者を決めています。あなたではなく、別の者を」
光秀は、動揺した。
それが本当なら、自分の立場は危うい。
「誰が、そのようなことを」
「それは、申し上げられません。ただ、あなたが動かねば、すべてを失うことになります」
僧侶の言葉に、光秀は混乱した。
「動く、とは」
「織田様を……」
僧侶は、それ以上言わなかった。
だが、その意図は明らかであった。
光秀は、その提案を拒否した。
「そんなことはできぬ」
「では、このまま滅びるのですか」
「わしは、信長様に忠義を尽くしてきた」
「その忠義が、報われましたか」
僧侶の問いに、光秀は答えられなかった。
報われていない。
それは、事実であった。
二十年以上仕えて、得たものは何か。
地位は与えられた。だが、信頼は得られなかった。
「明智殿、よく考えてください。織田様が本能寺におられる間に、動くしかないのです」
「本能寺に……」
光秀は、はっとした。
「なぜ、それを知っている」
信長が本能寺に滞在することは、まだ公にされていなかった。
僧侶は、笑った。
「私は、多くのことを知っています。そして、あなたを助けたいのです」
「なぜだ。なぜ、わしを」
「それは、いずれ分かります。今は、ただ考えてください」
僧侶は、そう言って去っていった。
光秀は、一人残された。
そして、考え続けた。
夜を徹して、考えた。
数日後、同じ僧侶が再び現れた。
「明智殿、決断の時です」
「まだ、決めていない」
「時間がありません。織田様は、まもなく本能寺を発たれます」
光秀は、迷っていた。
信長を討つなど、考えられない。
だが、このまま何もしなければ、自分は滅びる。
その板挟みの中で、光秀は苦しんでいた。
だが、その迷いを断ち切るように、僧侶は言った。
「あなたが動かなくても、誰かが動きます」
「誰かが、だと」
「はい。そして、その時、あなたは完全に排除されます」
光秀の背筋が、凍った。
「それは、どういう意味だ」
「織田様の周りには、多くの者が天下を狙っています。柴田殿、羽柴殿、そして他の者たちも」
「羽柴……」
光秀は、秀吉の名を聞いて、何かを感じた。
あの男の、野心を。
「羽柴殿は、すでに準備をしています」
「何の準備だ」
「それは、申し上げられません。ただ、あなたが先に動けば、すべてはあなたのものになります」
僧侶の言葉に、光秀は揺れた。
天下。
それは、光秀も夢見たことがあった。
だが、自分のような出自の者には、無理だと諦めていた。
「本当に、わしが……」
「はい。あなたなら、できます。織田様を討ち、天下を治めることが」
その言葉が、光秀の心を動かした。
光秀は、結局、決断した。
本能寺を襲う、と。
だが、その決断は、本当に自分の意志だったのか。
光秀には、分からなくなっていた。
僧侶に誘導されたのかもしれない。
だが、決断したのは自分だ。
誰も、強制などしていない。
光秀は、そう自分に言い聞かせた。
そして、六月二日の夜。
本能寺を襲った。
信長を討った。
その時、光秀は何を思ったのか。
達成感か。
後悔か。
それとも、空虚さか。
光秀自身にも、分からなかった。
ただ、一つだけ確かだったのは、もう後戻りできないということだった。
炎の中で信長が死んだ時、光秀の人生も終わったのかもしれない。
本能寺の変の後、光秀は気づいた。
何かがおかしい。
諸将が、誰も味方にならない。
それは、光秀が逆臣だからだけではない。
まるで、誰かが裏で手を回しているかのようであった。
使者を送っても、門前払い。
書状を送っても、返事なし。
完全に孤立していた。
細川藤孝からの返答は、特に堪えた。
「玉のことは案じております。しかし、この度のことは、お味方いたしかねます」
娘のことは心配するが、父である光秀は見捨てる。
その冷徹さに、光秀は戦慄した。
そして、秀吉の動きが早すぎる。
備中から京へ、わずか七日で戻ってきた。
それは、常識外れの速度であった。
「秀吉は、知っていたのか」
光秀は、ある疑念を抱いた。
本能寺の変が起きることを、秀吉は事前に知っていたのではないか。
いや、それどころか……。
「わしは、利用されたのか」
光秀は、その可能性に気づいた。
あの僧侶は、誰の使いだったのか。
光秀を本能寺へ向かわせたのは、誰なのか。
すべてが、繋がっていく。
秀吉だ。
秀吉が、裏で糸を引いていたのだ。
光秀は、使者を送った。
秀吉のもとへ。
和睦を申し出るために。
だが、秀吉は拒否した。
「逆臣と、和睦などできぬ」
その言葉が、光秀に伝えられた。
光秀は、笑った。
「逆臣、か」
自分は、確かに逆臣だ。
だが、秀吉も同じではないのか。
秀吉は、自分を利用して、信長を討たせた。
それは、秀吉もまた逆臣ということではないのか。
だが、誰もそれを知らない。
知っているのは、秀吉と、あの影の人物だけだ。
光秀は、自分の運命を悟った。
「わしは、駒だったのだ」
誰かの、駒だった。
本能寺の変は、自分の意志で起こしたと思っていた。
だが、実際には、誰かに踊らされていただけだった。
秀吉という男に。
山崎の戦いの前夜。
光秀は、家臣たちを集めた。
「明日、われらは秀吉と戦う」
家臣たちは、緊張した表情で頷いた。
「勝ち目は、薄い」
光秀の正直な言葉に、家臣たちは動揺した。
「だが、戦わねばならぬ。ここで退けば、われらに未来はない」
光秀の言葉に、家臣たちは覚悟を決めた。
「殿に、お従いいたします」
明智秀満が、前に出て言った。
「たとえ、この身が滅びようとも」
他の家臣たちも、続いた。
「われらは、明智の家臣」
「殿とともに、戦います」
光秀は、家臣たちを見た。
そして、涙が溢れた。
「すまぬ」
光秀は、頭を下げた。
「わしの愚かさで、お前たちを巻き込んでしまった」
「殿、顔をお上げください」
秀満が、光秀の肩に手を置いた。
「われらは、自分の意志で、ここにおります」
光秀は、顔を上げた。
家臣たちの目には、決意があった。
その夜、光秀は一人、月を見ていた。
明日、自分は死ぬかもしれない。
いや、おそらく死ぬだろう。
だが、後悔はしていなかった。
本能寺の変を起こしたことを。
それは、自分の選択だった。
たとえ、誰かに誘導されたとしても、決断したのは自分だ。
「秀吉よ」
光秀は、呟いた。
「お前は、うまくやった」
秀吉は、自分を利用した。
そして、自分を倒すことで、天下への道を開こうとしている。
見事な策だ。
だが、光秀は恨んではいなかった。
なぜなら、自分も同じことをしようとしたからだ。
信長を討ち、天下を取ろうとした。
ただ、秀吉の方が一枚上手だった。
それだけのことだ。
光秀は、刀を抜いた。
月明かりに、刀身が光る。
「明日は、この刀で最後まで戦おう」
光秀の目には、決意があった。
もう、迷いはなかった。
自分は駒だった。
だが、駒にも意地がある。
最後まで、戦い抜く。
それが、明智光秀という男の生き様だ。
光秀は、刀を鞘に収めた。
そして、城の中に戻った。
明日、運命の戦いが始まる。
光秀という駒は、最後の役目を果たすために、盤上に残っていた。
だが、その駒を動かしているのは、もはや光秀自身ではなかった。
歴史という名の、見えない手であった。
月は、静かに光秀を照らしていた。
その光は、哀れみに満ちていた。
光秀は、利用された男であった。
だが、それでも、光秀は戦う。
なぜなら、それが武士だからだ。
たとえ駒であっても、最後まで盤上に立ち続ける。
それが、光秀の誇りであった。
夜は、深まっていった。
明日、光秀の運命が決まる。
そして、秀吉の時代が、本格的に始まる。
すべては、計画通りであった。
ただ、光秀だけが、その計画を知らなかった。
知らされなかった。
光秀は、最初から最後まで、駒だったのだ。




