22日目 ジェナ・ワイズとアレクサンドラ・ゼノーラ
お久しぶりです
5時19分
ユージは、体重の乗り切らない尻をソファに乗せながら、部屋に入ってきた男を見上げた。
その容姿は、屈強なロシア人男性のようであるにも関わらず、立ち振る舞いは女性のようだった。
ユージは、妙な色気を漂わせる彼に対して、妙に居心地の悪い気持ちを抱いた。
「依頼?」
その声に、ユージはそちらを見た。
ソファに身体を預け、尊大な雰囲気で男を見上げるジェナがそこにはいた。
常に軽妙な表情で周囲をからかう彼女の雰囲気が、今は違っていた。
彼女は、気まぐれに視線を揺らすこともなく、真っ直ぐに男性を見据えていた。
ユージは、彼女と出会ったときのことを思い出していた。
あの直後から、彼女は肩の力を抜いて自分と関わっていたが、このように思い返してみれば、出会った直後の彼女は、今と同じ目で自分を見ていた。
ユージは、劣等感故ではなく、論理建てた思考故に、自分の感じている居心地の悪さが自分という存在がこの場にふさわしくないが故のものだということに確信を持ち、腰を上げようとした。「俺は出てるよ。邪魔だろ」
「立つな」ユージは、その声を発したジェナを見た。彼女は、アレクサンドラ・ゼノーラと名乗った男性を見据えたまま、唇を開いた。「ここにいるんだ。きみがいる程度のことで、彼女は困りはしない。そして、彼女は、きみ程度の命を気にしたりもしない」
ユージは、ソファに腰を落とした。そして、呼吸を1つしたところで、ジェナのその言葉の意味に気がついた。
ゼノーラは、自分がここにいることも踏まえた上で、ここにやってきた。
それは、彼女が自分を問題だと思っていないからだ。
それは、ユージが平凡な学生であるからか。
いや違う。
ユージの身の上など、彼女は知らないはず。
彼女が知っているのは、自分自身のこと。
彼女自身の経験や技術に対する自信。
そして、自分は、この部屋にやってきたゼノーラに対して、間違いなく怖気づいていた。
それは間違いなくあちらにも伝わっているだろう。
ジェナの言葉には、その言葉以上の意味は込められていない。
彼女は、いつでも、自分を殺せるのだ。
ユージは、自然と、自分の視線が下がるのを感じた。
指先が震えている。
視線の向ける先に困ってしまう。
目の動きだけですら、妙なことをしていると感じられてしまったら、その瞬間に殺されしまう気がした。
気がつけば、ユージは、ゼノーラの靴とジェナの靴の間に、視線を置いていた。
「彼は、ただの助手だ」ジェナが言った。「私は行く先々で助手をハンティングする癖があるモノでね。そのせいで誤解を招くこともあるんだが、助手の頭の出来にこだわったことはないんだ。ただ、推理を進める上で必要だから、そのマネキンを現地で入手するようなものだ」
ゼノーラは、少し考えるように唸った。「その年で、まだ、ぬいぐるみに話しかけているの?」
ジェナは、小さく笑った。「ぬいぐるみを使うこともある。私の推理には必要なのさ」
ゼノーラは、リラックスした様子で微笑むと、頷いた。「そんな風に念を押さなくても、彼に関心はないわ。私も同じ。ただ、行く先々で都合の良いヤツを使ってるだけ」
「精神操作だな」
ゼノーラは頷いた。「貴女の仲間は有能ね。影の世界に入ることが出来ないから、アドリブで進める必要が出来た」
「まだまだだな。そんな単純な抜け穴をきみに与えてしまうようでは」
「貴女の助手は殺さないわ。代わりに、私に使われているだけの連中も殺さないであげてほしい。この人は、美女に弱いだけ。ただ男なだけよ」
ジェナは呆れた様子で、小さく笑った。「私をきみと一緒にするな。私は、問題解決の手段に殺人を採用しなくてはいけないほど愚かではない」
「それを言われると弱いわ」ゼノーラは、小さく笑った。「ずっと貴女達を観察していた。貴女の自信に惹かれたわ。自身の頭脳に対する自信に。頼むなら、ゾーイよりも、ウェンディよりも貴女だと思った」
「その気にさせるのが上手いじゃないか。気に入ったよ」
ゼノーラは、小さく微笑んだ。「これからこの列車内で、数人殺そうと思うの」
ジェナは、ゆったりと頷いた。「続けてくれ」
「私の意図を知れば、私の殺人を止めようとは思わなくなる。だから、貴女には、私の弁護士の真似事をして欲しいの」
ジェナの視線が、なにかを考えるようにぼやけた。彼女は、小さく頬をなぞりながら、視線を落とした。彼女は、浅く深呼吸をした。ぼやけていた彼女の視線が、一点に定まった。「……別に、言わなくても良いじゃないか。こっそりやれば」
「それだと色々都合が悪いの。そちらにはマクレールさんのような特殊な人もいるでしょう」
「たしかに」ジェナは、小さく笑った。「つまり、私に共犯者になれということか。こちらの行動を抑制してもらおうと思っているわけか」
ゼノーラは、ゆったりと首を横に振った。「そういう言い方も出来てしまうわね。ただ……、私を理解して欲しいの。邪魔が入ると困るのよ。大勢の人が困る」
ジェナは、ゆったりとした所作で顎に手を添え、視線を下げた。「誰を殺すつもりなんだ?」
「そちらの誰かではないとだけ言っておくわ」
「それを私が止めようとしたら、きみはどうする」
「別に、どうもしないわ。貴女は賢い。どうせ気づく。貴女達の誰かを殺したりはしない。ただ、殺すべき人を殺すだけ」
「私が今更気づかなくてはいけないことがあるのか。面白いことを言うね」ジェナはうなずいた。「私のような人格形成のルーツを持つ者にとって、君たち社会主義圏で人格形成を済ませた者の危ういところは、私達とは価値観が全く違うというところだ。君たちは大義のためという考えが行動原理にある。私達は、個人の幸せが行動原理にある」
「信用出来ないと?」
「難しいね。宗教故に暴走する危険なグループを見ているようだと言えばわかるだろう」
ゼノーラは頷いた。「なにがあっても、貴女達の誰かを殺したりはしないわ」
「それじゃだめだ。誰を殺すのか教えてくれ」
ゼノーラは、ユージを見た。
ジェナもユージを見た。「出て行ってくれ」
ユージは、跳ね上げられたように顔を上げ、ジェナを見た。
そして、ぎこちない動きで首を揺らし、ゼノーラを見た。
ゼノーラは、優しく微笑んでいた。
ユージは、ゼノーラを見ながら、立ち上がろうとしたが、足腰に力が入らなかった。彼は、ジェナを見た。
ジェナは、いつものなんだかよくわからないことばかりをのたまっているときとは違い、真剣そうに、しかし、呆れたような顔で、ユージを見据えていた。「肩を貸そうか?」その声は、まるで、自分の楽しみの邪魔になってしまっている友人を、その場からどうにか追い払おうとしている子供のようだった。
ユージは、何度も首を横に振った。
ジェナは、ため息を吐き、立ち上がろうとした。彼女が腰を浮かしかけたその時、彼女は、左手を顔の前に出した。彼女の左手の中指と薬指の間に、途方もなく黒く、途方もなく薄い、半月状のなにかが挟まれていた。ジェナは、得意げにほくそ笑むと、その半月状のものをカーペットに落とした。それは、カーペットに吸い込まれる水滴のように、溶けて消えた。「きみでは無理だよ。数分前なら出来たが、今はもう無理だ」
「どうだろ」ゼノーラは、楽しそうな様子で、小首を傾げた。
「彼には外してもらおう。どうせ話ももうすぐ終わりだろう」ジェナは、立ち上がると、ユージの元でしゃがみ込み、彼の肩を下から持ち上げた。
「大丈夫」ユージは、言いながら、ジェナの体を脇で押した。
ジェナの体は、思っていたよりも軽々しく、弱々しく、ユージから離れていった。
ユージは、おぼつかない足取りで、通路に出ると、ジェナを振り返った。
上目遣いで見上げる彼女は、温かい微笑を浮かべていた。「大丈夫だ」ジェナは、ドアを閉めた。
ユージは、震える足を支えるように、車窓にもたれた。
なにか、気まぐれに別のことを考えようと、ぼんやりと客室のドアを見つめたけれど、考えがまとまらない。
ジェナは、あの男と何を話しているんだろう。
何をしているんだろう。
彼女は無事だろうか。
ゼノーラが殺そうとしている人たちの名前を知ったジェナは、どうするんだろう。
止めるのだろうか、それとも、なにもせず、それが起こったあとで、何も知らなかったような顔をして捜査をするのだろうか。
そんなことを思い、それについて考えようとしても、漠然とした不安が脳裏に浮かぶばかり。
ユージは、ため息を吐いた。
ここに、この世界にやってきたのは、なんでだったか。
幼馴染のグロリアに、面白い魔法使いの世界を観光出来るから来ないかと誘われたからだった。
そして、なんだかよくわからないうちに、いくつかの人たちと知り合い、その数分後には、用務員室のドアの前までやってきていた。
大の大人と、年端もいかない子供が数人も肩を並べて、こんなところで何をやっているんだろうと思った次の瞬間、ゾーイという金髪の可愛い美女がドアをノックして、ドアを開いた。
ドアの向こうにあったのは、清掃用具やらの並ぶ用務員室ではなく、木造の小さな部屋。
その中央に立つ人物がドアを開けてくれた。
そして、ドアから飛び込んできたのは矢で、それがノエルという、やたらと育ちの良さを感じさせる長身美女の額に突き刺さったのだけれど、ノエルはなんてことのない様子で起き上がっていた。
その後に、ビルギッタというちびっこが弓を構えて、ドアの外に広がる大空に飛び込んでいった。
彼女の放った矢は、琥珀色の輝きを放ちながら、大空を駆け回り、箒で空を飛ぶ魔法使いたちを次々に撃ち落としていった。
その光景を見て、ユージは、感動すると同時に帰りたいと思ってしまっていた。
帰っておけば良かった。
ユージは、ため息を吐いた。
それから、つらつらと、この2週間のことを思い出していた。
そうしているうちに、目の前のドアが開いた。
ドアを内側に開いたのはジェナで、先に出てきたのはゼノーラだった。
ゼノーラは、ユージを見ると、暖かく微笑んだ。「心配しなくて良いわ。きみにもきみの彼女にも手は出さないし、興味もない」
ユージは、曖昧に微笑を浮かべ、うなずいた。
そんなことを言われたところで信用出来るはずもない。
相手は、自分には理解出来る余地のない価値観を持ち合わせているのだから。
男性は、気味が悪いほどに優しい眼差しをユージに向けたまま、うなずき、通路を進んでいった。
ユージは、男性の眼差しについて、少しだけ思いを馳せた。
作り物のような感じはまったくない、自然な、慈しみに満ちているようにすら感じられる眼差し。
あんな目をする人が、本当に人を殺すのだろうか。
「ユージ」
ユージは、ジェナを見た。
彼女は、気味が悪いほどに優しい手付きでユージの肩を撫でた。「大丈夫か?」
ユージは、小刻みにうなずいた。「ああ。きみは?」
「大丈夫さ。ただ……」ジェナは、考えるように眉をひそめた。「きみに協力してほしくてね」
「嫌だよ。あの話を聞いただけで、もう無理だ。俺には出来ない」
「出来るさ」
「なんでそう思うんだ」
「男だからだ」
「俺はなんてことない、ただの学生だよ」
「でも、男だ」ジェナは、熱のこもった、熱い視線で、ユージを見据えていた。真剣そのものな様子で、彼女は、ユージに期待をしていた。
そういえば、こいつは名探偵なんだった、と、ユージは思った。
普段のとぼけたような立ち振る舞いのせいで忘れてしまいそうになるが、ジェナ・ワイズという女は、自分よりも何杯も賢い魔法族ばかりがいる世界で、名探偵を自称するほどに、自分の経験と技術に自信を持っている、聡明な人物なのだ。
この数日の間、彼女は、ユージの前で、窃盗や痴漢といった、いくつもの犯罪を解決してきた。
彼女には、ユージ自身には見えていない、ユージのすごいところが、彼女には見えているのかもしれない。
熱を持った彼女の視線を受けながら、ユージは、妙な自信と力が全身にみなぎるのを感じた。「出来ることなら手伝うよ」
ジェナは、嬉しそうな様子でうなずいた。「ありがとう。それでこそ私の助手だ」
ユージは、少しだけ恥ずかしそうな様子で笑い、首を横に振った。「よせよ」
ジェナは、小さく笑い、ユージの肩を、撫でた。「実はね、少しだけ頭を使う必要があるんだ」
「得意分野だな」
ジェナは、満足げな微笑を浮かべながらうなずいた。「そして、私が最も好むことでもある。それを存分に楽しめそうな機会がやってきたんだ。久々に本気を出せそうな機会がやってきた。これが、私にとってどれほど貴重なものか、きみに想像出来るかな」
「なんとなく。つまり、今までの事件では、まったく頭を使ってこなかったってことか」
「あんなものは、鼻毛をふっ、と吹き飛ばすようなものだよ」
「汚いな」
「そして、造作もないことさ」ジェナは、力強い笑顔を浮かべた。
ユージはうなずいた。
その笑顔を見ていると、血の気が引いていた全身に熱と力が戻って来るのを感じられた。
ジェナはユージの肩をぽんと叩いた。「セックスをしよう」
ユージは、ぴたっと、動きを止めて、ジェナを見た。
今になって気がついたけれど、ジェナは、胸元のボタンを、1つ多めに開けていた。
彼女は、少しうつむき加減になって、何かを求めるように、熱を持った潤んだ視線でユージを見上げていた。
なんだか、雑誌で見たばかりの恋愛テクを使われているようでしゃらくさいことこの上なかったので、ユージは、失笑を抑えることも出来なかった。ユージは、首を横に振った。「いやぁ……」
「なんでだ?」
「なんでだ?」自分はなにか変なことを言っただろうか。女性としての魅力をふんだんに備えた絶世の美女から誘われて、断った。たしかに、自分は、男として変なことを言っていた。ただ、ジェナを数週間見てきたユージとしては、この光景に対して「なんてもったいないことをするんだ」とブーイングを投げてくる観客がいたら、そいつらに対して、ちょっと待ってくれと説明をする準備は出来ていた。
いやいや。
ちょっと待ってくれよ。
お前たちはわかってない。
この女はイカれてるんだ。
「俺は……、その、ちょっと……」
「なんだ?」
「なんで?」
「セックスすると頭が良く働くんだ。優秀な女性科学者に美女が多いのはそういうことなのさ。奴らはスケベなんだ。だから美しいのさ」
「なるほどそういうことだったんだ……」色々な方面から反感を買いそうなジェナの偏見に、ユージは混乱した頭のまま、相槌を打つような感覚でうなずいた。仮にこの会話で訴えられたとしても、現在の精神状態を説明すれば、陪審員たちも納得してくれるだろう。「いや、俺は、だめだよ」
「なんで」
「別の男にしてくれ」
「なんで」
「自分で考えろよ」
「やはり童貞だったか?」
「っ、そ、そうだよ」ユージは屈辱を感じながら嘘を吐いた。この女から逃げることが出来るならなんと言われても良い気分だった。「初めては大事にしたいんだ」
「隠すのが上手いな」
「それを隠し通すことに関しちゃ自信がある」
「初めては大切だもんな。相手は決めてるのか?」
「ちょうど良い相手が見つからなくてね」
ジェナは、同情するような生暖かい目で、ユージの肩を撫でた。「良い人に出会えると良いな。必要なら協力するよ」
ユージは、顔をしかめながら、口角を上げて、こくこくとうなずいた。「ありがと」
「でも良いのかい?」
「あ?」
「こんな美女と初体験を済ませるチャンス、きみのような男には一生やってこないぞ」
「しつけーよ」
ジェナは、ほくそ笑むと、暖かくうなずきながら、少し考えるようにして、窓の外に視線を向けた。「(……。まあ、ビリウスで良いか……。……)」
その呟きを聞き逃さなかったユージは、心の中で密かに、ビリウスという男性に同情し、彼の心の平穏を祈っておくことにした。




