22日目 名探偵の見る世界
お久しぶりです!
5時7分
ジェナは、客室内部を調べ終えたところで、部屋の中央に立った。
静かに、深呼吸をする。
深い呼吸を繰り返す度に、ジェナの脳内の雑音が大きくなり、周囲の雑音が小さくなっていった。
はじめに、ジェナの意識の中で変化したのは、周囲の景色。
まず最初にわかりやすい変化をはじめたのは、車窓の外だった。白み始めていた空が、徐々に暗くなっていく。右から左に流れていた景色が、左から右に流れていく。
次に変化を始めたのは、ジェナ自身だった。自分という存在の右側から、何かが伸びていく。魔素でもなく、何らかの物質でもない。それは、徐々に輪郭を型取り、人の形を形成していく。それは、もう一人のジェナだった。
もう一人の自分自身は、部屋のアチラコチラを物色し始める。先程まで、自分がそうしていたように。
窓の外が暗くなり、星灯りを取り戻し始めた。
ジェナは、まぶたを閉じ、静かに、深呼吸をした。
自分が、自分の中心へ、深く深く吸い込まれるような感覚に、いつものように身を委ねる。肺いっぱいに吸い込んだ空気を深く吐き出し、そっと、まぶたを開く。部屋の中は、ぐにゃりとした粘土のようになり、一瞬ごとにその形を変えていた。
部屋の家具や調度品だけではない。
ジェナを包み込むその空気や、ジェナ自身までもが、一瞬ごとに形を変える粘土のようになっており、それらは、ぐにゃぐにゃと蠢きながら、絶えることなく動き続け、少しずつ形を変えていく。
くしゃくしゃになったベッドシーツが、カーペットのシワが、あるいは、キャビネットの上のカップが、少しずつ、その形容を変え、形を変え、色味を変え、そして、定まっていく。
先程から、ゆったりと逆回転をしていた壁掛け時計の針は、その勢いを、徐々に増していく。その速度は、徐々にゆっくりになっていき、その時計の針が深夜3時を示した時、逆転する時計の針は、1周が60秒の速度にまで落ち着いた。
部屋の中に、あの人間の助手はいなくなっていた。
部屋の中には、鉄道警察を兼務するラシアの警官数名と、車掌たちのリーダーを務めるウェンディ、ジェナの同僚であるユライたちの姿、そして、被害者であるラチェット夫妻の亡骸があった。
違う、ジェナは思った。もう少しだ。
逆転する時計の針が再び速度を増す。
警官数名、ウェンディ、ユライ、ラチェット夫妻、それぞれが、まるで1900年代初頭の白黒映画のようなカクカクとした動きで、徐々に、時間を遡っていく。逆転する時計の針の速度が戻った時、部屋の中には、警官たちの姿も、ウェンディ、ユライの姿も消えていた。代わりにいたのは、ラチェット夫妻、そして、モノクロの霧のようなシルエットをした、1人の人物。
ジェナは、霧のような人物を見て、うなずいた。「やあ、きみだね」
『なにが?』ユージの声が、脳内で反響した。
「君じゃないよ。黙っていてくれと言っただろう」ジェナは表情も声色も変えずに言った。今、ジェナが意識を向ける先は、ジェナの意識の中に広がる景色だけだった。
『悪かったよ』拗ねたような声が脳内で反響し、再び静かになった。
ジェナは、その霧のような人物に微笑を向けた。「はじめまして、どうやったのか見せてくれ」
ジェナの言葉に、霧のような人物はうなずいた。
霧のような人物は、なめらかな挙動で、動きはじめた。まず、霧のような人物は、夫であるラチェット氏に向けて、歩みを進めた。
「違う」
霧のような人物は、ジェナの言葉に立ち止まり、彼女を振り返って、少しばかりコミカルに首を傾げた。
霧のような人物の頭の上には、?の記号が浮かんでいた。
ジェナは、霧のような人物の足元を見た。「きみは女性だね」
ジェナの言葉に応じるように、霧のような人物のシルエットが、徐々に定まっていく。肩幅は狭く、ボディラインはふくよかなものからほっそりとしたものの間を行ったり来たりし、ほっそりとしたシルエットに定まる。身長は150から190の間を往来し、174cmほどに。
少しだけ人物像の定まった霧の女が、ジェナの前に現れた。
霧の女は、これで満足か? とでも言うように、腰の辺りで両手を小さく広げてみせた。その動作には、少しばかりの苛立ちが込められていた。
「ああ、大満足だ」ジェナは、ニコニコしながら小さく頷いた。「はじめてくれ」
霧の女は、ラチェット氏に向かい、そして、手刀でその首を叩いた。
ラチェット氏は力を失い、その場に倒れ込む。
周囲を流れる時間が速度を失い、スローモーションで流れ始めた。
スローモーションで動く霧の女は、悲鳴を上げるラチェット婦人を見た。
ジェナは、小さくうなずいた。「そうだな。凶器は見つからなかった。客室内部に漂う魔力の残穢も、ラチェット氏と婦人のものだけだ。となれば、その手で行ったと考えるしか無い。女性でそれを可能とするには、万能の魔法使いか、影の魔法使い並みの力が必要だ。小柄で細身な男? それは違う。きみの手の大きさやサイズは、間違いなく女性だ。そうでなければ子供だな。子供が犯人。あり得るな、ラシアなら。いや、違う」ジェナは頷き、よだれを飲み込み、霧の女を見た。「素晴らしい手際だ。訓練を受けているな。生まれて10年やそこらの子供では、ここまでのものにはならないだろう」ジェナは、スローモーションで流れる時間の中で、カーペットの上に倒れようとしている男性を見た。「そして、きみもだ。倒れる角度からして、受け身を取ろうとしている。打たれる前に身をひねっていたな。一撃で行動不能にされるのは予想外だったか」ジェナは、霧の女に視線を向けた。周囲は、再び速度を取り戻した。
霧の女は、ラチェット婦人に対しても、同じように、首に目掛けて手刀を振るった。
婦人もまた、力を失い、倒れ込んだ。
「婦人の方は、訓練は受けていない」ジェナは呟き、霧の女を見た。
霧の女は、テーブルの上にあるグラスを取り、そこに注がれていた水を飲んだ。
グラスは3つあった。
ジェナはラチェット氏を見た。「知り合いを、水で歓迎したのか。ケチなのか、いや、きみが望んだのか」ジェナは、霧の女を見て言った。訓練を受けている者は、酒のような毒物を好んで口にしたりはしない。口にする時は、必要に迫られたときだけだ。
霧の女は、グラスを拭き、客室を出た。
ジェナは、霧の女の後に着いていった。
通路は、ぐにゃりとした粘土の様になっていたが、すぐに形と色を取り戻し、列車内の通路の景色を形作っていった。
何人かとすれ違うが、霧の女は、淀みのない歩調で進んでいく。行き先が決まっている者の歩調だ。霧の女がたどり着いた先は、早朝の食堂車だった。
この曜日のこの時間帯では、スタニスラスというラシア人の青年とヴェンデルガルトという15歳の車掌が働いていたことを、ジェナは記憶していた。
「あとで話を聞くことにしようか」
霧の女は、そこでなにかを注文し、食事を始めた。食事を終えると、霧の女は、支払いを終え、席を立った。
ジェナもまた、その後を追う。
たどり着いた場所は、ルーフトップガーデンだった。薄暗いルーフトップガーデンには、数組のカップルがいるだけだ。ジェナは、記憶を探り、この時間、そのルーフトップガーデンで過ごしていそうなカップルをいくつかリストアップした。あとで話を聞くことにするが、おそらく、大した話は聞けないだろう。カップルは、周りにあまり気を配らないものだ。だからこそ、自分のような、多くの独身者を苛つかせるような言動が出来るのだ。ジェナは小さく舌打ちをした。余計なことに意識を割かれたその瞬間、周囲の景色が歪み始めた。ジェナは、慌てて思考に集中することにした。周囲の景色の歪みが収まり、元のルーフトップガーデンの景色に戻った。
霧の女は、ルーフトップガーデンで数時間を過ごした。そして、空が白み始める少し前、霧の女は立ち上がり、階段を降りた。そのまま通路を進んでいく。その霧の女の背中を見ていたジェナは、眉をひそめた。ラチェット夫妻の客室へ戻っている。
「忘れ物か? なにかをするつもりか? 隠すべき証拠は全て消えているぞ。ウェンディとユライ、そして、私が調べたんだ。いや、違う……」
ジェナは、口元に微笑を浮かべた。
『ジェナ』ジェナの脳内に、ユージの声が響いた。
脳内で犯人の行動を追うジェナは、不安そうな目をしたユージと目があった。
いつの間にか、自分自身が犯人になりきっていたようだ。
ジェナは、脳内に浮かぶ自分の背中に向けて、微笑を浮かべた。「はじめまして。私は、名探偵のジェナ・ワイズだ」
「『はじめまして。わたしは、アレクサンドラ・ゼノーラ。あなたに依頼があるの』」
その声は、ジェナの脳内で響くと同時に、耳からも聞こえてきた。
仕事が始まる。
自分に戻る時間だ。
ジェナは、まぶたを閉じ、深呼吸をして、まぶたを開けた。
周囲の景色が、霧のように膨らみ、一瞬にして晴れ渡る。
ジェナは、不思議な爽快感にとらわれながら、深呼吸をした。
「座ろうか」ジェナは、身を翻し、ソファに腰掛けた。視線の先、客室の入り口には、見知らぬ男が立っていた。
男は、女性のように微笑んだ。彼は、ユージに会釈をし、部屋に入り、そっと客室のドアを閉じた。




