12日目 ジェームズ・ポストイットとビリウス・ブルバリス
21:03
ジェームズは、中央広場へと続く、メインストリートを歩いていた。
先程までは、気を失った者たちは、建物の中に運ばれるか、道の隅に寄せられていた。
今は、どこにもいなかった。
衛兵たちがどこかへ運んだのかもしれない。
街中に目を飛ばしているノエルに聞けばわかるだろうが、ジェームズは、それについてはあまり気にならなかった。
救助は、今の自分の仕事ではない。
気を失った人々だけでなく、屋台なども消えていた。
ああいった簡素な建物は、出店者たちが自らの魔力で生み出している場合が多い。
環境や金に無関心な者たちは少しばかり値の張る木材を用意して、屋台を自分で作ったりしているが、そういったものはあまり多くない。
そのほとんどは、木材のようにデザインされた、魔力の基礎によって作られている。
製作者が制御出来なくなれば、自壊して、周囲の大気に漂う魔素に溶け込んでいく。
メインストリートは、精神の魔力によって生み出された濃密な霧と通りに転がる屋台料理以外は、いつも通りの景色に戻っていた。
ジェームズは、立ち止まり、夜空を見上げた。
星空が浮かんでいる。
月が、煌々と輝いている。
ジェームズは、スコッチを啜り、ため息を吐いた。「美しいな」
そんな、囁くような独り言が、妙に大きく、周囲に響く。
静かだった。
人々の喧騒はない。
話し声も、石畳を踏みしめる硬い靴底の音も、風の音も聴こえない。
通りのあちらこちらには、美味しい屋台料理が転がっているというのに、野良グリフォンや野良猫や野鳥がそれらに群がってくることもない。
重苦しい静寂。
ジェームズは、この静寂を知っていた。
それは、以前の闇落ちのドラゴン、ジェイミー・ヘミングスがこの世界を恐怖に陥れていた頃のこと。
世界中のあちらこちらで、惨劇が起こっていた。
その惨劇の直後には、悲鳴と鳴き声と憎悪の声が響く。
そして、しばらくすると、重苦しい静寂が訪れる。
今の静寂は、その、重苦しい静寂そのものだ。
胸を重たくさせる不快感と、危機が去った安堵感。
その安堵感は気持ちが悪い。
悪意さえなければ、その安堵感に浸ることもない。
ジェームズは、星空を見上げながらため息を吐いた。
不愉快だ。
グレーの霧は消えていない。
危機はまだ、去っていない。
この重苦しい静寂は、首謀者が意図的に生み出したものだ。
ジェームズは、空になったスコッチグラスを、手の平の中で消した。
濃密な霧が立ち込めている。
それは、中央広場へ向かうほどに濃くなっていく。
ジェームズは、オックスフォードのブーツで石畳を硬く、静かに踏み鳴らしながら、中央広場へ向かった。
───
中央広場に入った途端、霧は晴れた。
晴れ渡る視界で、中央広場を観察すれば、メインストリート同様に、気を失った人々も、店もなく、賑やかな祝祭の後は、綺麗さっぱり消えていた。
代わりにそこにあったのは、いつも通りの中央広場の景色に加え、石畳の上に横たわる屋台料理の数々、そして、数十人の人々だった。
闇落ちのドラゴンの信奉者たち。
旗は掲げていなかったが、その表情や服装や立ち振る舞いを見ればわかる。
どう見ても紳士ではない。
そして、そう思うのは、自分だけではないだろうと、ジェームズは思った。
彼らは、一様にジェームズを見ていた。
挑発するような顔、柔和な顔に鋭い目をした者、無表情で顎を上げ睨みつける者、楽しそうな顔をした者、ニヤニヤと下劣な笑みを浮かべる者。
そんな者たちばかりだったが、二人だけ例外がいた。
一人は、そんな集団の先頭に立つ者。
背丈はジェームズよりも少し高い。
肩幅はジェームズよりも少し細い。
光のない、グレーの瞳。
下がった広角。
ほのかにたるんだ頬。
顔に苦労皺はなく、笑顔故に生まれるシワばかりが刻まれていたが、さまざまな人を見てきたジェームズは、その笑い皺にどこか違和感を抱いた。
目元にあるクマの所為だろうか。
自然なものじゃない。
いびつな笑い皺。
後ろに立つ者たちが趣味の悪い派手な装いをしているのに対し、先頭に立つ彼は、体にフィットしたスラックスと、光沢のある白のシャツ、ブーツだけという、上品ながらもシンプルな服を着ていた。
先頭に立っているということは、彼が、今夜の事件の首謀者のようだ。
ブラウンの髪は短く切り揃えられていて、清潔感と気品があった。
お互い苦労しているな、と、ジェームズは思った。
紳士かどうかを見定める価値はありそうだ、とも。
そして、そんなリーダーの一歩後ろに立つ男性。
彼は、マネキンのような顔をしていた。
無表情というわけでもなく、顔の皮膚にハリがないわけでもない。
ただ、どこか生気に欠けた顔立ちをしている。
服装は後ろの者たちと同じように派手だが、背筋は伸びており、肩も顎も引いていて、その姿勢を見る限り、粗暴も無知も感じられない。
気味の悪さを感じる。
同時に、ジェームズは少し安心していた。
やはり、どの組織も、上に立つ者はある程度しっかりしている。
ジェームズは、肩幅に足を開き、背筋を伸ばし、胸を張り、少しだけ顎を引いた。
先頭に立つ男性に対し、紳士らしく向き合うために。
──
口を開いたのは、闇落ちのドラゴンの信奉者たちの先頭に立つ男性だった。「ジェームズ・ポストイットだな」
ジェームズは頷いた。「君は?」
「闇落ちのドラゴンを崇拝する者たちだ」
「そうか……」ジェームズは、ジャケットの内ポケットからタバコを取り出し、咥えた。「名前を聞いたんだが、教えるつもりはないか」
「失礼した」
ジェームズは、男を見た。ジェームズの目尻が下がり、口角が上がった。彼は、咥えたタバコと取り出したマッチを、ジャケットの内側に戻した。「人にはそれぞれの事情がある。それ故に名乗れないのなら、無礼とは捉えない」
男性は、小さく微笑んだ。「ビリウス・ブルバリスだ。指導者の地位にある」
「指導者……」ジェームズは考えるように視線を落とし、すぐに、ビリウスと名乗った男性に視線を戻した。「以前の戦いでは、13人いたな。君となら、交渉が出来るのかな?」
「君がその立場にあるのなら」
「立場の話をするのなら、私も君も、お互いに対して申し分ない。話し合いが出来る者同士なら、わざわざ息を切らせて汗をかく必要もないだろう」
「この状況なら、話し合いよりも、息を切らせて汗をかく方が、こちらとしては意見を通せそうだ」
「そう思うなら、私の見込み違いだということだ。私がそこそこ以上に出来る奴だということを、君はすでに知っているし、わかっていると思っていたぞ」
ビリウスは、小さく笑った。「そうだな。君が倒した者たちは、いずれもそこそこの連中だった」
「話さないか?」ジェームズは、広場の端にあるテラス席を手の平で示した。
昼間はカフェで、夜はバーになる店だった。
セントラル・ニホニアで過ごして数年になるジェームズにとって、その店はお気に入りの一つだった。
半径が24mある店内の中央では、いつもピアノやジャズの演奏がされており、お気に入りの銘柄のスコッチや、ギネスビールを扱っていた。
ビリウスは、そちらを見て、目尻を少しだけ下げ、口角を上げ、頷いた。「そうだな」ビリウスは、自分の背後に立つ者たちに顔を向けた。「ここで待っていろ」
マネキン顔の男性が、ビリウスを見た。「良いんですか?」
「彼は話せる人だ。敬意を払いたくなった。君たちは、ここで待っていろ」
マネキン顔の男性は、頷き、背後に立つ粗暴な装いの連中に対しても、頷きかけた。
ビリウスは、ジェームズを見た。「行こうか」
ジェームズは頷いた。「あぁ」
二人は、少し離れた場所にあるテラス席まで歩いた。
いつもなら、この距離でも、ジャズが聴けるのにな……、と、ジェームズは思いながら、口を開いた。「奇遇だな。私も、君に敬意を払いたくなった」
ビリウスは笑った。「相手の地位に興味はないか」
「地位を理由に膝をつく相手は、女王陛下だけだ。君こそ」
「私か?」
「驕っていない。それだけで好感が持てる」
「他人が私をどう呼ぼうと興味がない。むしろ、地位を理由にひざまずく相手を見たら、少し心配になってしまうよ。頭が軽いんだなと」
「それが礼儀礼節となる場も存在する」
ビリウスは頷いた。「だが、今夜は違う」
ジェームズは笑った。「一代で地位を築いた努力家か」
「そんなところだな。君は、ブリタニア人か」
「そうだ。君からはカフカスの香りがするな。アルマニア人か?」
「母はな。父はジョルジア」
「良いところだ」
ビリウスは、テラス席に腰を落ち着けた。
ジェームズは、店内を見た。
気を失ったジャズ奏者たちの姿は、店内になかった。
そればかりか、店員も客もいない。
やはり、誰かがどこかへ運んだようだ。
ジェームズは、ビリウスを見た。「ワインが良いか?」
「あぁ、ありがとう」
ジェームズは、店内に入った。
カウンターを飛び越え、お気に入りのスコッチのボトルと、ジョルジアワインのボトル、そして、ギネスビールを二つのリットルグラスに入れ、それらをカウンターに置く。
レジへ向かい、メモを残す。
──ジェームズ・ポストイット。スコッチボトル−1、ワインボトル−1、ギネスビール−2リットル──
ジェームズは、そのメモの上に100FU紙幣を3枚乗せ、その上にペンを乗せた。
ジェームズが指を振るうと、ボトルとグラスがふわりと宙に浮き、ビリウスの待つテーブルへ向かっていった。
ジェームズは、その後を歩いて追い、ビリウスの向かいに座った。
ビリウスは、ジェームズから差し出されたビールグラスを持った。
ジェームズは、微笑むと、ビールグラスを持ち上げた。
二人は、乾杯をした。
ビリウスは、一息でビールのグラスを空にした。「美味い」
ジェームズは、小さく笑った。「美味しそうに飲むな」
「美味いよ」ビリウスは、ワイングラスを生み出し、そこにジョルジアワインを注いだ。「君も飲むか?」
「もらうよ」
ビリウスは、ワイングラスをもう一つ生み出し、そちらにもワインを注いで、ジェームズの前に、グラスをそっと押した。
ジェームズは、そのワインを啜って、小さく唸った。「久しぶりに飲んだ」
「気に入ったか?」
「あぁ。ワインには詳しくないが、飲むならジョルジア産か、フロンジェリーヌ産か、アテリア産と決めているんだ」
ビリウスは笑った。「ミーハーだな」
ジェームズは、柔らかな笑顔を浮かべた。「それ以外のワインは、それっぽいだけの何かだと思ってる」
「友人のワイン農家に聞かせたいよ。きっと喜ぶ」ビリウスは、ワインを啜り、グラスを置いた。彼は、唇を舐めた。「ポストイット」
「ジェームズと呼んでくれ」
「ジェームズ。ビリウスと、……いや、ビルと呼んでくれ」
「ビル。初めまして」
「初めまして」
二人は、握手をした。
ビリウスは、ワイングラスを揺らして、香りを立たせた。ビリウスは、鼻で、深く息を吸い込み、その香りを楽しんだ。「……ジェームズ。君は、何者だ?」
ジェームズは、早々にワインを飲み干し、ウィスキーグラスを二つ生み出し、そこにスコッチを注いだ。「私は、グレート・ブリタニアの軍に所属している。主な仕事は、国外にいるブリタニア人を助けることだ。旅券を盗まれたとか、帰りのスライムを借りる金を盗まれたとか、善良だが少しだけ間の抜けている者たちを助けるのが仕事だ」ジェームズは、ビリウスの前に、スコッチグラスを押した。
ビリウスは、スコッチグラスを取り、一口啜った。「人の役に立つ仕事だな。素晴らしい」
「私も気に入っている。人から感謝されるのは好きだ」ジェームズは、スコッチを啜った。
「それが、なぜ、このようなことをしている?」
「前線からは、ずいぶん前に退いた。だが、闇落ちのドラゴンの復活という噂を聞いた折に、今回のことが起こった。折角だから、私に出来ることをやろうと思ってね。タバコは?」
「私は吸わないが、気にしないでくれ」ビリウスは、小さく手を振り、タバコの誘いを断った。彼は、考えるように視線を動かした。「違和感があるな。なんだろう……」
ジェームズは、タバコを咥え、その先にマッチで火をつけた。
「素晴らしい話だったが、人が初対面の相手に話す内容は、基本的には素晴らしいことだけだ。国外にいるブリタニア人と言ったが、例えば、テロに巻き込まれた者たちの安否を調べたり、救出をしたり、犯罪組織に協力する者を捕まえたりといったことも、君の仕事なんじゃないか?」
ジェームズは、その琥珀色の目を輝かせた。
「そうなると、君の仕事は、もしかすると」
ジェームズは、小さく微笑んだ。「そうだな。女王陛下の騎士だ」
ビルは頷いた。「しかし、君の名前は聞いたことがない」
「この名前は、友人からいただいたものだ。あちらの世界からやってきた友人さ。あちらの世界とこちらの世界は地理が瓜二つだ。彼は、こちらの世界でいうブリタニア、あちらの世界でいうイギリスの人間だった。こちらとあちらを結ぶドアを偶然潜って、こちらへやってきて、私と知り合った。礼儀正しく、教養もあり、好奇心と知性と信念がある。私は彼を案内し、彼は私にあちらの世界の話を教えてくれた。前回の闇落ちのドラゴンが生まれる前の話さ」
「本当にあちらの世界があるのか。物語の中だけだと思った」
ジェームズは頷いた。「美しいところだった。こちらの世界のミニチュアで、私たちにとっては一つの国を周るくらいのサイズだ。代わりに、文明レベルは比べ物にならないくらい発展している。ノルドにハスブルゲルっていうハンバーガー屋があるだろう」
「美味いよな。大好きだ」
「実は私もだ。あれが、あちらの世界には至る所にあるんだ」
「冗談だろう」
ジェームズは笑った。「本当さ。あとは、あちらの世界では本が安く買える。読み書きを覚える必要はあるし、こちらでは使い道のない知識も多いがな」ジェームズの笑顔が、さらに濃くなった。「ユニコーンの代わりにバイク、スライムの代わりに自動車、ドラゴンの代わりに飛行機っていう乗り物が流通している。もっとも、それらを動かすためには臭い空気を排出する必要があるんだ」ジェームズは、星々が輝く、澄んだ夜空を見上げた。「美しいばかりではないが、基本的には美しい。その点に関しては、こちらの世界と同じだ。私のお気に入りは、ヴェネツィアという場所でね、ニホニアン・ガムラスタンのように、運河が町中を通っている街だ。この世界でいう、アテリアのヴェニツァーノに相当する場所だ」
ビリウスは、テーブルの上で、やんわりと腕を組み、身を乗り出した。「素晴らしいところだな。どうやって行くんだ?」
「それは、教えられないな」ジェームズは、タバコの煙を吐いた。
「けちっ」ビリウスは、背もたれに身を預けた。
ジェームズは小さく笑った。「私の名前を聞いたことがないと言ったな。逆に言えば知り得るほどの情報網があるということだ。そんな君が知らないということは、行き方は秘匿されているということだ」
「なぜ秘匿する」
「たぶん、あの世界が美しいからさ」
「この世界よりもか?」
「美しさに優劣はない。ただ、あの世界は美しく繊細だ。あの世界は、繊細な足取りと手付きを持つ者にこそ相応しい。君はともかく、君の後ろに立つことを誇りのように思っているような連中には相応しくない。君を従えるような奴にもな」
ビリウスの肩が、ピクッ、と動いた。「私は、誰にも従っていない」
「それなら聞かせてくれ。なぜ、そちらに立って、こんなことをしている? 自分の意思でやるような奴には見えない」
ビリウスは、ワインを啜った。グラスが空になった。スコッチのグラスも空になっていた。「スコッチをくれ」
「もちろんだ」ジェームズは、スコッチをビルスのグラスに注いだ。
ビリウスは、スコッチを啜り、数十メートル離れた場所でこちらを伺う者たちを見た。先ほどまで自分の背後に立っていた者たちだ。「……この世界は、醜いと思わないか?」
ジェームズは、首を横に振り、スコッチを啜った。「思わない。美しいよ。この世界も」
ビリウスは、ジェームズを見た。「君は、美しい場所で生まれ育ち、生きていたんだな」その声は、少しだけ語気が強く、そして、少し悲しげだった。
ジェームズは、ビリウスと視線を交えた。そして、小さく首を傾げた。「そうかもしれない。時々、自分を馬鹿だと思うよ。視野が狭いとな。育った場所が良いところだったと気付かされるのは、いつだって、軽蔑する者たちを前にした時だ。そうでもしないと、気がつけない。自分で築いた人間関係なんて、所詮その程度の気づきももたらさないものだったってことだ」
「もう少し、フランクになれば良いんじゃないか? 君は上品だが、少し堅苦しいところがある」
「多少練習すればなんでもそつなくこなせる自信はあるんだが、そこだけは、結局どうにもならなかった」
ジェームズは笑い、ビリウスも笑った。
ビリウスは、スコッチを啜り、首を動かさず、目の動きだけで、闇落ちのドラゴンの信奉者たちを示した。「一緒に働く前も、一緒に働いてからも、同じことを思っている。あいつらは醜い。目的を果たしたら、あいつらは処分するつもりだ」
「目的? 良ければ聞かせてくれないか? 内容によっては、あそこのアレたちよりも力強い助けになれる」
ビリウスは、スコッチグラスを揺らし、香りを立たせた。ビリウスは、その強いアルコールの香りにむせた。ワインよりも強い酒を飲むことは、あまりなかった。
ジェームズは、そんなビリウスを見て、静かに口を開いた。「子供の頃は、大人になればお先真っ暗だと思っていたが、見えてくる物もある。仕事上の付き合いではあるが、様々な者と関わる機会が増えた」ジェームズは、脳裏に、マイケルやサミュエル、ノエルやフィリップ、マークたちの顔を思い浮かべた。「少し視野が広くなり、寛容さや柔軟さを手に入れた」
「ようやく大人になれたってわけか」
ジェームズは笑った。「そうだな。歳だけ大人になっても、大人ってわけじゃないんだ」
「何歳だ? 私は147になる」
「159だ」ジェームズは笑った。「酔っ払ったおっさんが頑張って喋ってるんだ。頼むから遮らないでくれ。酒を飲みながらだと話の中身を忘れてしまいそうになる」
ビリウスは笑った。「悪かったよ」
ジェームズは笑った。「それで、ようやくわかってきたんだ。どんな美しい世界にも、しわ寄せがある。君は、そこで過ごさざるを得ない時間が長かったんだ。この例えを使うとき、私は私の仕事を、仕立て屋に例える。しわを伸ばし、世界を綺麗にするんだ」ジェームズは、スコッチを啜った。グラスが空になった。ジェームズは、スコッチを注ぐ代わりに、背もたれに身を預け、ビリウスを見据えた。「このようにして言葉を交わせる者が、不当な苦痛を受け、堪えている姿を見たくない」
「……不当な苦痛か」
「それに、意図はどうあれ、君のような者が多数の民間人に対して不当な苦痛を与えている事実も、悲しく、許し難い」
「そちらが本性かもしれないぞ?」
「人に裏表はない。あるのは、多くの側面だけだ。今夜のことを行なった時の君は、残虐な面にスポットが当たっていた。今は、紳士的な面にスポットが当たっている。私は、今の君となら、友人になれる気がするんだ」ジェームズは、スコッチをグラスに注いだ。「私は、前回の闇落ちのドラゴンの戦いに参加した。当時はただの兵士だった。その時、数々の悲劇を目にした。当時の私に出来たことは、不当な苦痛を誰に対しても与えないように立ち振る舞うことだけだ。そのリスクを少しでも感じたら、私は何も出来なかった。逃げ惑うだけだったんだ。それらを目にして、そんな体験をしておいて、自らを研鑽しないでいられるほど、私は無関心を貫けなかった。今や、私は、ブリタニアにとって、それなりに重要な者になれた。女王陛下には、3回謁見をした。3回目には、先に名前を呼んでいただけた」ジェームズは、スコッチを啜った。「光栄なことだ」
「良いな。羨ましいよ」ビリウスは言った。感情を抑えているようで、言葉にも、表情にも、感情は出ていなかった。
その言葉にどのような感情が込められているのか、ジェームズにはわからなかった。「君はなぜ、そちらにいるんだ」
ビリウスは、儚げな笑顔を浮かべ、わざとらしく笑った。「努力はしたさ。それでも、報われなかった。君は、現状が君の努力だけで作られたものだと本気で思っているのか? 違う。君は幸運だったんだ」
「そうだ」ジェームズは、ビリウスの責めるような言葉を受け止め、頷いた。「努力を続けていた。報われなくても、ひたむきに努力を続けていた。そして、巡り巡ってきたチャンスを見過ごさずに済んだ」ジェームズは、小さく首を横に振った。「いや、こんな言い方はフェアじゃないな。確かに、私はツイていた。ツイていたのは、好きなことを続けることが、努力を続けることと意味が同じだったことだ。報われないなどと思うこともなかった」
ビリウスは、頷いた。彼は、額を指先で撫でた。「今夜の目的は、ただ、混乱を起こすだけだった。ヴェルが来ていると聞いて、誘き出そうと思ってね」
「やはり、彼女は君たちと一緒にいるわけじゃないんだな」
「あぁ。だが、闇落ちのドラゴンたちは、世論の操作にヴェルを利用しようとしている」
「セウェードゥンが流した誤情報に踊らされたな」ジェームズはスコッチを啜った。
ビリウスは、小さく笑い、スコッチのグラスを持ち上げた。「お恥ずかしい限りだよ」
「また一歩大人になれたじゃないか。恥を乗り越えて、人は成長していくのさ」
「それは愚か者だけだ」
「特大の鏡を見ろ。向こうの連中と一緒にな」
「断る」
ジェームズとビリウスは笑った。
その時、広場の隅から、声が聞こえてきた。
一人は、怯えるような声を出す男性。
もう一人は、頼もしい声を出す衛兵の格好をした男性だった。
──
「おいっ! え、衛兵さんっ、なんなんだよこれっ、どっどどどっどー、どういうことなんだってばよっ!」
「落ち着いてください。避難所があります。ご案内いたしますので、どうぞこちらへ」衛兵の格好をした男性は、広場の中央に立つ野蛮な者たちと、ジェームズとビリウスたちに視線を向けた。「あなたたちっ! 避難所がありますっ! ご案内いたしますので、早く来てくださいっ!」
ビリウスは、中央広場の隅に現れた二人の男性を見た。「あれは?」
ジェームズもそちらを見た。衛兵の格好をした首舐め男と、みすぼらしい格好をしたマイケルがいた。「避難所があるみたいだな」
「知り合いか?」
「他人だ」ジェームズはしらばっくれた。実際、こんな状況でなくとも、街ですれ違えば他人のふりをする。ジェームズにとって、マイケルとその友人の首舐め男なんていうものは、その程度の存在だった。
「それにしては、このタイミング、まるで君の仲間みたいじゃないか」
ジェームズは、小さく笑った。「無関係だよ。怯え切った、哀れな市民たちだ。そっとしておいてやれ」
ビリウスは、少し考え、部下たちを振り返り、サミュエルとマイケルを指差した。
マネキン顔の男性と、数人の男たちが、サミュエルとマイケルの下へ向かった。
サミュエルとマイケルは、「ご案内いたします」「一緒に行こうぜっ! 多けりゃ多いほど心強いっ!」などと受け答えをしていた。
そのまま、サミュエル、マイケル、マネキン顔の男性と数人の男たちは、広場を出た。
「後ろ暗いことをしているから、怯えているだけの者に対しても怯えなくてはいけなくなるんだ」
ビリウスは、背もたれに寄りかかり、夜空を見上げた。「そうだな……」
「ここだけの話なんだが、あそこにいる野蛮人どもを2人で片付けて、こちらに来ないか?」
ビリウスは、口元を綻ばせた。
先ほどまでは光が宿っていなかったグレーの瞳が、今は、少しだけ輝きを取り戻していた。「揺らいでしまう誘いだな」
「君があんな連中とつるんでまで実現させたいことっていうのは、一体なんなんだ?」
「人を人とも思わない、下劣な者どもを減らすことさ。突き詰めれば、そこに行き着く」
ジェームズは、小さく微笑んだ。「それなら、私たちはやはり友人になれる」
「そのようだ」その時、ビリウスの動きが止まった。彼の目が、冷静なものになる。目の焦点がぶれていく。何かを頭に思い浮かべている。彼の目に宿りつつあった光が、徐々に、失われていく。ビリウスは、鼻で深く息を吸い、吐いた。「……ジェームズ」
「なんだ?」
「やはり、あの二人は、君の仲間だったみたいだな」その声は、平坦だった。
ジェームズは、和やかな空気が、徐々に霧散していくのを、肌で感じた。「落ち着け、何を言っている」
ビリウスは、目を伏せた。彼の目は、どこか悲しげだった。「先程向かわせた者たちが、連絡を絶った」
ジェームズは、パカっと口を開け、あの馬鹿どもが……、と、心の中で罵った。
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