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魔法使いの世界を旅する一年  作者: Zezilia Hastler
第2章 静かなる雪景色
23/72

11日目 目覚め

 ぼくは、右手の指輪をドレスソードに変え、柄を握りしめた。

 なにが起こった?

 ぼくは、周囲に意識を傾けた。新しい魔素の香り。先ほどまではなかった魔素が、周囲には漂っていた。それは万能の魔素だった。でも……、その魔素に宿っている香りや、こもっている感情、質感、重苦しさ……、それらは、その万能の魔素がジェロームくんのものではなく、グロリアからもらった指輪に込められた万能の魔素ではない。誰か、別の人のもの。ぼくが知らない誰かのもの。息が詰まるほどの、肌に触れる魔素には、胸が締め付けられるほどの、なにか、強烈な感情が宿っていた。それでいて、どこか楽しげで、どこか重苦しく、真っ直ぐな意志を感じる。

 砂埃の向こうに見えたのは、ジェロームくんと、見覚えのない男。

『ウゼェな……』ジェロームくんは、その男に、つまらないものでも見るような目を向けていた。

 男は見慣れない形のナイフを持ってジェロームくんに斬りかかっていたが、その刃の先はなにかに遮られるように、空中で不自然に動きを止めていた。男は、どことなく豪華な装いをしていた。見開かれた目は血走っていた。

 その目を見ただけで、男の頭がおかしいということがわかった。

 男は、ジェロームくんに冷たい目を向けていた。「お坊ちゃんぶるなよ。同類の匂いがするぜ」

 ジェロームくんは、余裕たっぷりに、ほくそ笑んだ。『ぶっちゃいないさ。そう思うのは、お前の感性が腐ってるからだ』

 その時、男が、唐突にぼくを見た。血走った目。こわばった表情。その目は、瞬きもせず、ぼくを見据えていた。

 ぼくの心臓が跳ね上がり、全身から力が抜けた。自然と、目が潤んだ。

 次の瞬間、男の姿が消えた。

 右耳のそばで、空気を切り裂くような音がした。右肩が熱かった。燃えるように、焼けるように、溶けているかのように、どろりと……、ぼくからなにかがこぼれ落ちる……。その熱い、溶けたチョコレートのような液体が、右腕を伝い、右手の指の先から、地面に落ちていく……。

 ぼくは、それを見ていた。なにも思わずに。ただ見ていた。他人事のように。

 うん。大丈夫。まだ、冷静でいられている。その冷静さは、すぐに消えてしまう。だから、冷静でいられる内に……。

 ぼくは、自分の精神状態を、妙に、冷静に、分析していた。まるで、他人の精神状態を分析するかのように。

 ぼくは、深く、深く深呼吸をした。

 もうそろそろだ……。

「あ……」ぼくの口から、声が漏れた。血が漏れてる……、痛い……、熱い……、やだ……、なんで……、「……っひ」ぼくの口から、息が漏れた。「ゃだ……」死んじゃう……、やだ、なにこれ……、「ヤダァあぁあぁあぁぁあっ!!!!!!!」なんでなんでなんで切られてるの、こんな、切られてる、切られてる? ぼく、わたし、ダメ、こんなの、うそ……、違う、違う、嘘じゃない、切られてる……。

 振り返ると、そちらには、頭のおかしい男がいた。でも、振り返る前から、なんだか、知っていた気がする。そこに男がいたことを、ぼくの肩を切ったのがその男だと言うことを、ぼくは知っていた。

 男は、ニヤニヤしていた。血走った目が、こわばった表情がリラックスしている。

 楽しんでいるのだ……。動揺しているぼくを見て、優越感に浸っているのだ……。

 ぼくの頭が、焼けるように、熱くなった。熱くなり、燃えるようになり、そして、焼け焦げ、頭の中が、一瞬だけ、真っ白になった。

 …………。

 そう、一瞬だけ。

 鈍く浅い痛みがぼくの体に響き渡り、鋭く深い痛みがぼくの脳を貫く。ぼくは、自分の顔を殴った。鼻が折れるほどに、強く。メキィ……、と、脳内に音が響く。脳内に、染み渡るように。ぼくが壊れる音が、ぼくの中に響き渡る。自然と、ぼくの背筋が伸びた。ぼくは、顔を上げ、満月を見据えた。ぼくは、深く息を吐いた。そして、首を傾げた。

 …………。

 は? なにこの展開。わけわかんないんですけど。

「……ふ」

 ぼくは、小さく笑った。次に、もうちょっと大きめに笑った。わざとらしく笑った。自分を馬鹿にするように。珍しく感情表現豊かになってしまったぼくを恥じるように、ぼくは、わざとらしく鼻を鳴らした。ドレスソードを握りしめ、姿勢を正し、そして、男を見る。

 いや、ほんとマジでわけわかんないんですけど……。なんなのコイツ。なんなん? なんでこんなんなってんの? そうだ。落ち着け。

「……落ち着け」ぼくは小さく笑った。

 思い出すのは、子供の頃のこと。小学生の頃。交換留学で、東京の学校を訪れた時のこと。それは、ぼくが、初めて自分を殺した時のこと。その時、ぼくは学んだのだ。知ったのだ。ぼくは、自分が、どこまでも本能から遠い人間だということに。ぼくは、自分を殺せる。自分を殺す痛み。ぼくは、自分を殺した。別の誰かに殺される前に。それと比べれば、なんだって出来る。自分を殺したのだ。大事なぼくを。ぼくの顔を。わたしの、可愛い顔を。

 それを越えれば……。

 ぼくは肩を竦めた。

 なんてことないさ。

 ふと、鼻先に熱を感じた。そこに指を添えてみた。鼻を切り落とされていた。

 見れば、男は、これ見よがしに、わたしの顔からもいだ鼻に、キスをし、それを口に含んでいた。とんだ変態だ。

『落ち着け』

 ぼくは、ジェロームくんの声に、そちらを見た。

 彼は、冷静な、落ち着いた目でぼくを見ていた。

 ぼくは、彼に向かって微笑んで見せた。いつも通り、彼に微笑んで見せた。

 ジェロームくんは、そのまんまるの瞳を、見開いた。

 なにびっくりしちゃってるの? 当然のことじゃん。

 ぼくは、男を見た。

 男は、不愉快そうに、舌打ちをした。「は? なんだその顔?」男は、わたしの鼻を吐き出し、地面に叩きつけ、それを踏みつけた。「調子に乗んなよカスがっ! 何様だっ! 生意気なんだよテメェっ! からかってのかっ!」男は、まるで、ぼくの、わたしの全てを責めるように、力強く、全身全霊で、声を張り上げた。吐き出される言葉の数々や、男が表現している感情の数々は、脈絡がなかった。そこに理性はないのだろう。こいつの目的は、相手を威圧し、自分の優位性を確かなものにすることだ。こういうタイプは、そうすることで精神の安定を保っているのだ。毎日のように、周囲に、不安や恐怖を振りまき、周囲の人間の精神を不安定にする。そうして不安定になった周囲を威圧したり、同情を誘ったり、他者の人格を決めつけるような言動をし、周囲を支配する。そうすることで、誰にも認められるはずのない自分の欲望を満たすためだけの行いが正当化され、そして、自分の身勝手な喜びを否定する者が悪になるという、歪んだ環境を作るのだ。

 男は声を張り上げ続けた。そうして、ぼくを変えるように。ぼくから、強さを奪うように。ぼくから、わたしを奪おうとするかのように。

 ぼくは鼻を鳴らした。「はぁ? なにそれ。いきなりどうしたの? 思春期?」そうだよね? 楽しいよね? お前、楽しんでるよね? ぼくは、彼に笑顔を向けた。「良いねそれ。もっとやってよ」

 男は、キレたような表情を消し、口元に笑みを浮かべた。

 男の姿が消えた。

 次の瞬間、わたしの太ももが切れていた。

 ぼくは、小さく笑った。

 大丈夫。こいつは、怖くない。こいつは、クズだ。こいつは、身勝手な価値観を、ぼくにとっては悪である理屈を振りかざして、なんの躊躇もなく他者を、わたしを傷つけることの出来る奴だ。そして、それを、こいつはこいつ自身でよくわかっている。自分が歪んでいることを、自覚している。それでも、そうしなければ自分を保てないのだ。だからこそ、必死になって、ぼくを否定しようとしたのだ。そうしなければ殺される、死んでしまうという恐れが、男の怒りの演技の中には見えた。

 ぼくは、もう一度、わたしの顔を殴った。先ほどよりも強く。もう一度、ぼくは、わたしの顔を殴った。わたしの、ぼくの、可愛い顔を。何度も殴った。そして、殴る度に、わたしは、平常心を取り戻していった。

『気持ちワリィ……』

 その言葉を向けられた時、小学生のわたしは思った。

 絶対に理解し合えないものがいるということを。

 意思をもって、自分のために、率先して周囲を傷つけるものを、ぼくは理解出来ない。

『良いんだよ』ぼくは、その言葉に対してそう答えた。

 お前らは馬鹿なんだから。わからなくて良いんだよ。バカで、邪悪なんだから。わからないまま死ねば良い。

 初めて、そう思った時のことは、忘れない。忘れられない。

 ぼくは、もう一度、自分の顔を殴った。頬骨の向こうにある、頭蓋骨の、さらに奥にある、脳みそを潰すつもりで。自分を壊すつもりで。これ以上ないほど、強烈に。ぼんやりする意識の中で、眠たくなる意識の中で、ぼくは、思った。

 大丈夫。あぁ。大丈夫、大丈夫。こいつは怖くない。じゃあ。なにが、一番怖い?

 わたしは、少し考えて、笑った。

 そうだな。こんなクズが笑顔でいることかな……。そんな世界で生きていることかな。それが一番怖いや……。

「はー……」わたしは、わざとらしく、静かにため息を吐き、口元に笑みを浮かべた。「殺す」

 信じてたんだよ……。誰にでも、良いところはあるって。酷い奴のように振る舞ってても、それはきっと正義感からで、それかただの演技で、それを理解出来ないぼくが……、わたしが、バカで、悪いんだって、信じてた。わかってくれるって。自分がなにをしているか、どんなことをしているか、見せつけなくてもわかるって、それでわからなくても、見せつけてやれば、わかるって。でも、それじゃダメなんだよね、わからないんだよね、お前らには。だって、そもそも、それを理解出来ないんだから。理解してても、それから目をそらすんだから。

 わたしは、視界の端に意識を向けた。

 そこでは、男が足に力をこめていた。

 それを確認した次の瞬間、男の姿が消え、そして、わたしの頬が切られていた。

 わたしは、口元に笑みを浮かべた。わたしは、静かに息を吐いた。

 大丈夫……、ぼくは、わたしは、こいつを殺せる。

 わたしは、空を見上げた。満月が、わたしを見下ろしていた。

 殺せる……。こいつは、悪だから。自分の持つねじ曲がった価値観を、迷いもなく、躊躇せず、身勝手に相手に押し付ける悪だから。だから、殺せる。

 夜空の中では、月が輝いていた。

 怖くない……。

 わたしは、月を見上げた。

 今よりも幼い頃。その頃のぼくが、わたしがなにを望んでいたのか。今ならわかる。

 わたしの口から、白い息が漏れた。

 きみらの正義を聞かせて欲しかった。幼い頃。あの時は殺せなかった。相手は、同い年だった。でも、こいつは大人だ。相互に非があることを考えもせずに恨んでいた頃、憎悪に囚われていた頃、被害妄想に囚われていた頃、今よりも幼く不安定だった頃、迷いも幼さゆえに自分への疑いも持っていなかった頃、世界の全てが敵のように思えた。その時、わたしは、ナイフを持ち歩いていた。身を守るために。その時ですら、誰のことも殺せなかった。よく知らない人だったから。良い人かもしれないと思ったから。ほとんどの人は、良い人だと思っていたし、今もそう思っている。巡り合わせが悪かっただけなんだって。悪い人に狙われやすいタイプなんだって。だから、こんな目に遭うんだって。そう思っていた。だから殺せなかった。当然のことだ。わたしは、ただの人なんだから。頭がおかしいわけじゃない。混乱することはあっても。狂ってるわけじゃない。ぼくは、人を殺して満たされるような変人じゃない。でも、今なら。色んな人を見てきた今なら。色んなことを知った今なら。明確に、体を切られている今なら。明確に、軽はずみな、楽しむような殺意を向けられている今なら。明確に、心と体を殺されている自覚がある今なら、わたしを殺されている自覚がある今なら。今なら……。



ーーー



 ぼくは、体を切り刻まれながら、その痛みよりも、なにかの思い出の方に意識を惹かれ、その思い出に浸っていた。そうしていながらも、全身に魔力を流していた。ぼくの全身に宿る生命の魔素を、生命の魔力に変換する。そうして生命力を向上させていれば、切り傷くらいなら一瞬でふさがる。骨折くらいなら数秒で治るし、複雑骨折ですら、20秒も待たずに塞がる。もがれた鼻くらいなら、15秒くらいで生えてくる。 

 そうこうしている内に目を切られたけれど、気にならない。それも、すぐに治る。

 わたしは、考えた。

 困ったな……。

 わたしは、小さく笑った。

 切られるの、初めてで、パニクった。恥ずかしい……。「ふふ……」なんなんだろこいつ。いたぶるのが好きなんだね……。そういうのが楽しいんだ? いたぶるのが……。

 わたしは、笑った。

 クズが……。どうして、自分から他人を傷つけられるんだろう……。なにが楽しいんだろう……。わからない……。

 ぼくは深呼吸をした。

 でも、1つだけわかることがある……。

 男を探して周囲を見渡す。姿を見つけたが、すぐに動きを目で追えなくなってしまう。速すぎる。

 どうしよう……。「……、あー……」少し考えただけで、良い解決策が浮かんだ。さすがぼくだ。そっか。そうだった、忘れてた。ぼくって天才なんだった。

 わたしは、頷き、腰を落とし、ドレスソードを構えた。

 自分の体内を流れる魔力に意識を傾ける。周囲に意識を傾ける。そうすることで、世界が静かに、ゆっくりになっていく。風の触れ。不愉快な匂いが濃くなってくる。血が血管を流れる音が大きくなってくる。

 わたしは、唇を舐めた。

 肌が、首元が、頸動脈が、ざわつく。見られている。狙われている。そこを。そこに来る。そこを切られる。殺す気だ。ぼくを。わたしを。不愉快だ。気持ち悪い。

 わたしは、そちらを見た。

 そして、確かに、見た。男の姿を。その動きを、目で捕らえた。男の動きが、わたしを殺そうとする男の動きが、わたしの、頸動脈に向かってナイフを振おうとする、その男の手の動きが、妙に、スローに見えた。

「ぎ……、ゃはははっ……」わたしは、笑っていた。「───────ぁハハハハハハハハハ……」

 捕まえた……。

 わたしと、男の目が合う。男の目の中で、わたしが、口元を引き裂くような、血まみれの笑顔を浮かべていた。

 わかるよ。そうだよね。

 

 ──楽しいよね。


 全身の血が、沸騰するように煮えたぎる。それを自覚した次の瞬間、全身で煮えたぎっている血が噴火したような感覚が、全身を支配した。

 落ち着け……。

 わたしは、その噴火を支配した。全身で煮えたぎる血が、噴火しようとしていた血が、体外に飛び出すべく噴火しようとしていた煮えたぎった血が、噴き出さずに体内に留まった血が、噴火するかのような勢いで、わたしの全身を駆け巡った。目尻から、なにかが溢れた。暖かく、どろりとした、血のように鉄臭いなにか。全身が燃えるように熱くなり、そして、わたしは、それすらも抑え込んだ。全身を、煮えたぎるような興奮が支配し、凍えるような平常心がその体内の様子を冷静に観察していた。

 永遠のように引き伸ばされた刹那の中で、わたしは、身を捻りながら飛び上がった。

 そうすることで、迫り来る男のナイフをかわした。

 わたしは、ドレスソードを振るった。男の首を、四肢を、全てを、切り落とすつもりで、全身全霊に。高速で動き回る男に対し、反撃の機会はあまり多くない。これが最後のチャンスだ。

 ぼくは、全身全霊で体を動かした。

 なにかを浅く切り裂く感触が、ドレスソードの刃の先から腕を伝わり、脳に届いた。

 ドレスソード、その刃の半ばほどが赤く染まっていた。切っ先から、深く切り裂くつもりだったのに、どういうわけか、そこら辺がかすったようだ。

 わたしは舌打ちをした。

 まだまだだな……。

 視界の中で、ジェロームくんがぼくを見ていた。驚いたような、悲しげな、満足しているような、わたしを、ぼくを認めるような、温かな目。


「──くそっ、なんなんだよっ!」


 見れば、男が、首を押さえていた。心底不愉快そうな顔で、力なく震える、潤んだ目で、わたしを睨みつけている。

 わたしは、その目を見据えた。

 男は、一瞬だけ呼吸を止めた。男が初めて見せた動揺だ。

 ぼくは、小さく笑った。「なぁに?」自分から率先して、他人を傷つけ、利用し、踏み台にしようとする連中のことはわからない。ただ、1つだけわかることがある。わたしは、こういう連中を殺すのが、楽しくてたまらないのだ。

「売女がっ! 大人しく血を流せっ!」男の背中から、琥珀色の霧が立ち上った。

 魔力の霧は、わたし達の周囲を覆っていく。

 霧は、男を中心にして、半径100mほどのドームを形成するように、広がっていく。

ぼくは、ため息を吐いた。「……もったいないね」わたしは言った。剣を振るうと、刃についた血が、びちゃっ、と、音を立てて、芝生に飛びついた。「良い線いってるじゃん。この酸性雨に濡れた馬糞みたいな匂いのする田舎で空間魔法なんて、どんな楽しい世界を見せてくれるわけ?」

 男は、にやっ、と笑った。「見てからの楽しみだ。お前は遊び尽くす。俺が飽きたら殺してやる。気に入ったら飼ってやるよ」

 わたしは、肩を竦めた。「もったいない。そんな素晴らしい才能があるのに、どうして身勝手に欲望を満たすことしか考えられないの?」それはわたしの本音だった。わたしは、基本的に本音しか、思ったことしか言わない。

 わたしの発言に対して、男は、小さく笑った。

「お上品ぶるなよ。一緒な癖に。それがヒトだ」

 わたしは笑った。「一緒にすんじゃねーよ生ゴミが。世界中の女子から嫌われて死ね。そんなもんぶら下げずに生まれ落ちることが出来てほんと良かったわ」

 男は、勝ち誇ったような笑い声を上げた。「ガキが。生意気なガキは好きだぜ。俺しか愛せないようにしてやる」

「んぬはははははぁ〜っ! ……おぇ〜、ゲロゲロ」戯けて見せたつもりだったけれど、わたしは、本当にゲロを吐いていた。

 周囲を覆う琥珀色の霧が、徐々に濃くなっていく。頭上で、星空が隠れていく。

 これは空間魔法だ。世界を作る魔法。自分の世界に相手を連れ込む魔法。ドームが閉じてしまえば、ほぼ間違いなく、相手を打ち負かすことが出来る。それが、戦いにおける、空間魔法だった。男は、間違いなく、わたしよりも、魔力の量も、強さも上だ。だが、その空間魔法に対しても、対抗策は存在する。ただ、その策を使えるかどうか、使ったところで、確実に切り抜けられるか、相手を打ちのめせるか、わたしには、確信がなかった。そして、その確信のない策をとれば、わたしには、逃げ道がなくなる。わたしは、少し考え、その策を取らないことに決めた。代わりに決めたのは、別の対抗策だ。わたしは、服の袖で口元を拭い、ため息を吐き、唾を吐いた。

「違うね……」

 ぼくは、わたしは、隠れてしまいそうになっている満月を見上げた。それを見上げながら、大切な人たちのことを、ぼくを、わたしを愛してくれた人たちのことを思った。みんなが愛してくれたぼくが死に、別人のように、雑巾のようになって、尊厳もなにもかもを踏み躙られながら、そんな相手に怯え、傷つけられることを恐れるようになり、傷つかないようにと、必死で媚びながら生きるぼくを見たら、その人たちが悲しむ。それなら、死ぬのが、みんなに対する、せめてもの恩返しだ。

 いや……。ぼくは、男を見た。もっと言えば、こんな奴らを殺して、強くなって生き長らえ、いつか、力強い笑顔を見せるのが、もっと良い恩返しのような気がする……。

「……勝手に負けたんだろ。お前らは」

 でも、今のぼくにはそれが出来ない。だから、死ぬのが最善だ。

 男は鼻を鳴らした。「目が覚めたのさ」

 ぼくは、鼻を鳴らした。「わたしね……、お前みたいな奴のこと……」そうか……、ぼくは気がついた。これが、踏み躙られるっていうことなのだ。「きら……」わたしは、ぼくは、口を突いて出そうになったその言葉を飲み込み、男のその言葉の意味について一瞬だけ考え、答えに行き着き、わたしは、頷いた。マジで吐きそう。「嫌いだわ。お前みたいな奴。死ね」

 男は、勝ち誇ったような顔で、舌なめずりをした。「俺は好きだぜ。お前みたいな奴。壊しがいがある」

 ぼくは、指輪に意識を向けた。自分でこめかみを貫く。意識がある限り、意識が続く限り、脳みそを切り刻み、自分を壊し尽くして、自分の体に火を放ち、殺し尽くす。そして、死ねば良い。

 そっちの方がマシだ……。ゾーイさん、グロリア、ルナさん、弥子、ユージさん……。そういえば、ヴェルは、空間魔法を使えたのかな……。本には、その描写がなかった……。

 ぼくは、わたしは、息を吐いた。

 会いたかったな……。

 ぼくは、こめかみに指先を向けた。

 これで良いよな?

 頭の中で、声がした。

 良いよ……、と、わたしは答えた。やだけど、しょうがない。

 だよね、愛してるよ。

 知ってる……、わたしも。

 良い人生だった。

 だね。

 ぼく、頑張ったよな。

 うん。

 良かったのか?

 なにが?

 ぼくに任せて。

 後悔してないよ、あなたに任せたから、6年間生きれた。

 その言葉で、報われる……。

 辛いことを任せちゃってごめんなさい……。

 感謝してるよ。

 なんで?

 君のおかげで。

 わたしのおかげ?

 幼い頃の自分を保てたままに、真実ばかりを見ることが出来た。

 わからない。

 辛いことばかりじゃなかった。

 わたしも、15歳になりたかった、あなたと一緒に歳を取りたかった。

 わかってる。

 最期に、お願いして良い?

 なにを?

 大好きな人たちだけを見て、死にたい。

 任せろ。

 ありがと。

 君の願いを叶えるために、ぼくは生まれたんだ。

 あなたは一人じゃない。

 ぼくの目尻から、涙が溢れた。

 ありがとう。

 ぼくは、小さく笑った。

「……良いんだよ」「大好き」

 その、どこよりも近い場所から聞こえてきた声に、ぼくは、小さく笑った。泣きたい気持ちを抑え込んで、それでも、涙を堪え切れないままに、笑った。ぼくは、鼻を啜った。「知ってるよ」ぼくは、わたしは、ぼくは、満月を見ながら、目を瞑った。愛しい人たちだけを、その目に納めるために。そうして、最後を迎えるために。「……ごめんなさい」わたしは、呟いた。

 良いんだよ──。

 そんな声が、聞こえてきた気がした。「許して……」ここで死ぬことを。ありがと、守ってくれて。「助けて……」誰か。「わかって……」誰か……。「守らないと……」わたしを。「だめなんだ……」泣いちゃだめなんだ。「ぼくは……」強いんだから。「違う……」こんなに弱くない、こんなところで泣いたりしない、ただ、旅を楽しみたかっただけなのに……。「わたし……」わたしの、閉じた瞼の目尻から、涙が溢れた。いろいろなことが、たくさんの人の顔が頭に浮かんで、わけがわからなくて、ぼくは、堪え切れずに、鼻を啜った。「ごめん、忘れて……──」

「──ごめん、死ぬね、わからないけど、わたし……」いつもは、こんなこと、恥ずかしくて言えないけど……、でも、最期に言いたい。「幸せだった……」そう、ぼくは思い出した。ぼくは、幸せだったのだ。「愛してるよ──」なにを? 誰を? そんなこと、いちいち考えて、頭に思い浮かべるまでもない。後悔はない。困惑はある。でも、後悔はない。わたしと、わたしを愛してくれた人たちを守るために、ぼくは今、ここで、わたしを殺す。ぼくは、ここで死ぬ。みんなは、わかってくれる。いつか。必ず、わかってくれる。だから、後悔はない。後悔はない。でも……、わけわかんない。なんでこんなところで、こんな風に、こんなことを思いながら、ぼくは、死なないといけないんだろう……。愛してるよ。愛してる……。

 ぼくは、深く息を吐いた。

 その時、声が聞こえた。誰の声かもわからないけれど、確かに聞こえた。何度も何度も、心の中から湧き上がってくる、静かな声は、徐々に聞き取れるほどの大きさになっていった。

 ──わかってる。

 それは、聴き慣れているようで、誰の声かもわからない、不思議な、暖かい声だった。

 わかってる。だから──

 その時、こき、と、軽い音がした。

 わたしは、ぼくは、そちらを見た。

 そこに見たのは、舞雪ちゃんが男の右手首を捻り、そして、右手を男の頭に突っ込んでいる光景だった。男は、捕らえられていた。男は生きていた。だが脳に、精神の魔力の塊と化した、その灰色の腕を、深々と刺し込まれていた。それは、ぼくでもわかる、決着の形だった。

 男は負け、そして、舞雪ちゃんが勝った。

 完成しかけていた琥珀色の霧のドームが、空気に溶け込むようにして霧散した。

「……え」ぼくの口から、声が漏れた。「……なに? なんでそんなんなってんの?」

 なんなの? わかってる、だから──、その続きは、なんなの? 教えてよ。先を。教えて。答えてよ……。

 ぼくの目尻からは、止まることなく、涙が溢れ続けていた。

 舞雪ちゃんは、なにも言わなかった。

 ぼんやりと焦点の定まらない灰色の目で、なにもないところを見ている。なにかを、ぶつぶつと言っている。

 ジェロームくんは、ぼくの足元までやってくると、『疲れた……』と言って、ばたりと倒れ込んだ。彼は、どこか恨みがましい目で男を睨みつけ、瞼を閉じた。『ソラ、俺、3日くらい動けないから自分でなんとかしろよ。見つからないように、森の下を歩くんだ。万能の指輪があるだろ。それで周囲への警戒を全開にしろ。君は自分で考えられる。大丈夫だ。ここはすぐ離れるぞ』

 ぼくは、涙を拭った。「……うん、わかった」

 ジェロームくんは、ぼくを見上げた。『俺は好きだぜ』

「あ?」

『ソラは強い』

「……どうでも良い」

 強いとか弱いとか、マジでどうでも良い。知らねーよ。死ね。くだらねぇ。

『一人じゃなくて良かったな』

 ぼくは、小さく笑った。「一人だよ……」ぼくは言った。「ぼくは、いつだって一人っきりだ。それで良いんだよ。だから、誰にも負けない。一人だから、誰よりも強くて、賢くいられるんだ」

『ガキ』ジェロームくんは、ぼくを見て、顔をしかめ、鼻を鳴らした。『意地っ張り、優しいのに……、グレイシャーでも……、どこまでも、捻くれやがって……、素直になれば……』

「……うるせぇんだよ」ぼくは、小さく笑い、服の袖で、鼻水を拭った。ぼくは平穏に生きる。そして、平穏な人生に強いとか弱いとか、そんな判断基準は必要ない。そういうのは、警察官とか軍人が持っていれば良い。ぼくには必要ない。「うるさいっ」

 ジェロームくんは、小さく笑った。『本当に強い奴は、誰も傷つけないもんだ』

「黙って」ってか、マジでなんだよこれ……、なんでこんなことしてんだよ、ぼく……。

『例え傷つけても、最後には、戻るんだ』ジェロームくんは、なぜか、苦しそうに、なにかを堪えるような、訴えかけるような声で言った。『どこまでも……。戻るんだ……、自分の胸から湧き出る優しさに。そうだろ?』「黙れよ」ぼくは、ジェロームくんの言葉を遮った。

 ジェロームくんは、そのもふもふの右前足で、ぼくの頭を撫でた。『黙るよ』

「一生喋んな」ぼくは、彼の手に、左手で触れた。

『黙るよ』ジェロームくんは言った。

「ありがと」ぼくは頷いた。気がつけば、ぼくは泣いていた。そして、気がついたとき、ぼくは、自分がどのように泣いていたかなど覚えていなくて、ただ、涙を抑え込むことに必死になっていた。「……、ぁっ……──」ぶつっ、と、糸の切れたような音とともに、ぼくは、その場に、ゆったりと倒れ込んだ。

 風に揺れる暖かな芝生が、ぼくを撫でる。月明かりが、ぼくを包み込むように、見下ろしている。

 ジェロームくんが、ぼくの顔に左手を当てた。

 それが、なんだか優しくて、暖かくて、心地良くて、柔らかくて、ぼくの全身から力を抜き取って……、ぼくは、なぜか、ぼくの目尻からは涙がこぼれ落ちていて、ぼくは、鼻を啜る音を、誰にも、自分自身にも聞かれないように、必死で抑えていて……、いつの間にか、ぼくは、眠りに落ちていた。

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