~善人リーン~
気分を切り替え、封印術の授業の教官に五つほど奥まった質問を浴びせかけて散々困らせた後、リーンはすがすがしい気持ちで校舎の三階への階段を上がった。先ほどの教官によれば、休日であるにも関わらず、その日から資格試験を受ける生徒の魔法の練習のための教室が解放されているのだという。
結局その耳寄りな情報と引き換えに最後の質問ははぐらかされたようだったが、二週間以上も前から資格試験を受ける生徒のための教室が解放されていることは知らなかったので、損得勘定してみても決して悪くはなかった。それに、教官から質問をはぐらかされることもそれほど珍しいことではなった。
教室の並びを覚えるのに数か月を要する複雑な廊下をリーンは軽い足取りで進んだ。魔法の練習のための教室は三階の階段のある場所からはだいぶ遠くにあった。リーンの乾いた足音くらいしか聞こえる音はなく、やはりリーン同様他の一年生たちも、この日からすでに魔法の練習ができる教室が解放されていることを知らないようだった。何となく得をした気分になって優越感が募り、おこがましいことに、ホーキンスでさえもこのことは知らないのではないかと一瞬考えてしまった。しかし、ホーキンスはすでに自然魔法、精神治癒、生成術の下位資格を取得している。そして魔法学校の敷地内、およびその付近で魔法の修練を積める場所は今リーンが向かっている場所しかない。その二つだけで、ホーキンスが、魔法を練習するための教室は二週間とちょっと前の休日から解放されていることを知っていると確信するには十分だった。
「……やっぱり来たか」
不意に壁の柱の影からぞっとする低い声がして、リーンは危うく心停止を起こすところだった。
柱の影から幽霊のようにリーンの隣に現れたのは、以前食堂で会った時とは様変わりして痩せ細り、吸血鬼のように白くなったモールスだった。
「何だ、モールスか。というか、さっきの声より今のお前の顔色の方がよっぽど恐ろしいぞ。どうかしたのか?」
「今度封印術の資格試験を受けると聞いて待っていた」
モールスの声はすっかり生気を失い、声には抑揚も感情もまるでなかった。
「リーンに頼みがある」
――例の俺への用件か。
「わかった。とりあえず話を聞かせてくれ」
モールスはリーンを光魔法教室へ連れていった。人のいない静かなその教室では、見慣れた人体模型や作り物の人間の内臓の見本などが窓際で日光を反射し、怪しく光っていた。
――さっきの今で連れてくるのがここかよ。
これからまださらにオカルトチックな話でも続くのだろうかと、リーンは早々に危ぶみ始めていた。
モールスは一度教室のドアから周囲に人がいないか窺った後、念入りなことに鍵まで閉めた。
「それで、そこまでして秘密裏に俺に頼みたいことって何だ?」
モールスは俯いたままとても言いたくなさそうにしていたが、やがて黙っていても仕方がないというようにゆっくり口を開いた。
「イルジーのことなんだ」
「イルジー?」
リーンはここまで体調を悪そうにしているモールスが他人のことで悩んでいるとは考えていなかった。とは言っても、食堂でイルジーを避けたことを思い起こせばそれほど不思議でもない。
「イルジーがどうかしたのか?」
「リーンは最近のイルジーを見たことあるか?」
モールスの悲しみに満ちた諦めの口調は、まるでイルジーがリーンが知るイルジーとはまったく変わってしまったとでも言いたいようだった。
「進学してすぐの頃は同じ授業のことが多かったが、今でもたまに見かけるぞ。だが別段変ったところは……」
「嘘つけ!」
モールスは突然怒鳴り、リーンは肩を一瞬震わせて目を見開いた。しかしモールスの顔に血の気が戻ることはなく、彼のこの状態も慢性的に続いているようだった。
「そんなわけないだろう。あいつ、あんなにおかしくなってるのに……」
「おかしくなってるって、どういう意味だ?」
リーンの表情に真剣さが帯びた。
「あいつ、俺と部屋にいる時、たまに人格がまったくの別物になるんだよ」
「人格が変わる? 多重人格でも発症しているのか?」
「たぶん違う……あいつ、魔法に呑まれているんだ」
――魔法に呑まれている?
リーンは言葉を失った。書物で読んだことはあっても、まさか身近な人物に現れるとは思っていなかった。
――いや、そう言えば俺もその道をたどりそうになったんだったな。
「あいつ、毎日消灯しても眠らずに魔法で何かやってるんだ。話しかけても……気味の悪い……笑みを……う……」
よほどの光景なのか、少しずつ言葉が詰まっていった末にくぐもった呻き声を漏らし、モールスは吐き気を催したように地に膝をついた。咄嗟にリーンが「今から幻術を見せるぞ」と断りを入れてから頭の中で呪文を唱え、花壇の花々の幻術をモールスにかけた。色彩的な刺激が強すぎない方がいいと考え、花畑はやめて土気の多い花壇をイメージした。
しばらく花の香りと、控えめだが心休まるチューリップを堪能させてやると、黒い粒子に包まれてぼんやりとしていたモールスは「もう大丈夫だ」と口を開いた。
リーンは幻術を解いてから物腰穏やかに訊いた。
「本当に大丈夫か?」
モールスは相変わらず血色の悪い顔で「ああ」と小さく頷いた。
「続きを話そう。イルジーはたぶん魔法に呑まれてる。とてもまともな精神でない時がある」
「待て。常に人格が崩壊しているというわけじゃないんだな?」
リーンが確かめる。
「ああ」
「だったらまだ完全には魔法に呑みこまれていないはずだ。まだ助けられる見込みはあるはずだ」
「俺の頼みはそれだ。リーン、こんなこと頼めるのはお前しかないんだ。他の人間に言ったらイルジーがどんな風に見られるかわからない。魔法に呑まれることはすなわちソーサラーに直結する。だが、お前なら……いや、お前しか、もうイルジーを助けられない。今までの俺たちのリーンへの非礼は詫びる。本当に悪かった。でも、普通学校でもこの魔法学校でも、いくら俺がお前をライバル視していても、いくら俺が他のやつと仲よくなっても、本物の善人は結局のところお前だけしかいないと俺は信じてる。人間として信用できるのは、お前だけなんだ。頼む。イルジーを救ってくれ」
――モールスは俺をそういう風に見ていたんだな。
食堂で交わした時の不可解な言葉も納得がいった。
「全力で請け負ってやるから、いくつか質問に答えてくれ」
「そうか……お前ならそう言ってくれると思ってた。何でも訊いてくれ」
「まず、本当にイルジーは魔法に呑まれているんだな?」
「おかしくなっているイルジーに魔法の粒子は見たことはないし、眠らず怪しい魔法を使い始めた時期とも一致している」
「どれくらい前からだ?」
重ねて質問をしながらリーンは、医療施設の人間が患者を診察するような言葉だな、とちらっと思った。実際、形が異なるだけで実質的にはかなり似ているのかもしれない。
「そろそろ二、三週間になる」
「おかしくなってからのイルジーの具体的な様子の変化は何かないか? 人格が変わるというのも、もう少し具体性をもたせて教えてほしい」
「恐ろしいほど気味が悪くなったとしか言いようがないんだ。すまない」
「そうか……」
――無理に思い出させるのもよくないか。
リーンはイルジーのことを尋ねるのはやめた。
「このことは教官には言ったか?」
「いや。恐ろしくてまだ言えてない。それに、一体誰に言えばいいのかもわからない。そもそも、教官に話したらイルジーは本当に無事に元に戻るのか?」
「それは俺も同じだ。俺なんかの人生経験で魔法に呑まれかけている生徒を助けられるとは正直思えない。一番いいのは精神治癒のスペシャリストに頼むことだろうが……もちろんあてはない」
モールスの表情が悲観的なものにみるみる崩れていく。
「イルジー……」
「とりあえず、俺が最も信頼できる教官にこのことを話してみる。前例があるかもしれない」
「わかった……相談に乗ってくれただけでもよかったよ。ありがとう、リーン」
モールスは視線を下げたまま言った。
「……何だよ、その諦めたような口調は」
リーンは鋭い言葉を投げつけた。モールスとイルジーが普通学校に入学した時からよく一緒に遊んでいたことは知っていた。二人の関係はリーンとホーキンス、ショット、レイの四人の関係と何ら変わらぬ堅いものであることも、リーンは知っていた。だからこそモールスの態度に憤りを感じた。
「お前はイルジーを救いたいんじゃないのか? 本当に助けたいけど自分一人では何もできないのがわかっているから俺を頼ってきたんじゃないのか? お前は今そこで諦めて、結局イルジーが魔法に呑まれてソーサラーになって殺されても、『助けられなかった』って嘆くつもりじゃないだろうな。諦めた時点でお前にはイルジーがどうなろうと悲しみ嘆く権利はない。全てが手遅れになってから初めて諦めろ。でないとイルジーに失礼だろうが。見損なったぞ。お前とイルジーは所詮その程度の関係だったのか?」
リーンにまくしたてられたモールスの頬を一条の雫が伝った。
「……悪い」
モールスは言いながらローブの袖で涙を拭いた。
「以前のイルジーを思い出すたびに、今のイルジーと比較してイルジーがイルジーでなくなってしまったような感じがしたんだ。でも、もう自分を取り戻せた気がするよ。俺は今お前が俺に自分自身を取り戻させてくれたように、以前のイルジーをあいつ自身に取り戻させる」
リーンは小さく笑みを作って返した。
「がんばれよ」
「ああ。やっぱりお前は、この世で唯一、天からこの世界の『善人』を任せられたんだと思うよ」
「じゃあ俺は、『善人』の行動が人を救える世界であると信じることにするよ」
リーンはそう言い残し、モールスに背を向けて光魔法教室から立ち去った。




