~アリサ、『天空の大宮廷』を読む~
アリサは以後、週に何度か自分で図書館に通うという知的な習慣ができた。少しずつ、本当に少しずつ、難しい物語や長文の物語にも挑戦するようになった。いつしか、衰えることのない自分の知的好奇心を満たすため、図書館へ通う頻度は堰を切ったように増していき、本のジャンルも物語から伝記や薄い専門書にまで手を伸ばすようになっていった。その頃にはもうアリサは、図書館の司書にも顔を覚えられ、図書館に通う一人前の読書家と称することができた。
そんなある時、一〇三番地区にある吹き抜けの図書館の二階のとある書棚で、アリサの目を強く惹く表題の本があった。物語と伝記のちょうど境界付近にあり、金文字で『天空の大宮廷』とある。厚みはほとんどなく、手に取ってみると、かなり古い書物らしいことが窺えた。一見物語っぽいが、堂々と物語の書棚に置かれていないことが気にかかった。
本をもって螺旋階段を下り、中央の机の一つに腰を落ち着ける。
表紙をめくると、黴や埃の匂いがぶわっと広がった。この『天空の大宮廷』は、この本が実際に書かれた古の時間まで読む人の時間的感覚を逆流させるような雰囲気を本全体から醸し、薄汚れた紙の中で神々しく輝く金文字が、自分の存在を忘れることを永年許さないと主張しているようだった。
静寂な空気の中、アリサはまるで本の内側に吸い込まれるようにみるみるページを繰っていった。
そこには二種類の人間がいた。まだ創られて間もない世界で、広大な大地と無限大の空気、そしてわずかな生命しかなかった。二種類の人間は、〈世界の運命をねじ曲げる力〉をもつ種族と、〈世界に命を吹き込み服従させる力〉をもつ種族。両者は世界の覇権をかけて――すなわち、どちらの種族が世界を統べる王に相応しいか決めるため、死と生の境界の中で互いに争い合っていた。
しかし、両者の争いは長きに渡り拮抗し続けた。激しい戦火は誕生したばかりのまだ幼い世界を崩壊に近付ける一方で、決着がつかないことをそれぞれが痛みと共に理解した。
ある時、片方の種族が言った。
「このままでは、世界の覇王が決まる時よりも、この我々の新しい世界が潰える瞬間の方が先に訪れるであろう」
もう片方の種族はその言葉を聞き、争いの手を止めて考えた。そして相手の言う通りだと悟った。
「では、一体どうするというのだ」
片方の種族がそう言った。
両者は互いに争いの手を止めていったん身を引き、解決策を考え出した。
ある時、片方の種族が言った。
「そなたらが我らに仕えると言うのなら、それで解決だ」
もう片方の種族が言い返した。
「我らも今最善の解決策を思いついた。そなたらが我らに仕えればよいのだ」
両者は再び世界を揺るがす火花を散らし始めた。
二度目の争いは一度目の争いと同じ結果に終わり、必然のように同じ結論を導き出した。すなわち、両者が争えば世界が崩壊してしまう、と。
今度は両者も世界の存続のために必死に考えた。
そして、両者は同時にとある考えに思い至った。
『世界を天と地の二つに等分しよう。そして、片方を我らが治め、片方をそなたらが治めるのだ。我々の世界を崩壊に導かずに世界を統べる正しき王を決める、その解決策が見つかるまで、互いの世界を侵すべからず!』
両者はそう不可侵を誓い合うと、片方の種族は地上に残って国を築き、片方の種族は自らの身体を作り変えて翼を獲得し、天空へと飛び去った。
翼を得た種族は、天空に黄金の巨大な宮廷を築き、〈大宮廷〉と称して天空の彼方を徘徊し、天空の全てを支配した。
「ああ、それは神話よ」
アリサは『天空の大宮廷』をもって家に帰り、テラに本のことを話すとそう返事が返ってきた。
「神話?」
「そう。この国の人間なら幼い頃にみんな親から読み聞かせられているわ。もちろん私もリーンに読み聞かせてあげたわ。あれはまだリーンが文字の読み書きを教わっていなかった頃ね」
「神話って本当にあったお話なの?」
アリサは至極真面目に尋ねたつもりだったが、テラは小気味よさそうな笑い声を上げた。若々しくてかわいい笑い方だったが、それとは別にアリサを憤らせる何かがあった。
テラは笑ってしまったことをおざなりに謝ってから、むくれたアリサをなだめるように穏やかな口調で教えた。
「その神話はね、誰がいつ書いたのか、全然わかっていないのよ。国も調べる気がないようね。だから誰かが何かを説くために説話として書いたのか、それとも何らかの記録をもとに伝記として書かれたのか、それもわからないというわけ」
「だから物語と伝記の間の書棚にあったんだね」
「ええ」
アリサの本の虫の性質が姿を現したのは、この『天空の大宮廷』を読んでからだった。
アリサはその日帰ってきたカイルに『天空の大宮廷』の話を振ってみた。しかし意外なことに、カイルはしばらく素っ頓狂な顔をしていた。この神話を知らなかったこと以上に、カイルの間の抜けた顔を見たことの方が驚きは大きかった。可能性の本質的な価値を始めて体験したような気分だった。
アリサが本の内容と共にテラから聞いたことも話すと、カイルの態度はまるで様変わりした。
唐突にその話を思い出してきたと言い出し、アリサが胡乱な目つきで見つめると、カイルは困惑した様子でアリサに懇願してきた。
「アリサ、このことは絶対にテラには言わないでくれ」
「このことって?」
アリサには本当にカイルが何をここまで平身低頭して懇願しているのかわからなかった。
二人は二階のカイルの部屋にいた。アリサはカイルのベッドに腰を下ろし、カイルは書き物机の椅子に座っている。その日も復興工程の指示書を作成してきたらしい。
「テラは、その話は太陽の国の人間なら誰でも知っていると、誰もが幼い頃に読み聞かせられていると言っていたんだろう?」
アリサは「うん」と頷いた。
「私がその話を知らなかったことは、テラには秘密にしておいてもらいたい」
「どうして? カイルはこの国の出身じゃないの? そもそも、どうしてこのお話を知らなかったの?」
アリサが食い入るように見つめると、カイルは顔を曇らせて呟くように言った。
「私は確かにこの国で生まれ育ったが、いろいろあってな……その神話を聞かされたことはないんだ」
アリサは「ふーん」と漏らして物珍しげにカイルを見つめていたが、やがてあまり触れるべきではないと感じて、カイルの頼みを承諾してから話題を別のところに振った。
食事が終わってから、アリサは再びカイルに呼び出され、カイルの部屋でとある鍵を渡された。カイルの懐から取り出されたもので、新しくも古くもないが細長い傷がいくつかついている普通の鍵だった。
「それは地下室の鍵だ。今まではリーンに預けていたが、魔法学校進学と同時にこっそり返してもらった」
「どうしてそれを私に?」
カイルはばつが悪そうにアリサから顔をそらした。
「さっきの秘密を守ってもらう代わり……みたいなものだ。最近テラから読み書きを習ったんだろう? だったらおそらく中にあるものも読めるはずだ。ただし、この鍵の存在、及び地下室にあった全てのことについてもテラには秘密にしておいてほしい」
「どうしてそこまでテラに秘密にしようとするの? さっきのことといい、このことといい……」
「それは地下室に行けばわかるだろう。地下に下りる時は家のみんな――特にテラがちゃんと眠って、家が完全に寝静まってからにしてくれ」
「わかった」




