‐‐アリサ(11)‐‐
そんなこんなで気に入った居場所が見つからないまま一時間近くを費やし、そろそろ戦況はどう変わっただろうかなどと考えながら、気付いたらアリサはホールへと戻りついていた。
アリサがホールへ足を踏み入れるや否や、突如エントランスの方から叫び声が響いてきた。何かを伝えようとしながら、ホールへ向かってきている。やがてその真っ青になった顔を出したのは、門前で番をしていた門番の一人だった。アリサを案内した者とは違う。
「ラ、ライール様! 大変です!」
名前を呼ばれて中年の酔っ払いが門番の方へ顔を上げ、間の抜けた声を発する。
「どうしたぁ?」
「は、はい。あの、先ほど西の見張りから、丘を猛スピードで駆け下りてくる赤い髪の人影が見えたとの報告が上がりました。このままでは数分のうちにこの館へ到達します。し、しかも、相手は四、五人いる模様です!」
ライールの態度は変わらなかった。むしろ自分の享楽を邪魔されてご機嫌が斜めに傾いてしまったようだった。
「あっそぉ。お前らぁ、俺の弟子なら赤髪族の四人や五人、自分たちで片付けて見せろよぉ。一番多く首を獲った奴は俺の後継ぎにしてやるからよぉ」
「えっ、あの……ライール様……」
門番は汗を流し始め、見るからに取り乱し始めた。恐怖で表情がみるみる青ざめていく。自分たちと赤髪族の実力の差を十分認識しているようだった。
と、その時。ライールの頭上で水の入ったグラスが逆さまになった。頭から冷水をかぶり、ライールは「つ、冷てぇ! 誰だこの野郎!」と怒り心頭に発した。
「わたくしです、ライール様」
澄ました声音で自らそう宣したのは、ライールの脇で胸に手を当て、恭しく頭を下げる若い給仕の男だった。
「てめぇ! よりにもよって自分の主様に水をぶっかけるたぁいい度胸してるじゃねぇか! あぁ!?」
給仕の男は淡々とした口調を維持したまま、のべつ幕なしに言い募った。
「我々は主従関係ではなく、あくまで師弟関係でございます。水をおかけしたことには心からお詫び申し上げます。しかし、ライール様はこのたび、少々アルコールが回りすぎているご様子です。七賢人であるあなた様の最大で唯一の任務は、彼ら太陽の民を守ることにあられるはずです。そしておそらく、あなた様の弟子である我々一同が力を合わせても、噂に名高い赤髪族を数人同時に相手取っては、とても我々の壊滅だけでは済まないでしょう。ライール様はそれを承知していらっしゃいますね? その上でライール様は、我々だけなら構わないものを、ご自分の守るべき民たちをも死線に晒してまでここで酒をあおることを選ばれました。もしこれが、ライール様の多量のアルコール摂取による泥酔時の誤断でないとおっしゃるのであれば、わたくしは平身低頭で一生謝罪致しましょう。そしておそらく、同時に師弟関係も断ち切らせていただくことになります」
ホール中の人間が彼の名演説に聞き入っていた。
ライールの顔は赤みを帯びているものの、表情は素面のようにきっと引き締まっていた。溜息を一つ吐き出してから、面倒くさそうに立ち上がった。
「あーあ……ったく、お前のせいで醒めちまったよ。酔いも興もなぁ!」
ライールが給仕の男を睥睨する。
「お前は魔法だけ上達すりゃあいいものを、ここまで憎たらしく口も上達しちまうたぁな。わかってんだぜ? お前がこんな大衆の面前であんな俺の面を汚すような名演説を披露したのは、自分の命惜しさと赤髪族への恐怖だからだってなぁ。ったく、どうして俺はお前みたいなやつを一番弟子なんぞに選んでるんだか、自分のことなのに不思議で不思議で仕方がねぇよ」
ライールはそう言い残すと、すたすたとサンダルでエントランスへ向かった。
「ライール様」
給仕が呼び止めようとすると、ライールは歩みを止めず、無言のうちに左手を肩のあたりまで上げ、手の平を後ろへ向けた。
給仕もまた無言のまま、どこからか取り出したタオルをライールの左の手の平に投げ込み、ライールがホールを出ると、館の者たちにエントランスへ続くホールの出口を封鎖するよう指示を出した。すぐに給仕たちが集まり、一般市民をエントランスから外へ出さないようホールの出口に立ち塞がった。
――七賢人の魔法、どうにか見れないかな……
アリサは沈思黙考した。
テラス・ラウンジなら確かに西側の外の景色を見られるが、もっと立体的に見ることをアリサは望んでいた。例えば二階の西側に面した窓から……
アリサは二階という単語をついさっき聞いたはずだと思った。
――二階……二階……個室……? 個室だ!
アリサは先ほど門番が説明した、二階の個室へ続く階段が待つ通路へ早足で向かった。
階段を一段飛ばしで走るように上ると、わざわざ西側に面した個室を探す必要がないことに気付いた。階段の先の左右に細い通路が緩やかなカーブを描いて続いており、建物の外側にガラス窓がはめられている。西側を望めるところまで進めばよかった。
アリサが一人西側のガラス窓の前を陣取ると、間を空けず頭頂部のやや後方が禿げかかっているライールが首にタオルを巻いて平原に姿を現した。すでに赤髪族らしい赤い大きな影は、丘を下り切り、平原の中ほどあたりまで来ている。とても人間の域とは思えないスピードで四人が疾走している。強靱な体躯の他にも、何か原始的な性質をいくつも織り成してようやく可能になる芸当だろう。
ライールは館から少し歩いて離れると、足を止め、丘の方――おそらくは平原を駆ってくる猛獣のごとき赤髪族にじっと顔を向けたまま動かなかった。表情は窺えない。目を開けているのかいないのかも判じかねる。
だが、アリサは何となく察した。
――きっと、あの七賢人は今魔法を唱えているんだ。
アリサの本能的な直感というものは、まるで外れた試しがなかった。
ライールが、学校で優秀ぶって得意げな顔つきで挙手する生徒のようにすっと右手を上げた。アリサがよく目を凝らすと、右腕を黒い粒子が取り巻いていた。
しかし、平原には何の変化も訪れない。赤髪族が警戒して分散隊形を取り始める。
アリサは自分が実際に平原にいるかのように想像した。漂う清らかなそよ風。風に吹かれて平原中に響く、こすれ合う短い草たちの歌うような音色。そして赤髪族が発する、今にも平原が火と血に包まれてしまうかのような怪しい緊迫感。
不意に、館を含めた平原全体が陰り、モノクロの世界のように一段と色が薄まる。見上げると、空に黒い綿菓子のようなものがモクモクと広がり始めている。とても低い位置で、偽太陽の光さえほとんど遮断し、どこからかどっと冷気が流れ込んでくるようだった。心なしか、平原の草たちも不安そうに空を見つめている気さえしてくる。
そしてついに空は真っ黒い曇天と化し、天が人間の罪業に怒りを爆発させようとしているかのように、厳かな雷鳴が重量感をもって平原に響き渡る。天を恐怖の禍々しい色に照らしながら鳴り響く雷鳴は、何の罪もない平原に何かとてつもないとばっちりが訪れる確かな予兆でもあった。
風が平原の草たちに危険を知らせ、赤髪族もまた、鋭敏そうな危機察知本能で明らかに自然な現象とは思えない天候を危惧しながら、平原を獰猛な肉食獣のように駆け抜けていく。
それは、だいぶ距離が離れている窓越しのアリサの目にさえはっきりと見て取れた。最初はただ、ライールの周囲が不自然にかすんで見えるだけだった。しかし目がそのかすみに慣れてくるに従って、それがライールの周囲を滞留する膨大な量の透明な粒子であることがわかった。
赤髪族は一度自分の髪に触れ、弓を構えて紅色の髪を括りつけた矢をライールに向けてつがえる。そのままライールを四方から取り囲むように陣形を変える。ライールが何かする前に確実に仕留めたいようだった。
しかし赤髪族の矢が標的へ飛ぶ前に、ライールの怒声のような低い叫びがアリサの耳に届き始めた。
ライールが足を高く上げて前に突き出し、地面を力強く踏みつけると同時にその右手も勢いよく振り下ろされた。
世界が数回真っ白になり、次いで、まるで星を一つ真っ二つに割ってしまったかのような轟音が地揺れの衝撃と共に鼓膜を突き破る。誰もが世界の終焉が訪れた誤解してしまう一瞬だった。
目を開いた時には、ライールを中心にやや距離を取って半円を描くように、炎が四つ平原の上に腰を据えてゆらゆらと揺れていた。そして赤髪族の姿は神隠しに遭ったように一人として見当たらない。
――雷が……落ちた? たった一人の人間が、自分の思い通りに空から雷を降らすなんて……本当に、これが魔法なの?
忘れていたというように、アリサの中の高揚感がふつふつと沸き上がってくる。感動でも驚愕でもない、何かもっと根本的な、例えるなら人が神の存在をその目で認知した時のような感情だった。
真っ黒い空は、怒りが静まってすっかり脱力してしまったようにしとしとと雨を降らし始めた。ようやくあたりの空気は温容と静けさを取り戻し始めた。
アリサはふと、結界がどうして何ともないのか疑問に感じた。おそらく焦げた綿菓子のような曇天は王国を覆う結界の上空に出没したはずだが、結界は雷の影響を一切受けていないようだった。雨も平然と平原まで降ってきている。
カイルに助けてもらってしばらく滞在した小さな街から去る時や、この王国へ入る時、カイルが結界に手を直接触れて開いていたのは確たる事実だった。
――水や電気なら結界を素通りするということ……?
アリサは結界の性質が謎めいていて好奇心をそそられたが、どう考えても周囲に真実を知っている者はいないとわかるので、そのことは頭の隅に追いやった。
ライールは天を怒らせたような規格外の魔法で赤髪族を蹂躙したが、他の赤髪族たちの王国への脅威が去ったわけではない。戦況が気になって仕方がなかったが、それもこの館にいる誰かが知っているはずもないので、とりあえずこの険悪な状況に包まれた時間が過ぎ去るのを待つための居場所を確保する必要があった。




