瀬戸際の人質奪還!ついに本性を現したビダルの腹心たち、迫る血戦へ…
置き手紙。
そうだ、通信文のことだ。
僕はすでにそのあらましを知っている。
手紙の文句を符牒に使った通信文による連絡方法は、長尾姉妹の緊急連絡手段だったのだ。二人はそれでもっとも迅速で秘密裏に情報交換を行うことが出来るのだった。
朝の手紙。
まさか、あれもそんな秘密の情報伝達の一部だったとは。
「この手紙、もともと姉からの報せへの返信だったのだ。姉からもらった手紙には目標の小蛭子島、地形の踏査が終わったと書かれていた。姉たちは姉たちで、我らと違う上陸地点を探し、先行して潜入してもらっていたのだ」
「お姉さんが…まさか」
先に島へ潜入していたとは。
「まさか、とはご挨拶じゃな、真人」
ふん、と、綾御前は鼻を鳴らす。
「お前には話したはずじゃ。我ら姉妹の間では、兵を率いるお虎は陽、この姉は草働きや謀を司る、いわば陰の役割を担うこととなっていると」
また僕は、はっとさせられた。そうだ、この姉妹にはかの英邁・為景公が仕組んだ裏の役割分担があるのだ。
まず軍事に携わり、戦国最強の長尾家の面々を率いる虎千代、その陰で諜報活動に従事し、長尾家の政略を張り巡らし、虎千代を支えるのが、綾御前。それが一見ぶらぶら遊んでいるように見える綾御前の本当の役割なのだ。いわば長尾家きっての諜報のスペシャリストこそ、綾御前の正体だったのだ。
「姉が使う草たちの実力は、我が使う軒猿衆の実力を凌ぐ。なにしろ元は父、為景について北陸から関東、京阪地帯まで幅広く諜報活動を行ってきたものたちだからな。我らより早くこの島に網を張り巡らすことなど、造作もない」
「まあそれも、草を自在に扱う綾の実力あってこそじゃがな」
と、綾御前は胸を張って自画自賛する。しかし、そんなことも気にならないくらいに驚いた。
「おのれらが島民を使役して、不埒な実験施設を営んでいることなどすでに調べがついておるわ。我らは島民に紛れ、お虎の行動に合わせて決起の準備を整えていたのだ。この、騒ぎが聞こえるであろう。今頃各所で暴動が起き、島中、武器を持った島民が暴れ出しているところじゃ。お前らに逃げ場などないぞ」
そのときだ。ひゅうっ、と甲高い尾を引いた火薬の音が、耳を聾した。
「あれは狼煙の合図よ。船上にいる三好船団にも上陸の合図をした。姉上が攻め口を見つけてくれた故、彼らも何重にも渡って上陸してくるであろう。そうなればこの島は蟻の這い出る隙間もあるまい」
ビダルたちの表情が一瞬停まった。
ついにだ。虎千代が反撃に出た。
ビダルは孤島を要塞化した上に島民を楯に新たに人質を取り、海上の封鎖部隊を牽制しつつ脱出、と言う手筈を整えていたが、虎千代たちは難なくその裏を掻いたのだ。人質交渉を前にこの島には、綾御前率いる草たちが扇動して反撃の手筈が整えられていた。
綾御前が解放した島民たちは、この島のあらゆる脱出ルートや入江に通じているだろう。三好勢にそこから踏み込まれれば、ビダルの逃げ場はない。城攻めの手口の応用だが、実に水際立った手口だった。
「真人、すまぬ。本当はお前たちにも話すべきだったが、ビダルの出方が判らなかったのでな」
虎千代は島を奪還する手筈がついた時点で合流しよう、と言う手紙を朝、綾御前の宿直に預けておいたのだ。だからこそ、綾御前があんなとんでもないところから出てきたのだろう。
「お前らに秘密にしたは、綾が意向よ。驚くやつが少ないと詰まらんからな!どうじゃ、びっくりしたであろう!」
と、虎千代以上に目立っているお姉さんがふんぞり返る。だったら別に、あんなところから出てこないで影働きに徹した方がいい気がするが。
「ふん、お前たちの見えないところでこそこそしていては、綾の見せ場がないではないかっ!だから出てきたのだ!判っておらぬな!」
「お姉さん、自分は虎千代の陰だってさっき言いましたよね…」
やたらと前に出たがる陰だ。
「ビダル、もはやお前たちは逃げられない。あまたの命を無駄に棄て去り、絶息丸を世に出そうなどと言うたわけた目論見も、ここで終いよ」
虎千代は剣を抜き、真っ向からビダルを睨みつけた。しかし虚勢とも見えず、ビダルは平静を崩さない。
「侵入者たちに叛乱か。まあ、予想はしていたことだ」
ビダルはゆっくりとした口調で虎千代をたしなめると、イェスパの肩に担がれた黒姫の入った革袋に視線を移した。
「だからこそ、新たに人質を取ったわけだが」
「欠けがえのない人間は、他にもいるだろ。あんたに返してやった人質以外にもな」
すらりと腰のエスパーダを抜くと、ミケルは虎千代を挑発した。しかし、薬で無抵抗にされている黒姫を人質にされた虎千代の表情は、かすかな動揺すら見せない。
「そうだな。黒姫も欠けがえなき長尾家が忠臣。お前らごときにただでくれてやるほど、安くはない」
「強がりを言うなよ、お姫さま。欲しいものが、いつでも手に入ると思うなよ」
ミケルがその研ぎ澄まされた刃を、黒姫の入った袋に突きつけたときだ。
「一撃で咽喉を突く。こっちは別に、この女じゃなくてもいいんだ」
「兄さん!」
「慌てるな」
色めき立ったラウラを止めたのは、虎千代だった。
「下がってろ。大丈夫だ、なんの問題もない」
虎千代は深く息をつくと、大きな声で呼びかけた。
「黒姫、もうよいぞ。そろそろ戻って来い!」
誰もが予想も出来なかった言葉に、はっと息を呑んだ瞬間だ。
『わっかりましたですよ、虎さま!』
なんとだ。黒姫が叫ぶ声がした。それも四方八方から同時にだ。黒姫は、スコポラミンによって気絶させられ、袋の中に閉じ込められたはずなのに。これにはビダルたちも、色をなして辺りを見回した。
「おっ、おい!どうなってる?ちゃんと、そこにいるんだろうな!?」
ミケルがあわてて、イェスパが担ぎ下ろした袋に近づいた瞬間だ。
盛大な音を立てて、袋から白煙が噴き出したのだ。僕は見た。黒姫がいなくなったと思って焦ったイェスパの大きな足が、思わずその袋をぺしゃんこに踏み潰したのだ。確かにいつの間にか黒姫は袋の中にいなくなっていた。風船が破裂したような爆発音とともに、視界を弄する煙が辺りに充満した。まるで脱出マジックみたいだ。
と、僕は呑気に言ってるが実際の現場は、そんな悠長な事態ではない。袋から吐き出された謎の白煙で、すぐ隣にいたはずの虎千代や綾御前すらも、ほとんど確認出来ない状態になっていたのだ。声はしたのに、黒姫が突然いなくなった。その代わりに吐き出された煙で、敵も味方もみんな呑み込まれてしまった。ど、どうなってるんだ?
「真人さん、真人さん、真人さん」
と、黒姫が呼ぶ声がするので、そちらの方を見ると。
なぜか黒姫が三人いた。
その隣には、同じく、おろおろしているラウラだ。
「なっ、なっな何が起こったんですか!」
「「「二人とも、落ち着いて下さいな」」」
「わあっ!?」
三人の黒姫が一斉に袖をそびやかし、僕とラウラをいきなりビンタした。いたたたっ。無数の平手が必要以上に何回も襲ってきた。こんなに殴る必要あったのか。僕は少なくとも六回以上は殴られた感じはした。
「気が付きましたか」
激痛に火照った頬を抑えた瞬間、僕の頭の中にわだかまっていた濁った感覚が消えた。
あ、目の前の黒姫が、一人に戻っている。良かった。三人も黒姫要らない。
「ただの幻術ですよ。真人さんはこう言うの、一度見たことあるじゃないですか。いちいち、うろたえないで下さいですよお」
いや、ただの幻術って。
こんな目に遭って、うろたえるなと言う方が無理だ。
「く、黒姫、平気なの!?さっきビダルにスコポラミンを飲まされて気絶させられたはずじゃなかったのか?」
「ああ、あのお薬ですか。あんなもの、忍者のわたくしに効くと思ってますですか」
黒姫はこともなげに言う。
「そんな無茶な…」
「ふふふ、無茶ではありませんですよ!この黒姫も忍者の端くれって何度言わせる気なのですか!忍者と言うのはですねえ、大抵の毒には耐えられるよう、幼いときから少しずつ毒草を摂取して、身体を慣らすのですよ。あの程度の幻覚剤なら湯呑一杯飲んだって、シラフでいられますですよ!」
「いや、でも」
湯呑一杯って、お酒みたいに言うけど、威力はその比じゃない。嗅いだだけで意識を喪うような、あのスコポラミンをじかに飲んでも効かないとは。
「まあ、もっと精確なことを言えば、真菜瀬さんがどんなお薬を使われたのか、ようく見せてもらっていましたからねえ。事前に解毒剤を用意しておいたのですよ。ふふ、飲まされたのが、同じ薬で助かりましたです」
僕はそこでようやく、はっとした。黒姫が薬を飲む前にビダルたちにこれは真菜瀬さんに使われた薬と同じものか、と訊いていたのを思い出したからだ。しかもビダルは僕を通じてスコポラミンの現物を置いていっている。絶息丸の秘密を解き明かした黒姫ならそれを解析して、事前に対策を打っておくことなど造作もなかったのだ。黒姫は黒姫で人質になるふりをして、すでにビダルの裏を掻いていたのだ。
「それに真人さんが言ってましたでしょ。ビダルはわたくしたちが使うような薬草から、あの薬品を作った、と。まあ、忍者のお薬は忍者が一番詳しいですからねえ」
黒姫はこともなげに言うと、茫然としていた僕とラウラの袖を強く引っぱった。
「さあて、まずはさっさとこっから逃げるですよ!」
あれだけ見晴らしのよかった展望台が今や、真っ白な雲の中に呑み込まれている。秋晴れの空も、播磨灘の遠景も、ビダルが座っていた椅子とテーブルも乳白色の中に溶け込んでしまっている。くっきりとした輪郭線を持つものは、ここには姿形すら判らない。
今までの光景がまるで嘘だったかのようだ。足元の岩場の感触がなければ、僕たちは現実にここに立っていたと言う感覚すら見失っていただろう。黒姫は僕たちを先導して走ったが、虎千代たちの方は本当に大丈夫なのだろうか。一体どこにいるんだろう?
「奴らを逃がすな」
これは、ビダルの声だ。
「ミケル、王蝉、イェスパ、ゲゼル、聞こえているか。奴らは人質を連れて、島から逃げる気だ。絶対に喰い止めろ。黒姫以外は殺しても構わん」
「戦わずに逃げる気かっ、ラウラ、どこだっ!返事をしろ、卑怯者め」
ミケルが叫んでいる。遠いのか、近いのか、まったく方向が判らない。違う場所に設置されたスピーカーが同時に話しているようで、音が反響しているのだ。この世界、微妙に何もかもが狂っている。
「ラウラさんっ」
兄の声に反応しかけたラウラを、黒姫がたしなめる。
「無闇に動かないで下さいですよ!一度はぐれたら迎えに来れませんですよ!ともかく、わたくしの指示に従って、動いて下さいです!」
黒姫が厳命したのも無理はない。この煙幕の結界が狂わせるのは、視界ばかりじゃないのだ。聴覚、触覚、方向感覚や平衡感覚、人間のあらゆる五感を少しずつ、狂わせている。はぐれてしまったら、黒姫にも助ける術はないのだろう。
「ラウラ、僕の手をとって。離れちゃだめだ」
「はっ、はい!」
僕はラウラの手をぎゅっと握って引いた。ラウラは息を呑んで頷いていた。もはやここは、見た目よりも数段恐ろしい異世界なのだ。用がなくなれば、早急に脱出しなくてはならない。
「とにかくわたくしの後を追って走って下さいですよ!わたくしを見失ってしまっても、責任は取れませんですよ!」
僕たちは黒姫について走った。もちろん、脇目も振らずだ。
後に残してきたものなど、構っている暇はない。僕は心に言い聞かせた。
一度も振り返ってはならない。
なにしろここは、死と不吉を司るものたちだけが集い住まう黄泉の国なのだ。
とにかく無我夢中で走った。足場の悪い岩場の道を下り続けると、いつに間にか乳白色の世界は掻き消え、現実の境界線がくっきりと浮かび上がってくる。頭上を鳴くのは、海鳥の声だ。ふと、顔を上げた瞬間、風景が一気に拓けた。
「ここは…」
無造作に岩肌を重ねて作ったような、深い谷の入口だった。まるで見覚えのない風景だ。僕たちは一心不乱に走るうちに、ビダルの作ったあの恐ろしい被験者収容所の洞窟のどこかに紛れ込んでしまったのだろうか。見慣れた風景を求めて僕は四方八方を見渡したが、なんの手がかりもなかった。視界の半分は、ただ、穏やかに凪いだ播磨灘である。ここは島の最上部なんじゃないか。
鋭角に吹き上げてくる強い外気が、息を切らせて汗ばんだ頬をしきりと嬲る。足下から甲高い音を立てて上ってくる冷たい風は、海を渡る風だろうか。暗い谷へと続く道へ足を踏み入れかけて、僕は息を呑んだ。
岩場の溜まりに、見慣れたポニーテールの髪がはためくのが見えたからだ。
「真人、無事だったかっ」
虎千代は顔を上げると、すぐに僕の方へ駆け寄ってくる。人質として連れ去られるところを、奇蹟の生還を果たした黒姫は、虎千代と再び生きて会えただけで大興奮だ。
「と、虎さまあっ、どうぞご覧ください、この黒姫も無事ですよおおお!虎さまに捧げるべく、守り立てたこの身体、純真無垢のままなのですよお!ぜひぜひ、虎さまのお胸に抱いて隅から隅までお確かめ下さいですよお!」
涙と鼻水と各種の体液が垂れ流しで飛びつこうとする黒姫を、虎千代はむげに押し戻して言った。
「ああ大儀、よくやった」
僕は見た。その瞬間、黒姫の目が点になった。
「ええっ!?あのっ、それだけですか!?今生の別れかも知れなかったのですよ!それでもこのく、黒姫、敵の計略を辛くも見破り、とっときの幻術とか煙幕とか解毒剤とか用意してですねえ、何とか虎さまたちの反撃を待ち千載一遇と言うか、絶好の逃亡の好機を作ったわけなのですが…」
「うむそれはよくやったと言っておろうが。恩賞は追って沙汰をする」
「そう言う問題じゃないのですよ!」
黒姫、いつになく喰い下がるな。最愛の虎千代と片時でも離れるかも知れなかったと言うあの局面は、黒姫にとっても苦渋の決断だったに違いない。だからこそかその反動でそれに見合うご褒美が虎千代からすぐ欲しいみたいだが、それにしてもあれだけ潔く人質になった人間と、同一人物とは思えない往生際の悪さだ。
「恩賞なんていらないのですよ。あ、あのお虎さまっ、わたくしは虎さまそのものだけで十分なのです。黒姫まず望むのは虎さまのその清らかなお身体…あ、いや、御心こそが何よりの…て言うか、わたくしの愛は今回の人質交換で十分判って頂けたかと思います。ですから、わたくしにまず、再会の、熱い抱擁と濃厚な口づけをっ」
そのまま唇を押しつけてきそうな黒姫だが、虎千代は限りなく素っ気ない。
「分かった分かった。島から出られたら、何か良いものを恩賞に考えてやる。まだ作戦の途中であろう。調子に乗るな」
「そっ、そんなあ…じゃ、じゃあっ、わたくしはなんのために帰って来たですか…」
「お前の『忠義は』認めよう。よくやった」
虎千代は忠義は、と言うときその言葉だけを殊更強調した。
「ううっ…わたくしの愛を忠義と!そんなものでは性欲は満たされないではありませんかっ。ひどいです。虎さま、わたくしが欲しいのはもっと生々しいものなのですよお!」
「役目大儀と言うておろう。第一武功じゃ、もっと喜ばぬかっ」
虎千代は涙目の黒姫を容赦なくあしらうと、僕たちの方へ向き直った。
「真人も、ラウラも迷わず、よく来てくれた」
虎千代の言葉に僕たちは見慣れない風景を見渡す。
「え、でも、ここは…」
「真人、案ずるな。この道で正しい。こここそ、綾姉が見つけてくれた抜け道じゃ」
と、虎千代は懐から僕に一枚の紙片を取り出してみせる。それは言うまでもなく、さっき綾御前が虎千代に突き返したと言う、置き手紙だ。のぞきこんでみて、僕はまたあっ、と声を上げそうになった。手紙の様子が、僕が見た時と明らかに変わっている。
これは地図だ。
筆で書かれた字面の上にいつの間にか、ぼんやりと地図が浮かび上がっていたのだ。島の間道を余すところなく描いた詳細な俯瞰図がそこに描きこまれていた。いつのまに。綾御前は手紙を返す時にすでに細工して、これを虎千代に伝えていたに違いない。黒姫ですら驚いていた。
「びっくりしましたですよ。わたくしはことが起こったらすかさず、虎さまについていくようにだけ指示されていたのですが。このような抜け道があったとは」
「ふははははっ、そう言うことはどんどん言うがよいぞえ。どうじゃ真人、お前も遠慮なく驚くがいい。その地図は、綾が草のものどもを率いて、手ずから造り上げたふたつとない品じゃぞ。この島の道を余すところなく網羅した優れものよ」
ふんす、と鼻息荒く、綾御前がふんぞり返る。
「ここは、我らが来た方向とはちょうど反対側の方角にあるのだ。最も人目につきにくい入江に続く道よ。そしてこの脱出地点を見つけたは、綾ぞ!ひれ伏して感謝せい」
「は、はあ…ありがとうございました」
僕たちは唖然とするばかりだった。何だか一番面倒くさい人に島の秘密が漏れちゃったなあ。
「ともあれその地図さえあれば、ともかく最短距離でこの島を出られるようになっておる。まず、それで真菜瀬を安全な場所へ運ぼう。ビダルとの決着はそれからじゃ」
「そうだ、真菜瀬さんは…?」
虎千代は岩陰に向かってあごをしゃくってみせた。そこに鬼小島に抱きかかえられて運びこまれた真菜瀬さんが寝かされている。僕たちはすぐにそこへ駆けつけて、様子を見た。さっきまで真菜瀬さんは薬で眠らされたまま、ビダルに椅子へ縛り付けられていたのだ。ちゃんと呼吸はしているが、顔色が青白かった。
「大丈夫だ小僧、見たところ目立った怪我もないし、そろそろ目を覚ますと思うぜ」
「う…ん」
と、真菜瀬さんがかすかに声を上げたのはそのときだ。かすかに開いた瞳が動いたので、黒姫は調合した気付薬をすかさず飲ませた。すると間もなく焦点の合わなかった瞳に、間もなく光が射した。
「あれ…ま、ことくん?…虎ちゃん?…え…みんな?」
真菜瀬さんはちょっと呑気な眠たそうな声で言うと、瞳だけを動かして僕たち全員の顔をきょろきょろと見回したのだ。
心の底からほっとして、思わず肩から力が抜けたのはその瞬間だ。
「は…ここ、そと?…助けに来てくれた…の?」
真菜瀬さんは、首を上げて今度は急に拓けた風景を不思議そうに見渡す。ずっと暗いところに監禁されていたのだろう、まぶしそうに目を細めるさまが痛々しかった。
「ああ、真菜瀬、もう大丈夫だ。我らのせいで世話を掛けた。怪我はなかったか」
「うん…大丈夫みたい。ただずっと眠らされてただけみたいだから」
黒姫がそれから真菜瀬さんの意識の具合を念入りに確かめたが、外傷だけじゃなく内的な傷害についても問題はなかったようだ。
「ごめんなさい。ワタシ…真菜瀬さんにもしものこと、あったら…」
「大丈夫だよ。わたしは…なんともないから」
ほっとしすぎて涙をこぼしているラウラの手を、真菜瀬さんはそれ以上、何も言わずそっと握ってあげた。そして僕の方を見ると、
「真人くんも、ありがとう。ごめんね、あんな危ない目に絢奈ちゃん、巻きこんじゃって。絢奈ちゃん…無事だったかな?」
「絢奈はなんともなかった。真菜瀬さんのお陰だよ。あいつ、真菜瀬さんに絶対、無事で帰ってきてって、僕たちを送り出してくれたんだ」
「そっか」
真菜瀬さんはむしろ、そっちの方が幸いだった、と言うように、嬉しそうに頷いていた。こう言う人なのだ。どんなに大変でも、いつでも、自分は何でもなかったようにして、他の誰かを気遣う。
「真菜瀬、早速だが動けるか。実はお前を奪って辛くも逃げて来たのだ。じきに追手が来よう。悪いが時間がない。下の入江まで走れるか?」
虎千代が尋ねると、何とか自力で身を起こしながら真菜瀬さんはおずおずと頷く。
「うん…がんばるよ。また捕まっちゃったら大変だもんね」
「また捕まったら、絶対助け出すって。歩くの手伝うよ。ほら」
僕とラウラが、真菜瀬さんを介添えして立ち上がる。
まだその手応えは不安定だが、何とか足を進めることは出来そうだ。
「小僧、彼女頼んだぜ。今のところ、追手が来る気配はねえが、あいつらもこの島には精通してるはずだからな」
真菜瀬さんをおろした鬼小島は、背中に収納した着脱式の長巻を組み立てている。虎千代も小豆長光を抜き、念入りに目釘を確かめていた。
「あのときあの場にいたは、異体なれどもいずれも油断出来ぬ使い手よ。おのおの、武器の手入れを怠らぬべし。この期に及んではいざと言うときに、不覚を取るわけにはいかぬぞ」
一同は無言でうなずき合った。
彼方で暴動の気配が続いているが、行く手は不気味に静まり返っている。あのビダルが、僕たちの行方をまったく見失うと言うことは、決してないだろう。いつか奴らは現れる。いまだに姿を見せない敵に緊張を募らせながら、僕たちは道を急いだ。真菜瀬さんもまだ足元も覚束ないし、岩肌の露出した山道は危険だ。道の真ん中を倒木や落石が立ち塞ぐ悪路で僕たちは何度も立ち止まることを余儀なくされた。
「そろそろ森に入る。そこからは真っ直ぐな棒道じゃ。歩きやすくはなろう」
虎千代は黒姫と最後尾について、追跡を警戒する。途中何度も通った場所を塞ぎ、道を惑わした。
岩肌が絶え、辺りは一面、鬱蒼とした雑木林だ。もともと島を吹き上がる海風のせいか、上部の岩場には控えめな灌木程度しか生えていなかったのだが、風が吹きだまるこの場所は真っ直ぐに突き立った針葉樹林がまるで檻につけられた格子のように、びっしりと行く手に立ちはだかっている。
「ここまで来れば、容易に追っては来られねえだろう。しかし不気味な連中だったぜ」
鬼小島は言ったが、僕はまだ不吉な予感を拭えずにいた。
あそこにいたのはあのビダルの腹心なのだ。ラウラの兄のミケルをはじめ、王蝉もゲゼルもイェスパも、底が読めない不気味な連中だった。
「小僧、今さらびびってる暇はねえぜ。あんなやばい連中、一人たりとも逃がすわけにはいかねえ。戻ってきたら、問答無用で真っ向勝負しなきゃな」
鬼小島が長巻を持った拳を固めながら、杉木立ちの中へ差し掛かろうとしていた。
ふわりと目の前の枝が浮かんだと思ったら、そこからまっすぐ太い枝のようなものが、鬼小島の顔面に向かって飛び込んできたのだ。僕と話していてよそ見をしていた鬼小島に、それをかわす術はない。まるで弾かれたように、吹っ飛ばされる。
「くっ」
だが鬼小島も練達のいくさ人だ。ふいの一撃を被弾しはしたが、超人的な反射神経で打撃の方向に頭を反らして最低限ダメージを軽減している。しかし、何と言う威力だ。巨獣を思わせる鬼小島のばかでかく分厚い身体が、一瞬宙に浮いた。
木立の隙間から繰り出されてきたのは、異様に長い腕だった。それがまるでビリヤードのキューのように鬼小島の顔を精確に狙って突き返したのだ。見るとその細長い腕の先端の拳は金属のバックルがついた革手袋で締められ、真っ直ぐに固定されている。折り畳めばその肘で腹まで覆い隠す、異様に長い腕は見忘れるはずもない。枝葉がそよいだかに見える黒い影は、そこに垂れこぼれた長い髪だったのだ。
イェスパだ。年経た糸杉のように細長い身体をぬっと現れたのを見て、鬼小島はようやく事態を悟った。
「くそおっ、てめっ」
反射的に殴りかかろうとしたが、一歩進んだだけでイェスパの意外に広い間合いに牽制される。半歩だけ退いたイェスパの折りたたまれた右腕が一瞬で反応し、鋭い角度を通ってぴたりと鬼小島の顔面を弾き飛ばす。これは、まさしくボクシングのジャブだ。
「見つけたぞ。やはりここを通ったか。師の言う通りだ」
裏を掻いたつもりが、また裏を掻かれた。やはり油断は禁物だ。イェスパがここにいると言うことは、ビダルたちにはこの抜け道はすでに読まれていると言うことだ。僕たちは愕然として、目の前に立ちはだかった悪魔の使いの姿を確かめた。
「お前たち、このまま逃げられると思ったか」
「るせえっ、戻ってぶっ殺す手間が省けたぜ。ここでぶちのめしてやるよ。来おいっ」
鬼小島の挑発に応えるように細長い身体を上下に振りながら、せわしなくイェスパは拳を繰り出してくる。それはこの狭い空間を最大限に利用したフットワークを駆使した、高度に完成されたボクシングだった。
「らああっ」
鬼小島の攻撃は相変わらず迫力満点だが、イェスパはそれを頭を振るだけでいなすことが出来る。その動きは立体的な線で捉えられる規則的なものだが、例えそれを読んだところで、変幻自在の変化に追いつくことは、初見の鬼小島には至難の業だ。
自由自在の角度に展開する右ジャブの連打で距離を測ったと思えば、左のストレートで顔面を撃ち抜こうとしてくる。同じコンビネーションを見せるかと思えば、目線をフェイントに使い、左右のボディを切れ間なく叩いてくる。洗練されたテクニシャンだ。さすがの鬼小島もガードが間に合わず、一瞬で全身にダメージを負った。
「はあっ、はあっ…くそ…胸糞悪い技使いやがる!男ならガチで撃ち合いやがれっ」
距離感の不利を悟ったか、今度は鬼小島は長巻を構えなおして距離を取ったが、この杉木立ち生い茂る場所では狭くて自由に長物は振り回せない。完全に地の利をとられている。
「無駄だ。そんなことをしても、私の動きは捉え切れない。お前の負けだ」
「弥太、構うな。逃げるぞ!」
虎千代が叫んだが、
「大丈夫ですよ、お嬢」
鬼小島は血の混じった唾を吐きつけながら、イェスパから視線を離そうとしない。鬼小島の大振りの一撃はイェスパの機械のように精確なボクシングの前では相性が悪すぎる。それに結果的には長い武器を自由に扱えない場所に誘い込まれて、さすがに今の状況では、鬼小島がイェスパに対抗する手段はないように思える。一体、どうする気なのか。
「へへっ、こいつは久し振りにいい野郎に出会いましたよ。ここは邪魔しねえでもらいますぜ。よく追いついてきやがったな。そう言うつもりならよ、心置きなく、殺しあおうじゃねえかっ」
鬼小島は言うと、次の瞬間、渾身の力を込めて長巻を振り回した。
「うるあっ」
恐竜の牙を思わせる巨大な刃は、触れるものを容赦なく両断する。鬼小島が雄叫びを上げてぶった切ったのは、子供の腿ほどもある杉の木だ。盛大な地響きと葉鳴りの音を立てて、右に左に大木が倒れこみ、視界は閉ざされ、イェスパと鬼小島の姿は呑み込まれた。
「弥太!お前っ、何をするかっ」
虎千代が思わず悲鳴のような声を上げる。
「お嬢、先に行って下せえ!」
虎千代の声に呼応するように、舞い上がる砂煙の中から鬼小島が応える。
「こいつはおれが何とかします!必ず戻ってきて下せえ!」
「馬鹿なっ」
虎千代は抜刀の構えを崩さず前方を見極めたが、戦闘状況はまったく見えない。だが、イェスパの戦い方に鬼小島が突破口をいまだ見いだせていないのは、自明の理だ。鬼小島の危機は、小兵で小回りが利く自分なら打開することが出来るかも知れないのだ。虎千代の葛藤はそこにある。
「虎さま、急ぎましょうです」
黒姫が柄に手を掛けてそこへ飛び込もうとした、虎千代の手を引く。切なげにしかめた顔で虎千代は黒姫をにらみ返したが、黒姫だけでなくその場の誰にも、彼女の忸怩たる思いは伝わってきている。
「行こう」
窮地の中、鬼小島があえて突破口を開いてくれたのだ。その気持ちを無駄にするわけにはいかない。僕はあえて言った。
「判った」
地響きと砂埃の止まぬ戦場と化した杉林を前に、虎千代は唇を噛むと叫んだ。
「弥太、わたしは必ず戻ってくる。ここはひとまず預けたぞっ」
もはや一刻の猶予もない。ビダルの長い手が、伸びてきている。病み上がりの真菜瀬さんを抱えたこの状況では虎千代も満足に戦うことは出来ない。さっきのようにまた追いつかれれば、仲間を棄て石にしてでも先に行くしかないのか。
僕たちは言葉もなく、ただ道を急ぐしかなかった。足元がまだ覚束ない真菜瀬さんを抱え、僕とラウラも体力の限界が近づいてきている。
あれから僕たちは黒姫も欠いた。杉林を抜けるか否かのところで、僕たちは信じられない光景に出くわしたのだ。
なんと森が途中で絶え、道が倒木で塞がれている。だけでなく、そこはすでに戦場が立ち戻ってきたかのような惨状だった。まるで爆撃機の襲来を受けた痕のように倒れた木々は無惨にへしゃげ、しかも焼け焦げている。
その中にあの、蝋人形のような女が立ち塞がってこちらを見ていた。
この女もどうやって僕たちを先回りしたのか。
ビダルとともに、あの恐ろしい絶息丸を再現したもう一人の死の天使。
ゲゼルだ。
「もうお帰りですか、長尾家の皆サン」
ゲゼルは微笑ともつかない笑みで唇をいびつに歪めると、僕たちの前でその両手を拡げて見せた。
「残念デした。黒姫サンにもまだ、お目にかけたかったもの沢山あったのデスのに」
この狂科学者の両腕にはなぜか、古びた包帯のようなものが乱雑に巻かれ、素肌が隠されていたのだが。
それが今、白日の下に晒されていた。
僕たちはあまりにもおぞましいその姿に、思わず言葉を喪った。
「なんだ…その腕は…?」
ゲゼルの両腕は、妙齢の女性のものなどではなかったのだ。そこにはびっしりと強い黒い毛が植えられた、大猿のような筋骨たくましい腕がのぞいていたのだ。それは貴族的なその風貌にまったくそぐわない、野獣そのものの腕だった。まるで神様が、乱暴な手違いを犯して放置したかのように、美女と野獣。いびつな合成獣は、どんな因果の賜物なのか。
「その腕は…狗…?」
黒姫が愕然として口走った言葉に、ゲゼルは満足げに頷いた。
「そうデス。このような形質の人種が隠れ住まうのはこの日ノ本ばかりではないと言うことデス。狗肉宗の民たちと、ワタシ…本来の共通点は、その血なのデスから。ワタシこそもはや唯一…狗肉宗の秘薬、自在に扱う資格がある者。アナタたちを生きて帰すわけにはいかないのデス」
ゲゼルの言葉に、僕はまた愕然とさせられた。あの知切狠禎はじめ、絶息丸の不死を自在のものとした狗肉宗の民たちは、人とも狗ともつかない異様な人獣の形質を生まれ持っていた。彼らはそれゆえか里人を差別し、生贄として拉致してきてその命を秘儀に捧げた。しかしまさかここにも、同じように異形の形質を受け継ぎ、非道の秘儀を志すものがいたとは。
「こいつはわたくしが相手をするしかないですねえ」
野獣の本性を露わにした死の科学者の前に黒姫が、すかさず立ち塞がった。
「虎さま、真菜瀬さんはお任せします。でかぶつはともかく、こんな奴、この黒姫がちゃっちゃとやっつけて御覧に入れますですよ!」
ついに五人になった。戦えるのは、虎千代を含む三人だけだ。
すぐにでも来た道を引き返し、鬼小島や黒姫の安否を確認しなければならない。
塞がれた道を迂回し、くすぶる想いを堪えながら、虎千代はさらに先を急いだ。
「舟はもう少しじゃ」
綾御前が言う。松林に覆われた坂道の果て、ようやく入江が見えてきた。僕たちが息せき切って歩を進めた瞬間だ。
二つの影が、道の真ん中に立ち塞がった。追手の残りの二人、王蝉とミケルだ。
「兄さん…!」
真菜瀬さんを僕に預けるとラウラは、腰のレイピアを外し、とっさに構えた。
「なんだよ、おめおめと逃げるんじゃなかったのか?」
「ふん、一度は綾に叩きのめされた分際で、へらず口を叩くかっ」
「おっと」
兄妹の会話を無視して杖を振りかざして間に割って入ろうとする綾御前を、王蝉が牽制する。
「何をするか、下郎。邪魔じゃ」
「あんたのお相手はこっちですにぇ。つーかワタシを忘れてもらっちゃ困りますにぇ」
と、王蝉は普段の淡泊な表情から想像もつかない、どす黒い怒りで顔を引き攣らせた。
「結局誰かは判らなかったけどあんたにゃ、ワタシは案内役としての面子を潰されたですにぇ。ビダル師にめっちゃ使えない奴だと思われたですにぇ。こいつは絶対に許せんですにぇ。五体解体して鱶の餌にしてやりますにぇ」
「よう言うた。ならばその言葉、後悔させてやろうではないか」
綾御前も瞳を鋭く細めると、杖を構えなおし、ゆっくりと王蝉に向き直った。対する王蝉はこの期に及んでも目立つ得物は持っていない。リーチでは圧倒的に不利なはずの杖に平然として相対する。両手を腕組みしたまま直立した奇妙な構えと言い、何か切り札を隠し持っているのかも知れない。
「何をしておる、とっと行かぬか!」
綾御前が隙を見て僕たちに向かって叫んだ。
「ここは姉が貸してやる。後でまた琉球料理を馳走せい!」
「行こう、虎千代」
後は僕と虎千代、真菜瀬さんの三人だけだ。舟までもはや百メートルほどもない。一刻も早く、真菜瀬さんをこの島から救い出して戻るのだ。
「ビダル」
虎千代は柄に手をかけて走りながら、まだ姿を見せない悪魔の名をつぶやき、背後を振り返った。
「必ず戻る」
再び走り出した虎千代はもう脇目も振らなかった。
ついに、小蛭子島の決戦、最終局面が間近に迫る。




