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戦国恋うる君の唄  作者: 橋本ちかげ
Phase.9 ~生き別れ、我がまま姉妹、二人の決断
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人質交換、悪魔との心理戦!突破口は・・・?

展望台へ続く階段はそれほど長くなかった。懐深くスロープしているように見えて、すぐに空が見えた。薄暗い闇の果て、ぽっかりと開いたその空の向こうが、学校の教室程度のフロアになっていた。だだっ広い生の岩肌が広がるこの場所は、まるで司令塔のように島の全景がぐるりと見渡せる唯一の場所なのだった。

外へ出ると、今までの息苦しい空気が嘘だったかのように、突き抜けるような秋口の空が僕たちを包みこんだ。

行く手に見えるのは播磨灘だ。

断崖の先に、殺風景な金属製の丸テーブルと椅子がぽつんとひと揃い、用意されている。

悪魔はその一脚に腰掛け、悠々と身体を伸ばしていた。

あのとき、僕たちの前に現れた、黒いマントに鉄板入りのブーツを履いたままだ。

間違いなくビダルだ。

テーブルの上には無造作におざなりな食事が拡げられている。紙のナプキンの上に置かれたワインとパン。ビダルはラベルのない粗末な瓶から、血のように紅い液体をどろりと注ぎ、瑞々しさを喪って漆喰のようになったパンを千切ると、グラスに浸して詰まらなそうに齧っていた。

「血と肉。キリスト教では、これをワインとパンに見立ててイエスの復活を祝うが」

挨拶もなしに、ビダルは言うとワインで紅く濡れたパンをくしゃりと噛み砕いて、独り言のように言った。

「ユダヤ教では捧げものに羊の丸焼きを用いたと言う。ナチスドイツが民族虐殺の意味で使う以前は、ホロコーストはユダヤ人たちの祝祭の供物と言う意味に過ぎなかったんだ」

ビダルはそれだけ言ってしまうと、ゆっくりとパンを飲み下した。

「やあ、大分時間が掛かったな」

ビダルは僕たちの方をちらりと見ると、ナプキンで口を拭いながら言った。

「と、言うことは楽しめたみたいだな。どうだった、私の島は?」

僕たちは、その問いには答えなかった。それよりもビダルの真向かいの席、椅子の上に誰かが座らされていた。そこから目を離せずにいたからだ。ビダルの食事の、同席者に。

金属製の腰掛に誰かが一人、縛りつけられていた。

白い浴衣のようなものをまとっているので、身体の線からもはっきりとそれが若い女性だと言うことは判る。剥き出しの手足が椅子に布のようなものでしっかりと縛られていた。

僕たちの目がそこに釘づけになったのは、口にしたくもない不吉な予感からだ。彼女は頭からすっぽりと黒い袋を被せられていたのだ。まるで死刑囚のように。袋を被せられた頭はがっくりとうな垂れ、僕たちの声にも反応する素振りを見せない。ここからではまだ距離が遠くて判らないが、もしかしたら薬を使って失神させられているのかも知れない。あの卑劣なスコポラミンによって。

「真菜瀬さん」

僕はとっさに走り出そうとして、虎千代たちに止められた。僕のすぐ横にいた王蝉が、鬼小島の傍にいたイェスパが、色めき立ったのが判ったからだ。今ここで、僕が暴走したところでどうにもならない。ここはまだ、堪えるしかないのだ。

「どうした、何か気になることでも?」

ビダルが意外そうな声を出した。僕たちの神経を逆撫でする気なのだ。危うく、挑発に乗りそうになった僕の袖を、虎千代はもう一度、引いた。

「かような悪趣味な趣向まで用意して手の込んだ案内、痛みいる」

虎千代は不快げに眉をひそめて言った。

「さても胸が悪うなるような、ふざけた催しばかりよ。なんのつもりかは知らねど、露悪趣味も大概にするのだな。人質は丁重に扱ってもらおう」

「彼女のことか」

ビダルは言うと、こともなげにあごをしゃくった。

「最初は丁重に食事に誘ったんだ。しかし、残念ながら断られてね。どうも私たちが食べるものは口に合わなかったようだ」

見当外れのようなことを言い、ビダルは尚も虎千代を嬲る。

「絶息丸を完成させるための技術者は、連れてきた。我らを無駄に侮辱する真似はよしてもらおうか。まずは、その戒めを解け」

「手順を守ってくれたら、すぐに解放するさ。だがまずは君たちが、私たちの意にかなうことを証明してくれないとな」

「調子に乗るな」

虎千代は歯噛みして柄に手をかけかけたが、

「虎さまっ」

それをすかさず黒姫が制した。

「…ここはお平らに。さっきのこともそうですが、頭を冷やさなくてはだめですよ」

「黒姫…」

いつもと違う諭すような言に戸惑う虎千代に黒姫は、にこやかに微笑して言った。

「真菜瀬さんが心配です。とにかく状況を確認しないと」

確かにこの場所では、呼吸しているのかさえ、見わけがつきにくい。一刻も早く処置をしなければならない状態だって、ありえるのだ。

「絶息丸の、実物を見て頂きますですよ。このわたくしが扱い方を説明します。そうしたらまず、真菜瀬さんを解放して頂けますか?」

「ビダル様、この方が例の奇蹟の薬の技術者ですにぇ」

王蝉が言うと、ビダルは自分を睨みつける虎千代から黒姫へ視線を移した。

「いいだろう」

上出来だ、と言うようにビダルは鼻の頭を歪めると、肩をそびやかした。

「ゲゼル、よく見ておけ。すでに紹介していると思うが、このゲゼルが、ここの責任者だ」

「改めて…よろしく。黒田血震丸が我々に託した絶息丸こそ、有史以来実現していない、不死を体現する薬の正体…しかと拝見させて頂きますわ」

ビダルに声をかけられた金髪碧眼のこの女性は心なしか、息が上がっているように見える。咽喉の筋肉を軋り合わせて話すのも苦しそうな声だ。顔色は青白く、ほとんど変化のない無表情だが、まるで本人自身が何か得体の知れない業病に冒されているかのようだった。

「見たいと言うならば、すぐに見せて差し上げますよ。初めに言っておきますが、こんな恐ろしい劇薬、奇蹟の薬でもなんでもないのですからねえ」

「そうか、楽しみだ」

ビダルが言ったのは、確かにただの本音だったのだろう。黒姫にあてつけたのでもなく、一片の皮肉も含んだ言葉でもない。なぜならビダルは誰かを救う奇蹟など望んでいないからだ。この期に及んでも、まだ判らない。この底の読めない男は、その世にも恐ろしい薬を使って何をしようと考えているのだろう。

「血震丸めはまだ生きているのか?」

虎千代は訊ねた。

「ああ、彼には大分重要な示唆をもらったよ。今でもここにいるがね。お姫さま、あなたに胴体を切り離される前は、彼とはただの取引上の付き合いに過ぎなかったんだ。死を超える薬と言うのも、まだ頭の硬い宣教師たちに見せつける陳腐な見世物程度のものでしかなかった。君たちが実際、あの狗肉宗(クニクシュウ)と言う連中と戦うまではだ」

と、ビダルは得々とあの悪夢のことを述べた。

「あのいくさでの狗肉宗の戦いぶりは類をみなかった。武士は首を落とされても、相手を斬り殺したと言うが、彼らときたら文字通り、首を喪っても戦い続けたのだからね。あれはあれで、ある意味理想の兵士たちだったのだろうな。

だが結果、それで知切狠禎(チギリガンテイ)以下、狗肉宗の主だったものは討ち取られてしまった。惜しいことをしたものだ。これによって今では絶息丸の秘伝は、永遠に失われてしまうところだ。喪われるに堪えがたい、奇蹟についての一つの真理だ。ラウラ、君たちの組織も必死になってこれを追ったんだったよな?」

「それは…過去の話です。今では、一瞬でもまやかしの奇蹟を信じたこと、後悔しています」

ビダルに釘を刺され、ラウラは表情を硬くした。

「ワタシたちは、あなたの計画と絶息丸の危険性を本国に訴えています。ビダル、あなたの計画書も、すでに本国では疑いの目で見られているはずです」

「疑うものもいる。だが、決定するのは本国の連中だ。奴らは君らじゃない。彼らに有効な『奇蹟』、と言うやつを目の当たりにした判らないはずだ」

ビダルは皮肉げに笑うと、話を戻した。

「計画も研究も、ここで今でも続いている。黒田血震丸だって狗肉宗との関係をあそこで終える気はなかったはずだ。だからこそ、私たちから奴隷を買い、実験を続けた。だから私たちが引き継いだ研究結果の中には、狗肉宗たちの思いもよらなかったものまで眠っているのだ。彼は独自の展開を考えていた。実に、いい考えだ」

「あやつから、国盗りでも持ち掛けられたか」

虎千代がじろりと睨め上げると、

「いや、もっといいことだ」

と、歌を口ずさむように言ってビダルは片頬に嫌な笑みを浮かべ、

「さあ、ではその奇蹟とやらをこれからじっくり見せてもらおう」

「そうやって悠長にしていられるといいですけどねえ」

黒姫はこちらを向くと、憎々しげに吐き捨てた。

「お待たせしました」

ゲゼルが車輪付きのカートに用意したのは、まさしく実験器具だ。ビーカーに試験管、ピペット、注射器、アルコールランプ、そして各種の得体の知れない薬瓶だった。

ゲゼルはそれらを並べ終えると、慣れた手つきで作業をし始めた。まるで理科の実験を見ているようだ。試験管にいくつかの薬品をそれぞれ注ぎ入れ、そこにさらに粉末などを加えてアルコールランプの火で熱した。

不思議なことに、そうした時だけいつも熱病に浮かされたようなゲゼルの朦朧とした表情に赤みがさし、頼りなげに小刻みに揺れていた手から震えがぴたりと消えている。まるで別人のようだ。普段眠たげに濁ったゲゼルの瞳は今は怪しい輝きすら帯びて冴えきり、試験管の中を見つめていた。そうして、みるみるうちに小さな試験管の中に半分程度の無色透明の液体が出来上がった。

「これは、完成を確かめるための試薬です。血震丸サマより示唆を受け、狗肉宗の秘伝から私たちが作り上げたものです。これを…試させて頂きますが、よろしいですね?」

黒姫は無言で頷いた。ゲゼルはその手から薬瓶を受け取って、慎重に中身をピペットで吸い上げた。恐らくはその絶息丸を液体の中に注いで、反応を見るのだろう。

ゲゼルは試薬の入った試験管をとると、神経質そうな手つきで絶息丸の溶液を一滴、落とした。そのまま少し揺すると、何か起こるのを期待するように目をすがめて反応をうかがい、また数滴、数滴、と二つの溶液を混じり合わせていく。するとだ。

一見するとまったく見わけがつかなかった無色透明の液体がゆらゆらと、陽炎を立てて反応を始めたのだ。無数の気泡を空気面に上らせた液体はしゅうしゅうと音を立てて、ものの数十秒で沸き返った。

ここですでに物凄い刺激臭がしたが、ゲゼルは顔色ひとつ変えない。その超反応を見極め、軽く振り立てながら二つの液体を今度はガラス棒でかきまぜる。そのうち、試験管の中は劇的な変化を遂げていった。

今や、無色透明の液体はそこにない。ガラスの試験管の中はコールタールでも流したようにどよどよとした不定形の黒い靄(もや)に覆われ始めたのだ。まるで生きているかのように靄は触手を伸ばし、試験管の口いっぱいまでこぼれ出した。

ゲゼルはそれに息を吹きかけた。すると、試験管を覆っていた余分な靄は晴れていき、わだかまりはぴったりと試験管の口に停まった。そこが液体と空気を隔てる境界線なのか、それからはゲゼルが振ってもびくともしない。

「これで…いいでショウ」

ゲゼルは熱っぽいため息をつくと、作業の終了を宣言した。そしてビダルと僕たちに向けて試験管の中身を取り上げて見せる。

「よくご覧下サイ」

ゲゼルは言うと、反対側の手の指で試験管の底を弾いた。おぞましい激変はまだ、これで終わりではなかったのだ。

どんよりと翳った雲のように見えたものは、急な衝撃でぐらりと揺れた。そこから、分離したように紅いよどみが、試験管の底に沈殿したのだった。色濃い紅色は、血の色ともまた違う、ある種の致死性すら感じさせる不気味な赤だ。昏(くら)く明るい生と死の境を示す色。とっさにそれが何を表しているのか、僕には形容できなかったが、思わずぎょっとした。

「これぞまさしく、ワタシたちが求めていた絶息丸」

ほうっ、と恍惚のため息をついたゲゼルは満足げに頷くと、ビダルに報告した。

「黒姫サンが持ってきた薬こそが正真正銘、口伝にある幻の雌薬(めやく)かと」

「『暁闇(ぎょうあん)ノ叢雲(むらくも)ヘ生血(なまち)垂ラシタルガ如キ赤光(しゃっこう)射シタル景色ニテ』」

「ほう、ご存知でしたか」

黒姫が唐突に口ずさんだ謎の言葉に、ゲゼルは怪しく目を輝かせて反応する。

「その台詞、あんたにそっくり返しますですよ。絶息丸の秘密、そこまで知られているとは思いませんでしたですよ」

「どう言うことだ、黒姫」

今のやりとりに、思わず目を見張った虎千代が訊いた。

「…申し訳ありませんですよ。絶息丸には、雄(お)と雌(め)、二種類の薬が存在するですよ。この方はすでに雄薬の方を完成させているかと」

驚愕の真実だった。黒姫はこのことを、恐ろしい劇薬の秘密が漏れることを憚って、虎千代にすら漏らさなかったのだ。ゲゼルはすでにそれを知っていて、いわば真贋を試す試験薬として、雄薬の方を完成させていたのだ。

「血震丸サマの話によると、人体を不死に導く力は、普段彼らが服用する絶息丸ただ一つだけでは根付きませン。雄薬と雌薬、この二つを調合したものでなければ」

つまりはこう言うことだ。ゲゼルの話によると、僕たちが黒姫に見せられた薬は、不死の荒行を突破した狗肉宗の狂戦士たちが、その強靭な肉体を保つために常用する薬であり、その身体に不死を根付かせるのには、本来は試薬である雄薬を調合する必要があるようなのだ。

すなわち目の前に現れた不吉な朝焼けの色に似たこの溶液こそが、不死の怪物を創り出す、最悪の薬なのだ。

「恐らくは狗肉宗の方たちはこの溶液をそのまま服用したと思われるのですが、さすがに普通の人間はこれをいきなり飲んで無事ではいられないはずデス。血震丸サマたちはこれを希釈(薄める)して段階的に服用するようにしたと思われますデス」

「上出来だ」

試験管をゲゼルから受け取ると、ビダルはその不穏にぎらつく赤を満足げに陽に透かして眺めた。

「それなら、別になんの問題もない。どれくらいの分量でならば、危険性を抑えて服用できるか、実験台には事欠かないわけだからな」

「くっ…」

僕の隣で黒姫は、言葉もなく、苦しげに顔をしかめていた。見て判る通り絶息丸の秘密を知られることは、そのまま誰かの犠牲を生むことになるのだ。この島の実情からビダルのしていることを知った今では、その事実は、虎千代も知らない秘密を抱えていた黒姫を苛んだに違いない。

それでも目の前で実際ひどい目に合っている真菜瀬さんの無事には代えられない。黒姫は苦渋の選択をしたのだ。

「…さあ、納得したら真菜瀬さんを返してもらいましょうですか!」

「まだだ。待てよ、そうことを急いてもらっては困る」

声を張り上げた黒姫を挑発するように、ビダルは思わせぶりに肩をすくめ、口笛を吹いた。

「テストがまだ終わってない。せっかくだ、これを飲むとどうなるのか、実際、試してみなくてはね」

ビダルのあまりに狂った言動に、僕たちは愕然とした。

「まさかそれを飲む気ですか…?」

さすがの黒姫も声が強張っている。

「ああ。でも、もちろんそれは私じゃない。…そろそろ、来る頃だな」

ぱちん、とビダルは指を鳴らしてみせたときだ。僕たちが上がってきた階段の方から誰かがやってくる。その姿を見て、また愕然とさせられた。


「兄さんっ…」

ラウラが思わず声を強張らせた。

そこに、ミケル・アリスタが立っていた。ビダルと同じ、歪んだ笑みを顔に滲ませている。ミケルはまるで捕虜のように腰縄をつけた男を従えていたのだ。

「あんたの言う通り、実験台を連れてきた。この男なら、まだ体力が残ってる。どうにか保ちそうだ」

「もうやめて…なんてことするの…?」

色をなす妹に聞く耳を持つ様子もなく、ミケルは息も絶え絶えの男をビダルの前に引き立ててきた。

男の顔色は紙のようで、口を利くのも物憂そうだ。薄い麻服をまとっただけで全身に脂汗を掻き、すでに肩で息をしている。ゲゼルによって恐らくはもう何か投与されているに違いない。ミケルは同じ人間を見るとは思えない、冷たい目をその男に向けた。

「いいだろう。ゲゼル、この男にその薬を飲ませてみろ。どうなるか見てみたい」

ビダルの無慈悲な命令が、男の運命を決めたときだ。

「いい加減にしろ」

ついに堪え切れなくなった虎千代が柄に手をかけ、そこに詰め寄ろうとした。ビダルとミケル、問答無用で二人とも斬り捨てる勢いだ。それをすんでで、王蝉とイェスパの二人が阻んだ。

「どけえっ」

怒気を露わに虎千代は吼えた。しかし、この刹那でさすがにこの二人まで相手に出来るわけがない。

「どうか大人しくして下さいですにぇ。せーっかく取引がちゃんと済みそうなときじゃありませんですかあ」

「…我らを、どこまで嬲れば気が済むのだ」

煮えたぎるような殺気を発する虎千代に、王蝉とイェスパも緊張の色を見せる。二人とも一見して一筋縄ではいかない相手だ。鬼小島もすかさず虎千代を守るために武器に手をかけ、低く腰を落としている。ここでもし始まってしまえば、どうなるか判らない。まさに一触即発の事態だった。

「おいおい、この期に及んでそんな真似は困るぞ」

虎千代の激昂を意外なものを見る目で眺めると、ビダルは温度のない声で言った。

「嬲る気はない。これは必要不可欠なことだ。この薬を持ってきた時点で、こうなることは分かり切ってたことじゃないか?」

何と言うことだ。もはや立っていることもままならない男を、ビダルは使い捨ての実験台と言いきったのだ。ユダヤ人の子供たちを自分の欲望のままに実験台にした死の天使、あのジョゼフ・メンゲルのように。

こんなこと赦されるはずがない。

「お姫さま、堪え切れないなら目を背けてろ。結局あんたの見てないところでも、同じことが行われる」

「ふざけるなっ」

ビダルの冷然とした口調に僕も、我を失って叫んでいた。

僕たちは全員、虎千代と同じ思いだ。

危険と判っているもので平然と人体実験を行うと言うビダルたちを、目の前で見過ごせるわけがない。

「お姫さまだけじゃない、真人くん、君もだ。よーく、頭を冷やして考えるんだ。君たちの目の前にいる男は、君たちとなんの関係もない。しかし、彼がこの薬を飲まなければ君たちの大切な人が助からない。なぜなら、私たちとの取引が成立していないからだ」

「なんなら、実験体を代えてもいいんだぞ」

ミケルは、人質を縛りつけた椅子の方へあごをしゃくってみせる。

「あっちのがまだ活きがいい」

「そこまで堕ちたか…」

虎千代は暗い声でミケルに投げかけたが、悪魔に憑かれた男は嘲笑うだけだ。

「良心が咎めるか。気を楽にさせてやろう。私たちが投与した薬で、ほっておいてもこの男はどの道死ぬ。もしかしたら完成した絶息丸を投与したら、何とか生き延びれるかも知れない」

もちろん、そんなことは詭弁だ。分かり切っている。目の前の男は確実に命を失うだろう。しかし、ことままでもどうせ助からない。ビダルが用意した逃げ道に僕たちは、縋るしかないのか。

僕の傍らで黒姫も黙っている。これを人に飲ませたら、どうなるか。僕たちの中でそれを一番よく知っている黒姫は心情的には虎千代に加担したいに違いない。だが、不可避の結論を胸に抱えて口をつぐんでいたのだ。

それを口に出す勇気がなかった僕にも、彼女を責める権利などない。ビダルの卑劣な駆け引きによって、僕たちは心理的な袋小路の中にいた。目の前で見過ごせない事態が進んでいきつつあるのに、それでもどうにも出来ないのだ。僕たちはやはり、この男には勝てないのか。やり場のない悔しさで、また息が詰まりそうになる。

虎千代も激昂したものの、振り上げかけた拳を下ろすことも出来ずに、ビダルの言う言葉に動きを封じられてしまっている。

「お虎、諦めよ。お前、一時の感情だけで大事な人質まで殺す所存か」

結局虎千代を宥めたのは、肉親の綾御前だった。

「姉上」

虎千代は噛みつくような顔で、表情を殺している姉を見た。しかしそれから、責めることも出来ずに縋るような眼になってうつむいた。

「分かっている癖に、甘えるな。お前は今必要なことに目を背け、ただ、我がままを言うておるだけではないかえ?」

虎千代はすでに反論する言葉を失くしていた。そう言う問題ではないと思いながら、どこかで綾御前の言うことも正論なのだと言うことが、僕たちにも判っていたのだ。だからこそ、残酷な結論で虎千代を諫めた綾御前に対して、誰ひとり喰ってかかるものはいなかったのだ。

「話はついたかな」

ビダルはゲゼルに合図すると、瀕死のその男の口にあの不気味な試験管の中の液体を注ぎ込んだ。

そこから先は、口にしたくもない、地獄絵図だった。ゲゼルが男に投与したのは、ほとんど口を湿らせるほど、ただの数滴だ。しかし間もなく、男はこの世のものとは思えない絶叫を上げて悶絶したのだ。僕たちはそれをなす術もなく見守るしかなかった。そこには、ただの一つも救いはなかった。

叫ぶ気力すらなかったものが上げる断末魔は、堪えがたいものだった。どれくらい時間が経ったのだろう。咽喉を掻き毟っていた男の呼吸が急に停まるまでには、恐ろしいほど長い時間が掛かったように思えた。

「いいだろう」

息が止まったのを確認すると、ビダルはうつ伏せのまま動かない男の身体を起こさせ、ゲゼルに死亡を確認させた。男の身体からはあの猛烈な刺激臭がし、大きく見開いたままの瞳は充血して濁っていた。

「大体二分半と言ったところですカ」

ゲゼルは袂から手巻き式の懐中時計を取り出して、死亡までの時間を確認した。

「上出来だ。実験を重ねていけば効果を喪わないまま、希釈することは出来るか?」

「致死量を割り出せれば、それも可能になりまショウ」

今の会話には重要な示唆が含まれていた。僕もすぐにそれに気がついていたのだが、それこそがビダルが絶息丸に執着する目的につながるものだったのだ。

「ふん、かような激烈な臭いのする毒を、自在に飼うまでに漕ぎつけるはずもあるまい」

遺体の様子を近寄って見ていた綾御前が、口を挟んだ。

「遺骸の様子、しかと見極めさせてもらったぞ。このような毒、使い物になるはずがないわ」

「どうやら、とんでもない誤解があるようだな」

ビダルは皮肉げな笑みを含んで綾御前を見ると、ひょうげたように肩をすくめてみせた。

「まさか私たちが、君たちの兄である越後の国主晴景公に、これを盛ろうと企んでいると思ってるんじゃないだろうな?」

「とっ、とぼけるでない!」

「とぼけてないさ。私たちがこれほど労力をかけて絶息丸を創り出そうとした理由を、ただの毒殺のためだと思っていたとはな。呆れていただけさ」

ビダルは堪えきれないと言うように、くっ、くっ、と陰気な笑いを漏らした。

「姉上、この男の言うとおりです。兄上を毒殺するなら、味も匂いもせず、誰にも気づかれぬものがもっともよいはず。それこそ、鴆(ちん)の毒(ヒ素のこと)でも飼えば、それで済むこと。それよりも今やつが言ったことの中に、答えは出ている」

同じ結論を僕が悟ったことを見透かしていたのか、虎千代は先を促すようにこちらを見た。僕は直感的に感じ取ったその結論を口にした。

「この男の目的は、絶息丸の汎用化だ」

ビダルは、はっとしたような目で僕を見た。

「考えてみれば、当然の帰結だ。普及しない兵器はそもそも、戦場で意味をなさない」

ビダルは応えなかったが、表情が物語っていた。今のは確かに正鵠だったはずだ。虎千代が先を継いだ。

「姉上の話で気になったことがあります。それは、坂戸の伯父上の元に出入りをなす男が、言っていたこと。ご記憶ありますまいか」

僕ははっきりと憶えている。

その薬師は、あるとき政景に持ちかけたのだ。

いざ、必要なときは色のない軍隊を提供する、と。

「恐らくはそれこそが、ビダルが求める汎用化された絶息丸によって創り出されたもので組織された軍兵なのです。まさしくこの男の目的は不死の軍勢を創り上げること」

そうだ、それこそがビダルが絶息丸を使って抱いた野望なのだ。

「現在の絶息丸ではそれは叶わぬ。今の結果を見ても分かる通り、従来の絶息丸を服用しても生き残ることが出来たのは、あの知切狠禎の異形の血を受け、深山で荒行を重ねた狗肉宗のみ。この男はその絶息丸を改良して、いつでも自在にあのような怪物たちを創る技術を開発しようとしているはず。万に一つも違いはあるまい」

虎千代は言葉を切ると、ビダルを睨みつけた。ここへきてついに、底の読めないこの男の片鱗を僕たちは掴んだのだ。ビダルは表情を停めていた。しかし、次の瞬間にはまた、陰気な笑みを顔に貼りつけて、

「ああ、そうだ。…この期に及んで、隠しだてする必要もない。君たちの言う通りだ。確かに、それは正しい。私が求めるのは、まさしくその、死なない軍隊さ。日常を顧みることなく、死に向かってただ進んでいく破壊の従事者たち。真人くん、君にはいつか話したと思うが、これが私たちが求めてきたものさ。これこそ戦争そのもの、真の軍隊さ」

「狂ってる」

ほとんど反射的に、僕は吐き捨てた。理屈の上ばかりではない。それは本能的な拒否だった。やはり、この男のことは理解出来ない。

「なんとでも言うといい。私は聞かれたことを答えただけだ。別に理解は求めていない。私が創り上げるのは、あの狗肉宗のような首をもがれても戦い続ける兵たちだ。どう倫理で理屈をつけようと、いつの時代でも戦場では不可欠な、理想的存在さ。何も隠すべき事実はない。ラウラ、私はイスパニア本国に向けて報告書を書いたと言ったろう。そこにも、きちんと書いてある。いつでもこの国で生み出した、強靭な教化戦士を提供出来るようにするとな」

「嘘です!あなたの言うことなど、誰も信じるはずがない!」

ラウラは悲鳴に近い声を上げて抗ったが、ビダルは動じもしない。

「嘘じゃないさ。イスパニアがこの国に君たちを送り込んだのは、ただの布教のためのはずがないだろう。十字軍以来の伝統さ。これこそはまさに、『正にして聖なる戦い』の一旦なのだよ」

ビダルが口にした言葉は、あながち詭弁とも取りがたい。確かにこの一六世紀のカトリック神学では、そうした考え方はあるのだ。非キリスト教圏の異教徒たちの魂は、浄化される必要があり、そのためには軍事行動、すなわち十字軍がしたような『聖戦』も辞さない。そんな考え方を、『悲観神論』と呼ぶのだ。

「この国へ来て、君たちも無知ではいられなかったはずだ。見ただろう?私たち、宣教師をはじめ信徒たちがどれほど排斥され、不当な弾圧を受けたか。それに引き換えて得たものはそれほど多くもなかったのにな。たっぷりと学んだろう。必要なものは自分から奪わなくては手に入らないし、自分の身は自分で守らなくてはならない。神は無駄な布教を求めるが、見返りに誰も救ってはくれない。それが真理だ。違うか?」

「あなたは今、はっきりと言った。あなたは間違っている。神の教えなど、あなたは伝える資格などない」

ラウラの声は強い絶望を重たくまとったものに変わっていた。それは糾弾とも、失望とも取れない虚ろな響きのものだった。しかし、もちろん、ビダルと言う男にそれが届くはずがない。

「ああ、そうだ。その代わりに、真実を伝えている。君の兄にもな」

ビダルは大きく首を傾げると、自分が洗脳したミケルの肩に手を置いた。

「その先に何がある?」

疑問を叩きつけたのは、虎千代だった。

「どう理屈をつけようとお前たちはただ、自分たちの考えで世界を塗りつぶしたいだけだ。そんなことが何になるか」

「これは目的じゃないと言ったろ。真理だ。何になると言う、そんな問題じゃない」

ビダルは言うと、ゲゼルの首から下げた懐中時計を開いて時間を確かめた。

「さあ、取引は済んだ。そろそろ、おしゃべりも終わりにしようか」


不死の軍隊を創る。

ついに正体を現したビダルの深淵に、僕たちはそれ以上、問いかける言葉もなかった。さっきあの恐ろしい人体実験を目の前で見過ごしたように、その悪夢のような野望を止めることも出来ず傍観しているしかないと言う絶望が、僕たちに重くのしかかってきたのだ。

ただ一つ幸いだったのは、真菜瀬さんが無事だったことだった。解放された真菜瀬さんに目立った外傷はなく、命に別条がないことを、黒姫が確認してくれた。真菜瀬さんはただ薬で眠らされていただけで、間もなく目を覚ますとのことだった。本当にそれだけが救いだった。

「後はよろしく頼みますですよ。虎さま、皆さん、ご無事で」

「黒姫…」

うつむいたまま言葉が出ない虎千代の手を握って、黒姫は微笑んだ。

「心配しないで下さいよ。大丈夫なのです」

黒姫の笑みは澄んでいた。すべては虎千代を心配させないためだ。主君以上の思いを持つ虎千代を守るために、黒姫は一命を捧げる覚悟でここへ来たのだ。それを思うと僕も、胸が詰まりそうになった。

「真人さん、虎さまを頼みますですよ」

黒姫は真菜瀬さんのために気付の薬を用意すると、ビダルのところへ行った。


「さて、これからのことだが私たちはこの島を去る。新しい人質を連れてね。後のことは好きにするといい」

ビダルは僕たちに言うと、胸ポケットから小瓶を黒姫に渡した。

「彼女と違って君は腕が立つ。余計な真似をされると困るのでね、これを飲んでもらう」

黒姫は小瓶を開けると、怪訝そうに顔をしかめた。

「真菜瀬さんを拘束した薬と同じですか。わたくしに手がかりを遺されると困ると言うわけですか?」

「ああ、ここは目立ち過ぎた。これからは誰にも見つからない場所で研究を続けたいのでね。…安心しろ、身体に異常が出ないように、きちんと希釈してある。スコポラミンは酔い止めの薬にも使われている。安心して、飲むといい」

黒姫がそれを口にして意識を喪うと、ビダルたちは彼女を袋の中に詰めた。イェスパと言う男が黒姫の入った袋を担ぎ上げる。真菜瀬さんのことといい、人を人とも思わない扱いに、僕たちはまた歯噛みをさせられた。もはや、抵抗する術など残されていないのか。どうにかしてこの悪魔を止める手段はないものか。

「このまま、逃げられると思うな」

虎千代が吐きつけると、ビダルは薄く唇を歪め、それを嘲笑った。

「そんな怖い顔をするな。大人しく私が消えるまで待つんだろ。それに君たちには、まだ仕事が残っている。この島には、私たちに拘束された住民たちが閉じ込められている。彼らを救わなくていいのか?」

何もかもがこの悪魔の言うなりだった。一矢でいい、この男に報いる手段はないのだろうか。血が出るにも構わず、僕が拳を握りしめ、ビダルに殴りかかろうとしたときだ。

「待て」

ぽつんと、誰かが言った。虎千代じゃない。綾御前だった。

「そのまま行っては困るな。少し待ってもらおうか」

なんと、今のはビダルたちに言ったのだ。しかも怒りをぶつけるでなく、どこか呑気な口調だった。さすがのビダルも怪訝そうな顔をした。間が悪いを通り越して、これでは意味が判らない。

「待てだと?どう言うつもりかな」

「言葉通りの意味じゃ。今に分かる」

綾御前がそう言った瞬間だった。

大地を揺るがす爆音が、連続して辺りに響いたのだ。ついで、大きなどよめきのような人の声、悲鳴、怒号。僕たちは思わず、周囲を見渡した。何があったのだ。

「どうやら上手くいったようじゃな」

綾御前だけが、事態を呑みこんで納得顔をしている。ここへ来て、僕たちは綾御前がすでに何かを仕掛けていたことに気づいたのだ。虎千代が置き手紙をして置いて行ったのに、彼女は、途中から現れた。どうやって、しかもなぜ。

待てよ。

「置き手紙…」

ぽつりと僕がつぶやいた言葉に、綾御前は得意げに頷いて見せた。

もしかしたら、あの置き手紙の正体は。

話している間にも、炸裂音とどよめきはどんどん大きくなっていく。こちらに確実に何かが近づいてきている。

「改めてお虎の言を返そう」

綾御前はビダルに向かって言った。

「南蛮坊主、残念であったな。おのれは逃げられぬわ」


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