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戦国恋うる君の唄  作者: 橋本ちかげ
Phase.9 ~生き別れ、我がまま姉妹、二人の決断
91/592

悪魔の臓腑へ!ビダルを追う真人たちを待ち受ける衝撃の惨状とは…?

「はじめましてですにぇえ、長尾家の皆さぁん」

岸でひとり待つ女性は、僕たちににこやかに話しかけてきた。変な話し方だ。やはり言うまでもなく、ビダルの一味なのだろう。ラウラやミケルのように革ベルトに覆われた装束なのでひと目でビダルの船員だと、分かった。

「貴殿は」

と、虎千代が尋ねると、

「ワタシ、王蝉(おうせん)ですにぇ。遠路、よくいらしてくれましたにぇ」

女性は妙なイントネーションの日本語で答えた。

年齢は真菜瀬さんくらいだろうか。黒く流れる髪を、額を露わに二つに分けてある。あごの詰まった小さな顔つきに、鋭角に開かれた瞳。小作りな目鼻立ちがはっきりとした猫顔だ。いわゆる中国系の女性に多い顔立ちに見えた。

「ビダル師のところまでは、このワタシが案内いたしますにぇ。よろしく、お願いしますですにぇ」

「案内とは、大分仰々しいな。人質を交換するだけだ。ここでもよかろう」

虎千代は意外そうに言った。こうなるとは察していたのだが、あえてかまをかけたのだろう。

「そういうわけにゃ参りませんですにぇ。ここでは目立ちすぎ。困りますにぇ。人質を交換するにしても」

王蝉は顔中の筋肉を綻ばせて、にっこりと笑った。

「ワタシ、ついてきてもらえば分かります。途中の道が複雑なので、私から離れないようにして下さいにぇ?」

それだけ言えば十分だと言うように、王蝉は話を切ると無防備な背を向けてさっさと歩きだしてしまう。ただ、黙ってついてこいと言わんばかりだ。

彼女の後姿を追って、僕は思わずビダルがいると言う山の果てを見つめた。はるか頭上に、森に覆われた島の頂きが拡がっているのが見えるのだ。切り立った山はかなり険しい。海岸に薄く松林が張っているだけで、そこはすでに鬱蒼とした密林の入口なのだった。

この島のどこかに、真菜瀬さんが監禁されているのだ。

油断するな、と言うように虎千代は僕たちに目配せをすると、無言でそれに続いた。

何があるか、判らない。

人質交渉は建前に過ぎない。周辺海域に包囲網を張った僕たちもそうだが、相手も万全の戦闘準備をしてきているはずだ。

目の前の王蝉と言う案内役の女性も、見たところ目立つような武器は携帯していないように思えるが、薄いがしなやかな筋肉に覆われた身体や隙のない所作物腰からして、油断できない相手のはずだ。虎千代が王蝉のすぐ左後に陣取ったのは、不審な動きを警戒するために他ならない。恐らくは相手も判っていて、あえて虎千代に死角に立つことを許したのだろうが、それも腕に自信があるからこそなせる業だ。

「ビダルのところまではどれほど掛かる?」

「さあ、半刻(一時間)ほどでしょうかにぇ」

王蝉は僕たちを一瞥すると、癖なのか小さく首を傾けた。

「早速ですにぇ、悪いんですけど向こうへ着いたら例のものを取り扱うことが出来るかどうか、試させて頂きますにぇ。まさかと思いますが、準備、出来てますにぇ?」

黒姫は即座に頷いた。

「問題ありませんですよ。なんなら現物からお目にかけますですよ。ひと目で判るよう、見本を持って来ましたのでねえ」

「ほっほう、そーれが噂の奇蹟の薬と言うわけですか」

黒姫が袖をそびやかして、絶息丸の溶液の入った小瓶を見せびらかすと、底の読めないこの中国人の案内役の女性もさすがに興味を示した。

「貴殿は血震丸たちに会ったのか?」

「はぇ?」

くりんと目を丸くする王蝉にだしぬけに、虎千代が突っ込んだ。

「あの生きている首どもを見たなれれば、奇蹟の薬などとうかつには言えまい」

「これは、死者が蘇るすっげぇ薬ですにぇ。奇蹟は奇蹟ですにぇ?」

あっさりと言いのける王蝉を虎千代は睨みつける。

「あの悲惨な奇蹟の犠牲者に、自分がなるかも知れないとは考えたことはなきか?」

突き刺すような虎千代の切り返しに、王蝉は表情を停めた。

「なーるほど、師の話にたがわず難しいお方みたいですにぇ」

「それほど難しい話をしているつもりはないのだがな」

虎千代が鼻を鳴らすと王蝉はそれに応えず、今までのやりとりを誤魔化すように微笑で流した。

「にぇははは、めんどいお話は着いてからにして、まあさくさく行きましょう。師が心待ちにしておりますにぇ」

海岸から続いた獣道は、扇型の山肌に沿ってぐるぐると続いていた。その間はずっと、森だ。秋の陽はほとんど地上に差さず僕たちの頭の上には、雑木林の枝が群れていた。船上ではかなり暑かったのだが、ここはほとんど中秋の涼しさだ。

気温の低さは水があることも関係しているらしい。陽の射さない坂道にはかすかに沢が流れているようで、砂利道は清かな清水で濡れている。赤ん坊の手のひらほどの小蟹がそこかしこでじっと息を潜めていた。こうした離島には珍しく、この島には独自の水源があるのだ。

「滝が落ちる音がする」

虎千代はさすがに、僕の気づかないところにまで注意を払っている。

「水の手があるのは、我々にとってもありがたいことでしたにぇえ」

何気ないつぶやきだったのだがそれを王蝉は抜け目なく拾った。

「この島の水資源は豊富なのですにぇ。食糧さえ運びこめば、悠に数か月の籠城に耐えられるでしょうからにぇ?」

それは暗に、海上に展開している三好水軍の存在を揶揄するものでもあった。僕たちはビダルを袋の鼠にした、とたかを括っていたが、ことはそれほど一筋縄にはいかないようだ。

やがて森が絶え、空が拓けるようになった頃、僕たちはさらにそれを痛感するようになる。現れたのは、衝撃と言う言葉も軽く感じるほどの、この島の惨状だったのだ。


これは、集落だ。

そこには坂の勾配に沿うような形に、村の跡が遺棄されていた。小さな水田に灌漑施設の跡、点々と建てられた木造の平屋。これらは後に、丸太を組んだ櫓や土塀が築かれる以前からの構造物のようだった。水源があることからしても、もしかするとここには元から住んでいる人たちがいたのだろう。言うまでもなく、ビダルたちがそれを牛耳ったのだ。

村は砦に改造され、武装した兵士たちに占拠されている。一般人の姿は見事になく、点在する空き家には、王蝉と同じ格好をした男たちが溜まり、ひと気のない目抜き通りを過ぎる僕たちにぎらついた視線を投げかけてくる。通りの奥の家の戸は封鎖されているのか、入口に板が打ちつけられているものも目立った。完全に武装占拠され封鎖された村だ。

「ちっ、胸糞悪いな。なーんか陰気臭い場所だぜ」

鬼小島は吐き捨てたが確かに、暗がりで顔を伏せる男たちはみな押し黙り、一様に暗い目をしている。ここは確かに今はビダルたちが占拠する砦になっているはずなので、物々しいのは判るのだが、不可思議なのはそこに立ちこめる何とも言えない暗い雰囲気だった。その不可解な感じは道を歩く僕にもすぐに感じられた。土壁や堀で区切られているからだけではない。この集落にある何が作用しているのか、これだけ拓けた場所にも関わらず、何だかここは森の中よりも息苦しく感じられるのだ。

「元いた住民はどうしたのだ?」

その常ならぬ空気を感じたのか、虎千代も顔をしかめて訊ねた。

「今でもいますにぇ。顔を出さないだけでにぇ」

王蝉はにべもなく、不審がる虎千代に言った。

「いわゆる共存共栄と言うやつですにゃあ。今まで海賊どもがしていたことと、何の変わりもありませんにぇ。外からの危険から身を守る、その代わりにワタシたちに協力して頂く。この国の支配層の皆さんなら、みーんなしてることですにぇ?」

虎千代は黙っていた。言うまでもなく、最後の王蝉の言葉は暗に、越後守護代の長尾家を皮肉ったものだろう。

「さあ、まずはここを通り抜けましょう。何も心配ありませんにぇ?」

しかしその王蝉の言葉こそが上辺だけのまったくの詭弁であることを、間もなく僕たちは知らされることとなる。


耳をつんざく金属音が、ひと際高く響き渡ったのはそのときだった。

「なんだ」

虎千代たちは武器に手をやり、思わず身構えた。

金属音はよく聞くと、鐘の音のようだ。それも日本のものではなく、ヨーロッパの教会のある街などで聴く、いわゆるベル状の鐘の音に思えた。それは周囲の注目を集めるようにひと際高く一声、鳴り響くとあとは断続的な残響音を刻みながら、だんだんこちらへと近づいてくるのだ。

やがて、坂の向こうに黒いローブを目深に被った異様な風体の男たちが現れた。

まるで古いゴシックホラー映画を観ているようだった。島中に鳴り響くような、その不吉な音は黒いローブの群れの先頭に立った男が合図のように振り続けているのだ。本来なら澄んだ音のはずのそれは、閑散としたこの場所ではまるで弔鐘のように物悲しく、またうんざりするほど呪わしく響いた。

僕たちはその異様な群れが近づいてくるのを、立ち止まって見ているしかなかった。彼らはさして広くもない目抜き通りを塞ぐようにまばらな隊列を作ってこちらに歩いてきていたからだ。

その黒いローブをまとった群れが、この村の重苦しい雰囲気を象徴しているものだと、僕たちが理解するのにそれほどの時間は懸らなかった。なぜなら彼らは、何人かで大きな荷車を曳いていたからだ。それにぎっしりと載せられているものに衝撃を受け、僕たちは絶句したのだ。

大きな荷台にところせましと詰め込まれているのは、問答無用の死体だった。どう見ても死んでいることは、生きているとは思えない姿勢で荷車に押し込められているからに他ならない。彼らは硬直した身体を無理やりに折り曲げられた後に、ぎゅうぎゅう詰めの状態でこの荷台に詰め込まれたのだ。そこにいるだけでむっと息が詰まる死の塊だった。近づくほどに凄まじい蠅の羽音が聴覚を嬲った。

それらは人種、風貌、老若男女を問わない、あらゆる種類の死体だったのだ。

死後、それほど経っていないものから、すでに身体が土気色に変色し出したものまで。そのいずれもが苦痛にたわんだ口元に白く泡立った跡を残し、咽喉を掻き毟った傷も露わに苦悶と衝撃の表情を浮かべたまま絶命のときを迎えたものだった。

「これは…」

皆まで言えずに、ラウラは咽喉を詰まらせた。

言うまでもない、絶息丸の試薬品によるビダルの実験の犠牲者だ。恐らくはビダルが人体実験をするために島の外から拉致してきたのだ。遺体の中にはロザリオを両手に抱いたまま、亡くなっているものも見受けられる。高来がそうしたように、彼らは信者の他国亡命を手助けするふりをして、この非道な人体実験施設に連行したのだ。

村の中腹の広場に荷車をつけた男たちが、ひと際高く鐘を鳴らして合図した。すると、どこからともなく、ぼろぼろに薄汚れた人の群れが集まってきて、荷車から死体を引き下ろしにかかった。その無惨な人たちを見て、僕たちはすぐに気づいた。

垢まみれの麻服に荒縄を巻いたばかりの彼らこそが、この村の住民たちだったのだ。ビダルは実験に使った奴隷たちの遺体をこの島の人たちに無理やり処理させている。それは直視することを憚るほどの惨状だ。鬼小島が言った、この村を覆う重苦しい空気の正体はまさしくこれだったのだ。混じりけのない死の気配。道を塞がれた僕たちはそれを看過することも出来ずに、見せつけられるしかなかった。

感情のない濁った眼をした人たちは、死臭避けに布で口元を覆ったばかりの姿だった。満足な生活も保障されていないのだろう、その人たちが痩せ衰えた手で遺体を引き下ろし、まず何をするのかと言えば死者から持ち物を剥ぎ取るのだ。

図らずも非道な人体実験に捧げられた遺体から、人間性を示す唯一の持ち物を。

衣服、髪を飾るささやかな装飾品、そして腕や首に絡めた金のロザリオまでだ。それを見たとき、僕が思い出したのはまさしくあの死の天使が支配した収容所が描きだした惨劇の風景だった。

ナチスドイツはガス室で殺害した何千人ものユダヤ人の処理を、なんと同じユダヤ人の囚人にやらせたのだ。衣服を剥ぎ取られた遺体から、髪の毛、金歯、隠しダイヤなどを回収するのが、彼らの最初の仕事だった。それから施設に据えつけられた巨大な焼却炉で、死体を焼くのだが、追いつかない分はすべてそのまま穴に捨てさせた。国連軍が収容所を解放したときには、塹壕程度に浅く掘られた穴に放置された無数の遺体が発見されたと言う。折り重なった素裸の遺体たちは、廃棄されたマネキン人形ほどにも敬意を払われていなかったのだ。

ちなみにこの作業をさせられた囚人たちは、数日と保たず気が狂ったそうだ。が、そうした囚人たちですら使えなくなればゴミのようにあっさりと処刑され、すぐに代わりが補充されたと言う。

遺体を無理やり処理させられる、なすすべもない囚人たち。

吐き気のするほどの悪意に虐げられた人たち。

今まさに、僕たちが見ている光景がそれだった。

僕はビダルが死の天使を示唆した意味を、今さら悟った。全身が悪寒に震えた。

眼前の光景。

これこそが。

ビダルが僕たちに見せたかった、まさに、アウンシュビッツじゃないか。

「いい加減にしろっ…!」

この惨状の真実を知り、僕より先に理性を喪ったのは何より虎千代だ。気がつくと、その腰から小豆長光がほとばしり、銀色に濡れた刃が王蝉の首に突きつけられていた。びゅん、と、空気を切り裂く刃鳴りは本気のそれだった。一撃で首を斬り飛ばす勢いだ。虎千代の居合には、それだけの殺気が込められていた。しかし、寸前で何とか停まった。あいつの理性がぎりぎり殺意を堰き止めたのだろう。

まのあたりにすれば腰を抜かすほどの裂帛の斬撃だ。

それでも、王蝉は平然と自分に致命傷を与えるかも知れない刃を見つめている。

「何をする気ですかぁ?」

王蝉は猫のようにくるくると変わる円い瞳を細めると、わざとらしく首を傾げてみせた。

「判ってると思いますが、ここでワタシを斬ろうが、この状況は、何も変わりませんですにぇえ?」

「あやつらに遺骸を漁るのを止めさせろ。今、すぐにだ」

相手を噛み殺すような殺気を放つ虎千代の前で、王蝉は無邪気そうに小首を傾げてみせる。

「だから言ってるじゃありませんかぁ。そもそもワタシにそんな権限はないのですにぇ。それに遺体を島に放置すれば、困るのはむしろ彼らなのですからにぇ。少し頭を冷やして考えれば分かることですにぇ。アナタ、ワタシに怒りをぶつけても、何の意味もありませんにぇ。ワタシを斬って、何が解決しますか?」

「くっ」

虎千代の心情としては、まず何を置いてもこの島にいただけの不幸な住民たちを解放したかったのだろう。僕はじめ皆も、同じ気持ちだったはずだ。目の前の光景こそは、見るに堪えない地獄絵図だった。

しかし問題は、たとえここでただの案内役に過ぎない王蝉を斬り捨てたところでなんの解決にもならないと言うことだ。確かに突然抜刀した虎千代に、遺体を漁るものたちも武装した兵士たちも一瞬緊張を見せたが、すぐに我関せずと言う態度を見せている。

「虎千代、やめよう」

僕は自分でも堪えがたいえづきと怒りを呑みくだして、言った。この場面で、虎千代に矛を納めさせることが出来るのは、誰より僕しかいなかったと思う。

「とにかく一刻も早くビダルを止めなきゃ。なんの解決にもならない」

「真人っ…」

「ここは堪えて。それしかないんだ」

王蝉に突きつける刃を持った手を抑えるように、僕はその震える肩に手をやったが、虎千代は何か救いを求めるような目で僕を見てから、これ以上は堪え切れないと言うように首を振るばかりだった。

「その方の言うとおりですにぇ。彼らを解放するためには、絶息丸の実験を終わらせること、それが唯一の解決方法なのですからにぇ。それが出来るのは、他ならぬ皆さんなんですにょ。時間の無駄してていいんですかぁ?さっさと頭を冷やしましょうよぉ」

じりじりと焼けるような思いの虎千代をむしろ嬲るように王蝉は、言った。剣を突きつける虎千代の手にひと際強く、ぐっ、と力が入ったのは分かったが、挑発に乗ったところでなんの意味もない。ビダルのところへたどり着けなくなるだけだ。

そうこうしている間にも、死体を処理する連中たちはまばらになり、通りが抜けられるようになってきている。今ここで彼らを救えないのは忸怩(じくじ)たる思いだが、ここはどうしても、堪えなきゃならない。

「ううっ…!」

虎千代は悔しげに歯噛みすると、僕の手を振り払った。そして次の瞬間には、王蝉に突きつけた刃を断腸の思いで鞘に納めたのだ。口に出してそうはとても言えないが、この場では仕方のないことだった。虎千代ですら、今ここでこの悲惨な光景を止めるのに感情的になってしまうのも、僕にだって痛いほど分かっていた。

しかし、何度も言う。

王蝉を殺したところで何の解決にもなりはしないのだ。死体処理の強制労働を強いられる島民たちの助けにならないどころか、ただの自己満足にすらなりはしない。

虎千代自身、本当は僕よりも判っているだろうが、今、怒りに任せて虎千代が暴れてしまえば、何もかもが台無しになるところだったのだ。

「ご覧の通りだ。あんたのお陰で、頭はすっかり冷えたよ」

虎千代の代わりに僕が皮肉を言ってやると、王蝉は詰まらなそうに唇をつぼめ、苦笑を滲ませた。

「さっさとビダルのところへ、案内してくれ」


そこからまた、複雑な山道が続いたが、虎千代は一度も口を利かなくなった。ビダルの目に余る非道を眼前で阻止できなかった自分が、何より悔しかったのだろう。僕にはその気持ちが痛いほど分かった。

救いを求める無辜(むこ)の人たちを、自分が持てる力の限り助け出そうとする正義感。ある意味では戦国大名にそぐわない心の真っ直ぐさは、裏返せば、自分の目の前で苦しめられている人たちを見棄てる自分に、ただ堪えられない心の弱さに通じる。ビダルはそんな虎千代の弱点を的確に捉えていると言わざるを得ない。まさに悪魔の洞察力のなせる業だ。

ビダルはあらかじめ想定していたのだろう。

彼女ならこの島を戦場にしたとしても、すでに無惨な目に遭っている島民たちを犠牲にすることはない、と。まさにそれこそがあえて自分の本拠に虎千代を誘いこんだビダルの狙いだったのだ。

相手を絶海の孤島に追い詰めたと思えば、それを見事に逆手に取られて返されている。このままでは虎千代も、うかつに水軍を動かすわけにはいかなくなるだろう。そしてそもそも、これだけの隠し玉を備えて虎千代を待ち受けていたビダルが素直に、真菜瀬さんを返すと言うことがあるだろうか。今度もまるで手品のように詐術めいたやり口で絶息丸を掠め取られるだけじゃないか。交渉をする相手にあまりに正体がない。黒姫の前では言えないが、本当に人質交換は成立するのだろうか。胸が焼けるような疑念を、僕は危うく呑みこみかねていた。

疑心暗鬼に火をつければ際限はない。だが、つい考えてしまう。相手はこちらへ姿を現す前から駆け引きを仕掛けて、虎千代に我を喪わせるような男なのだ。どうすればこの男の手の内が読める?誰にも見当がつかなかった。はたしてこんな状態で、大丈夫なのだろうか。捗々(はかばか)しい策もないままに、僕たちは絶望に歩を進めている予感が止まなかった。


「さあて、もう少しですにぇ」

王蝉が言ったのは、何度目かの山道の曲がり道を行き、海へと下る小さなスロープに差し掛かったところだった。僕たちはそこで久しぶりに海岸線を見た。ここまでですでに、王蝉の言う一時間は経過していただろうか。狭い島をぐるぐると周り道させられただけのような徒労感が、僕たちの口をさらに重くしていた。

この先、ビダルはどんな罠を張って待ち受けていると言うのだろう。考えこんでいた僕がいつの間にか先導する王蝉の先を歩いていたときだった。

がさり、と山側の藪が動き、そこから何かが飛び出して来たのだ。考えごとをしていた僕は避け切れずに、それにぶち当たった。

「わっ」

細い影に似ず、がっちりとした手ごたえに弾き飛ばされそうになった。野生動物だと、すぐに思った。この島、鹿や猿でも生息していてもおかしくない。

しかし離れてみていた人はそれを人影だと、すぐに見破ったらしい。

「何者っ、ビダルの手のものかっ!」

虎千代たちが身構えて誰何の声を上げるとだ。

「無礼者っ、お前ら、綾の顔見忘れたか!何をそこで色めき立つか!」

そこにいた全員が目を丸くした。がさ藪を掻き分けて現れたのはなんと、虎千代のお姉さんの綾御前なのだ。もはや間が悪いとか言うレベルじゃない。どうして、いや、どうやってこの島に紛れ込んできたのだろうか。

「あっ、ああああ、綾姉様…どっ、どどどどうしてそんなところからっ?」

虎千代も混乱の余り、驚きが言葉にならない。

「どうしてとはご挨拶じゃな。お虎、この大事な決戦に綾に留守番を遣わすとは、いい度胸じゃなあ!ここ一番と言うときに、この姉が一肌脱いでやろうと言うのに、なぜかような置き手紙を残して先に行くかっ」

綾御前は虎千代が残した手紙を乱暴に放り返した。そこには留守の間、相談役をはじめ無尽講社の人たちの安全をよろしく頼みますと言うお願いが丁重にしたためられているはずだった。

「なぜ置いていった!?」

「いや、その姉上…あのときは、まだお眠りだったではありませんか…」

虎千代はぼそぼそと、やむをえない経緯を口にした。

実は出撃の朝。

僕たちはもちろんこの厄介なお姉さんを連れていく考えは最初からなかったのだが、一応、おうかがいを立てには行ったのだ。しかし綾御前は熟睡中で、起こすな、と宿直(とのい)の人に止められて、(これ幸いにと)仕方なく僕たちは言伝の手紙を残して立ち去ったのだ。

でもまさか、追いかけてくるとは。こんなところにまで。

「ふん、問答無用。さようなしゃらくさい言い訳が通ると思うか!綾が鯛の尾頭付きなれば、お前たちは添え物、はじかみやあしらいの類ではないか。なぜこの姉にこそ見せ場を作らぬのか!?」

あれ、お姉さん主役じゃないですよね!?

これ以上はないと思ってたけど、誰もが予想しなかった出来事が待ち受けていた。せっかく置いていくことが出来たと言うのに。この人、どこまで厄介なんだ。に、しても問答無用過ぎる。綾御前、この厳重警戒な島の中に、どうやって潜入したのだろう。

「はにゃ!?あっ、あの…どちら様…なのですかにぇ」

王蝉も当然、目を丸くしてまごまごしている。

「ふん、下郎めわらわを知らぬとはよほど呆けておるな!お虎めと瓜ふたつのこの顔を見て判らぬか!まあよい、ともあれこれで役者は揃ったのだ。さっさとそのビダルなる毛坊主の元へ案内せぬかえ!ほれ行くぞ!」

「はっ、はにぇ、なんなんですかぁ、この人!?」

例の紅殼塗りの杖を携え、身軽な戦闘装束をまとった綾御前は、この中に居る誰よりもやる気に満ちていた。

なーんかな。

ううん、戦力としては申し分ないし、手助けしてくれるのはありがたいのだが、なんだか釈然としないものを感じる僕たちだった。

しかしここへ来て思わぬ援軍は結果として、それなりに有難かった。

王蝉だけではない。もっとも注意すべきビダル本隊のメンバーたちはまだ、その姿を表していなかったのだ。


山頂の一角に設けられた、ビダルの本拠が姿を現したときには播磨灘の陽はすでに中天近くに差し掛かっていた。山腹の部落と打って変わってそこは岩壁を利用した完全に切り立った要塞だった。狭い入口には切り出した丸太を並べた柵が立てられ、門には太い閂が無造作に打ってあった。

「どうぞ遠慮なくですにぇ」

王蝉が中へと僕たちを招き入れる。

するとそこで見慣れない二人が僕たちを迎えた。ひと目見てただならぬ雰囲気を発していた。恐らくはこれがビダルが言っていた本隊のメンバーなのだ。どちらもビダルと同じヨーロッパ人だった。王蝉が僕たちに話しかけるようにしたところを見ると、日本語での意思疎通に不自由はないらしい。

「ようコソ、ここからは三人で案内しまス」

一人は僕たちにそう宣言したブロンドの女性だ。

「ゲゼルでス。どうぞお見知り置きを、長尾家の方々」

ゲゼルは僕たちを見渡して恭しく頭を下げた。

どうやらこのゲゼルと言う女性は、この場に居る人間の中でビダルに次ぐ立場のある人間のようだ。王蝉より落ち着いた物腰の、貴族的な気品のある女性だった。ゲルマン系の直線で整えられた切り立った美貌だったが、病的な顔色の悪さとかすかに気になる声の震えが、一見優雅なたたずまいに一抹の不穏さを感じさせるのが気になるところだ。

身体を覆う黒いローブはさっき遺体を運ぶ男たちがまとっていたものと同じものだが、その下に何を隠しているのだろう。唐突に握手を求められてぎょっとした虎千代の代わりに僕が応じたが、差し出した右手はなぜか古ぼけた包帯で覆われていた。

「師はすでにお待ちです。このイェスパについていって下さイ」

イェスパと言われた男は、また無駄な筋肉のない痩せた大男だった。腰まである長い髪を翻して、武骨な革ベルトのついた手甲で武装していたが、横幅がないだけで身長は鬼小島よりさらに高かった。名前からしても北欧系だが、こちらも海の男に似ない白蝋のような光をあまり吸収しないくすんだ肌の白さと、底の読めない虚ろな視線とを持っていた。

そのイェスパは結局、声は発しなかった。仕草だけで、ついてこいと合図しただけだ。

「けっ、つくづく、何なんだよここは。いけ好かねえもんばかり居やがる」

鬼小島が敵意を露わにイェスパを睨んで先について行ったが、そのときだけこの壁のような北欧人は薄い笑みを浮かべて肩をそびやかした。どうやらお互いに、いざと言うときはやり合うことになりそうだと認識したようだった。

すでに不穏な気配が漂い出している。

僕たちはその大きな二人の後に、従って歩いた。


施設を管理するゲゼルとイェスパにつき、僕たちは見るだけでおぞましいビダルの本拠の中をビダルのもとへ向かった。

中は砦と言うよりは、大がかりな実験施設だった。木戸を潜ってゲゼルとイェスパの二人に出会った僕たちはそのまま、丸太で組まれた丈夫な桟橋の上を歩かされたのだが、そこから大きく断崖のような洞窟が口を開けていて、ところどころに発生した洞の中に、拉致した被験者たちを閉じ込めておくための格子戸を設置した収容施設がいくつも作られているのが見受けられた。そこはすべての希望を奪われ、日の光さえ喪われた、生きながら窒息しそうなほどどうしようもない閉塞感を孕んだ死の都だった。

僕たちはそれだけでもまた、愕然とさせられた。

絶息丸を完成させるためだけに。

こんな巨大な監禁施設を、ビダルは組織の総力を挙げて作り上げていたのだ。そして、こんなところに真菜瀬さんを監禁していたのだ。

「外道め。それほどまでして、絶息丸を求めるか」

虎千代が痛ましげに表情を歪めると、ゲゼルは大きく息をついてそれに応えた。

「ここは元々は、ワタシたちが商品を管理する施設でした。今は血震丸殿が遺した施設を移築して、実験を行っているのでス」

と、この地獄に住まう死神のようなブロンドの女性は僕たちをひと渡り一瞥した。

「あなたがたはすでに奇蹟の薬のあらましをご存じのようですね。で、ワタシたちに協力してくれる方と言うのは?」

黒姫が黙って進み出た。そして王蝉にしたように、絶息丸のサンプルを見せつけた。

「それが完成品ですカ」

伸ばしかけたゲゼルの手を、黒姫は無造作に振り払った。

「こいつがいかに無惨で恐ろしいお薬なのか。今から嫌と言うほど見せてやりますですよ。これから、どうなっても、知りませんですからねえ」

黒姫も度を越したビダルたちの陰謀にすっかり嫌気がさしたのか、肩を上下させるほどの興奮を隠さない。そのままゲゼルを噛み殺しそうな勢いだった。

「いいでしょう」

ゲゼルはそこで、初めて張りつめた相好を崩し、微笑した。

「では後ほど教えて頂きましょう。師はこの上です」


ビダルはこの施設から島の頂上を展望できる場所にいると言う。

ついに秘められた本性のすべてをさらけ出した悪魔が、そこに待ち受けているのだ。ここに来るまでに、僕たちはそのおぞましい臓腑を見せつけられ、身の毛もよだつような腐臭をさんざん嗅がされた。もはやその姿を見ずとも、判る。この男は確かに、混沌が遣わした死の天使なのだ。

はっきり認めよう。今では僕もこの悪魔に恐怖していた。ビダルには人間性と言う殻を人から剥ぎ取り、骨まで理性を喰い尽くす深淵があるのだ。いくら怒りで鼓舞しようとも、いざ相対すればその恐怖からは逃れ得なかった。

ビダルが待つと言う展望台の入口に差し掛かると、さすがの虎千代も色を喪い、出足を鈍らせた。

「どうした、行かぬか」

綾御前が虎千代を叱咤する。だが、やはり一人では足が前に出ない。そこで僕はすかさず彼女に寄り添った。

僕が思い出したのはさっき、衝動的に王蝉を斬り捨てそうになったときに彼女が見せた困惑の表情だ。あれははっきりとした恐怖だった。自分の常識の埒外の悪魔に相対して自分がどうなってしまうのか判らない、人間としての根源的な恐怖だ。

昔読んだ小説に書いてあった。ニーチェと言う哲学者が言ったのだそうだ。深淵と言う怪物と相対するとき、人はそれに取り込まれないように自分自身の人間性への混乱と戦わなくてはならない。なぜなら深淵を見つめるとき、深淵の方もこちらを見つめて様子をうかがっているからだ、と。

深淵はすでにこちらを覗き込んでいる。思わず柄に手を置いて身構えた虎千代の手に、僕は自分の手を重ねた。お互いに慣れ親しんだ感触をもう一度、前へ進む糧としようとするように、そっと、でも強く。それで虎千代の心が一瞬定まった。闇に踏み出す前に僕たちはお互いの位置を確かめあおうとするように、頷き合った。

行こう。

その言葉はどちらの口からともなく出て、鈍りかけたその足を前に進ませた。真菜瀬さんを救う。そのシンプルな目的さえあれば十分なのだ。

僕たちはついに再び、悪魔との対峙に挑んだ。


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