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戦国恋うる君の唄  作者: 橋本ちかげ
Phase.9 ~生き別れ、我がまま姉妹、二人の決断
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血戦迫る!死の天使を追う真人、出立の朝!

その男は第二次世界大戦末期、一九四三年のポーランドにいた。祖国を強制退去させられたユダヤ人たちが行き着く終着地、アウンシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所に。

ポーランドの首都ワルシャワから東南へ二四〇キロ、古都クラクフから車で一時間と言う距離にあるオシフィエンツムと言う町の外れに建設されたこの収容所は最大二十万人の収容人数を誇る、ナチスドイツ最大の強制収容所だった。

さる一九四二年の一月二十日、ベルリン郊外のヴァンゼー湖畔で、総統アドルフ・ヒトラー以下は『ユダヤ人問題の最終的解決』として史上類を見ないユダヤ人種の皆殺し計画を発令した。それに伴い、ナチスドイツがユダヤ人を収容する六つの収容所においては、その名に計画遂行の意志が刻まれることとなった。アウンシュヴィッツはそれを象徴する収容所の一つだった。

その正式名称は、アウンシュヴィッツ絶滅収容所だ。

収容はそのまま死刑を意味し、生きて出て行くユダヤ人は誰ひとりとして予定されていない。アウンシュヴィッツの特徴は何より、その巨大な処刑施設にあった。他の収容所にはない規模の五つのガス室と焼却炉があり、一日に一万人を処刑することが出来た。ここで殺害されたユダヤ人は二百五十万人以上に及ぶと言われるから目を見張る。まさに、最大効率的に人間を大量殺処分するための殺人工場だったのだ。

アウンシュヴィッツへ向かう終着列車が、『死の門』と言われる監視塔付きの煉瓦造りの門を通ってほぼ毎日やってくる。線路の果てにはなぜか遺棄された服や靴、家庭用品が散乱しており、足の踏み場もない溜まり場が発生している。

長い道のりを飲まず食わずで連行されたユダヤ人たちを乗せた列車はこの辺りで停車する。降車を強制された人たちは、ここに自分たちの同胞と思われる人たちの品物がなぜ散乱しているかをすぐに知らされるのだ。アウンシュヴィッツの死の天使、ジョゼフ・メンゲルに出会うことによって。

生存者のほとんどが語る。男は、こんな場所に不似合いなほど端正なルックスと教養に満ちた語り口を持っていたと言う。実際、メンゲルは発生学の権威だった。ヒトラーが信じてやまないアーリア人種の優秀さを、遺伝学の面から立証するカイザー・ウィルヘルム研究所から派遣されてきた歴とした医師だったのだ。

プラットフォームで囚人たちを待つメンゲルの姿はひと際目を惹いた。彼はナチス親衛隊の帽子を目深にかぶり、スマートな長身を仕立てのいい革のコートで包んでいたのだ。足元の黒い軍靴は塵一つなくいつもぴかぴかに磨きこまれていた。

その中で異彩を放ったのは、両手にはめた真っ白な手袋である。印象的なその手袋についてはメンゲルの職業に理由がある。彼がその手袋をするのはこのプラットフォームで囚人を出迎えるときと、その囚人たちに人道的な見地からは考えられない、非道な実験や調査を施すときだった。メンゲルは軍属の医学者だった。もちろん、彼がここにいる主な目的はどうせ死刑にする囚人たちの健康管理などではない。この囚人たちがありあまる収容所を使って自らの研究欲を満たすためだけの危険な生体実験を行うためなのだ。

メンゲルはユダヤ人たちの列を迎え入れると、それからおもむろに左肩の上に右肘を乗せる独特のポーズをとった。その固定された右腕の人差し指が連行されたユダヤ人たちに突きつけられ、無造作に右に、左に、振られた。

何をしているのかと言うと、実験体に使えそうな健康な囚人と、もはや収容所の生活についていけそうにない病人の囚人とを選り分けているのだった。メンゲルに左、と指示されたものたちはとりあえず生存の権利が与えられたが、右と指示されたものはそのまま問答無用で死刑になった。消毒のためと称してシャワー室を模したガス室に連れて行かれ、まとめて殺害されたのだ。

メンゲルが白い手袋をするときには必ず、このような悲劇が起きた。多くの軍属医たちの嫌がる仕事をメンゲルだけは、喜々として遂行したと言う。

死の指揮者さながらに指を振るメンゲルの口から、何か鼻歌のようなものさえ漏れてきているのを、多くの人が見ている。クラッシックのアリアだ。メンゲルは機嫌のいいときは必ずこのアリアを口ずさんだと言う。そしてそれは、大抵この不吉な革手袋を手にはめるときだった。

これこそが、メンゲルが人々にアウンシュヴィッツの死の天使、と恐れられたゆえんなのだ。


相談役から借りた本は、読んでいて胸が詰まるような混じりけのない死の記録だった。一晩で全部読めるかどうか、相談役が心配してくれたのも無理はない。メンゲルのしたことは確かに、ナチスドイツがこの世に出現させた地上の地獄そのものだ。しかし、ビダルがなぜこの男の名前を口にしたかは、いくら読み進んでいっても、僕には理解出来そうになかった。メンゲルとビダルでは戦争への関わり方はまるで違う。メンゲルは確かに軍属経験があるが、あくまで後方支援の医師だ。対しビダルは前線に立つ兵士なのだ。ごく単純に考えれば、そこに共通点など見つからないようにすら思える。

死の天使のことを知れば、少しは自分のことが分かる。

あの悪魔のような男はそう言っていたが、それはただのあの場の詭弁に過ぎないものだったのだろうか。いや、あの場で僕に詭弁を言ったとして、意味があることとは思えない。何かがあるのだろう。

「中々ぴんとは来ないでしょうが、その男の言うこと、理解できる面もある」

それはメンゲルの後半生を追うと分かる。相談役もそのように言っていた。僕は消化不良のものを感じながらも、その先を読み進んだ。


ヒトラーがベルリンの地下壕で拳銃自殺を遂げ、ナチスドイツが崩壊してからのメンゲルの後半生は逃亡生活に費やされた。戦後ナチスの戦争犯罪に加担した医師を裁くニュルンベルク裁判において、アウンシュヴィッツの死の天使とまであだ名されたメンゲルの名前はたびたび出ていたが、当局では死亡したものとみなし、深い追及は行われなかった。

その間にメンゲルは国防軍の兵士になりすましたり、ミュンヘン郊外で偽名を使って農夫になりすましたりして、ドイツを脱出し、その足で南米に飛んだ。アメリカをはじめとする連合国軍の影響の薄い南米諸国はナチス戦争犯罪者が逃げ込む格好の地だった。

それからメンゲルはブラジルとパラグアイの間を逃げ回り、ついに逮捕されることはなかった。一九七九年に海水浴中に心臓発作で亡くなるまで、時効は存在しないと言われたナチスの戦争犯罪について、彼に追及の手が及ぶことは最後までなかったのだ。


相談役が注目したのは、メンゲルの人格にまつわる不可解な二面性だった。メンゲルがアウンシュヴィッツで行った、常識では度し難い人体実験とユダヤ人に対する非人間的とも言える態度とは裏腹に、メンゲル本人は非常に親切で穏やかな人間だった、と言うことだ。

「彼がもし深刻な戦争犯罪に加担したのだったら、それは、強制されて仕方なくやったことだろう」

逃亡生活の中でメンゲルの同僚は、彼の人となりについてこう証言している。これが逃亡生活を成功させるための仮初(かりそめ)の振る舞いともあながち言い切れないのは、メンゲルが死の天使と言われた時代にも、犠牲者のはずのユダヤ人たちが彼をそのような印象で見ていたからである。

生存者の証言がある。メンゲルは教養高く、優しい人物で語り口も穏やかだった。収容所にはユダヤ人の幼い子供たちが多く監禁されていたが、彼らの間でもメンゲルは『おじさん』と呼ばれ、親しまれていたと言う。事実、メンゲルはユダヤ人の少女をドライブに連れて行ったりなどもしている。

逃亡先にやってきた息子のヘルマンが、アウンシュヴィッツでの戦争犯罪について訊うたとき、メンゲルはそれをきっぱりと否定している。

「お前まで新聞が言うことを信じるのか」

メンゲルは断固として、言い張ったと言う。

「お前の母親に誓って言う。すべて嘘だ。私は断じてそんなことはしていない」

不思議なことにそうした証言ばかり追っていくと、メンゲルが戦争中に犯した罪は、まるでただのでっちあげだったかのようにすら思えてしまう。しかしもちろんそんなことはない。さっきまで見てきたように、そうした証言とは裏腹の多くの反証が教養高く理知的なメンゲルとは異なる、もう一人のメンゲルの顔を暴きだしている。

メンゲルは囚人の子供たちにお菓子を与えたりドライブに連れていったり、かわいがったとされるが、そうして慈悲をかけた子供たちを容赦なく手術台に乗せた。それから行った施術も、同じ人間を相手にしたとは思えない非情なものだった。

病原菌を注射したり、双子の背中と背中の静脈を外科手術で結びつけたり、眼球に薬品を直接注射したりした。そうして精確な解剖データを得るためだけに、健康な子供たちを殺害することも辞さなかった。

その極端な二面性には同僚の医師ですらも、理解が出来なかったと言う。

「無論、メンゲルだけがこうした異常な二面性を持ったナチスの医師と言うわけではないのですな。メンゲルのように、実験のためにユダヤ人の子供たちを殺しておきながら、家庭では自分の子供をかわいがる穏やかな良き父親だった、と言う人間は、他にも沢山いたそうです」

ただ相談役が言うには、こうした医師たちは後に行われた軍事裁判において、これらの非人道的な実験行為を、人類の進歩と発展のためだと疑わずやまなかったと言う。中には涙ながらに実験を続けさせてほしいと言う医師すらいたそうだ。

自分たちよりはるかに大量のユダヤ人を残らず殺害するために、ナチスドイツは徹底して彼ら囚人から人間性を剥奪することに努めた。実に信じられないことだが、彼ら医師たちにはナチスの洗脳によって、ユダヤ人たちが自分と同じ人間だと、認識できなくなっていたのである。

メンゲルが彼らと異なるのは、彼自身が意識的に囚人を人間として認識し、そう取り扱いながら、まったく良心の呵責を感じることなくそれを行ったことにある。息子のヘルマンに対して、自分のしたことをすべて嘘だと言ったように、彼には恐ろしい行為をすすんでしているのだと言う認識があったのだ。

アリアを口ずさみながら、彼は自分と同じ人間を人間として葬って一顧だにしなかったのである。

僕はそこに、メンゲルと言う男の突出した異常性を感じざるを得ない。


死の天使とは確かに、的確な表現かも知れない。

救い難い混沌の中にある、二律背反の矛盾の調和。メンゲルが内包した性格的破綻には、一見別人と思われる二つの人格の危うい統合性なのだ。

それはある種、病的なものすら感じるものだ。犯罪心理学者であれば、彼らを指して一言でこう説明したはずだ。メンゲルは、『サイコパス』であったのだと。

サイコパスと言われる人たちは、しばしば他人の感情や行動を自分の意のままに操ろうとする。そのためには見せかけの優しさやその場だけの詭弁で相手に取り入ろうとすることを、厭わないと言う。

駆け引きや調略を得意とし、いざと言う際には裏切りも辞さない。

こうした人間にはサイコパス的な人格の特徴が表れており、ある意味ではこの時代の戦国武将たちの中にもしばしばそれに当てはまるものがいるように思えるが、彼らは戦争のような極限状況と極めて親和性が強いのだ。

それが先天的なものだったのか、それとも後天的に形作られたのか、そこは措くとしても、ビダルの不可解な言動や行動がこうしたサイコパス的な要素から決定されてきたと考えると、ある程度の整合性ある説明になりうる。

その点ではビダルが自分のことを知りたければ、死の天使について調べろと言った意味が、僕にも判る気がした。ビダル自身もそうして、身の周りのあらゆる人たちを欺き、翻弄してきたからだ。

だがいぜん胸に残る疑問はだからと言って、それを僕にわざわざ知らせることに、なんの意味があるか、である。

「サイコパスは他人に理解や共感を求めない」

博識の相談役も、その指摘は僕にくれた。あくまで利己的に他人を操ろうとするサイコパスたちは決して自らの本心を明らかにすることはないと言う。

「その男が真人くんに何かを伝えようとするならば、メンゲルの生き方にまつわる別の何かでしょう」


不吉な予感は尽きなかった。薄明かりの中でページをめくりながら、僕はしばし、時間を忘れた。

薄暗い部屋の隅に、ぽつんと気配が立ったのはそのときだ。僕は、思わず身体を震わせた。本の内容に入り込み過ぎていた。びっくりして顔を上げるとラウラが戸口に立って、僕の顔を心配そうにのぞきこんでくるところだった。

「真人サン、びっくりさせてしまいました。眠れない、ですか?」

ラウラは声を潜めて言った。

「ラウラこそ、まだ、寝てなかったんだ」

「ハイ、眠ろうと思ったのですが目が冴えてしまって」

「そっか。僕もちょっと考えごとしてたら眠れなくなってたとこ」

僕が取り繕うように言うと、ラウラは、ほっと息を綻ばせた。

「ワタシ、ずっと、真人サンとお話したかった。少しいてもいいですか」

僕が反射的に頷くと、ラウラは音もなく部屋に入ってきて僕の隣に座った。ラウラは僕が栞を挟んだ本に目を落とすと、

「その本、ビダルが真人サンに言い残した男のものですか?」

「ああ、うん、そんなところかな」

と、言葉を濁しながら、僕はそれをさりげなく仕舞い込んだ。危なかった。ヨーロッパのこととは言え、未来が書かれているこの本は、本来は持ち出し禁止のものなのだ。間違っても、この時代の人の目に触れるわけにはいかない。

「ごめんなさい。ワタシ…真人さんたちになんて言ったらいいか」

その僕の仕草に何か別のものを感じたのか、ラウラは表情を少し曇らせた。

「何も気を使う必要なんかない、って言ったろ」

僕は諭すように、言った。

「謝ることなんてない。僕は好きで、ラウラに手助けをしてるんだからさ。僕だけじゃない。虎千代だって、黒姫だって、絢奈だって、真菜瀬さんだってね」

それはただの成り行きでも、誰かに強制されたことでもない。僕たちが自分の意志で、択んできたことなのだ。

「僕もそうやって助けられてきたからさ。この時代に来て、虎千代だけじゃない、他にも沢山、色んな人に。じゃなかったら今、ここで生きてなんかいられなかったと思う」

ただの不登校の高校生だった僕がだ。思い返すだけでよく今、こうしていられるな、と思う。本当にこれは奇蹟的なことであると同時に、ただそれだけじゃ片付かない問題でもある。

「ラウラには話してないかもだけど、恩返ししようにも、もう決して返すことの出来ない人もいるんだよ。その人には、僕は気遣われっぱなしだったんだ。自分がどんなに窮地に追い込まれてても、全然何も言わない人でさ。いつもなんでもない顔して、むしろ僕のことを助けようとさえしてくれてたんだ」

煉介さんは本当に、そう言う人だった。自分があれだけ過酷な運命を背負いながら、いつでもそれを微塵も感じさせずに僕の前で振舞っていた。

僕はあの人に何も返すことの出来ないまま、逝かせてしまった。

「今度は、僕の番だと思う。僕は、僕の意志で、ラウラに手助けしてあげたいと思うんだ。…だからさ、改めて言うけど、もう気にしないでいいと思う。だって、僕たちはこれから何があっても、友達、なんだろ?」

はっ、とラウラは顔を上げて僕を見た。

「…ハイ」

と、一拍遅れてラウラは掠れた声で言った。

「ラウラ、皆さんと何があっても友達でいたい。ずっとそのつもりでいました」

じわりとその瞳に涙が浮かぶのが、薄闇の中でも分かった。気づくと、ラウラのしなやかな身体が寄せられ、ひんやりとしたその掌の中に、僕の手が握られていた。

あれっ?

ふわりと海とヒマワリのような匂いがし、僕はそこで初めて自分のうかつさに気づいた。この距離、ちょっと近くないか。あんまり意識してなかったけど、ラウラだって女の子なのだ。夜中に二人きりで話し込んでいるのって、結構まずいシチュエーションじゃないのか。

「真人サンが信じてくれた。ワタシ、一番それが嬉しかった。だから今日、この気持ち、ちゃんと伝えなきゃ、と思って来ました。お話できてとても良かった。…ワタシ、虎千代サンが羨ましくなりました。真人サンと、将来を誓った仲なのでしょう?ラウラにもそんな方、いつか現れるでしょうか?」

「いやそのそれは…」

待て、色々と誤解があるぞ。ラウラが自分でそう言う相手を探しているのはいいとして、僕と虎千代はまだ別に将来を誓ったとか言う仲じゃない。しかしどこからそれを訂正すればいいのか。いやいや、そう言う問題じゃない。それどころじゃないぞ。

「僕と虎千代は許嫁とかじゃなくてさ…いや、そんなことより…ラ、ラウラにもいつか、恋人とか出来ると思うよ。かわいいしさ」

「本当ですか?嬉しいです」

ラウラは、ぱっと花咲くような表情をすると、

「ワタシも恋人にするなら、真人サンのような方がいいです。いいな、虎千代サン」

「ラウラあのさ…」

近いよ。離れようよっ。

つーか虎千代が羨ましいとか言いながら、言ってることとやってること、違くないか?

問題はラウラが、どこか思い詰めた眼差しをこちらに向けたまま、僕から握った手を離してくれないことだ。さりげなく避けようと思ったら身体を寄せてくるし、切なそうな顔のまま黙り込むし、すっごい対処の仕方に困る。僕だって一応、男なのだ。女の子にそんな切羽詰まった顔で迫られて、無下に切り離すことなんてそうそう出来ない。

でもだ。こんなところ誰かに見られたら、それこそ暗殺だけじゃ済まないぞ。

しかしもうすでに、シチュエーションもタイミングも最悪だった。そのとき、すっと障子が空いてもう一つ、小さな影が忍びこんできたのだ。言うまでもなく、どんぴしゃで虎千代だ。

「まっ、真人…まだ起きているか。せっかくだし、寂しいし、今日くらいは一緒に寝たいのだが…?」

「「「えっ…」」」

薄闇の中でピンボールみたいにぶつかっては跳ねる六つの視線。その真ん中にいるのはもちろん、僕だ。しかも、ラウラは僕の手を握ったまま。

「まっ、真人…そこで何を、しているのだ?こんな薄暗い中、ラウラと二人きりで手を握り合って…?」

ぷるぷる震える指で、虎千代は僕とラウラの置かれている手を差した。

「い、いや違うって。その…これは何でもないって言うか、ラウラの話を聞いてて、なりゆきで」

「なりゆきで!女子の手を握るような話か!」

て、言うか僕から握ったんじゃないし!

「あのさ、落ち着こうよ。さっきまで、ちゃんと普通の話をしてたんだって。そんな虎千代の勘ぐるような話じゃ全然なくってさ…」

「むむむっ、かような言い訳が通ると思うかっ」

虎千代はゆらりと立ち上がった。

もちろん護身用に持ってきた小豆長光の柄に手をかけている。

「そこへなおれっ!お前にも真剣で稽古をつけてくれようぞっ」

「うわああっ、待って!真剣はだめだって!刀は危ないってば!」

まったく、とんだ災難だった。


「あれっ、お兄いに虎っちどうしたの?朝から腕組んじゃって」

「いや、ちょっと昨日は本気で危なかった…」

正直、殺されるかと思った。虎千代を怒らせると、黒姫より数倍厄介なことが分かった。あれから僕とラウラの必死の説得で、虎千代は刀を納めたのだが、それが夜明け頃までかかったのだ。いい加減寝不足だ。やっと誤解が解けたはいいが、虎千代は僕の腕にがっしりしがみついて、トイレすら一人で行かせてくれなかった。

「お前が悪いのだからなっ…ふん、最近わたしとは腕も組んでくれぬではないかっ」

ぷうっと頬を膨らませ、へそを曲げる虎千代。

普段は大人な癖に、こう言うところだけまるで理屈が通じない駄々っ子みたいになるので困ったものだ。

「まったく、二人とも真剣さが足りないよ!」

まさか、絢奈に怒られてしまった。

「いざって時はちゃんとしてくれないと困るじゃんか。特にお兄い、分かってる!?今日は真菜瀬さんの命が懸ってるんだからね!」

「ご、ごめんなさい…」

いや、僕だって昨夜は途中までは真剣に、ビダルが仄めかした死の天使の謎について考えていたのだ。

虎千代が寝どころに居座ってからは、ラウラは何事もなかったと言うように一人だけそそくさと逃げて行ってしまうし。まったく困ったものだ。

「黒姫さんが波止場で待ってるよ。黒姫さん、みんなに出発前のご飯ご馳走しようと思って、夜明け前から絢奈と二人で起きてお料理してたんだから」

そうだったのか。

僕たちは顔を見合わせてさすがに反省した。昨日の騒ぎで黒姫が出てこないと思ったら、どうも寝ないで下準備に奔走していたらしい。つくづく、黒姫に申し訳ない。


早々に支度をして波止場に出ると、黒姫は派遣されてきた三好勢の水夫たちに朝ごはんを振舞っているところだった。いくつも据え付けられた大釜から、胸のすくような香りの煙が漂ってくる。

黒姫は僕と虎千代を見つけると、お椀を乗せたお盆を持ってぱたぱた駆け寄ってきた。

「虎さま、支度万端整いましたですよっ!さあっ、さっさと食べちゃって下さい」

「あ、ああ…」

と、僕たちは言われるままに白米のたっぷり盛りつけられた木椀をとった。

「お二人とも今日はお願いしますですよ!いつも素ん晴らしい虎さまはいいとして真人さん!自分の身は自分で守ってくれないと困りますからねえ」

そう言われると、僕はさすがにいたたまれなかった。黒姫は今日は、人質としてビダルにその身を預けることになるかも知れないのだ。

「黒姫、生きて帰ってくるのだぞ」

一瞬、憂いを含んだ目で黒姫を見ると、虎千代は言った。

「虎さま、ご安心くださいです。黒姫、必ず虎さまのもとへ戻って来ますですから!虎さまのお子を身籠らないうちは、まだまだ死ねませんですよ」

「そうか」

突っ込み満載の黒姫の返答にも、虎千代も今朝はあえて指摘しない。主従はお互いの表情だけで離別の覚悟を確かめあった。黒姫は懐から小さな人形を取り出すと、虎千代の手に預けた。

それは丁寧に紙を織り込んで作った、形代(かたしろ)と言われるお守りだ。

「これは、黒姫が帰るまでの代わりだと思って下さいですよ。何があっても必ず、虎さまを守りますです」

「すまぬな、黒姫」

と言うと虎千代は、その形代(かたしろ)に紐を通して首から下げた。

「あ、そうだ。お守り、真人さんにもあるですよ。いざと言うときには黒姫の代わりに、虎さまのこと、頼みますですよ?」

「う、うん…」

黒姫はにっこりと笑うと、懐から僕にも人形らしきものを取り出して握らせてくれた。こいつ、普段は腹黒い笑みしか浮かべたことはないけど、こんなに澄んだ笑顔が出来る女の子だったんだ。僕が感動していると、それはまったく甘い考えだと言うことが分かった。

「…昨夜、わたくしの虎さまに対して浮気を働いたそうですねえ。わたくしが一心にその寵愛を受けるべく尽くしている虎さまから、身に余る情愛を受けやがってる癖に、中々いい度胸してるじゃないですかあ…」

ぎりぎりと強い握力で手が握られている。人形ごと握りつぶされる。その瞬間、中から棘のようなものが飛び出てきて指に刺さった気がした。これ、人形じゃない?!い、痛いっ痛いっ。

「そいつはわたくしの代わりですよお。わたくしのいないところで、次にそんな不埒な狼藉働きやがったら、この黒姫、肉体は滅びても絶対に真人さんを許しませんからねえ。ようく、憶えておくといいですよお…」

ストーカー忍術の達人、黒姫を舐めてはいけなかった。もちろん、昨日の騒ぎを知っていたのだ。虎千代にばれないように黒姫は完璧な笑顔を保ったまま、押し殺した殺気を帯びた声音で僕をたっぷり脅しつけると、

「真人さんの無事もまあ、祈ってますですよ。ふっ、ふふふふっ、ご無事だといいですよねえ。そのお守り、わたくしが戻るまでちゃんと持っていて下さいよお…」

どす黒い含み笑いを洩らしながら、黒姫は去って行った。

黒姫が僕にくれたお守りは、何かの罠ではなく人形は人形だったのだが、虎千代に渡したものとは、まったく違う方向性のお守りだった。

これ、わら人形だ。胸の部分に血のような色の文字で書かれた不気味な護符が埋め込まれていて、そこに何本も小さな釘が刺しこまれていた。呪われているとしかいいようがない、不吉なお守りだった。ひどすぎる。僕がなにをしたって言うんだ。


それにしても黒姫が渡してくれたのは、おかずも何もないただの白米だった。虎千代と一緒にまごついていると、

「お兄い、黒姫さんからご飯もらったでしょ!早くこっち並びなよ!」

絢奈が呼んでいる。蜜火さんと二人であそこでお味噌汁でも配っているのだろうか。お椀を持ったまま行こうとすると、

「おい、もう一杯お代わりだ。小僧、とっと食わねえとなくなるぜ」

何杯目だろうか、鬼小島がお代わりの飯茶わんを差し出している。食べすぎだ。船酔い怖くないのだろうか。絢奈は僕と虎千代から木椀を取り上げると、

「今日はご馳走だって言ったでしょ?これ食べて、ちゃんと真菜瀬さんを助けてくれなかったら困るんだから!」

ご飯に載せられたものを見て、僕と虎千代は目を見張った。これは鴨だ。野生の脂肪がたっぷり乗った鴨肉の細切りが、色濃く出汁で煎りつけられて白米の上で蒸れていた。絢奈はそれに薄い出汁で溶いた生卵をかけると、生ネギの太いところを刻んで僕たちの前に突き返してきたのだ。

「これ赤穂浪士(あこうろうし)の勝負飯なんだって!」

絢奈が言った。

そうか、相談役から指示を受けて、朝から絢奈たちが作っていたのはこれなのだ。

時は元禄十五年旧暦十二月十三日。本所は、吉良上野介義央きらこうずけのすけよしなか屋敷に討ち入る前に赤穂浪士たちが、堀部安兵衛武庸ほりべやすべえたけつねの家に集結した際、安兵衛の妻が用意したものだと言う。

こってりとした鴨肉はあくが強いが、出汁でしっかり煎り詰めて匂いを抑えたのち、生玉子をかけるとよりまろやかな味わいになる。個性の強い生ネギも、味の濃い鴨と合わせると香りと甘みが立って、何より口の中をさっぱりさせてくれる。最強の卵かけご飯だ。

越後山中に鍛えられた鬼小島たち力士衆が、取るものもとりあえず夢中で食べたのも無理はない。海のものも悪くないが、山の精気をたっぷり吸った野鴨の料理なのだ。

「これは、何よりの馳走よ」

虎千代も瞳を潤ませて、あっという間に完食した。山育ちの虎千代にはこれは、何よりのご馳走だったのだ。

「お兄いもちゃんと食べてね。…真菜瀬さんをあの男から救えるの、お兄いしかいないんだよ」

信じてるんだから。

椀を渡すとき、絢奈は僕に言った。

僕は無言で頷いた。そうだ。未来からやってきたあの男の悪意を喰い止めるのは、確かに僕自身にもかかっているのだ。

「はははっ、こいつならいくらでも食えるぜ!野郎ども、これでまた改めてぶちかましていけるな!」

鬼小島が気勢を上げた。力士衆の連中も朝からパワー全開だ。ご馳走の効果は恐ろしいほどだった。

荒海に挑む長尾勢にこれで再び、本来の気力が戻った。

「ゆくぞ、もはや躊躇することやはある」

虎千代は人数を集めると、勝鬨を上げさせた。

「こたびこそは、ビダルめの好きにはさせぬぞ」


ビダルたちのいる小蛭子島までは三好家の船団で出る。彼らはそのまま、千近い兵で島を封鎖し、ビダルを逃がさないよう計らってくれることになっている。

島へ乗り込むのは、虎千代はじめ、僕、鬼小島、黒姫、ラウラの五人だ。島は入江が狭いために小さな舟しかつけられないようになっている。それもビダルの狙いなのだろうが、僕たちも覚悟を決めて人数を絞るしかなかった。

「心配せんといて下さい。いざと言うときは、この宗易と弾正殿が軍勢を率いて中へ乗り込みまするゆえ」

と、宗易さんは心配してくれたが、人海戦術が果たして有効であるのかどうか。

小蛭子島は切り立った崖に囲まれているが、東西にのびた地形は満遍なく、密林に覆われている。岩肌よりも、鬱蒼と茂る森こそが、防御の要と言えた。

「うかつに森の中へ引き込まれれば、多人数こそ難儀であろう」

山岳を使ったゲリラ戦に慣れている虎千代は、そちらの可能性の方を危惧した。そもそも特殊部隊出身のビダルの本隊がそうしたゲリラ戦に慣れきった連中だとするならば、いたずらに大人数で踏み込むことはなんの利点にもなりえない。

舟は揺れに揺れたが、なんと虎千代たちは今度は平然としていた。

「ああ、慣れた」

あれだけ船酔いに苦しめられた虎千代は、僕に平然と言った。

「あれから捜索のために何度か、宗易殿に舟に乗せてもらったからな」

その言葉は今の僕には心強かった。もはや何の問題もない。

あのときは体調が悪かったが、怪我も治ったし、今の虎千代は万全なのだ。

「島が見えてきました」

ラウラが言った。

ひんやりと澄んだ秋の海風が容赦なく、吹きつけてくる。僕は潮水の飛沫に目を庇いながら島影を見上げた。

大きく弓なりに、島の地形がせり出している。ここからでは全体像は見えないが、島は蛭がうねるように縦長に伸びているのだ。それらの地形は切れ間のない断崖であり、崖の上のほとんどは未整地の山林で覆われていた。

舟が時間をかけて南の突端に回ると、そこに申し訳程度の砂浜があり、小さな松林が広がっていた。

「誰か居やがる」

遠目が利く鬼小島は、顔をしかめた。砂浜にぽつんと一人、誰かが立っているのだ。

それはビダルでも、ミケルでもなかった。黒く流れる髪にしなやかな身体つきをした東洋人の女性のようだった。

「どうやら、案内役と言ったところか」

虎千代もその姿を見極めるように目を細める。

「油断するな。すぐに武器を使えるようにしておけ」

黒姫たちは無言で頷くと戦闘準備を始めた。

「真人、お前はわたしから離れるな。ビダルと相対するときは、お前だけがわたしの頼りだからな」

僕は頷いて見せた。

何があるか判らない。だが、行くしかない。必ず真菜瀬さんを無事で救い出して、あの黒い宣教師を止めるんだ。

小蛭子島の死闘、その幕が上がった。


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