ビダルの深い闇!死の天使、真人に刻み込まれた謎の言葉に潜む悪魔の真意とは…?
悪魔は。
懇切丁寧に僕に語りかけた。
思想と宗教。
大多数の人間を統べるシステムの齟齬や軋轢こそが戦争が起こる一番の原因だと。そしてそれは決して相容れないものではなく、ほとんど同じ構造を持っているシステムなのだと。この二つが形を変えて繰り返し繰り返しぶつかり合うのは、まさしく同族嫌悪に他ならないと、ビダルは僕に懇々と説いたのだ。
「抽象的すぎて、君にはぴんと来なかったのかも知れないな。言いたいことは、要はこう言うことだ。思想と宗教、人間が社会を組織して生きていく限りは必要不可欠だ。つまりは戦争はどこにでもあるし、これからもなくならないと言うことさ。それを生業にするものたちもね。だが誤解しないでくれよ?私たちPMSCが戦争を生み出すわけじゃない」
「それでも、火が燃え広がるための手助けくらいはするんだろ?」
僕はすかさず言ってやった。
「ただの戦争屋にしては、今までのやり方は手慣れ過ぎてる」
ビダルが僕たちを翻弄してきた、今までのすべての手口がそうだった。潜入暗殺や突発的なテロ、果ては人質誘拐から交渉まで、その手法は戦場で破壊工作をするゲリラたちそのものだ。
「なるほど」
ビダルはわざとらしく目を丸くして見せた後、一見穏やかなその相好を崩してみせた。
「君は鋭い。そして危険だ、君自身の立場としてもね。だがまあ、私の目に狂いはなかったと言うわけだ」
声を殺してビダルは笑った。この男はただただ僕たちをもてあそび、愚弄するためだけに存在しているんじゃないかと言う理不尽な怒りが心の中に噴き出した。今吠えつけば、相手の思う壺だと言う理性だけが、どうにか僕の自我を保っていた。
「だったら聞かせてもらう」
僕は胸にくすぶるそのどす黒い想いを殺しながら、続けて訊いた。
「あんたの目的はなんだ?この時代に来てまで、ただ戦争がしたいのか?」
「大ざっぱな問いかけだな。答えはイエスであり、ノーだよ。火種があれば、やるだけさ。知っての通り、私たちはプロだからね」
「あんたは藤城夫妻にはこう言ったって聞いた。戦争が常に目の前にある。そんな世界に疑問を感じて、あんたは日本に来たと」
僕はそれでもいぜん氷のような無表情のビダルに内心、忸怩たる徒労感を覚えながらも、続けた。
「あんたはこの時代でも戦乱に苦しむ人たちを助けるために、藤城夫妻と旅をすることを決めたんじゃないのか?今までのやり方を、後悔していたからこそ、そう言ったんじゃないのか?あれは…あれは、その場しのぎのためのただの方便だったのか?藤城夫妻をただ、利用するための都合のいい嘘か?…」
「ああ言ったとも。そう言ったことも、あった。決して嘘じゃないさ。確かにあれはあれで本心だった」
ビダルは大きく目を見張ると、かすかに肩をすくめた。まるで詰まらないことを知ってるじゃないか、と言うそれは顔つきだった。
「だが彼らは不幸だった。彼らは分かろうとしなかった。この世界はそもそも、こうあってしかるべきだと言う整合的な法則や理論にはまったく当てはまらないものだ。それを過信しすぎてしまえば、ある日足元にぽっかり開いた穴に落ちてしまう。彼らにとっては開いているはずのない穴にね。とても不幸な話だ」
「あんたが藤城夫妻を殺したのか?」
僕はずっと、胸にわだかまっていた毒物のような疑念をビダルに吐きつけた。もしそうであれば、この外道を金輪際、赦す気はなかった。だがビダルはそれには答えなかった。ただ小さく肩をすくめただけだった。そしてそれだけじゃない。話をはぐらかすためだけに、僕の顔を覗き込んでこう言い放ったのだ。
「恐ろしい顔をしている。野生動物の顔だな。まるで狩猟の獲物だ」
言われた瞬間、ぷつっ、と僕の中で何かが弾けた。
無謀にも僕はそのまま、ビダルに殴りかかろうとしたのだ。自分でも、自分自身を止めることが出来なかった。瞬間的に爆発した抗いがたい衝動に完全に理性を乗っ取られていた。
しかし、振り上げた拳はそれを叩きつける前に難なく留められた。手頸から先を掴まれたのだが、それが空中で固定されたかのようにびくともしない。
「やめておけと言っただろ?」
ビダルは僕の関節を極めているわけでも、梃子の力を使っているのでもない、純粋に腕の筋力だけで僕を止めていた。ビダルの前では、僕は網に捕らえられた小さな獣だった。確かにこの男が本気なら、特別な技など使わなくても紙クズを丸めるように僕を始末出来るのだった。
「くっ…」
悔しかった。なりふり構わずもがこうとするのだが、手首を掴まれているだけでぴくりとも動けない。僕はいつの間にか肩で呼吸をし、怒りで咽喉を詰まらせていた。
「大丈夫だ」
と、ビダルは話しかけてきた。来客に吠えついてくる室内犬をなだめる口調だった。
「ゆっくりと力を抜くんだ。…息が止まるぞ。そうだ、静かに呼吸しろ。…無駄な真似はしない方がいいと言っただろ。今は話をする時間だ」
頭を冷やせ、とビダルは静かな口調でたしなめた。噛んで含めるように、一つ一つ、文節を区切って。言う通りにするのも癪だったが、これ以上我を失っても何の意味もないことはよく判っていた。僕は深く息をし、ようやく身体から力を抜いた。
「落ち着いたか?さて本題に入ろうか。君に預けたそのガラス瓶のことだ。君はそれをきちんと、あのお姫さまの元に届けなければならない。その上で私たちの要求を伝えてくれ。条件によっては君たちの大事な人質を、ちゃんと無傷で返してやる」
真菜瀬さんの身柄のことが出ては、僕は余計冷静になるしかなかった。ここはビダルの話を聞くしかない。正体のないこの男の底意を探り取らなければならないのだ。
「それでいい。さっきよりは、ましな顔になってる。じゃあ、話を始めようか。その小瓶」
指さされて僕は何気なく、その封を開けかけた。瞬間、はっとするほどのスピードでビダルが僕の手を抑えてきた。
「それはここで開けない方がいい。君たちの中に専門家がいるだろう。それまでは、うかつに開けて中身を確かめようとは思わないことだ。一人で家に戻れなくなるぞ?」
不吉な予感で僕の手が強張った。もしかしたら、これは。
「スコポラミンの名前を聞いたことがあるかな。ヒヨスチアミン、アトロピンと並ぶ幻覚性物質の王様だよ。無味無臭の物質だがこれを吸うと一瞬で人間は自由意志を喪い、まともな判断力を失う。人を簡単にゾンビに変えてしまう恐ろしい薬がこれだ」
どくん、と心臓が波打ち、肌が粟粒立つのが自分でも分かった。
「まさか真菜瀬さんにこれを嗅がせたのか…?」
ひどくぎこちなく、押し殺した声が僕の口から漏れた。ビダルはかすかに頷いた。
「便利な薬だ。コロンビアでは路上犯罪者が昏睡強盗や拉致に、これを使うそうだ。黄色と白の花の咲いた街路樹の下で眠ってはいけないと、この国では言われる。犯罪者たちはこの花の種で簡単にこのスコポラミンを精製してしまう。彼らが作れるくらいだから、それほどの化学の知識も施設も必要はない。この国に自生する植物でも簡単に作れたよ。日本ではどうやら、忍者や山岳修行者たちが、幻術と称して人を誑かすときに使用するらしいね」
僕は怒りと絶望感で無重力の中に投げ出されたように、強い目眩を堪えつつビダルの話すのを聞いていた。この薬をミケルに嗅がされたノアザミは、いまだに療養中なのだ。それほど恐ろしいあの薬が真菜瀬の拉致に使われたかと思うと、僕は気が遠くなった。
「落ち着きたまえ、私たちは非道はしない。誓うよ。君たちが私の要求に従ってくれれば、彼女は無傷で返すし、心にもそう深い傷を負わなくて済む。だからこそこの薬を使ったんだ。スコポラミンは不快な記憶を消す作用があるからね」
ビダルはそう言ったが、そのようなことを鵜呑みに出来るほど僕は人間が出来てはいなかった。ビダルが言ったことは詭弁に過ぎない。不快な記憶を消すとは都合がよく聞こえるが薬を使われている間のことは、何も憶えちゃいないと言うことだ。実際にそのスコポラミンを使われたノアザミの予後を見れば、どんな状態かは容易に想像がつく。真菜瀬さんを傷つけない、などとは虫のいい話だ。
「改めて言うが、私たちが必要なのは黒田血震丸が精製した絶息丸を取り扱える技術者だ。その製法から使用法まで詳しく知った人間一人と、人質を交換しよう。詳しい場所はここに書いておいた。丹右衛門島を探し出してこれるくらいだ。誰かが、場所は知っているだろう」
と言うとビダルは、羊皮紙に書いた島の簡潔な地図を手渡した。
「言うまでもないかも知れないが、この機会を逃した場合、人質は永久に帰ってこない。再交渉はまた、別条件でと言うことになる。君たちの良心に期待する。私のチームは統率のとれた連中ではあるが、色々なことをためらわず出来る連中なのでね。出来れば君たちにむごいシーンは見せたくない」
平然と言うビダルに僕は、なんと答えていいか分からなくなった。僕たちが一つ、道を踏み外したなら、この男は確実にそれをやるだろう。これ以上の絶望に僕たちは堪えられそうにない。だが、目の前で行われるこれほどまでにえげつない行為を止めるには、この男の要求を呑み続けていくしかないのだろうか。
「判らない」
僕は失意の言葉を、ビダルにぶつけた。
「あんたが判らない。なぜそこまでして、絶息丸を手に入れようとする?あんたたちは僕たちの知らない本当の戦場で、学んで来たんじゃないのか?無辜の人間を傷つけることに疑問を持ったんじゃないのか?それでもなぜ、多くの人を傷つける道を選ぶんだ?あんたは…十分後悔したはずじゃないのか?」
ぶつけても甲斐がないことを知っていながら、それでもせざるを得なかった。案の定ビダルは、僕の失望を絞り出すような声にもまったく表情を変えなかったからだ。
「君は知らないようだ。私たちPMSCがなぜ戦場を闊歩するようになったのか」
僕は小さく首を振った。
「一つには、冷戦時代以降、各国の経済を圧迫し続けた軍費縮小の流れがある。軍隊を持つコストの高さに堪え切れなくなった各国が肥大化した軍機関を再構築する方向に持って行った。いわば軍人のリストラさ。ソ連が崩壊して冷戦構造が解消して以後はそれが爆発的に増えたんだ。これは一見、喜ばしいものかも知れない。軍が縮小するのは、それだけこの世界が平和になった、と言うことだからな。しかし、事情はまったく違った。それが今から言う、もう一つの理由のためだ」
判るか、と問われたが、僕は答える言葉を持たなかった。
「それは戦争の形態が変わったせいだ」
ビダルは淡々と話を続けた。
「冷戦が終わり、国家対国家の総力戦の時代も終焉を告げた。それ以後、国家の相手は国家ではなく姿形のないテロリストたちになった。彼らは図体のでかい軍隊には追いかけ切れない。軍事介入によって本拠を潰しても、指導者を捕えて処刑しても彼らは地下活動によって生き残り、すぐさま反撃してくる。国家が、これに根本的に対処する術はいまだかつて存在しない。中東情勢の泥沼化がいい例だ」
ビダルは感情の色のない瞳を閃かせると、小さく首を振った。
「また再現なく増え続けるテロの犠牲者への戦時賠償費用も馬鹿にならない。戦死者が増えれば派兵を決定した政権の責任も問われかねない。そこで現れたのが私たちPMSCだった。PMSCは戦闘も行うが、戦死した場合、国家は統計上の自国の戦死者として扱わずに済むことになってるんだ。
これが何を意味するか分かるかい?私たちは、戦場では幽霊扱いなんだよ。国家が行う戦闘と言う行為において便宜上、私たちは存在しないことになっている。国家は私たちに戦場での自由を約束する代わり、一切の責任を持たないつもりなのだ。なにしろ存在しないのだから。だが、私たちは確実に存在して自身を主張している。紛争や戦闘行為そのものの中に、いつまでも、まるで血液のように」
ビダルは僕の手をそっと握るとこう言った。
「君の言葉を返そう。後悔しようがない。戦場こそ、我々なんだ」
諦めろ。
お前は戦場の悪霊に憑かれたんだ。
悪魔は、そう言っているように思えた。悪霊が人を襲うのに、理由など存在しない。それが人に害をなすと言うその行為の中でしか存在し得ない悪霊であるという存在だけで、理由は十分だろう。悪魔はそう言っているのだ。
そこにあるのは深く暗い、絶望だ。それしか感じられなかった。実際、僕はそれだけで、救いようのない泥沼に両足を引っ張られて一気に引きずり込まれたような気がした。
「私はこの時代に来ても戦場を見て回る道を選んだ。言うまでもない話だ。私たちが、戦場でしか生育できない種だからさ。一向宗がはびこる北国は確かにひどかったぞ。ちょうど、テロリストだらけの中東を思い出したよ。私の古巣だ」
ビダルは虚無的な笑顔を浮かべると、その思い出を噛みしめるような表情をした。
「信じてもらえないかも知れないが藤城夫妻に話したこと、あれはあれで本心なんだ。私だって好んで非道をしたいわけじゃない」
「嘘だ」
僕は弾かれるように反論した。
「だったら、なぜなおあんな非道な行為を重ねる?あんたは何を考えている?一体、何者なんだ?」
「死の天使」
ビダルは僕の質問に答えるふりをして、その癖、どこか意味の通らないことを言った。そんな気がした。まだ、思わせぶりなことを言って、からかうつもりなのだ。僕は訝しげにビダルを睨みつけた。悪魔はその視線の意図を十分に楽しむと、今度は僕に手渡した羊皮紙を奪い、殴り書きのような字でそこにAngel of deathと書き加えた。
「気取ったことを言いたいわけじゃない。そう言う男がかつていた。私が君に渡した薬を愛用した男だ。この時代では難しいかも知れないが、知っている人間がいたら、聞いてみるといい。少しは私の気持ちが分かる」
悪魔はその言葉を最後に音もなく消えていった。その悪夢がただの絶望的な幻ではなく今、実際に直面したことであることを知らしめるため、僕の手に小さな羊皮紙を残して。僕は悪魔が書き残した、自身の署名のような言葉をもう一度見直した。
Angel of death
死の天使。絶望と福音。ビダルそのものを表すように、そこには二つの相矛盾した要素が混在していた。ビダルだけでなくかつてそんな男がいたなら、それこそ悪夢だろう。僕はそんな思いを抱え、あの悪魔が去ったであろう道をしばらく見つめていた。
まだセミがさんざめいていた。あたりは、残暑の日の名残りを残して不気味に静まり返るばかりだった。放っておいたら僕はいつまでもそのセミの声を聞いていただろう。でも僕は、ずっとここにいるわけにいかない。
どうにか自分の力だけで立ち上がらなければならなかった。
「一人で使いに出して済まなかった。許してくれ。真菜瀬のことがあったのに、まったく迂闊であった」
虎千代は急報を聞くと、悔しそうに歯噛みをして僕に謝った。
「僕なら大丈夫だよ。それより、ビダルがついに交渉を指示してきたね」
「向こうも迎撃準備、万端整ったと言うところか」
虎千代は羊皮紙に記された島を見て言う。島名を小蛭子島と言うそうだ。地に詳しい宗易さんに聞くと、播州灘に浮かぶ無人島の一つだと言う。
「ここも先般、海賊どもが駆逐された場所ですわ」
がさがさと宗易さんは、島の俯瞰図と海図を拡げてあらましを説明する。小蛭子島はその名の通り、ほぼ東西真横に蛭がのたうつ形のような細長い形をしている。船がつけそうな入り江は東側に一つだけで、西に向かっては切り立った岩山が連なっているらしい。丹右衛門島同様、どう見ても自然の要害である。
「幸い、阿波の三好水軍が協力してくれることになりましたゆえ、この島からはネズミ一匹出さんよう、大勢で包囲するように手筈を整えまする」
港湾での弾正との一件が、三好長慶公の耳に入ったのだろう。辺りの海域に詳しい阿波水軍の精鋭と船を貸してくれることになっているらしい。これ以上、心強いことはなかった。
「問題は、中へ入ってからのことだ。まず、人質交換のことだが」
「虎さま、御心配は無用です。とにかく、わたくしが人質になりますですよ」
と、黒姫が躊躇なく、名乗り出た。
「いざと言う際は、わたくしのことは構わず真菜瀬さんを連れて逃げて下さいです」
「済まぬ、黒姫。こたびは死を覚悟してもらわねばならぬ」
虎千代は心苦しげに眉をひそめた。あのビダルが相手では黒姫が犠牲になるかも知れないと思うと、気が重かったのだろう。
「何を申しますですか。この黒姫、長尾家…いやいや、虎さまには身も心も肉欲も捧げた身ですよ。どうぞ、迷わず死ねとご下知下さいですよ」
黒姫がすかさず言ったのは、さすがだと思った。いつもふざけてはいるが、やっぱり二人は武家の主従なのだ。
「我らとて、黒姫を無為に死なせたりはせぬ」
虎千代の目には、強い光が立ち戻っていた。
「こたびこそは石に噛りついてもあの男を、止めねばならぬ」
死の天使。
あのビダルが残した不気味な言葉が僕の脳裏にずっと居座り続けていた。
僕はスコポラミンの小瓶を黒姫に渡す際、その言葉も二人に一応、伝えておいた。
「死の天使か。ラウラの話では、死はデモンなる悪鬼が司り、天の御使いはその死者の魂を救い、祝福するそうだが」
虎千代は怪訝そうな顔をしただけだ。仏法徒の虎千代にはやっぱり、いまいちぴんと来なかったらしい。
「何が死の天使ですか、下らない。この期に及んで戯言など無用なのですよ」
黒姫はそう言ったが、僕には看過できないことのようにずっと思えていた。
二人には確信を持って言えなかったが、ビダルはその言葉に、何らかの裏の意味を込めたのだ。でなければわざわざ僕の手からメモをとって、そこにスペルを書きつけたりはしない。
ビダルは自分のことを理解したかったら、死の天使について調べろ、と僕に言った。
あのときあの男は僕に、過酷な過去と、そこで得た自分のおぞましい考え方を得々と語りかけてきた。どう考えてもビダルは決して自分に酔ったり、得意になるタイプではない。僕に暗示を与え、メモまで残したのには何らかの理由があるのだ。
現時点では確かにその理由はいくら考えても判らない。だが、探らざるを得なかった。戻るとすぐ、僕は真菜瀬さんの急報を聞いて無尽講社から駆けつけたあの人に、死の天使と言う言葉をぶつけていた。恐らくこれは、この時代の人間を指す言葉じゃない。となれば、頼れるのは、あの人の博識しかなかったのだ。
(絶対に何かある)
そのときはただ漠然とした不吉な予感でしかなかったのだ。
しかしその真の意味に気づき、僕たちはやがて愕然とすることになる。それはまだまだ、先のことだった。
「ラウラを裏庭に呼んでほしい。少し話がある」
と、虎千代が僕に言ったのは、出撃の準備が急ピッチで進められているその日の日暮れ前のことだ。普段なら、虎千代はとっくに湯で身体を洗い清めている時間だが、ちょうど明日の出撃に際して入念に寝刃を合わせた日本刀の中から佩用の小豆長光を一本、持ち出している。ラウラにもレイピアを持ってくるように、虎千代は申しつけていた。何か、ただならぬ雰囲気だ。
虎千代は暮れなずむ薄暗い庭で、刀を一本抱えて待っていた。真夏の長い日はないをひそめもはや秋の日に鳴り始めている。明かりもない裏庭はそろそろ、足元も覚束ない鈍い闇に沈み始めている。秋の虫がそこかしこで、すずろな音をあげ始めていた。
「剣は携えて来たか」
いきなりの質問に判らないながらも、ラウラはこくりと頷いた。腰のベルトに装着されているのは、レディムプティオが急ぎ調達したミケルに折られたのとは、別の新しいレイピアだ。
「今から稽古を…?」
訝る僕に、虎千代は目だけで頷くと、
「稽古ではない。ただ一つ、教えておきたいことがあってな。ラウラ、明日はただの人質交換ではすまぬことは分かっているだろう。言うまでもなく、お前の兄とまたやり合うことになると思う。まずは訊く。その覚悟はあるか?」
こくり、とラウラは頷いた。言うまでもない。もはや彼女は、兄ミケルを殺す覚悟でここにいるのだ。
「ミケルには勝てるか」
なんの衒いもなく直截に、虎千代は問うてきた。
「勝たねばなりません。そのつもりです」
ラウラは一語ずつを噛みしめるようにしてそう言った。
「ならばその覚悟をみせてもらう。その剣で我を刺せような?」
「虎千代サンを?」
ラウラは思わず息を呑んだ。
「真剣で立ち合う。寸止めはするが、お互いいざと言うときのことを心得てくるがいい」
虎千代は言うと、平然と刀を抜いた。
これにはラウラもさすがに面喰らっただろう。決戦を前にして取り返しのつかない事態が起きたらどうするのだ。しかし、これが紛れもなく虎千代のやり方なのだった。ラウラはそこで心配そうに僕を振り返ってみせたが、虎千代がそうすると言う以上、僕も無言で頷くしかなかった。
「大丈夫だとは言わないよ」
と、僕はきっぱりとラウラに言った。
「真人サン…」
「だけど、虎千代を信じてくれとしか言えない。だって、これが虎千代のやり方なんだ。虎千代がラウラに伝えようとすることは、こうしてでしか伝えることが出来ないことなんだ。だからこそ、真剣を使って命のやり取りに近い状態で立ち合わなければならない」
そうだろう、と言うように僕は虎千代を見た。彼女は無言でただ小さくあごを引いてみせた。
「ラウラは虎千代と誓ったんだろ。だったら信じてくれ。虎千代を」
その言葉にラウラも思い当たるものがあったはずだ。一瞬、驚きと困惑で表情を歪めたが、すぐに引き締まった顔つきになり、頷いて見せた。虎千代とラウラ、二人は武士と騎士との誓をかわしている。僕と虎千代がまず試したかったラウラの覚悟こそ、その誓の重さだったのだ。
「よろしくお願いします」
と言うと、ラウラは腰のベルトからレイピアを引き抜いた。鋭く尖った剣先が、暮れかけの陽にまばゆく煌めいた。
僕はそこで初めて、じっくりと見ることが出来た。ヨーロッパが重装武器と並んで主要武器とした小剣戦闘の構えを。
ラウラの細く引き締まった身体は、やや猫背に屈めながらもほとんど垂直に立ち、身体の中心にある急所を相手から見定められないように、右肩前の半身に開かれている。その手にレイピアをひっかけるようにして持ち、反対側の手はまるで天から吊り下げられたロープを引くかのように緩く拳を開いたまま、顔の横付近を漂っている。
対する虎千代は片手に長剣をひっかけたいつもの無構えだ。
琉球空手の猫足立ちに類する柔らかな足運びは、和装とあいまって攻撃のタイミングと間合いを相手に悟られにくくする工夫がなされている。
二人とも総じて、速さと精確さを競う剣の使い手だ。
しかしその攻撃の型は、対照的ですらある。ラウラのそれが、せわしなくフットワークを使い、出と入りを繰り返す剣法なら虎千代の剣は、前後左右をたゆたう変幻自在の足運びから繰り出される。
武器の性質上の違いによるものだと、僕は瞬時にその差を読んだ。突きを主体とするラウラの剣は一点精確に狙いを定めるためのものだ。そのために同様、その身体の動きも点から点への移動となるのだ。日本の武器でもっとも近いのは槍だろう。出と入りのタイミングの妙こそが、攻撃と防御の要を兼ねるのだ。
そのラウラが針の先のような目標を狙って刺突を繰り出すときは、振り上げた反対側の手が下がる。見せかけの目測のそれよりもはるかに伸びる攻撃はこのように左腕の収縮によって瞬間的に起こる筋肉の張力を利用したものなのだ。
と、なると相手は攻撃の前に必ず下がる左手にさえ注意していれば攻撃を察知することが出来るはずなのだが、実はそれほど甘いものではない。
この手の動きはフェイントの役割も担うのだ。それが刺突くだけと言う、一見単純すぎるようにすら思える手数を多彩なものに変えていた。
しかもフェイントは左手のそればかりではない。フットワークはもちろんのこと、目線から頭の振り、剣先、それらすべてで油断を誘い、混乱させるのがこの剣技の真髄だ。レイピア術はまさに、ロングソードやパイクなどの長重武器が兼ね備えることの出来ない小剣だけの利点を余すところなく活かしきった合理性の塊のような剣技なのだ。
ラウラはかつて、揺れる小さな舟の上で大柄な高来を思う存分翻弄してみせたが、この安定した足場でも、この技は十分優位性を喪わない。さすがの虎千代だって、真っ向からラウラと斬り結ぶなら、さすがに手を焼くに違いない。いざ始まったとき僕は、そう思っていた。
しかしだ。
開始早々から僕の予想は大きく実際の戦況とずれていった。ラウラの攻撃が、虎千代にかすりもしないのだ。虎千代はわざと剣を下げ、上半身をがら空きにして急所の集中する顔すら守っていないのに、ラウラの攻撃をすいすい避けていく。
虎千代はほとんどその場を動いていない。ラウラのフェイントにも自若としてほとんど乗らずに繰り出された必殺の一撃をヘッドスリップや身体の動きを駆使して、受け流していく。
現代のフェンシングにおいても、剣線が眼窩を貫通して脳髄に達し、死亡するという事故がざらに起こっているのに、虎千代は平然とラウラの剣をほんの鼻先で回避している。
「どうした刺すのが怖くなったか?」
虎千代が口を挟む。無理もない。下手をしたら、本当に虎千代を刺してしまうかも知れないのだ。さっきはああ言ったが、ラウラの緊張感と恐怖は察してあまりある。しかし、実際のところそれは違っていた。無謀な攻撃を繰り返すラウラの表情が何より雄弁に語っていた。今の彼女には、攻撃を手加減する余裕すらないのだ。
そうこうしている間にも、陽はさらに暮れていく。目測を誤り易いこの時間帯は危険度は倍加するはずだ。ラウラの細身の剣がほとんど視認できないこの状況でも虎千代は、平然としてラウラの剣を捌き続けている。うっかり深く踏み込み過ぎたラウラをたしなめる余裕すら、虎千代にはあったのだ。
やがて、絶妙なタイミングの足払いがラウラを転倒させる。
「くっ」
歯噛みして立ち上がろうとしたラウラの首にぴたりと虎千代の剣が突きつけられる。
「この局面はこれで終わりだ」
勝負あった。甲斐のない空振りをこれ以上、続けても無駄だと虎千代は言っているのだろう。ラウラは膝の泥を払うと、黙って立ち上がった。そして、
「もう一番お願いします」
と、呼気を整え、構えを直した。
「いいだろう、納得するまで来るがいい」
その声を合図にラウラは立ち向かったが、結果は依然、何も変わらない。それからもラウラの剣を、風にたゆたう布のようにさらりと虎千代は受け流し続けた。
ラウラの名誉のために言っておく。
ラウラのレイピア術と虎千代の剣術に、それほど絶望的な実力差はないはずだ。波止場で揺れる波間を挟んで対峙したときも、お互いにミケルと対戦したときの技量の差を鑑みても、ラウラは虎千代とある程度以上、渡り合えるはずなのだ。それがどうだ。完全に虎千代に翻弄されてしまっている。
「まだ来るか」
「ハイッ」
ラウラの息が上がり始めている。精確性を欠く動きが多くなり、ますます虎千代にそこをつけいられる。こんなはずはない。何よりラウラがそう思っているはずだった。
そもそもいくら虎千代が年齢や性別に似ぬ達人とは言え、短期間にこれほど差が生じるような要因はないはずだった。しかも虎千代は病み上がりなのだ。あいつ、魔法でも使ったんだろうか。
「そろそろ気づかぬか」
虎千代は言う。その呼吸はラウラのものに比べてはかすかだが、やや乱れ始めていた。しかしラウラの剣が、虎千代を捉えることはいまだない。
まるで動画のリピートのような場面を何度も見つつ、僕も必死で理由を考えた。なぜだ。なぜなんだ。
「時間が経てば、より顕著になろう」
虎千代の一言が僕の蒙を覚ました。その瞬間だった。
虎千代の攻撃を受け流したラウラが、その背後に位置どる。そこから虎千代の首筋に針を合わせればようやく、彼女が一本とれる局面だった。当然、ラウラはそれをした。しかしその目論見は、もろくも崩れた。虎千代が完全に自分の死角に向かって放った一撃が、それよりも先にラウラを捉えたのだ。
きいん、と冴え渡った金属音が、闇をつんざいた。
虎千代の剣が、ラウラのレイピアを掌握している。今や細身の刃は完全に自由を奪われ、日本刀の刀身に押し上げられていた。レイピアそのものに防御力はほとんどない。このまま押し切りにつければ、ラウラの首ごと掻き切れただろう。
「目だ」
僕は叫ぶように、自分の得た答えを口にしていた。虎千代はそれを聞くと、小さく頷いて自分の刀を鞘に仕舞った。
「それよ」
ラウラはまだ、自分自身で今目の前で起こった出来事に説明がつかず、茫然としている。なぜならさっき虎千代は、背後のまったく動きの判らない敵に向かって剣を振り、精確にその動きを留めたからだ。
「ラウラ、お前たちの剣の理は目だ。精確に急所を見すます必要上、目の良さは必須なのであろう。しかし、そこが付け目なのよ」
虎千代の答えが、僕にとって何より正鵠だった。そう、目なのだ。ラウラの剣が、時間を追うごとに精確性を欠き、虎千代に翻弄された決定的な要因になったのは、その目が物を見る作用を状況によって妨げられたからなのだ。
「ラウラ、お前の剣の精確さは特筆すべきものだ。真人が言う、あの素描の異能が(サヴァン症候群のことだろう)、さらにお前に鮮明に敵の動きを捉えさせているのかも知れない。しかし、目の頼り過ぎては、思わぬ足元をすくわれる。今のような事態がそれだ。目を封じられては、思った働きが出来まい?例えば土くれなどの目つぶしにても、視界を封じられればそれまで」
虎千代は目を閉じると、すっ、と呼吸した。次の刹那だ。
風を巻いてほとばしった抜刀術の一撃が、愕然とラウラの首に吸い込まれた。なんと目をつぶったままだ。しかし信じられないことに剣は、ラウラの首の皮一枚で止まっている。虎千代はいつか、菊童丸の額につけた米粒を斬ったことがある。今のはまさに、それ以来の神技だった。
「かくのごとし」
ふっ、と息を抜くと、虎千代は剣を再び鞘にしまいゆっくりと残心をとった。
「我ら日ノ本の剣術使いは目以外でも物を感じられるよう、鍛練をする。目以外の五感で、皮膚で、そして洞察力で感じるのだ。相手がそこにあることを。ただ認識する。どこか一点、見るわけでなく、全体を感じてな。この理は口で説いたところで、分かってはもらえぬだろう」
「虎千代サン…まさかそれで本物の武器を使った稽古を…?」
こくり、と虎千代は頷いた。
なんと、危険な真剣で稽古をする虎千代の意図は、そこにあったのだ。目以外で敵を感じる感覚。虎千代はそれを、自身を危険に晒してまでラウラに刻みつけようとしていた。
「兄妹ゆえ、よう分かっているとは思うがミケルの剣は何より、その目を翻弄する術だ。明日、勝負に光明を得るとしたなら、この一点を衝くより他あるまい。さればこそ、無理を承知でこのことを、お前に伝えたかったのだ」
ラウラは深く、虎千代に感謝をしていた。虎千代は今、出来うる限りの秘策を、ラウラに与えたのだ。それが功を奏するか否かは、ラウラの技量それ自体に懸っている。明かりのある広間に場所を移すと虎千代はそれからしばらくラウラに付き合っていた。ビダルに狂わされた兄、ミケルを止めるのはラウラしかいないのだ。しかし凄いものを、目撃してしまった。
興奮冷めやらぬまま自室に戻ろうとすると、砧さんが僕を呼びとめた。
「真人くん、探したよ。間に合って良かった。例の件、話がある」
ひょっこりと砧さんの後ろから顔を出した人物を見て、僕はほっと胸を撫で下ろした。相談役がそこに一冊の本を抱えて立っていたのだ。やっぱり最後は、博覧強記のこの人に頼るしか手はなかった。
「いやあ、蔵書からこれを持ち出すのに骨が折れました。死の天使のこと、これを読んだらよう判るでしょう」
「これが死の天使の正体…」
それは年季の入った一冊の古本だった。見たところ、海外物の翻訳に見える。第二次世界大戦末期。未曾有の大量殺戮が行われたこの時代、死の天使は実在したのだ。
「そのビダルと言う男がなぜこの男のことを真人くんに調べろと言ったのか、私にも解せませんが」
その本を手渡してくれた相談役の顔は深い憂いに満ちていた。
「いまだにこの件については時効がない、と言われた戦争犯罪の中でこの男のしてのけたことは、かなり凄まじい内容のことや。ビダルがこの男のように振る舞おうとしているのだったら、何としてもその行動を阻止して頂きたい」
真夜中、僕は本を開いた。全体を把握するには時間がないだろうと、相談役が話してくれた本の概略を反芻しながら。それでも読める限りは読んでみるつもりだった。
ビダルが口にしたその男。
名は、ジョゼフ・メンゲル。
第二次世界大戦下のナチスドイツを指揮したアドルフ・ヒトラーの配下で、ユダヤ系住民たちの大量虐殺に積極的に関わった男。史上、類をみないと言われたホロコースト(民族虐殺)が起きたユダヤ人捕虜収容所で、もっとも過酷で惨烈を極めた悪名高い収容所の名前を冠してこう呼ばれた。
アウンシュヴィッツの死の天使。




