ビダルの素性、悪魔の口から直接語られる黒い意志の正体とは…?
自分はずっと。
「戦場にいた」
その男は、藤城夫妻にそう語ったと言う。男は、現在のロシアとヨーロッパ世界を隔てる小さな山岳国家に生まれた。その辺りはちょうど新興独立国家が多い場所だ。ロシアがソビエト連邦と言った頃、属州として従えられていた国々が点在し、現在も復権を目指すロシアとの支配権を巡って内戦や民族紛争が絶えない。僕たちもたまにニュースで見るが、ユーゴスラビアやチェチェン共和国などの激しい戦闘や悲惨なテロ事件にはいまだの解決の糸口すら見えていない。
男は最初、ソ連の特殊部隊に所属し、国家が独立してからは祖国に戻り独立のための活動に参加した。それからは退役して居場所がない特殊部隊のメンバーとともに、世界各国を歴訪したと言う。
「国の言葉で、話しても誰も分からないんですよ。仕事にならないのです。だからロシア語の他に英語も憶えました」
と、男は苦笑交じりに、藤城夫妻に話したようだ。
「世界中の軍事に関わって生きてきた」
と言うのが、その男を指し示すもっともシンプルな略歴だった。それはどこかの国の軍属であったと言うだけではない。軍事を通したあらゆるビジネスに関わったと言う意味だったのだろう。
「いわばPMSCだな」
「ぴっ、ぴえいむ…なんと申した?」
虎千代はこの辺で、さすがに話についていけずに目を丸くしていた。
「PMSCってなんですか?」
僕も耳慣れない言葉だったので、思わず砧さんに尋ねてしまった。
「Private Military Security Company(ContractorのCと称する場合もある)、軍事に携わる人材派遣を取り扱う会社のことだよ。正規の軍人たちに代わって戦闘行動はもちろんのこと、兵站輸送や民間人の警護、新兵の訓練指導・研修にも当たる。いわば戦争のアウトソーシングと言うとぴんと来るかな。多少の質は違うが、現代の足軽傭兵と言うと分かりやすい」
砧さんによれば、ソ連崩壊からイラク戦争に至るまで、世界中にこれらの請負会社が爆発的に増えたようだ。一九八〇年代後半から二〇〇〇年代の前半にかけて起こった世界中のあらゆる紛争には、彼らPMSCが何らかの形で関わっている。
驚くことに、戦争は国家が行うもの、と言う認識はある意味ではすでに過去のものになりつつあるのだ。
現代の軍事では特殊部隊の投入を必要とする特殊任務や大量の軍事力を必要とする大規模軍事行動を除けば、国家が自前の軍隊を使わずPMSCに委託するケースがほとんどだ。他国の戦場を渡り歩いてきたエキスパートたちは、すでに世界中の戦場では欠かせない存在なのだ。
「現代ではイラク、アフガニスタンと言った中東が目につく市場になっているが、もちろん彼らPMCと言うのは国家の軍隊よりフットワークが軽い。基本的に世界中、どこの紛争地域でも顔を出す存在なんだよ。この辺りも私たちと似た点ではあるが」
なるほど、砧さんや煉介さんのように正規の武士集団である大名たちから、戦闘業務を請け負って戦う足軽傭兵たちの戦闘集団に通底する部分はあるが、決定的に違うのはPMCに属するのは元は正規の軍人たちであると言うことだ。
彼らは過酷な戦場経験と専門知識を持ったプロであり、基本的には特殊部隊出身者などが多い。そこで、僕がぞくりとしたことは言うまでもない。ビダルの軍人としてのスキルの高さからしても、この男がまずビダルに間違いないだろう。でなければ現代であれば、まるで骨董品のような銃で、船上にいた虎千代をああ易々と狙撃出来るはずがない。
「コソボ、ソマリア、イラン、イラク、アフガニスタンが有名なところですが、請われればどこへも行きました。多くの仲間を喪っても喪っても。繰り返し繰り返しね」
男は、言葉は数は少なかったが、的確な表現の英語でとても判り易く、自分の仕事のあらましを語ったと言う。しかしその淡々とした様子は真に迫っていて、その男が現代では戦闘のプロフェッショナルだったことを雄弁に物語っていたらしい。
「あなたの仕事場は戦場だったわけですね」
藤城夫妻もショックを受けたようだ。
「でも、それがどうして、日本に?」
その質問は、確かに、もっともな疑問だっただろう。
「疑問を感じたんです。これまでの自分にね」
男はそれに対しても、ごく簡潔で明確な言い方で答えた。
「そんなとき、イラクで私が仕事で関わった方が、この国のことを熱心に紹介してくれましてね。紛争地域ばかり巡って、争い合う人たちばかりの中で育った私に彼は言ったんです。日本は太平洋戦争以来、紛争が起きたことのない国だと」
平和を求めて。戦争を生業としてきた男はなんとそれを聞いて、わざわざ来日を決めたのだ。
「もちろん日本と言う国がまったく平和であるかと言えば語弊がありますが、少なくとも世界中の紛争地域が抱える問題は、日本ではそれが深刻化するほど存在していない。他国からすればそれは、奇蹟のようですよ」
と、男は藤城夫妻にも丁寧に自分の思いを語りかけた。
「だが、日本にも他国間に分かれて民族が殺し合った、そんな時代があったそうですね?五世紀近くも昔の話だ。彼らはそこでルール無用の殺し合いの中をしながら、人間が生きる上で守るべき理性と強靭な精神力を作り上げた。戦争をすることを自ら禁じた日本人たちの基礎を作り上げた、この血みどろの時代を、後世の歴史家たちは中国の長い国家紛争時代を模して、こう呼んだそうですね」
戦国、と。
「今、この時代のことでしょう?」
男は自分がタイムスリップしたことにまったく混乱する素振りも見せずに、それだけを口にしたと言う。
男はこの国の戦国と言われる時代に、なぜか異常な好奇心と興味を持っていたのだ。
「むべなるかな。ビダルめ、戦場に古りた男と思ってはいたがそれほどとは」
虎千代は虎千代なりに、ビダルの素性を理解したらしい。
「今でもあの面構えを夢に見る。我が父、為景公も時折、あやつのような面差しを見せた。十全な状態にても、次に相まみえたとき、果たして勝てるかどうか」
虎千代は言うと、まだ癒えぬ肋骨の痛みに顔をしかめていた。
男を助けた南蛮人の宣教師は、イエズス会の指示で堺に居を移し、そこで布教活動を行っていると言う。聞いた話ではイスパニア人たちが寄宿する花街近くにある、小さな南蛮寺だと言うことだ。
渡海してきた日本人の信徒たちをはじめ、現地のイスパニア人たちの拠り所になっているようだ。神父の名はペドロ師と言い、ラウラたちも当然、知っていて情報をくれた。宣教師社会では評判のいい、心穏やかな人のようだ。
「師があのビダルを、手助けするとは思いたくありませんが」
と、ラウラも表情を思わず曇らせていた。
「しかしそれでもビダルにつながるのであれば、師から話を聞かねばなりません」
ラウラは一足早くレディムプティオのメンバーを集めて、ペドロ師の周辺を調べさせてみたらしい。今のところ不審な様子はないと言うが、虎千代の言うようにそのペドロ師よりもどんな手でも打ってのけると言うビダルの影が僕たちの間にちらついて離れないのだった。
訪問は昼のうちに済ませることになっている。ペドロ師からは何でも聞いてほしいと、丁重な申し入れがあったばかりだ。
「捕り物となるも、案のうちゆえ、油断は出来ぬ。弥太と黒姫とも十分示し合わせておかねばな」
もちろん、虎千代に油断は一切ない。抜かりなく黒姫たち軒猿衆を配置させ、長槍を持たせた鬼小島を侍らせている。
自身も戦闘に備えて鎖を入れた帷子を着こみ、重い太刀を携えた。しかし心配なのは、支度をしただけで、呼吸すら苦しげに見えることだ。こんなことは虎千代といて、かつてなかったように思う。ビダルとの死闘からしばらく経つのだが、虎千代はその間、一度も十分な休息をとれていない。そのせいのように思える。真菜瀬さんがいなくなってからは、いつも外出していて寝ている間もないほどだ。
「大丈夫なの、虎千代?ここは僕たちに任せてちょっと休んだらどうかな」
僕はついに見かねて言った。
「そうはいかん」
虎千代はそれでも頑固に首を振るばかりだ。
「真菜瀬の身体にもしものことがあれば、それこそ泉下の煉介に申し訳が立たん。現場の指揮はわたしが。これは何があっても譲れぬ」
「無茶だよ」
「何を軟弱なっ、これしきの無茶もせぬで何が武門の長かっ」
ふらりと立ち上がりかけた強情な虎千代だが、やっぱりバランスを失ってがくりと膝を落としかける。僕はその小さな身体をすんでで受け止めた。
「あっ、危ないって!怪我してるんだから」
これじゃ真菜瀬さんの前に、虎千代が参ってしまう。
「いいから休めって。二人にはちゃんと話しておくから」
「ううっ、わたしはそんなにやわではない、怪我人扱いするなっ!大丈夫だと言っておろうが。わたしだってまだ戦えるのだっ」
ばたばた駄々っ子みたいに手足をばたつかせる虎千代。こう言うとき強情な奴は困る。
ほとんど揉み合いになりながら僕たちが出てくると、
「ふふん、お前たち何を楽しそうに話しているのだえ?」
最悪の人物に出くわしてしまった。この声。タイミングと空気を読まないことではもはや誰もが知っている、綾御前だった。綾御前は僕たちを見ると、顔じゅうの筋肉を緩めてにっこりと笑った。こわっ。それは一分の隙もない、完璧な美人の満面の笑みなのだが背筋に、ビダルと相対したときとそっくりな不吉な悪寒が走るのは、なんでなのだろう。
「お虎よ。どうやら、何か手掛かりを見つけたようじゃな。おのれは辛そうゆえ、姉が一肌脱いでやろう。ここはこの綾が現場の指揮を取ろうではないか」
「えっ」
僕たちの顔から一気に血の気が引いた。
「あっ、姉上。その、お気持ちは嬉しいのですが…姉上は別件でお忙しいのではないでしょうか…?」
「馬鹿を申すでない。綾とお前の案件、一つに繋がったではないか」
「ええっ!?あの、それはええとなんと言えばよいか」
降って湧いた厄介な身内と言う名の災難に、さっきまで強情だった虎千代もしどろもどろだ。いや、確かに高来の証言で越後の長尾政景に通じて、絶息丸による国家転覆の陰謀を企んでいるのはビダルの一味だと言うことは分かったが、綾御前の目的と、僕たちの目的ってそれでもまだ、かなりかけ離れているんじゃ?
「遠慮は無用じゃ。敵は同じと、決まったようなものだからな。お前の目的はその、真菜瀬なる下女、綾が捕まえたしは政景殿の謀反を請け負いし、不埒ものどもよ。つまりはそのビダルなる南蛮坊主を探し出して、締めあげればよいのであろうが。難しい話ではなかろ?」
「そ、それはそうですが…」
そんな簡単な問題じゃなさすぎることを、誰かこの人に教えてあげて欲しい。
「任せておけ。黒姫と弥太郎には、綾から話をしておこう。さあて、綾も久々の大仕事よ。これは腕が鳴るわ」
「うわああっ姉上なんと御無体な!こたびの件は任せたとは、一言も言うておりませぬぞ!少しは、虎の話もお聞き下され!」
「ふん、怪我人はおのが身の心配をせい!真人、おのれはお虎を見張っておくのだ。手は出すなよ!綾のかわゆい妹ぞ!」
ふふふふっ、と不気味な笑いを浮かべながらぽきぽきと拳を鳴らす綾御前。もう誰の言うことも訊きそうにない。
これは、恐ろしいことになってしまった。
「はっ、はああっ、そうですかあ…指揮は虎さまに代わって綾御前様が…」
「いや、まあいいんだけどよ。お嬢も疲れてるみたいだからな…(ごにょごにょ)」
黒姫と鬼小島の顔がはっきりと引き攣っていた。二人とも困った顔文字みたいな表情だ。あんなに気合入ってたのに、二人のテンションがみるみる沈静化していくのが分かった。さっきまでが打ち上げ花火くらいだとするなら、今では消火後の花火の燃えカスのそれだった。
「相済まぬ。姉上の件は、姉上の件で長尾家存亡の危機ではあるのだ。わたしもその、真人に介添えについてもらって現場に出るゆえ、そう不安がらないでくれ。ペドロ師にはもちろん、わたしが会う」
虎千代も始まる前から苦い顔をしている。
とは言え、僕としてはいざと言うときのことを考えると、お姉さんの申し出はありがたかった。虎千代自身、武装で動くのすら辛いところだったのだ。
「虎千代サン、お身体の方は大丈夫ですか…?」
ラウラも僕と同じ思いのようだ。
「お約束はお昼と言うことでしたので、ペドロ師はお迎えの準備を整えてお待ちです」
ラウラによればペドロ師は人望ある方のようで、その日も朝から信徒を集めて熱心に仕事をしていたらしい。資金に乏しい活動を強いられる中で炊き出しなども積極的に行っているようで、神父の清廉な人柄がそれだけでも偲ばれる。果してそんな方が、人身売買に手を染めた非道なビダルの身柄を匿うだろうか。ことに臨む綾御前のテンションも含めて、おおいに心配なことだ。
「お虎よ、南蛮坊主めは捕らえたら、こちらに身柄をもらうぞ。安心せい。まあ、殺しはせぬわえー☆」
その綾御前はすっかり意気消沈した僕たちの隣で、黒姫すらたじろぐほどの黒い笑いを浮かべている。
「あのう、お姉さんは、なぜそれほどまでに義兄上をお憎みなのですか。謀叛の真偽はともかく、あれだけ仲睦まじき夫婦仲だったではありませぬか」
虎千代は無駄と知りつつも、姉に弱々しい反論を試みていた。だがやっぱり無駄だ。
「ははは、判らぬかお虎。綾はこの件で別段、謀反の罪をあげつらって政景殿を誅戮するつもりなど毛頭ないのだ。ただこれを機にこの手にしっかと掌握するつもりよ。政景殿が領する魚沼郡をな」
僕たちにもそれでやっと綾御前の魂胆が分かった。この人は虎千代暗殺計画の陰謀を明るみに出すためじゃなくて、それを使って夫の政景を脅迫したいのだ。夫を影で操って、嫁いだ家の領土を我がものにしようと言う、腹黒い、いや壮大な謀略こそ綾御前が描いた絵図なのだった。
「知っておろう、魚沼郡の掌握は、父の悲願であった。お虎、お前は好餌となったわ。耳を揃えて証拠を突きつけてやれば、政景殿は綾の奴隷も同然!」
あ、そこまでドSでいらっしゃる。
「ふふふふふっ、お陰で労せずして、夫の家を牛耳れようぞ」
凄まじい野望に自ら唇を綻ばせる綾御前。下手すると妹の虎千代より戦国大名なんじゃないか。家を乗っ取るために嫁ぐ。戦国人としては、これは正しいあり方なのだろうけど、気のせいだろうか。心なしか、本職の戦国大名のはずの虎千代からして、げんなりしているように見えたのは。
ペドロ師の南蛮寺は、在地の豪商から寄進を受けたものでかなり立派な門構えをしていた。堺では、こうしたスポンサーが教会用地まで世話をするケースが珍しくない。少し時代は下るが、自分の屋敷をそのまま寄付した日比谷了慶などがいい例だ。港に近い立地のここも元は、名のある唐物商人が居を構えていた場所であり、敷地も多くの人を受け入れるに十分だ。
虎千代と僕がラウラを伴い、顔を出したのは正午を回ったころだったろうか。その頃、まだペドロ師の教会は人でごったがえしていた。ペドロ師の説教を聞くために、朝から並んだ人たちが門外まであふれているのだ。師は僕たちとの予定があるので午前で切り上げるつもりが、あまりの混雑ぶりに対応が長引いているらしい。雑踏に漂う話によると、講話のためにもう一度、登場する予定のようだ。
「すごい人気じゃな」
虎千代も目を丸くしていた。
「堺での布教は成功しつつあります。宗易さまたち会合衆をはじめ、ワタシたちを積極的に保護して下さる方が多く助かっています」
と、ラウラもどこか誇らしげだった。
当時、登場したばかりのキリスト教は、国際都市と名高いここ堺でも最先端の思想だったようだ。スポンサーは舶来の物流を取り扱う唐物商人から始まり、主に富裕層に広まっていった。絶え間ない妨害をしてくる仏教の影響力の少ないこの堺と言う地域は、本邦の登場したばかりのキリスト教にとってはまさに救世主だったと言えよう。
この波はやがて支配層である武士にも自然に拡がっていくことになる。なまじ本人を知っているとぴんと来ないが、あの松永弾正ですら配下に信者が多く、積極的に彼らを保護したのだ。
「この様では我ら、なりを潜めねば騒ぎになるな。黒姫によう言うておかねば」
虎千代は怪訝そうに、人だかりをうかがう。会見はこの人の波が切れてからになろうが、それでも騒ぎを起こせば大混乱になるだろう。
「…姉上は大丈夫であろうか」
虎千代がぽつりと口にしたその懸念が、僕は一番心配だ。あの人こそいっぺん、真剣にペドロ師の講話を聞いて心を洗い直した方がいい気がする。
しかしこれほど人の出入りの激しい場所を、ビダルが隠れ家などにするだろうか。
人の温気に堪えて時間を潰していると、やがてどよめきが津波のように盛り上がった。ペドロ師が再登場するのだろう。首にかけたロザリオを取り出し、その場に膝を屈して拝む人たちや声を上げて泣く人たちがちらほらと見られた。
「ペドロ師は本当に清廉なお方なのです。頂いたご寄附はすべて、この講話に集まる方たちの炊き出しや、貧しい信者の救済にお使いになられています」
ラウラも、ペドロ師の教えを受けたことがあるようだ。尊敬する人なのだろう。熱心に僕たちに話しかけてくる。
大きなどよめきの中、大柄な宣教師の男が現れた。節制しきった生活で細身かと思いきや、思ったよりがっしりとしている。ひと目見ただけで、瞳の力の強いラテン系の中年男性だった。その登場だけで、場内は独特の熱狂に包まれる。
「すごい方なんだね」
僕は、ラウラの表情を見ていた。彼女も久しぶりのはずだ。言葉を尽くして瞳を潤ませて僕たちにペドロ師の人柄を賞賛していたのでさぞや、感慨深いはずだと思った。やがて片言の日本語混じりの講話が始まり、辺りが鎮まり返る。僕はそれでもまだラウラを見ていた。
異様な感覚に気づいたのは、それから間もなくだ。なぜかラウラはひくっ、と咽喉を鳴らして驚愕を呑みこんだ顔をしたのだ。見ると、さっきの表情とはまるで別人のように、顔が強張っている。驚きの言葉がすぐに口に出来ないようで、目が泳いでしまっている。僕は手を伸ばして、そんなラウラの肩を掴んで言葉を放り込んだ。
「どうしたの?」
「違う」
弾かれたように、突き返したラウラの言葉こそ僕たちにとっては驚愕だった。
壇上ではペドロ師が、かすかな笑いを交えながら和やかに話に興じている。ラウラはそのペドロ師に震える指を突きつけると、僕たちに言った。
「違います。あの人はペドロ師なんかじゃない。まったくの別人です」
驚愕の一言だった。
「う、嘘だろ。そんなことって…」
「信じられません…まさか、ペドロ師がビダルに…」
ラウラは白昼に悪魔に出くわしたと言うように、十字を切って首を振るばかりだ。僕はあまりのことにとっさに返す言葉も出なかった。
「落ち着け。順を追って説明してくれ。一体どう言うことなのだ」
遅れて虎千代も、愕然と目を見張り、ラウラに訊き返したそのときだ。
和やかな空気を一変する銃声が、昼下がりの空に木魂した。
その瞬間を偶然、僕は見た。
黒い弾丸の影が狙いあやまたず、壇上の男の口の中へ入っていった。
宣教師は咽喉を撃ち抜かれ、何かに救いを求めるようにもがいて倒れた。
言うまでもなく、即死だ。
信じられるはずがない。
現場では何が起こったのか、しばらくは幕間のようなどこか和やかな静寂に包まれた。考えてみれば滑稽な話だが、誰もが信じられなかったのだ。壇上、自分たちが救いを求めてやってきた宣教師が、容赦のない銃弾によってにべもなく葬り去られたことを。誰もこの現実をすぐには、受け入れられなかったのだろう。
僕と虎千代ですら、驚愕の事実にすぐにはどうすべきかが思い浮かばなかった。
「誰じゃっ!誰が撃ったんじゃあっ!」
金切り声のような悲鳴が、静寂を切り裂いた。
「武士じゃ」
ついで、上がった声こそが、大混乱を誘発した。
「あいつら、仏法徒じゃ。周りに怪しい武士どもがおるぞおっ」
あれは誰が言ったものか、効果抜群だった。
信者たちは一気に、躍り出した。まさにハチの巣をついたような大騒ぎとはこのことを言うのだろう。
ある者は意味不明の金切り声を上げ、所構わず走りだした。またある者は激情に顔を歪め、突っ立ったまま赤子のように泣きだした。おだを上げ、怒り狂うものもいる。知らない人をいきなり殴りつけ、辺り構わず喧嘩を吹っ掛け出した男もいた。親から無理やり引き離された子供が泣き喚いた。
統率された空間が一転、カオスだ。そこにいた信者たちは、支えとするペドロ師を失くし、一気に理性を崩壊させてしまった。心理学に言う、集団ヒステリーの状態だ。これこそ魔女狩りが吹き荒れた中世ヨーロッパで、猛威を振るった集団心理の魔性である。
カリスマとなる一人の指導者が一気に喪われたとき、人は理解不能の獣と化す。そして辺り構わず破壊行為を始めるのだ。これが『舞踏病』と言われたのは、それが認知機能の崩壊を表しているせいだ。何をしていいのか分からず、しかし指導者が喪われた恐怖で何かせねばならず、混乱はまるで奇妙な集団舞踏と化すのだ。
「おのれ、ビダルめの差し金か」
虎千代は歯噛みをして悔しがったが、もはやビダルの姿を探すどころではない。
やられた。
僕たちこそ、またもビダルに踊らされたのだ。
「弥太郎っ、おるかっ!いたら返事をしろっ!早急にこやつらを取り押さえるのだっ」
虎千代の雷鳴のような声が響き渡る。荒れ狂う男たちを投げ飛ばし、乱れ飛ぶ手足をかわしながら虎千代は放胆にも壇上の射殺体に駆け寄ろうとしたのだが、さすがに人の波には抗えない。
鬼小島や黒姫たちもやむなく姿を現し、混乱の収拾に努めるが、一旦騒ぎ出した群衆は洪水のように荒れ狂い、手のつけようがない。何もかもが滅茶苦茶だ。
恐怖と混乱に駆られた人たちで、辺りは叫び狂う人、人、人だ。無数の足が地面を踏み荒らし、踏みつけられてぼろ切れのようになってしまった人たちまで出てきた。虎千代は人に揉まれながら必死に僕に向かって叫んだ。
「真人、早くっラウラを連れて壇上へ行くのだ。ペドロ師の遺体を回収してくれ。くれぐれも頼んだぞっ」
一体、どこから撃ったのだろう。ビダルらしき人影はどこにも見えなかった。この時点で今や手がかりは別人だと言う、ペドロ師の遺体しかなかった。でも虎千代まで悪戦苦闘してる中、どうやってあそこまで行く?
「何をしておる真人!」
まごついていると、叱咤と共に人垣が爆破されたように吹っ飛び、目の前が一気に拓けた。そこに、杖を持った綾御前がいる。無辜の人を傷つけまいと手加減する虎千代と比べると、まったく容赦なしだ。足の踏み場もない中でぶんぶんと杖をふるい、まるでゴミのように人を掃き飛ばしていた。
「早う、南蛮娘を連れて通らぬか。下郎どもの始末は任せておけい」
任せているとえらいことになると思ったが、背に腹は代えられない。僕はラウラの手を引き、壇上に足を踏み出した。
宣教師の遺体が棒のように伸びている。僕はその遺体を、ラウラと抱き起こした。
口の中に見えたが、弾丸は鼻の下から入り斜めに口の中を貫通していた。当然ながら狙撃はどこか小高いところから行われたのだ。この時代、狙撃に適したあまり高い建物はない。それはすぐに見つかった。
防犯用に設置された火の見櫓だ。あそこまでの距離は、直線距離で百メートル近くあった。当時の小銃の限界射程距離だ。僕は揺れる船の上に居る虎千代を、岸から狙撃したビダルのことをすぐに思い出した。僕は血の味のするほど歯噛みをしながら、そこを見上げた。
あの男はあそこにいたのだ。
あそこから、この宣教師を撃った。
間違いない。
僕の直感を嘲笑うかのように、その火の見櫓からは海外製の小銃が見つかった。黒いステッキのような形状をした、歯輪式の小銃である。ここで狙撃を行いメッセージを送った相手が誰かは、明白だった。
やはりビダルはここに、罠を張って待ち構えていたのだ。
本物のペドロ師は南蛮寺の床下から発見された。背後から咽喉を一発で切り裂かれ、死後五日以上経過していたと言う。狙撃された男はよく似た替え玉だったらしい。他のレディムプティオのメンバーがまったく気づかなかったにも関わらず、ラウラが一発で見破ったのはサヴァン症候群の異能のために他ならなかった。
南蛮寺は急改造され、何人も人が監禁出来るスペースが作られていた。しかもそれらには使われた形跡があったのだ。ペドロ師の遺体にも監禁の形跡があった。赴任してきたペドロ師はビダルへの協力を拒み、殺されたのだろうか。頑丈な木の格子のついた箱のような押し入れを見たときに、僕たちは殊更心を痛めた。拉致された真菜瀬さんもそこに、放りこまれていたのかも知れないからだ。
それからまた、手がかりが途絶えた。
懸命の捜索が続く中、虎千代がついにダウンした。不眠不休でずっと動き続けていたのだ。無理もない話だ。僕は虎千代の床上げまで寄り添うことにした。捜査は黒姫たちに任せた。
元気過ぎる綾御前とともに堺市内を回っているらしく、夜間に出入りする不審な船の話や、盗賊の隠れ家となっていると思われる得体の知れない場所の報告が毎夜上がってきた。あの南蛮寺の地下室から、人目につかない船着き場への道が発見されたので、黒姫たちは外洋を視野に入れ始めているようだ。
僕は黒姫から聞いた話をメモにとり、虎千代の様子を見て大丈夫そうなときだけ話すことにした。真菜瀬さんの安否を思うと、こうしているだけでじりじりしてくるけど、焦りは禁物だ。何しろ冷静にならなければ、あの老練したビダルを捕えることなどそれこそ出来はしない。
「蝉に混じって、秋の虫が鳴き始めたな」
と、虎千代がぽつりとつぶやいた頃、その長かった八月が終わりを告げようとしていた。堺にも数少ない青田がいつの間にか黄金色に色づいている。入道雲は空になく、薄くたなびく秋の雲だった。少しずつ、虎千代の身体は癒え始めていた。
小雨を孕んだ雲が、青空を薄く覆った秋口の日のことだ。ついに床上げが済み、虎千代は完全に体調を復活させた。ビダルに蹴り込まれた肋骨も、もはや痛みはないようだ。その日の昼に黒姫が戻ったときに、現況報告を聞くと伝言を頼まれた。
僕は珍しくひとり、外出した。
黒姫に会った帰りだったのだ。市を通ろうとしたら目の前を大きな板が横切り、急ぐ僕の足を留めた。どうやら夏祭りの片づけをしているらしい。まだ屋台にお面が残っていた。僕たちの時代のものとは違い、木製でひとつひとつ削り出した手作りだ。細工がきめ細かい。それでもあまり高くはないのだ。意外と僕はこう言う子供っぽいものが好きだった。
見とれていると、音もなく後ろに人が立つ気配がした。細長い影で、いつの間にか日が遮られている。
「そのままだ」
その声は、一言で僕の動きをそこに留めた。腹の底に蛇を飼われたように嫌な感じがびくりとうねった。
「長尾のお嬢さんを見ないな。彼女も元気でいるのかな」
いる。そこに。僕は振り返らずに、その名前を呼ぼうとした。
「名前は呼ばなくていい。お互いよく知っている仲だ。そうじゃないか?」
肩に手を当てられ、僕は覚悟を決めて振り返った。すぐそこだ。ビダル・イェーネヅクがこちらを、あの得体の知れない目で見つめて立っていた。それを見返す僕の目は、これまでずっとぶつけようのなかった憎悪に汚れていたはずだ。
「よくもっ」
「そういきり立つなよ、君に私は殺せないし、今は私にその気はない」
ビダルは微笑を口に含んで、やんわりと気配で牽制した。怒りに任せて飛びついていたなら恐らく、首を折られていただろう。ビダルは穏やかな口調で言った。
「そこで話そう。あくまで紳士的にね」
目のくらむような怒りと言うのは、こう言うときのことを言うのだろう。
「どう言うつもりだ」
僕は溢れだしてくるどす黒い気持ちを必死に押し殺しながら、それだけを問うた。
「それは何についてだ?私たちの要求についてかな?それとも私が今君と話そうと現れたことについてか?それとも、私がなぜ君たちの目の前で偽物の宣教師を狙撃したか、と言うことについてかな?」
相対してみると、もはや何もこの男と話したくはなかった。ここにナイフがあれば僕は間髪入れずこの男を刺したし、銃があれば僕は躊躇いなくそこで発砲しただろう。
「私を殺してやりたいか?気持ちは判るよ。だが無理だ。物理的にも、理論上もね。それ以上に、私を知りたいだろう。まるで、身に覚えのない危害を加え続けられているような顔をしているからな」
座れ、と言う風にビダルは自分が腰掛けた大木の丸太の横を開けた。僕はためらったが、やがて仕方なくそこに座った。僕が座るのを見届けると、ビダルは満足げに頷いた。
「今日は危害は加えないさ。なんの魂胆もない。ただ訊きたいことがあった」
ビダルは悠々と足を伸ばすと、ゆっくり話しかけてきた。
「まずこの前の見世物についてだ。中々見ものだったはずだ。気になっている。お嬢さんや君は、どう感じたのか」
「自分が仕向けたはずの替え玉を、あんたが撃ったことか?」
無言で、ビダルは頷いた。
「君はどう思った?」
「ふざけるな」
あんなの支離滅裂のこけおどしだ。僕たちの接近に気づいたなら、戦うか、こっそり逃げればいいのだ。
「あんなことして何の意味があったんだ」
「あるさ。あれで、よく分かったはずだ。あそこにあったもの。あれこそが、宗教と言うものの実体だよ」
ビダルは何かに止めを刺すように言った。それは激昂しかけた僕の心を脅かすのに、十分な威力を持っていた。
「『宗教は民衆のアヘンだ』と言ったのは、社会主義を提唱したカール・マルクスだ。それを元にロシア革命を指導したウラジミール・レーニンは『宗教は民衆の毒酒だ』と言い換えた。宗教と言うシステムの実体を捉えるなら、それを麻薬に喩えたマルクスの言葉の方が的確だ。見ただろう?人間が一人死んだだけで獣のように暴れ狂う民衆。狂気の沙汰だ。君が見た姿は、投薬を突然断たれたものたちの、急性的な禁断症状なんだよ。突然原罪を着せられ、楽園を追われた人間たちのヒステリーだ。宗教とは人間の思考や認知のシステムに、ぽっかりと空白を作ってしまう。まさしく、思考を放棄させるためのシステムなんだよ」
正直に認める。
憎むべき敵の言葉に、僕は一瞬愕然とさせられた。ビダルの言葉はある意味では、僕があのときあの場で感じたことの正鵠を射ていたからだ。あそこにあった得体の知れない恐怖は民衆を麻痺させ、自己破壊へ駆り立てた。人間社会の行く果てを示すいわば末期的な何かがそこにあった。だがこの悪魔は、どうしてそれをわざわざ僕たちの前に出現させたのか。この男の真意は汲めども尽きず、果てがない。
判らなかった。この男はいぜん何が言いたいのか?
絶望に似た思いで無言を守る僕に、ビダルの長広舌はとりとめもなく、続く。
「レーニンはなぜ宗教を論難したか。それは彼が痛いほど気づいていたからだ。あるカリスマが民衆を統率しようとする一つの思想も同じ仕組みを持っている。イデオロギズムと言うものの正体がこれだ。どちらも紛争地域では顔なじみの存在だよ。いずれも人と人が理性を失って殺し合う同業異種のシステムだ。指揮者や楽器が違うだけで、私たちはいつまでも同じメロディーを演奏し続けている。呆れるほど、繰り返し繰り返し」
ビダルはおどけたように両手を上げると、見えないタクトを振ってみせた。世界中に横たわる血みどろの戦場に響き渡った、悪魔の音階を。繰り返し、繰り返し。
「君たちがヘテロ師にたどり着いたと言うことは、私の素性を調べたと言うことだ。私はずっと、そんな世界で生きてきた。私に興味を持っただろう。だから、話しておく気になったのさ。君を消す前にね」
ビダルの手が閃いたので、僕は、はっと息を呑んだ。
ナイフじゃなかった。
そこに、厳重に栓をした、無色透明の液体の入ったガラス瓶が置かれていた。
「君の妹は、中々果敢なお嬢さんだったね。大切にしてあげるといい」
左目でウインクするとビダルはその瓶を僕に手に取るように、あごを突き出してみせた。僕は未知の恐怖を感じながらも、言われるままにそれを手に取った。
「君もあの子も度胸だけはある。だからただ殺すのもつまらなく感じる。困った癖だ」
ビダルはくすくすと笑うと、僕を揶揄した。
「さてそろそろ、残りの二つの質問に答えようか」




