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戦国恋うる君の唄  作者: 橋本ちかげ
Phase.8 ~決死の迂回作戦、確かめ合った気持ち、車懸りの正体
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桜の和談、姿を現した悪夢に判明した弾正の意外な本音とは…?

この日はやけに月の明るい晩だった。その夜、僕はやはり悪夢を見た。

例の首なし伝令の夢だ。

花咲き誇る桜の森を馬を駆り、奔る甲冑武者。冷えきった泥濘(ぬかるみ)飛沫(はね)を上げて黒鹿毛の馬が傾斜を降りてこちらへ向かってくる。

坂の頂上には満月が紅くくすんでいる。それがはっきりと見えるのは、こちらへ向かってくる武者にも黒鹿毛の馬にも、首が無いせいだった。戦場で見かけたあの姿よりさらにおぞましい。坂の下でなすすべもなく、僕はそれを見ている。赤く淀んだ月が、首のない影が迫ってくる姿を照らし出しているのを。

首のない身体が蠢くと、ぼろぼろになった旗印がほつれて、淡くはためく。手綱を引くその手は力強く、反対側の左手には(のこぎり)のように刃こぼれしてへしゃげた刀身を携えている。僕までの間合いはもう、二メートルもない。

意志なきはずの身体が剣を振り上げた。まるで生きている僕の胴の上についているその首を刈り取ろうとするかのように。あっ、と声を上げる間もなく、馬体が駆け違って行く。ささらのようになった刃が、僕の首に吸い込まれようとする。その瞬間だった。


「わっ」

短い悲鳴を上げて、僕は寝床で身体を強張らせた。

(い、生きてる)

しばらく本気でそのことが信じられなかった。思わず僕は手のひらで自分の首がくっついているか確認してしまった。咽喉に刃が当たった感触まで、リアルだったからだ。本当に夢で良かった。ちょうど寝床で、海老みたいに身体を丸めている自分に気づいたときだった。

「…な、なんだ。襲撃か。うう、せっかくよく寝ておったのに」

「ごめん。…て、虎千代…?」

気がつくと背を丸めた僕の身体の窪みに、ぴったりと小さな身体が入り込んでいる。まるでパズルみたいな密着度だった。顔は本当にすぐ間近だ。僕はあわてて虎千代の身体を突き離しそうになって、びっくりした。僕のちょうど手の位置に、その、胸があるのだ。

「いっ、いつ這入(はい)ってきた?」

「ずっと前からいたが」

眠い目を擦りながら、当たり前のように虎千代は答える。

「前の晩からって、寝る時から?」

「当然だ。目を覚ますのを待っていたのに。いつの間にか、わたしも寝てしまったではないか」

「と、とりあえず離れようか。その、色々と危険だから」

「つっ、突き離すな。布団が狭いのだ。寒いではないかっ」

腕を抜いて布団から出ようとすると、反対にしがみつかれた。うう、気がつけばこの布団の中に立ちこめる甘ったるい匂い。昨夜からいたのは嘘じゃないっぽいぞ。

「この間のことは、どうなったのだ。やっと、その気になってくれたと思っていたのに。あれから何もなくてがっかりしたぞ」

「や、やっぱり憶えてた?」

「当たり前だ。忘れてなるものか」

なっ、なんてやつだ。こっちはシリアス路線が濃くて、せっかく忘れかけていたのに。

「だが、この前は少し安心したぞ。お前が…その、わたしに興味がないのかとずっと思っていたゆえ」

「興味がないわけないだろ。だから、悩んでるんだって」

僕だって、年頃の男だ。これほど迫られていて、理性がぎしぎし揺らがされていることぐらい判る。

「では、今日こそ。その…殿方は朝の方が調子がいいのであろう?」

「わっ、わあっ、下に手を入れるなよ!」

ごそごそ、ひんやりした手が足の辺りを這う。何をする気だ。

「動くなっ。確かめるだけじゃ。朝はどうなるか、触ってみれば分かるらしいのだが、つまりどこがどうなるのだ?」

「それを僕に言わせる気かっ…て言うか、朝は特にやばいってだから触るなっ」

誰だこんな危ないこと、こいつに教えたのは。

「うーっ、いいではないか。減るものではなし。そろそろ教えてくれても」

何を教えろと言うのだ。威張ることじゃないが僕だって、その、初めてなんだぞ。

「…虎千代、お姫さまだろ。別に、そんな積極的に男のこと知ろうとしなくてもいいじゃないか」

「そう言う問題ではない」

虎千代は開き直って僕を見返した。こう言うとき顔は真剣だ。ちょっと涙目だし。ふざけてじゃれているのではなく結構一生懸命やってるから、始末に悪い。

「分からぬか。ひ、姫だとか、世継ぎを作りたいとかは関係ない。ただ…その、不安なのだ。いくさの前に確かめあっただろう。わたしたちはお互いの気持ちがあったはず。わ、わたしたちは好き合っている同士なのだろう?」

うう、それを持ち出されると。確かに、言ってしまった。自分は虎千代が好きだと。今でもその気持ちに偽りはない。だけどだ。いきなり行き着くところまでいっていいと言うことじゃないと思うが。

「あれからお前の方から何もなくて、嫌だったのだ。いつも通りではないか。…ふ、不安で仕方なくなる。わたしだって一応、女子ゆえ、お前のことだってもっと知りたい。心のことだけじゃなくて、その、殿方のカラダのことだって」

「かっ、かと言ってわざわざ朝、寝どこに入ってきてまで確認しなくてもいいだろ」

僕だって年齢相応に朝の機能は、ちゃんと働く。今だって、いつもの朝と違ってこんなに刺激が強い環境なのだ。

「わっ、分かった。朝は日も高いゆえ、本当はわたしも恥ずかしい。お前がその気になるのを待つことにする。…この前の晩みたいに」

「うっ」

聞き分けがいいと思ったら、なんてことを言うんだ。

「あっ、あのときのお前は良かったぞ。…すごくどきどきした」

顔から火が出る。と言うのはこう言うときのことを言うのだろう。

「うん、もうその話は止めよう。何か別の話をしようよ。その弾正のこととか」

「わっ、分かった。でも弾正のことより気になることがある」

良かった。話題を変える。虎千代がすぐに乗ってくれて助かった。

「お前、なぜうなされていたのだ。何やら苦しげだった」

「いや、ちょっと怖い夢見てさ。昼間にあったことのせいなんだけど」

そう言えば、虎千代には話してなかったんだ。僕は弾正との会談前にあの血震丸の砦で目撃した首なし武者の話をした。

「ふむ。まさか、あのときあの草原に本当に首なしの騎馬武者が現れたか」

僕しか見ていない。にも関わらず虎千代は、怪談話を否定したりはしなかった。

「まだはきとは判らねど、何か因果があるな。狗肉宗どもの残党がまだ潜んでいるとの、黒姫の報告もある。狠禎めの消えた生首とともに、これは早晩、ことの次第を明らかにせねばなるまい」

虎千代は一連の騒ぎを、狗肉宗の残党のせいだと考えているようだ。古人は迷信深い、と言うが、この件に関して言えば、虎千代はそうした怪談話を頭から信じたりはしない。戦場でこそ、こう言った合理的判断が求められるからだろう。この辺り、さすがは戦国大名と言ったところか。

「やっぱり…その、お化けじゃないのかな」

「もちろんそれも、否定出来ぬところだが」

虎千代は眉をひそめた。現代人の僕がそれを主張するのもどうかと思うのだが、昼間見た出来事について言えば、僕なりには何者かの作為は感じられなかったからだ。

例えば僕だけしか目撃していないと言うのも気になる。もし、首なし武者の脅威を与えたかったらもっと、目立つようにするだろう。

と、するとあれは本物の亡霊、と言うことになるが。

「そう、怖がるな。もしいくさ場の怨霊だとしても、かようなものはいくさには付き物よ。わたしもよう、死んだ者の影を見るぞ。気を確かに持てば、危害を加えてくるものでもない」

「そ、そう言うもんかな」

虎千代は信心深いのだが、死んだ人間の霊がすでに身近と言う、なんて言うか違う次元まで達しているような気がする。ホラー耐性どころじゃないな。どんな危険なスポットでも平然と肝試しにいきそう。

「あっ、でもわたしにも怖いものはあるのだ。何と言ってもわっ、わたしも女子ゆえ。妖怪とか、その、雷とかなっ」

嘘つけ。そのキャラづくり、前にも訊いたぞ。度胸に関して言えば、やっぱり豪傑並みの虎千代なのだった。


桜の季節がやってきて、僕たちは鞍馬山から下山する運びになった。

弾正が長慶公を呼び寄せて、早々に和議の日程を組んだのだ。先行した黒姫が弾正屋敷に長慶公が到着している事実を確認すると、虎千代は二十騎ほどを率いて、上京の弾正屋敷に出発した。

うす曇りの肌寒い日だった。季節の変わり目の気候の転換点で、俗に花冷えと言うのはこうした天気のことを言うのだろう。山を降りるしな、雨もぱらついた。風邪を惹きやすい、そんな気候だ。

とは言えのどかな春だ。

僕たちは馬を駆り、半月前は戦場となっていた山道を降りて来たのだが、もはやあの慌ただしさは面影もなく思えた。もちろんここがかつての戦場とは思えないと言うのは言い過ぎでよく見れば兜の残骸やそれらしい遺留物、激戦の爪痕もそこかしこに見え隠れする。それでも嘘のような静寂は、あの混乱と大音響が交錯する戦場に身を置いた僕としては、世界が一変したように感じるのだ。

「のどかだな」

行軍中なので虎千代は、答えなかったが僕のつぶやきに微笑した。虎千代は山桜の一枝を鞍の腰に差している。

やがて弾正の鶴翼が僕たちを待ち構えた川の洲に差し掛かった。

この辺りも一面、浅茅が原であり、今は淡い緑色の新芽が生えたての産毛のように広がって恵みの雨に濡れている以外は、影一つ見えない。行軍の気配を察してたまに藪の中を走り去るのは、野兎か、いたちの小さな影だ。

こうしていると、僕が首なしの騎馬武者を見た、と言うのも気のせいなのか、とすら思えてしまう。いくさはすでに終わったのだ。春とともに、すべてがゆっくりと復活して時間が動き出している。

何度も言うが、しかしのどかだ。さっきのことすら無かったら。と言う意味で。


いや、実は。

虎千代はこっそり去った後、僕の布団を片付けに来たのは最悪のペアだったのだ。

よりによって絢奈と黒姫だ。

「やっほー!お兄い、絢奈たちが来たからには今日は、寝坊はさせないのだ!」

「ちゃんと起きてるっての…」

「このお時間まで寝ているとは、困ったさんですねえ!虎さまはとっくに、お布団を片されておりますですよ!この黒姫が、お片付けする暇もないではありませんか!仕方がないので、お寝坊さんな真人さんの布団を片しに来ちゃいましたですよ☆」

虎千代は最初からここで寝るつもりだったから、昨夜から布団は片してあったのだ。とは口が裂けても言えない僕なのだった。

「ほら起きてるんなら、布団を出る出る!真菜瀬さんも心配してたよ、お兄い、やっぱり最近様子が変だって」

「…ほっといてくれよ」

この頃は妄想と後悔で眠れなかったのだが、今日は違う。本人がやってきて、ここへ一緒に寝ていたのだ。あれから僕が、余計悶々として眠れなかったことは言うまでもない。

「いまいち元気がない、そんな真人さんには、黒姫が飛騨の霊薬を処方して上げますですよ。今なら異様なほどに筋肉が充実して、疲れ知らずになるお薬を人体じっ…あ、いや、売り出し期間中なので無料奉仕しますですけども」

「僕で人体実験しようとしてるなら要らない」

僕は忘れていないぞ。狠禎との決戦のときに、黒姫が鬼小島で絶息丸の人体実験をしようとしたことを。

「そっ、そんなことないですよお、なんなら真人さんには他の部分が元気になるお薬も特別に処方して…んんんんっ、ああああっ、これはっ!?」

「いいって黒姫、布団ぐらい自分で片付けるからっ」

急いで言ったが、遅かった。布団を抱えて持ち上げた黒姫は、遠慮なく顔を埋めてすんすん布団を嗅いだ。なんと、すぐに気づいてしまったようだ。大分時間が経っているのだが、僕のものらしからぬ甘ったるい香り。

「ふっ…ふふふふふううっ…」

黒姫からみるみるどす黒い殺気が放射してくる。まずい。また、八方手裏剣を投げられるんじゃないだろうな。

「どうしたの、黒姫さん?」

「どっ、どうもこうもありませんですよお…こっ、このお布団の香り。わたくしがようく知っている方の悩ましい香りなのですよ。まっ、まさか何と言う…あああっ、誰かこの黒姫に何かの間違いだと言って下さいですよ。真人さん、これ、どう言うことか説明してもらいましょうですかっ」

「ええっ!?お兄い、虎っちと寝てたの!?」

ずばり言いやがった。さすが我が妹、寸分違わず最悪のコースを狙ってくる。

その瞬間だ。

黒姫の袖口からしゅばっ、と光るものがほとばしると、僕の喉元に鋭い何かが突きつけられた。あっ、これは見覚えがある。いつか拷問に使った猛毒ナイフだ。たっぷりと毒を塗った熊毛が生えてある。今もそれが塗ってあるらしく、刃は虹色の光沢を帯びて濡れ輝いている。

「この黒姫を出し抜くとは、いい度胸ですねえ。虎さまを夜這いするどころか、いつの間にか寝所に引き込むとは、さすがのわたくしも意表を突かれましたですよ。さあ、さっさと吐くですよ。虎さまのあられもない寝姿を、朝までお独り占めですか?あのかぐわしいお寝息をっ真人さんがお独り占めとはっ」

「そっ、そんなんじゃないって黒姫、危ないっ」

黒姫、猛毒ナイフを持つ手がぷるぷる震えている。

「…ほっ、ほおおおおっ、そこまでしらをお切りになるとは…もうあんなことやこんなことまで実施済みと言うことですか。目眩がしそうですけど、きっ、聞かせてもらうですよ!さっさと答えねーと目をえぐり出すですよ。いいですかっ、こっ、この黒姫ですら…虎さまと同衾なさることさえ、あっいや、虎さまの寝顔ですら間近で拝見出来たこともないと言うのに!ううううっ、血の涙が出そうですよ!」

「落ち着けって黒姫…昨夜は、あいつが勝手に入ってきたんだし、全然何もなかったから」

「ええっ、本当に何もなかったの!?お兄い、虎ちゃんに迫ったって真菜瀬さんから聞いてたのに!」

「しょっ、処刑し損ねた罪人がまだ、ここにおりましたですねえ!こいつは血震丸以上の悪ですよ!真人さん、覚悟してもらうですよっ」

「いやちょっと待て!それはデマだっ、黒姫に殺されるっ!本当に何もなかったんだって!」

説得には、小一時間を要した。幸いにも絢奈がいて助かった。黒姫一人だったら、確実に殺されていたところだった。

「わっ、分かってくれただろ。本当に虎千代とは何もなかったし、僕から迫ったって言うのも、真菜瀬さんの誤解だから」

黒姫は部屋中隈なく、それこそゴミ箱まで探索していたのだが、ようやく納得してもらえた。

「ふっ、ふうう…仕方がない。立件に必要な証拠(ネタ)も上がらなかったし、絢奈さんに免じてここは退きますですよ。黒姫も真人さんが類稀なるへたれさん…あっ、いや、法と理性を弁えたお方だと、信じておりますですよ」

へたれ。やっぱり、女子から見るとそう思われるのか。へこんだが、ここは大人しくしてないと、本当に黒姫に刺される。

「じゃっ、じゃあ黒姫はこのお布団を回収させて頂きますので!これは今日は天日干しする前に黒姫がお部屋で味わいますですよお。真人さんは、早く絢奈さんと朝ごはんに行ってくださいですよー」

黒い災厄が去った。今日も辛くも命を拾った。さて。安心してトイレに行こうとすると、今度は絢奈に裾を引っ張られた。

「待ったお兄い。絢奈の話もちゃんと訊く」

「なっ、なんだよ。お前も何もなかったって納得したんだろ」

絢奈は露骨なため息をついて、僕を睨み上げた。

「だ・か・ら、何もなかったって、それはそれで問題なんだから。妹として心配になるよ。このままだと虎ちゃんが、かわいそうじゃんか。せっかく忍んできたのに、まったくお兄い、どこまでへたれさんなのかなあ」

「う、うるさいな」

「うるさくないです!お兄いはせっかくもてた癖に、女の子に頑張らせすぎなんだよ。何よりお兄いのへたれが虎っちを傷つけてるんだから。分かるでしょ?」

強がってみたが妹とは言え、女の子に面と向かってへたれへたれと詰られると、さすがに落ち込む。

だけど、あのときもそうだけど虎千代と勢いでそう言うことしていいものか。何だか違う感じがした。言い訳になるかも知れないけど、だからそれから悩んでいるのだ。

「ほら、危険だと思った。虎っちだってなんかぼけっとしてるし。今のうちちゃんとしないと、本当に気持ちすれ違っちゃうよ?」

何より虎千代のために心配してくれているのだろうが、絢奈め、本当に痛いところを突いてくる。

「虎っちはさ、不安だって言ったんでしょ?わたしたち、好き合ってる同士なんだよね、って。それって結構、危険なサインなんだから。お兄いから行動を起こさないと、虎ちゃんだって嫌になっちゃうよ。そこ、分かってる?」

「う、うん…そうは、思うんだけどさ」

非常行動に踏み切るのはちょっと。この前、自分でも危険だと思ったし。

「ううううっ、そお言う煮え切らない態度…絢奈のお兄いじゃなかったら、殴りたい。殴りたいけど、虎っちが可哀そうだからお説教で済ませてるんだから。お兄いは、虎っちの不安だって気持ちにもっと危機感を持ってあげること!ちゃんと行動で示して、安心させてあげなよ」

「こ、行動か…」

と、言うのはやっぱり、いくところまでいけってことか。となると、やっぱり。

そんな僕を絢奈はじろりと睨みつけてくる。

「言っとくけど、えっちしろって意味じゃないからね。虎っちを安心させてあげるの。ただそれだけなんだから!分かった!?」

「は、はい」

ううう、ここでもまた、気持ちか。


でも考えてみると確かにそうだ。僕はこのいくさが始まる前に、虎千代に気持ちを伝えてしまった。

僕は虎千代が、好きなのだと。

それから彼女は何度か、僕にその心の不安を告げてきた。僕はその気持ちに十分応えてあげられているのか。素直に肯けない、あ、いやこれでいいのかと言うのが正直な気持ちだ。

虎千代からすれば、僕はそれを放置した形になっているのだ。だからああして虎千代は、お風呂上がりに迫ってきたり、寝どこに忍びこんだりと言う電撃的な作戦行動に出るのだと思われる。実際、すごく大胆なときもあるが虎千代は基本、恥ずかしがり屋だし、あれはかなり思い切ってやってるのだろう。

僕の責任は重い。

(でも行動で示せって言うけどな…)

虎千代は僕との仲を進展させたい、そう思ってるんだろうけど。と、なるとやっぱり虎千代の要求に応えて子作りしかないのか。いやいや、それは駄目だ。絢奈にも言われたし。黒姫にも間違いなく暗殺される。

退くも地獄、進むも地獄とはこのことだ。

誰か、助けて。


どうにか僕たちが京都に着いたのは昼前のことだ。

煉介さんが市内を逃げ回って弾正勢と激突してから、もうかなり経っている。戦国時代なので街はいぜん土塁や木柵を設けたりして自衛に努めているが、行きかう人々の表情に、あのぴりぴりするような緊張感はもはやない。街には平和が戻ったのだ。

「もはや、なんの懸念もないな」

虎千代は辺りの様子を道々眺めながら黒姫に訊く。

「はい、街は静かであれから暴動の気配もありませんですよ」

「上京周辺はどうだ」

「目立つ軍勢の集結は見られないかと。長慶公はわずかな手廻りのみで、弾正の京屋敷にいらっしゃっているようですよ。この黒姫の調べによると、御心配のような事態は起きにくいかと」

「うむ」

黒姫の報告を虎千代は、満足げに受けている。

上京の弾正屋敷も戦備の面影はすでにない。以前のような馬防柵は取り除けられ、築地塀も綺麗に洗い流されていた。まるで在りし日、煉介さんとともにここを訪れたときのようだ。煉介さんがいないほかは、何もかも元通りだ。

「よう来たな、お前ら」

入口から弾正自らが出迎えだ。びっくりしたのだが、これも僕たちに無用の警戒をさせないための、弾正なりの配慮と思われる。

接見には、虎千代の他に三人、僕と黒姫と鬼小島がつく。あの大きな外廊下を通って以前、案内された前庭に出たとき、僕は目を見張った。そこに無数に植えられた桜の木が一斉に、花を開いていたからだ。やっぱり桜の花が群れている風景は和む。この曇り空でも、ふんわりと空気の境目が桜色に霞むほどに、それはある種幻想的な風景でもあった。

「どうや、ここの桜は、ご当主のために手を回して大和から植え替えさせた古木なのや」

弾正は自慢げに言った。確かに晴れの日だったら、どれほど見事だろう。

「ご当主は、すでに奥の間でお待ちや。天気がこうやが、今日は花見をされておる」

弾正の言う通り三好長慶は、お花見をして待っていたようだ。護衛の見守る中、縁側の戸が開け放たれ、朱塗りの杯で酒を口に含んでいる長慶がひとり、そこにいた。

初めて会ったときのように青い素襖に、烏帽子を被った姿はいつでもきっちりと決まっている。僕たちを見ると、微笑を含んで軽く会釈をした。大家の御曹司らしい気品のあるその仕草もまったく変わっていないようだった。

「此度は御足労かける。長尾殿、この弾正めに代わって私からも詫びを申し上げる。せめて、この桜の花なりと楽しんで頂ければと思う」

虎千代は立ったまま、目礼する。

「これはこちらこそ、ご無沙汰しておりまする。これは確かに見事な桜。馳走、痛み入りまする」

席がすすめられ、僕たちはしばし桜を見ての歓談と言う運びになった。長慶は虎千代に自分の酒を勧めた。自ら飲んでいたのはもちろん、毒味不要の配慮だ。

「お恥ずかしい」

最初、長慶は今日を花見の趣向にしたことを言っているのだと、思った。曇り空の天気はやや荒れ模様だ。桜は低気圧の風で(なぶ)られるが、咲いたばかりでまだ花が落ちたりはしない。

「あれから長尾殿には、合わせる顔もござらなんだ」

将軍暗殺の件で弾正とは、すでに長慶が間に入り一度講和になっている。それが二度目の講和と言うことで、長慶もさすがにどう口を切るか悩んだのだろう。

「御配慮は無用にて」

と、虎千代もそれを分かっているか、微笑して杯を受け、長慶に返杯してみせた。

「我が家から逐電したもので、君側の奸がおりました。弾正殿はその男にそそのかされたのでしょう。もはや後顧の憂いはありませぬ」

虎千代の配慮が分かったのだろう。長慶は口惜しげに唇を噛んだ。そしてなんと裾を翻すと、座り直し、虎千代の前に平伏したのだ。

「申し訳ござらん。この通りでござる。我が力の至らざるところ、長尾殿にお助け頂いたこと、面目次第もない。喪われた命も数多ありましょう。私が頭を下げたところでどうなると言うものでもありませぬが、心底よりお詫び仕る」

これにはさすがに虎千代も面喰らったようだ。三好長慶はすでに畿内に大版図を持つ大大名だ。その男が、自らこうして頭を下げたのだ。

「頭をお上げ下され、三好殿。過去の遺恨は水に流しましょう。我らがなすべきことはこれでざっと済みましたゆえ」

虎千代は微笑しただけだった。元より長慶を責める気はない。その態度は実にこだわりがなく、恬淡(てんたん)としたものだ。

それから正式に講和がなされた。文書の取り交わしには、虎千代と黒姫が確認を行った。互いに熊野神社の起請文を提出したのはそのときだ。黒い(からす)の文様に覆われたこの起請文、戦国大名のラブレターに使われたりするが、本来はかたい約束を裏付けるために使うようだ。ちなみに江戸時代の遊女がお得意客に熊野の起請文でラブレターを書いたりするのも、こうした武家の風習を真似たものだ。

それにしても不穏な天気だ。このとき天気はさらに荒れ、どこかで雷の気配がし出した。外にも強風に雨が混じる気配である。ここで長慶は座を変えるように命じた。

案内されたのは、立派な能舞台だ。当時の大名の嗜みとして客をもてなすために、邸内にはこうした設備を用意していたりするらしい。そうしてお互いの家の催し物に招待しあうのだ。

僕たちが舞台に誰か登場するのを待っていると、甲高い龍笛の音が鳴った。そこに誰かが立っている。

鼓花だ。

無事だったのだ。僕は煉介さんと過ごした晩、この子と僕たちが住む世界の話をしてくれと頼まれたのを思い出した。口の利けない彼女は虎千代と僕の姿を見つけると、顔一杯に笑みを浮かべて駆け寄ってくる。

「無尽講社に無理を言って来てもろうたんや」

と、弾正は言い、長慶にもこの若き楽器の名手を紹介した。

「鼓花の身柄はおれが、責任を持って商人から買い上げ、身曳き証文も焼き捨ててある。これであの娘は自由や。どうか安心してくれ」

また筆談で話したのだが、鼓花は今、弾正の計らいで無尽講社に戻り、演奏の仕事をもらって自活しているらしい。こんなところにもようやく、平和が戻ってきたのだと実感する。これも、煉介さんが遺してくれた縁だ。僕たちは久しぶりにのどかな時を満喫出来たようだ。


さーっ、と降りしきる雨音の中、鼓花の龍笛の音が突き抜けるように響く。嵐の気配もなぜか、こうした音楽には最適の舞台効果だ。妖しくも妙な笛の響きに、(じょう)(じょう)、と情感深い虎千代の琵琶の音が絡む。

「うう…今日は琵琶は駄目だと言ったではないか。あの、三好殿、生憎なのですが我が愛用の『朝嵐』がないとどうも…」

とか渋っていた虎千代だが、事前に鼓花の登場を察知していた黒姫から朝嵐を渡されると、ようやく観念したらしい。真っ赤な顔で弾き出した。

いつもながら、惹きこまれる演奏だ。春の嵐と、ほのかな木の香が立ちこめる能舞台、こう言う、いかにもらしい場所で聴くと、身体の奥底から普段使っていない何かを手づかみで取り出されるような、不思議な気持ちになる。あの三好長慶ですら、茫然としてしまうほどだ。しかしそれでなんであいつ、人前で弾くのが恥ずかしいのだろう。

「悔しいがあのお姫さまの演奏は、神がかりや。あれほどの女がお前に惚れるとはな」

と、隣で見ていた弾正が、僕の胴を肘でついてくる。今日は厄日なのかこんなところでも、こんな人に、僕は虎千代のことで絡まれている。

「で?あのお姫さまとはどうなんや。もう寝たんか?」

ぶっ、と僕は口に含んでたものを噴き出しそうになった。

「演奏中に、なっ、なんてこと聴くんですか!そう言う質問には一切答えかねますっ」

「はははっ、照れんでもええわ。お前、こう言うのは、挨拶代りみたいなもんやで」

うう、酔っ払ってるのかこのセクハラ弾正。そう言えば一度に沢山の女性と寝るのが健康の秘訣、とか書いた無茶苦茶な健康ハウツー本を書き残しているだけはある。

「ええか、ああ言う女はな、一途やさかい、しっかり捕まえてな、毎晩ぐーっと可愛がってやらにゃあ、かわいそうやで。男ならばしっと決めんと。お前、度胸あるのにもったいないで。男はこう言うときも決断力やぞ」

うう、なんて答えていいか判らない。

でも男は決断力か。寝る寝ないは別としておんなじことを言われてる気がする。弾正の言うとおり、僕には決断力がないのかもなあ。ちょっとへこんだ。

「なんやお前、本当に悩んどるのか。ちょっと待てや」

と、弾正はごそごそと胸元を探る。

「なんなら、わしが使ってるええ薬紹介するで。これがあれば、一晩で六人は寝れる」

「結構です」

習慣が違い過ぎる。て言うかもともと精力絶倫な癖に、なんでそんな劇薬でさらにパワーアップする必要があるんだ。

「話を替えましょう。あの、一応この場に相応しい話題にして下さい」

僕が無理やり言うと弾正も気が抜けたようだ。大きく息をついて、

「詰まらんやっちゃな…じゃあ、ちっと真面目な話でもするか。この前の話」

虎千代の演奏に夢中になる長慶の様子をうかがいながら、弾正は言った。

「おれが、ご当主をいずれ殺すことになる。そう、話してくれたな。あれから何度か、考えてみた。…自分がどんな男か、それでもご当主を守っていける人間か否か、な」

弾正はぐいっと杯を干すと、この前の疲れた顔を僕に見せた。

「結論は出んかった。今、おれのすべてはご当主かも知れん。…だがおれはいざとなればおれは判らん。なんでもその場にええと思ったことに決断してしまう、おれは、そんな男や。思えば若いとき、ご当主に出会うて阿波へ同道したのも、そんなときでな。京で足軽大将をしていたのやが、おれはそのとき、仲間を棄てた。ある日突然な」

と、言われて僕はある人のことを思い出した。それが分かったのか弾正も苦笑し、

「そうや、あの煉介がお前らや足軽たちに無断で、ああ言う行動に走ったのも、おれがけしかけたせいなのや。おれには本来、本当に守るべきものはない。さればこそ、あいつらを棄て、ご当主に乗り換えた。ただそれだけなのや。煉介がおれを見限ったのも、そこを見透かされていたせいなのかも知れんな」

「弾正さん…」

心底寂しそうな顔をする弾正に、僕は一瞬かける言葉を失った。

そのとき僕は何となく、そのことが分かった。

この男は、本当の意味で天涯孤独なのだ。例えば斎藤道三、宇喜多直家。戦国で梟雄と言われる裸一貫から国を盗ろうと野望に燃えてきたような、そうした人たちに共通するものなのかも知れない。これは織田信長や徳川家康や、それに虎千代みたいに大勢の親類や家臣から超絶して、自らある意味孤独な存在になったのとはまた違う。初めから孤独に生まれ、今もその壁の中で戦っているのだ。

「なっ、お前なあ真剣に聴き過ぎや、阿呆」

僕の暗い顔の意味を察したか、弾正はあわてて相好を崩した。

「お前までそう暗い顔するなや。人間三十七年も生きてりゃ、おのれに言わんでも自分のそう言うところはよう分かっとる。何度も痛い目にも遭うてるしな。だがな、そう言うことをお前みたいな奴に言われたのは初めてやった。それで話す気になった。ただ、それだけや」

「すっ、すみません。何か、気を遣わせちゃったみたいで」

ふーっと息をつくと、弾正は苦笑した。

「ええのや、おれが勝手に話すだけやさかい。しかし不思議や。お前に話して楽になるとはのう」

しみじみと、弾正は言う。煉介さんのこともあるのに、この人も憎み切れはしない。複雑な気分だった。もちろん質の違う孤独だが、僕にだって共感できる部分はあったから。

舞台では龍笛と琵琶の絡みが佳境になる。二人とも技巧の極致だ。雨が激しくなり、吹きこんだ雨が袖を濡らす。鼓花などは髪から滴を垂らして踊るように、吹き狂っている。そのさますら、あえて凄まじく美しいほどだ。

彼方で轟く雷鳴が響き、地を揺るがした。

どよめきは怒号になり、青い雷光が激しくほとばしった。

まさにそのときだ。

どーん、と言う場違いな衝撃音を僕は訊いた。雷がどこかに落ちたのか、もしかしたら木が倒れたのかも知れない。最初はその程度の認識だった。

「阿呆、見いっ!」

弾正の怒号が僕を我に返らせる。その間にも、どん、と言う衝撃音。僕はその正体を知って思わず身を震わせた。

舞台上、それは床に刺さってどろどろと燃えていた。

火矢だ。

雷鳴に乗じて何者かが、火矢を射かけたのだ。虎千代はそれを察知すると同時に鼓花を抱え、舞台袖に落ちようとしている。その間にも火矢は油臭い匂いと黒煙をぶすぶすと立てながら、五月雨のように注ぎ込んできた。

「敵襲やあっ、おのれえいっ、誰ぞ出会えっ」

弾正が金切り声をあげて叫んでいた。敵襲はこの男も予期しなかったことだと、僕は直感した。では、誰が?

「ご当主っ」

足元に刺さる火矢をものともせず、弾正は長慶を救った。その捨て身のさまは、さっきまで迷っていた弾正からは想像もつかない俊敏さだった。

「小僧、お前、とっとと虎姫のところへ行かんかっ」


一体何が起きたのか。

僕は混乱し、しばらく自分がどうしていいのかすら判らなくなった。敵襲だって?敵襲?血震丸たちはみな、死んだのだ。この上、誰が襲ってくる?一瞬、頭が空白になった。敵に心当たりがないことが。それほどの混乱になった。

それでも、気がつくと僕は虎千代の刀をもって駆け出し、矢の降りそそぐ能舞台へ上がっていた。

「真人っ、来るなっ!」

虎千代の怒号が僕を我に返らせた。

「で、でも虎千代、武器が」

「大丈夫だ。この分ではまだ寄せ手は遠い」

彼女は鼓花を庇って身を伏せているが、武器は脇差一本だ。

「黒姫っ、弥太っ、無事か!状況告げえい」

黒姫も虎千代のところへ駆けつけようとしている。鬼小島は軍勢に急を求め、飛び出したようだ。黒姫はぶすぶすと音を立てて燃え始めた舞台そでにいち早く取りつく。

「この雷鳴に乗じて敵襲の模様!敵は…いまだ判りませぬっ」

「血震丸めの残党かっ」

虎千代は歯噛みをした。完全に油断を突かれた。

「戸板を剥がして持って来ますですよっ、虎さま、それまでしばしお待ちに」

「その必要はない。鼓花、走るぞっ」

虎千代は飛び出した。まったくなんて無茶な奴だ。燃え盛る火矢が降り、不穏な黒煙に包まれた能舞台を、虎千代は鼓花と走り抜けた。どろどろと燃える矢が、走る彼女の袖に刺さり、足元に突き立ったが、虎千代は平然としている。

「黒姫、私見でよい。申せ。どう言うことだ?」

黒姫も驚愕で目を剥いている。ふるふると首を振った。

「ううっ、この黒姫をもってしても判りませんですよ!この軍勢、まるで地に降って湧いたようなのですよ!」

確かに黒姫たち軒猿衆は、屋敷内を固めていた。この屋敷だって外敵を許さない警備態勢を敷いているはずなのだ。

「長尾殿、ご無事か」

長慶の声だ。彼も弾正に匿われ、僕たちに合流しようとしていた。

「訳がわからん。もはや血震丸たちはおらん、解散した軍勢には十分に褒章を払ったし、恨みに持つ奴はおらん。誰がこんな」

「ともかく襲撃だ。当方は完全に虚を突かれた。弾正、迎撃の人数を集められるか?最悪の場合には、長慶殿を連れてここを落ちることを考えねばならん」

「そ、そうやな。お前らも逃がす手はずは整える」

虎千代も弾正を疑っていないようだ。二人は同じ顔をして頷いていたからだ。弾正は胴丸を着こむと槍を持って来させ、僕たちを案内してくれた。敵兵に警戒しながら僕たちが、何とかさっきの濡れ縁まで至ったときだ。

「お嬢、駄目だっ、外を見ちゃいけねえ!」

鬼小島の怒号が虎千代の身体を強張らせる。しかしもう、遅かった。見てはいけないものに、僕たちは遭遇してしまったのだ。

そこにあったのは胸が悪くなるような光景だった。

「まさか…そんな馬鹿な」

虎千代もさすがに顔を引き攣らせ、色を失った。

満開に咲いた桜の木を縫って、黒い軍勢が迫ってくる。十騎、十五騎、黒毛を植えた甲冑の着込んだ狗肉宗の戦士たちだ。

しかしこの連中には、首が無かった。

あるべき場所にひとり残らず。武者たちは首を喪っていたのだ。扁平になったその姿は見るだに吐き気を催させられる惨状だ。それらがなんと孵化した蟹のように現れて、硬い甲羅を構えて、声もあげずにじりじりと迫ってくる姿に誰もが絶句した。ぼこり、ぼこりと、不気味な音がする。それを見て恐怖が倍加した。なんと彼らは桜の植わった土の中から、這い出てきたのだ。

あるものは腕もなく、片足を失くして引きずっているものもいた。

ぼろぼろの刀を構え、あるいは折れた槍にすがっているものも。

それらがぐずぐずとまだ、傷口から血をにじませて。

生者に無言の恨みを訴えるようにざりざりと迫ってくる姿を見て、普通の精神力のものなら発狂していただろう。

「…悪夢や」

弾正などは放心したように目を剥いてつぶやいた。絶息丸のことを知らない彼や長慶は我を失っても仕方がない光景と言えた。いや、それを知っていた僕たちにしても、まったく受け入れ難い事態だったからだ。

「これほどなのか…絶息丸とは」

虎千代が問いかけたが、黒姫も驚愕しすぎていて答えられない。黒姫が解明したと言ってもあの薬には、まだ知られていない可能性が大きすぎる。絶息丸で覚醒した身体の凄まじさは知っていたがまさか首を喪っても、まだ動き出そうとは。

「黒幕めは、狠禎(がんてい)であろう」

虎千代は言った。心当たりはあったが、それがまさかこんな最悪の的中をするとは。

「あやつの首はなくなったのではない。あやつは生きていたのだ」

誰もが息を呑んで、その可能性を認めざるを得なかった。あの男はまだ生きていて、文字通り死兵を率いて、地獄の復讐を企ててきたのだ。

「お嬢、とにかく逃げて下せえ。ここは、おれたちが命に代えても支えます」

鬼小島も心なしか、顔色が青ざめている。虎千代は無言で首を振った。

「みな、気をしっかり持て。ここで負けるわけにはいかぬ。あやつは、我らで討ち取らねばならぬ」

「あれを斃すのか」

弾正たちは脂汗にまみれ、まだ悪夢冷めやらぬ顔のままだった。

「やるしかあるまい。とにかく、態勢を立て直すのだ」


死を認めない兵士たちは、こうしている間にも続々と姿を増してきている。弾正は蒼褪めていたがとにかく味方を宥め、長慶を守る準備を整えた。虎千代も二十名の兵士たちを配置し、素早く迎撃の準備を整えた。こんないくさは、彼にとっても初めてだろう。

「奴らの弱点は黒姫によれば、火よ」

と、虎千代は僕たちを鼓舞しながら言う。

「この屋敷は幸い、火付け油がある。それらをまず確保せよ。落ち着いて対処すれば、勝てぬ相手ではない。あれは怨霊になく、ただの人間だ。恐れず戦うのだ」

さすがは虎千代だ。あんな恐ろしい目にあったのに、一瞬で態勢を立て直した。てきぱきと指示を下し、自分も僕を連れ、菜種油のある納屋へ向かう。

「最悪の場合、ここは火の海になる。真人、お前はわたしの傍を離れるな」

「う、うん」

僕は頷いた。やはり屋敷に火をかけるか。

僕たちはこの瞬間までは、どうにか気持ちを立て直せていた。しかし、忘れていた。死んだはずのものが蘇ることの、本当の恐ろしさを。

「あ、あれだ」

「真人、落ち着け」

僕は思わず駆け出していた。恐怖で気持ちが上ずっていたのかも知れない。菜種油を保管してある納屋を見つけ、どうにか反撃が出来ると思ったのだ。しかしそれが甘かった。僕はおかしいと感じるべきだったのだ。なぜか、油の保管庫の扉に鍵が掛かっていなかったことを。

音もなく戸の蔭から滑り出した何かに、僕は気づかなかった。軽く、押し戻された。そう思った瞬間、肩先に冷たい痛みを感じた。みるとそこに細く研ぎ澄まされた刃が突き刺さっている。

「うううっ…」

ついで来たのは焼けるような激痛だ。誰かが僕の左肩を刺した。剣が深く、刺さった。納屋に誰かが隠れていた。そいつが戸を開けざま、刃を出して僕を刺したのだ。

「なんだ小僧か」

聴きなれた甲高い声を、僕は訊いた。それはくぐもって聞き取りにくくなっていた。まるで土の中に潜んでいたように。

(まさか)

荒れ野のように振り乱れた髪を、僕は見た。土に埋められたまま朽ちかけた、ぼろぼろの水干も。

暮坪道按(くれつぼどうあん)、死にぞこなったか」

刺すような虎千代の声が降った。そうだ、道按だ。椿森の坂で虎千代に斬り殺されたはずの。

「ああ、その道按よ」

身体が真っ二つに裂けたはずの男は、声を立てて笑った。そのたびに、ごぼごぼと割れた肺腑が鳴る音がした。道按はおかしくて堪らないと言うように、言った。

「冥途に持ち込む土産を二つ、忘れていたわ」


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