月下の和平会談!未来予知を望む弾正の心の奥底とは…?
松永弾正の側に犠牲者の遺体や遺品を送り返した上で、直江景綱は講和のタイミングを一ヶ月と見た。その間の相手方の動きを見れば、こちらの出方も自ずと決まってくるだろうと言う方針だ。と言うわけでまだしばらく、僕たちは鞍馬山のみづち屋に滞在させてもらう生活だ。
ちなみにその間は、明けても暮れても土木工事が予定されていた。戦場と化した鞍馬山の山野の跡片づけや破壊された民家の修復、営業再開を急ぐみづち屋の復旧など、毎日目まぐるしいほどの大忙しだ。真菜瀬さんが社長の蜜火さんに直談判して、宿泊料は持ってもらえることになったが、戦士から人足と化した長尾勢を切り回すのに、直江景綱とこのえは連日徹夜の激務をこなしている。
「ちっ、なんでえ。いくさが終わっても、ちっとも落ち着かねえや」
ぶつぶつ文句を言いながら丸太を担いでいる鬼小島だが、夜はみづち屋の大宴会場を貸し切って、人足たちと終日大酒飲んで騒いでいたりするから性質が悪い。
しかし鬼小島がそうやって憂さを晴らすのも大きないくさが終わって、心に空白が出来ているのを紛らわすためのようにも思える。
僕も暇ではないが、例えば修復工事が雨で中止になってやることがなくなると、一日ぽーっとしていたりする。
「何を、埒もなきことを」
虎千代はそんな人たちの様子(主に鬼小島たち)を見ると、一つ言葉のように叱りつけている。
「よいか、まだ、勝ったわけではないのだぞ。我らは敵を追い払っただけで、目的とした何も得てはおらぬ。勝ったと立ち騒いだり、気を緩めるは禁物ぞっ、まったくたるんでおるっ」
黒姫の様子を見るとまずは、虎千代は一刻も早く御曹司を朽木谷に帰そうと奔走しているようだ。そのためには何より、弾正との和議が成立することが一番だった。
「まだいくさがあるやも知れず。三好長慶公の斡旋で弾正の和議がなるまで、油断はならぬ。分かったら昼から酒など食らわず、作事普請のない日は武具の手入れをせい」
みんなはそうやって虎千代にどやされていたが、あいつはなぜか、僕のところへ来てがみがみ怒ったりはしなかった。いや、うすうす僕のところに来ない理由は判っている。僕だけはぽーっとしている理由の半分はみんなと、まるで違ったからだ。
(本当に危険だった)
あの夜の僕なら、今頃行き着くところまでいってただろう。雰囲気や成り行きと言うものは、まったく馬鹿に出来ない。実際そうやって、出来ちゃった婚しちゃう人もいるのだし。ああああっ、本当に危なかった。あのときの僕、何を考えてたんだ。直江景綱の養子になるどころじゃないぞ。まかり間違って、あれでお世継なんか出来ていたら、上杉家は謙信の後の代でばらばらになってしまうだろう。
そして。
と言うのはただの建前で、
(本当は、お前が度胸がなかっただけだろ)
と、僕の心に、根強く主張するやつがいる。
(あれは、絶対やれたぞ)
ううううっ、我ながら、なんて下品な主張をするやつだ。自分で自分に呆れる。大体、虎千代に対しても失礼じゃないか。ただ衝動に任せて、その場の欲望を満たそうだなんて、ありえない。僕はもっと純粋に、あのいくさを通してあいつと強い心のつながりを確かめあったはずなのだ。あの夜の僕と本当の僕とは違う人間なのだ。
するとまた別のやつが言う。
(いや、その場の欲望だけなんかじゃない。ちゃんと、お互い好きなんだからいいじゃないか。あそこで、やっちゃえばよかったのに)
(そ、そうはいかないってのっ!)
僕の中で理性と本能が激しく戦っている。
本能側の援護射撃はいちいち強烈だ。
眠ろうとしたり黙ったりしていると、全然関係ない時でも、はっきりとあの夜の情景が目に浮かぶのだ。薄暗い明りの中で、密着した女の子の火照った身体。
まるで作り物のように潤いと輝きを帯びてぴんと張った虎千代の肌。息が詰まるような花が陽に蒸れたような芳香がした。生温かい、吐息の気配。密着した僕の手が、際どいところを進み、まだ闇が隠してくれている部分に落ちていく。かなり不埒なところを触っているのに、虎千代の、優しく潤んだ女の子な眼差し。
(あああああっ、誰か僕の記憶を消してくれ)
このままだと、一か八か絶息丸を飲んで人間以外の生物に生まれ変わりたくなる。
大体、虎千代だっていつもと違った。確かに僕より突っ走るやつだけど、まさかあんな形で迫ってくるとは思わなかった。あれは反則だ。誰から教わったのか絶対あんなの、初めての女の子の迫り方じゃなかったぞ。
結局夜通し悶々としてしまった。
布団の中でもがいていると、いきなり戸障子が開いた。
「まっことくんっ!おっはよー!!」
「うわあああっ」
真菜瀬さんだ。もう朝らしく、外はすっかり明るくなっている。以前にも書いたと思うが、この時代の人は信じられないほど朝が早いので、日が高くなるまで床を上げないと寝坊扱いされるのだ。
「まっ、真菜瀬さんっ、いきなり何するんですか!まぶしいじゃないですか…」
「まだ寝てたの?お寝坊さんは三文の損ですよー!」
と言いつつ雨戸やら襖やらを開けて回る真菜瀬さん。まるで、容赦なしだ。まだ眠い、って言うか寝た気がしないのに。外の光がまぶしくてだるい。僕はみの虫のように丸まってしまった。
「大丈夫?早起きは慣れたんだと思ってたけど」
「なんか、眠れないんですよ、最近」
「ほうほう、悩み事があって眠れないと」
頭がふらふらする僕を、真菜瀬さんはなぜかとても楽しそうに覗きこんでくる。
「…なんですか一体」
「ふっふっふっー、女の子のことで悩んでいるなー、青少年」
「なっ、なんでそれをっ」
「お年頃の男の子が考えてることくらい分かるって。真人くんはお姉さんが何年、この仕事してきたと思ってるのかなー?」
す、鋭い。さすがはプロ(?)だ。いや、て言うか虎千代にあの迫り方を伝授したのは、真菜瀬さんじゃないか?
「まあ、真人くんも男の子だってことだよね。今までちょっと心配だったけど、安心するんじゃないかなー、真人くんが虎ちゃんについにそう言う態度を取ったってことも」
「…そんなものですか」
素直にそう言えないだけ、邪念があったと思えるが。い、いや待てよ。
「真菜瀬さん、なんでそのこと知ってるんですか?その…僕と虎千代の間に何か、あったかも、とか言うことを」
「え?ああー、それはほら、女の勘って言うか。虎ちゃんも真人くんとおんなじ感じで寝不足っぽいし!」
うう、なんかどうも怪しい。みんなに筒抜け、なんてことないだろうな。
「大丈夫だよ、真人くん。拒まれても、自信持ちなよ!女の子って嫌がっても、嫌じゃないときあるんだから!」
「ぼ、僕から迫ったわけじゃないですよ!」
どこかで誤解が蔓延してないだろうな。
そんなわけで、虎千代に鞍馬山山中の普請場へ呼ばれたときはどきっとした。確かに決定的なことがあったわけじゃないけど、なんか気まずい。あれから確認していないけど、虎千代はあの夜については、どう思っているのだろう。
山道では塹壕を埋め戻したり、罠を回収したりと言う作業が行われている真っ最中だ。鬼小島たち力士衆がもっこで土砂や岩石を運んだりしている。丸太で組まれた急ごしらえの山小屋にいたのは、虎千代と黒姫、それに直江景綱だ。
「よく来てくれたな。真人、まずはこれを見てくれ」
と、書状のようなものを渡してくる虎千代。全然いつも通りだった。うう、虎千代の方から迫ってくるのはいつものことだったし、そのことを変に意識してるのは、僕だけだったと言うことか。
「ついに弾正から書状が来たですよ。講和の条件について、まずは当事者同士で膝を詰めて話をしたい、と。何を考えているのか、向こうは、なぜか特に、真人さんを御指名なんですよ」
「僕が?」
黒姫は書状の宛名を指す。なんと、そこに虎千代の名前の隣に『成瀬真人殿』。僕の名前も書かれていたのだ。
(まさか)
僕は息を呑んだ。松永弾正久秀が、虎千代とともに、あえて僕を指名した。一体、どう言うつもりなんだろう。
「真人、お前、弾正と長く過ごしたであろう。もしかしてあのとき、何かあったのか」
と、虎千代が水を向ける。
「う、うん。何かあったか、って言われてもあのときは…」
僕も必死だったので、話した内容一つ一つのことは、ほとんど憶えていない。だが確かに僕は二度、弾正と会談している。撤退を掛けあいに、本陣から引き返す弾正を松鴎丸と迎え撃ったとき、それから贄姫に捕虜に取られたとき。こちらも相手を本気にさせようと思ったので、僕自身、あの弾正が隠し持つ心の琴線に触れようとしたことは認める。
「…実は、三好の御大と連絡が取れないのですよ。わたくしたち軒猿衆も、手を尽くしてはいるのですが」
「長慶公も御曹司に負けず劣らず、畿内では最重要人物だからな」
と、黒姫と虎千代は揃って難しい顔でため息をつく。
「松永勢を追い返したとて、この講和は長くは続かないでしょう。再び新たな政局を迎える前に何とか、三好のご当主と連絡をつけ、御曹司の身の安泰を図りたいものです」
「頼みは長慶公と直接、つながりを持つ弾正を当たるしかあるまい」
何かを期待するように、ちらりと僕を見る虎千代。
「だっ、弾正を調略するの?」
無茶だ。これから講和に持ち込もうとしているその相手に、長慶公出馬の斡旋を直接頼むなんて。しかも僕が?
「ここはやはり、真人殿に頼らねばなりますまい。先方もわざわざ指名するからには、そこに何か要求があってのことと思わざるを得ませぬからな」
「うむ。あの正体のない男を捉えるのは、わたしや黒姫では手に負えぬ。ここはお前の調略の手腕に賭けたいと思う」
「頼みましたですよ、真人さん」
「うう…分かったよ」
三人のプレッシャーが痛い。だがここは、やるしかないのだろう。
「そう気負う必要はない。身の安全は、わたしが保証するゆえ」
と、虎千代は会談の後に僕に言った。
「しかし、わたしにも判らぬ。弾正の奴め、真人に今さら何用があるか。あやつのすることばかりは読めぬ」
虎千代は首を傾げたが、僕には何となく同じ男として弾正のことは分からなくもないと思うところはある。たぶん、彼女のような真っ直ぐな人間には判らないだけだ。僕がこの五百年前の世界で出会った松永弾正久秀と言う男は、今まで僕が思っていたより、よっぽど複雑な事情を抱えて生きているのだと言うこと。
弾正は夕暮れの宴席を望んだ。場所は虎千代の自由でいいと言う。そこで選ばれたのは、近々取り壊しが決まっている血震丸の根城である。知っての通りここは元処刑場であり、出来れば、あまり夜に立ち寄りたくない場所なのだが、
「あの十六人の首供養をしなくてはならぬ。それから、弾正を迎えたい」
と、虎千代が言うので、まあここは仕方ないと思うしかない。確かに悲惨なことがあったがしっかりと供養すれば、祟りなんかはないだろうとは思うし。
僕たちは昼下がりに連れだって、解体工事の進む砦に入った。
そこにはすでに首塚が築かれており、黒姫が近在のお坊さんを雇って供養の準備を整えているところだった。
「あっ、来ましたですね。ちょうど始めるところですよ」
黒姫が僕たちの姿を見つけて、不謹慎にも気楽そうに手を振りながら寄ってくる。その黒姫から、虎千代は供養を行う首の名簿を見て首を傾げている。
「ついに知切狠禎めの首は、見つからずじまいか」
「はい。今も手を尽くして捜してはいるのですが、いまだ行方が知れず」
僕も確かに見たのだが、あの狗神の首の行方は杳として知れない。あのときは絶息丸のこともあり、もしかしたらまだ生きているのではないか、と言うとんでもない憶測をしたが、虎千代たちはもっと現実的に狗肉宗の残党が持ち去ったのではないかと言う説を採っているようだ。
「真人さんの憶測も確かにもっともですが、狠禎でなくとも戦場にはそう言う怪談の類は付きものですしねえ」
「うむ。わたしもよく訊くな。町辻を戻れなかった戦死者の群れが凱旋したり、黄昏時に、誰もいない戦場跡で首なしの伝令が本陣を求めて馬を駆っていたりなどな。父や新兵衛が昔、ひとつ話にそう言う戦場の怪談をしてくれたものだ」
「や、やめようよ。それ怖すぎるから」
虎千代もさりげなく、恐ろしい怪談を口にするな。二人とも生死の境に立つ世界で生きているせいか、僕たち現代人とは怪談に対する免疫が違うようだ。
夕暮れに近づき、昼の光が淡くなる日暮れ前を黄昏時とするのだが、これはいわゆる丑三つ時と並んで古来から怪異のある時間帯とされたようだ。逢魔ケ刻と言い、神経のバイオリズムが微妙に狂う時間帯なのか、江戸時代の怪談集にも、当主が錯乱したりするなど刃傷沙汰が起きやすい頃とも言われる。
さんざん虎千代たちが怪談話でおどかしてくれたせいか、僕はこの日、怪異を見た。供養の読経が終わり、ひとり外へ出て休憩していると、野原の果てからかすかな馬蹄の轟きが聞こえてきたのだ。
最初は弾正からの使いかと思ったが、それは違った。ただ一騎、旗印もない武者は、根城の真横を通り過ぎていったのだった。近づいたにしても距離は二十メートル近い彼方だった。それでも、馬の嘶きや、かちゃかちゃと鎧の小札が揺れる音は聞こえたし、その姿は、はっきりと僕の目にも確認出来たのだ。
淡い夕景に草を分けて駆け過ぎる武者一騎。僕は目を疑った。その武者には確かに、首が無かったのだ。よく見ると破れた肩鰭や矢の立った草摺り、ぼろぼろの格好でいかにも今ちょうど戦場から迷い出てきた風だった。
いくさはとっくに終わったはずだ。なのに馬の首につかまった武者は首のない身体を低くし、まるで降りそそぐ矢玉を避ける戦場の伝令そのものの姿で奔っていく。そいつはいかにも先を急ぐ風に砦の眼前を駆け違うと、瞬く間に野辺の果てに消えた。ほんの数分の出来事だった。
僕は背筋に冷たいものがざわっと駆け過ぎるのを感じた。首供養も終わったのに、生きているものの意図など関係ない。この野辺にはまだ、いくさが終わったことを認識すら出来ない御霊がいつまでも、さまよい続けているのではないか。
弾正が現れたのは、すっかり陽が落ちてからのことだ。護衛を数騎、連れていたが、武装と言うほどではなかった。すでに勝敗は決している。その物腰からは明らかな戦意や敵意が感じさせるものは感じられない。
「久しく。長尾虎千代殿」
弾正もさすがに甲冑姿だが、兜はない。髪を整え、烏帽子を被っている。虎千代に言葉少なに挨拶を述べると、傍らにいる僕にも会釈をした。
「…どうやら、我が意を汲んでくれたようやな」
「元より、真人には同席を願うところであった。これが和議を開く条件とは不可解だが、何か底意あってのことなれば、容赦はせぬぞ」
「おいおい、そう殺気だつなや。和議やて、もうすっかり戦う気はないわ」
虎千代の厳しい態度に、弾正はあわてて手を振り、
「小僧とは、話し足りんことがあっただけや。ただ、二人きりで頼む。見張りはつけてもろうて構わんゆえ」
「その話は追々するとしよう。中へ」
野陣だが、酒席がすでに設けられている。虎千代は弾正たちをそこに案内した。弾正と連れだって来たのは、あの岩豊と言う武者一人だけだ。この人は僕を憶えていたのか、通りすがるときにかすかに会釈をした。
弾正は手酌で、水で薄めた濁り酒を数杯立て続けに煽ると、率直に話し始めた。
「すでに知ってることやも知れんが、一応言うておこう。もはや手廻りを除いては、軍勢は解散した。軍勢の大半は、三好の実休やご当主のところに戻してある。今頃ご当主には、こたびの経緯、余さず耳に入るやろう。御曹司の無事はまず、おれが保証する。で、今、おれが駐留する京都のことやが」
「立ち退きは無用。我が望みは、御曹司たちの身の安全ゆえ。それが確保されれば、木曾義仲にあらぬゆえ、都を領することなど考えぬ」
虎千代は堂々と言った。領土的野心を持たないいくさなど、当時考えられないことだが、今回の虎千代はまさにそれだ。さすがの弾正もこれには目を丸くしていた。
「あんた、相変わらず不可解な姫やな。これほどの大いくさを起こして、目的はその御曹司の身、一つと言うか」
「お前に理解は求めぬ。おのれらと違い、我は御曹司に頼られ、義によって力を貸したまで。されどこの上、幼き御曹司を害する腹積もりなれば我ら幾たびでも兵を挙げる。ただそれだけのことよ」
「木曾義仲やのうて、さしずめ楠正成と言ったところか」
弾正は肩をすくめると、あっさりと頷いた。
「肝に銘じておこう。あんたを怒らせると、怖い。そのことはよう、分かったさかいにな。もうあんな、訳の判らんいくさはごめんや」
弾正はこれで、虎千代、いや上杉謙信とのいくさにはほとほと懲りたには違いない。
ちなみにこの二人には話さなかったが、歴史は繰り返すであり、天文二十二年(一五五三年)、永禄二年(一五五九年)と虎千代は二度、上洛を行うことになるが、いずれも弾正とはいくさになっていない。このとき虎千代は、弾正から見れば三千人足らずの寡兵だったにも関わらずだ。ひそかにこう言うことを考えるのも、タイムスリップした日本史好きの特権でもあったりする。
それからこちらは直江景綱、弾正側からは岩豊が介添えし、和議に盛り込む条項が滞りなく決まった。後はこれを成文化し、三好長慶の立ち会いのもとに、正式な和議として、成立させるだけだ。これでようやくいくさは本当の終結になる。
「さて、では後は小僧やな」
「真人と何の話をするか。ここで話してもらおう」
この期に及んでも、虎千代は僕を心配していた。
「それは言えんな。だが、これが和議の条件と言うたはずや」
きっぱりと言い、弾正は僕を見た。その顔にはどこか自嘲とも苦笑とも言えない笑みがにじんでいた。
「大丈夫だよ、虎千代」
僕が言うと、虎千代は、はっとした顔をした。
「何を言うか。真人、わたしも同席する。万が一があっては困る」
僕は無言でかぶりを振った。確かに二人きりで話したいと言うのは穏やかではないし、弾正のことだから何かはあるだろうが、それは今、和平を覆すほどの危険を孕んだものでもないと思った。弾正もそれと察したのだろう。腰から両刀を掴みだし、それをすべて虎千代に差し出した。
「この通りや。武器はすべて、虎姫ちゃんに預ける。入口になら、見張りはなんぼ立ててもらっても構わん。どうや、これで文句はないやろ」
「虎千代、とりあえず僕と二人だけで話をさせてくれないかな」
「むむむむ…」
差し出された両刀を前に虎千代は苦い顔をしていたが、さすがに折れた。
「分かった。では、刀は預からせてもらうぞ。弾正、真人に何かあれば容赦なく、おのれを斬る」
幔幕を仕切り、黒姫が中へ席を用意してくれた。そこは床几が二脚。他に目立つものは鉄製のかがり火だけである。
「真人さん、安心して下さいですよ!何かあったら、すぐにわたくしが駆けつけますからねえ」
黒姫は僕に言うと、弾正を睨みつけた。
そうした緊張感あふれる雰囲気を尻目に弾正は無造作に自分から部屋に入ると、床几に腰掛けた。そこに岩豊が持参した、弾正愛用の煙草盆と煙管が置かれている。
「奇しくも、野陣か。あのときとまた、状況は違うが同じ感じになったなあ」
あのときと。打って変わって弾正はのどかな口調で言うと、煙管に草を詰め、かがり火で燻した。目を細め、弾正は煙を肺いっぱいに吸い込んだ。
「何をしとる。座り」
僕は黙って、近くに座った。
「虎千代が心配する。手短に、お願いします」
「話と言うのは、ごく簡単なことや。お前とおれで一つ、取引をしたい。ほんまはこれが、長慶公を講和の席に引き出す第一条件としたいのやが、このことはおれとお前、二人だけで話さなければならんかったゆえな」
「何か、胡散臭い話ですか」
もってまわった弾正の口調に違和感がし、僕は眉をひそめた。
「そう警戒されては困るで。これは、虎姫ちゃんを気遣ってのことや。侘阿弥(砧さんだ)の親方にも言われたやろう。未来の話をみだりにこの時代の人間に聞かせるのは、あまりよろしくないことになるとな」
「つまりは僕に、これから起こることを話せってことですか」
予想はしていたことだ。弾正は僕をさらってきて、これから起こりうる自分の未来の情報を教えることを条件に、虎千代との講和を呑んでもいい、と言う条件を以前に出して来ていたのだから。
「僕にとっては、あなたも戦国時代の人です。いずれ、上杉謙信になる虎千代と同じ。以前も断ったと思いますが、あなたには何も話す気はありません」
「それが講和の条件としても、か?」
僕は、きっぱりと頷いて見せた。
「頑固さは虎姫ちゃんといい勝負やな。まあ、そこが見込みあるとも言えるが」
弾正は煙管から口を離すと、ふーっと細い煙を吐いた。煙草盆に灰を落とし、
「煉介のやつも今頃、驚いているやろ。あいつの拾ってきた右も左も判らん洟垂れがこの戦国の世で生き残るどころか、おれたちこの時代の悪党どもとこうして渡り合っておるのや。さすがのおれも見込み違いやったわ」
例えばの話や、と弾正は開いた五指を僕に見せつけた。
「良銀五千貫」
それからこの男はうかがうように、僕の表情を確かめてから、
「と言うても、今のお前は虎姫ちゃんを裏切らんやろ。せやから足元を見ることにした。おれについて来ぬでいい。だが、話だけは聞かせてくれんか。お前が話さねば、おれから長慶公は呼べん。そこは譲れん」
弾正は是が非でも、退く気はないようだった。僕はとっさにはったりを言うことにした。
「いいでしょう。どうせ僕たちも、独自に長慶公の行方を追っています。いずれ、この合戦のことは直接、長慶公の耳に入るでしょう。もし弾正さんの手を借りず、それが実現したら、弾正さんも困ったことになるはずです」
「将軍家には手を出すな、と言われていることか。かようなことなど、いくらでも言い抜け出来るわ」
「そうとは思えない。あんただって少しは心苦しく思っているはずじゃないか。幼い菊童丸を狙い、あまつさえ命を奪おうとしたことを」
「あれは、戦国の摂理や。煉介にも言うたが、畿内の混乱を収拾し、三好家を安泰させるためには仕方がなかったのや」
「同じことを、あんたは長慶公の前でも言えるのか」
僕は真っ向から、弾正を睨みつけると言葉を継いだ。
「幼い長慶公を、顕本寺で切腹させられた父親の代わりに阿波へ脱出させたのはあんただったはずだ。長慶公が願うのは、自分が体験したような悲劇を二度と繰り返さないがための戦いじゃないのか?煉介さんだって、命を賭けてあんたに訴えたはずだ。幼い命を手にかけてまで手にする天下なら、誰も望まないと」
これは陰謀に斃れた煉介さんのためにも、どうしても言ってやりたかったことだった。弾正は目を剥いて僕を睨み返したが、何も言い返さなかった。その額には脂汗が浮き、唇は紫色にうっ血し、わなわなと震えた。握りしめた煙管が、みしりと音と立ててへし折れたが、殺気に似た剣幕を浴びても僕は退く気はなかった。
「小僧、二度ならず三度もおれの琴線に触れるか」
人を刺し殺すような声で弾正は言った。こっちの血圧も一気に跳ね上がった。実際、殺されるかと思った。僕は今、戦国一残忍な謀略家と話をしているのだ。しかも本気で怒らせてもいいと思ってしゃべった。
僕が思うに、この男の心の奥底は、誰にも読めず、誰にも読ませないことを続けたがために深く淀み自分でも分からないくらい矛盾し、混乱しているのだ。怒らせることは、一番なまな感情を引き出すのに、てっとり早い手段ではあった。もちろん、そのためには最も危険な手段であったのだが。
「お前は…信じまい。おれがどれほど、ご当主を大切に思っているかを」
肩を上下させ、怒りに震える声を詰まらせながら、弾正はようやくその言葉を絞り出した。このまま絞め殺されるかも知れない。詰め寄られた時は、それくらいの激昂だった。しかしだった。
「…っだが、なぜや。おれは…おれでも、今のおれを信じることが出来ん。ご当主のためと、おれは心血を注いできた。何を犠牲にしてもことをなす、おれのやり方で、ご当主の夢をどこまでも、実現するつもりでいた。汚れ役であれ、敵役であれ、どのようなことでもこの弾正が引き受けると。だが、不思議だ。やればやるほど判らなくなったのや。おれが求めてきたもの、喪いたくないと思ってきたもの、すべてだ。すべてが、どうでもよくなる。ご当主のため。手放すまいとした、この心さえっ」
声を絞り尽くした弾正は、それでも泣きはしなかった。すでに涙が嗄れているとでも言いたいのか。しかし、その苦悶の表情は、悲嘆を通り越して深い混乱と絶望に傷つけられたこの男の心底を表してあまりあった。泣くことなどで解き放たれはしない。そんな怒りも、悲しみもあるのだ。
松永弾正久秀。
僕たち現代人はその気になれば、この男の人生のあらましを知ることが出来る。戦国随一の梟雄。人の出来ぬ悪行を三つも重ねた業深い武将。そして織田信長を二度までも裏切った男。しかし僕たちは、知らない。この男がどこから生まれ落ちて何を求めて彷徨ったのか、史料はもはや何も語ってはくれない。日本史はこの男の悪行だけを、後世に残すのみだ。
「小僧、一つだけ答えてくれ。お前はあのとき言うたな。いずれ、おれのしてきたことが無駄になることが必ず起きると。そんな人物が現れると」
僕はかすかに頷いた。弾正は大きく息をつき、今度は気を落ち着けて、その様子をじっと見ていた。
「その男のことを聞いても仕方がない。だが、教えてくれ。これだけは知りたい。今のままでいたら、もしかしたらおれは、いずれ、ご当主をこの手で害することになるか?」
自分が、三好長慶を殺すことになるだろうか。
その悲痛な一言に、僕は、はっと息を呑んだ。
史実が伝えるのは、永禄七年(一五六四年)のこと。
三好長慶は若くして、この世を去る。
四十三歳、飯森山で病没とあるが、異説がある。
松永弾正久秀に毒殺されたのではないかと言うのだ。前後して、十河一存、三好実休(義賢)、長慶の嫡男の義興など、長慶の後継者候補が相次いで死亡。そのすべての陰謀に久秀が絡んでいると言われるのだ。
織田信長が松永弾正を徳川家康に紹介して、
「人の出来ないことを三つした天下の悪人」
と言うのも、久秀が自分の主人である長慶を毒殺したのではないかと言う、当時の風聞を信じていたからに他ならない。
史実が伝えるのは出来事だけだ。現れた出来事に関わる当事者たちの間の真実は、何も教えてはくれない。その事実に触れた、同じ人間の解釈や反応が残るだけだ。
「頼む。誰にも他言はせん。自分の胸だけに仕舞っておく」
弾正の言葉は、強く僕の胸に響いた。
しかし答えはどこにもないのだ。今の弾正にそれでは通用しないととしても。
僕は初めて、この男のことが分かった気がした。
虎千代から見ればこの男はただ本心の判らない、油断ならない男かも知れない。でもそれだけがこの男の持つ顔じゃない。
自分が幼い頃から守ってきた三好長慶の運命。
彼が歴史を知りたい気持ちの根本にはそんな悲痛な思いがあったのだ。自分自身でその思いが混乱しているとしても、それだけは本物なのだ。剥きだしにされた弾正の心には、何とか応えなくてはならない。僕は懸命に言葉を探した。
「長慶公は…あなたより先に亡くなる」
ごくり、と咽喉に詰まった苦いものを呑みくだして、僕はやっとそれだけを言った。
「殺されるのか」
愕然として弾正は目を剥いた。
「かも、知れない」
それは結果的にはひどく残酷な一言になってしまった。でも、僕は続けた。
「そしてあなたは、長慶公を殺した汚名を着ることになる。でも、あなたは信じなくてはならないと思う。自分の大切なものを、命を賭けて全力で守ったと言うこれからの人生の価値を」
「そうか」
弾正は僕が掴みだしたその言葉を飲み下し、虚脱したような表情で受け止めていた。やがて僕に向かって言った。
「よく分かった。ありがとう。それで十分や」
そこに救いがあったかどうか。僕は自分が択んだ言葉を過大評価するつもりはない。僕程度の人間が、何を話したところで実際、戦国の世を生きた弾正から下剋上の妄執と言う悪霊を取り払ったとも思えない。あの虚脱した表情は表に出せない苦悩が、弾正の気力を一時的に絞り尽くした、ただそれだけの表情だったのかも知れない。僕が思うに彼は、未来に答えを求めることを諦めたのだ。
でも松永弾正と言う男には、信じてもらいたかったのだ。記録にある戦国随一の極悪人である弾正ではなく、僕がこの世界で出会ったこの男には、そのことを信じるだけの価値があったと思う。だからこそ僕たちは、このいくさで勝ちを収めることが出来たはずなのだ。
「話は済んだ。講和は予定通り、春。屋敷に長慶公を招いて行う」
会談が終わると、弾正は虎千代に言った。
「桜の季節になるな。煉介の遺骸も山から下ろさねばならんやろう。菩提寺が決まったら教えてくれ。そうやな、あいつ夜飲み歩くのが好きやったさかい、ええ月が見える場所がええやろう」
と、弾正は夜空を見上げた。かがり火が焦がす空に、いつの間にかぽっかりと分厚い満月がのぼっていた。
「お前にしては、殊勝な物言いだな」
虎千代は不審そうに眉をひそめた。
「あいつはかわいい後輩や。おれを裏切った、その後でもな」
馬を御しながら弾正は言う。僕から見てその言葉に嘘はなさそうだった。
「墓を教えろなどと。まさか、まだ何か企んでいるのではあるまいな」
虎千代は怪訝そうに鼻を鳴らしたが、弾正は片頬を緩めただけだった。
「阿呆、おれかてたまには、まっとうなことを言うわ。虎姫ちゃんには、信じてもらえんかも知れんがな。なあ、小僧」
え、僕?
きょとんとしている間に、弾正は去ってしまった。
「真人、お前、弾正のやつめと何を話したのだ?」
「ううん、なんて言うか…」
それから虎千代には、何度も訊かれたが、僕にはあそこであったことをどうしても上手く話すことが出来なかった。男同士にも、内緒話と言うものもあるのだ。




