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戦国恋うる君の唄  作者: 橋本ちかげ
Phase.8 ~決死の迂回作戦、確かめ合った気持ち、車懸りの正体
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砧さんの絶技、血戦、ついに暴かれる狗肉宗の秘儀!

まったく砧さんの剣技は底がない。僕たちと同じ、現代から来た人間なはずなのに、戦国時代で磨かれた実戦剣術は、この時代の達人をも驚かせる境地に達している。

「そう退かんでもらえるかな。別に、仕掛けのあることじゃなし」

砧さんは悠々と刀を担ぐと、居並ぶ狂獣の群れを真正面から眺め渡す。

「まして、あんたらのような秘術を使う連中とは違うしね」

その砧さんに今度は二人、別方向から挑んできた。

これも速い。

だが、一人はさっきと同じように、砧さんが触れた一瞬で縦回転して転倒する。その隙にもう一人は砧さんの剣によって、武器を携えた利き手を吹っ飛ばされた。続いてこの二人にさらに三人が群がったが、同じ結果に終わる。今度は最初に突っ込んできた二人が転倒し、最後の一人は一瞬で咽喉を刺し貫かれた。

「おのれっ、この死に損いめらっ」

と、わめく血震丸の傍らでこの様子を見ていた知切狠禎は何かに気づいたようだ。狠禎は大声で、

「退け。どれ、この老いぼれ、わしが引き受けてくりょうぞ」

と、宗徒たちを退かせて、自ら砧さんの前に立ちはだかる。肥馬を逸らせ、あの大鉈を振り上げると、そのまま駆け違いざまに砧さんを襲った。

「シャアッ」

砧さんは大太刀で辛うじてそれを受け止め、持ち堪えたがさっきのように、狠禎を投げ飛ばすことは出来なかった。

「厄介なのが来たね」

と、大きく息をつくと砧さんは心なしか、顔をしかめた。

「得たり。その技、呼吸(いき)と間合いを操っているに相違なし」

暴れる肥馬を御しながら、ゆっくりと狠禎は再び大鉈を振り上げる。

「今のがその証左よ。このように、馬足で一気に間合いを詰めて切り結べば、むざむざとおのれに転がされることはなし」

「そうか」

と、狠禎の言葉に、虎千代も何かに思い当たったようだ。

「つまりはこれよ」

虎千代は僕に向けて、掌を上に向けた後、傾けくるりと動かしてみせる。もちろん、僕は達人じゃないから、それだけでぴんとくるはずがないが、呼吸と間合いのコントロールと言われると、なんとなく思い当たる節はある。心の一方の極意といい、砧さんはそもそもその手の技の達人だった。とは言えいぜん、なんのことかは判らない。

そう言うと、

「つまり要は重心の操作なのだ。真人、わたしが狠禎との斬り合いのときに、馬上あやつに飛びつき落馬を誘ったことがあろう」

と、虎千代が答える。それで僕はやっとちょっと納得がいった。

あのとき虎千代は、知切狠禎とのあれほどの体格差や重量差にものものともせず、素手で狠禎を落馬に追い込んだのだ。虎千代が解説にするには、あれは力ではなく、狠禎の動きに合わせてほんの少し、あの重たい大鎧をまとった身体のバランスを崩してやったに過ぎないのだと言う。

「あの大鎧、刃の通る隙間も少なく、総身鉄甲に覆われてはいるが、反面、身動きの自由に乏しい。そもそも鎧でもっとも身に重きは頭の兜ゆえ、一方向に動く力の均衡をあのように操ってしまえばああして容易に投げとばせると言うわけよ」

に、しても砧殿の絶技かな、と虎千代は、感嘆しきりだ。

重心移動と呼吸、すなわちタイミングにより余計な力を使わずに相手を制する。

現代格闘技で似た原理のものをあえて言うとするならば、合気道だろうか。

「どうじゃ、手も足も出まい」

と、狠禎は砧さんの首を狙うように、大鉈を振りかざす。

「馬上のわしにはもはや、その技は通ぜぬ」

しかし、砧さんは何も答えずただ笑っているだけだ。

(どうかな)

そう、言いたげだ。

狠禎の肥馬が馬蹄の響きを轟かせて、砧さんに迫る。対して、ゆったりと腰を落としたかに見える砧さんは、身じろぎもしない。

「見ておれ」

と、虎千代が興奮を押し隠せない表情で言う。どうやら彼女も同感のようだ。

「ウエエエイッ」

と、引き裂くような高声を上げて、狠禎の大鉈が砧さんの頸を狙う。

がらり、と砧さんの大太刀がそれを絡めとる。馬上槍の勢いに砧さんの身体が崩されるかに見えた瞬間だ。

「ぐわっ」

ぐるりとまるで大太刀の先に操られるかのようにして、狠禎が馬体を崩したのだ。僕は思わず息を呑んだ。歩兵の砧さんが重装騎馬兵の狠禎を苦も無く投げおろしたのだ。

「見たか」

虎千代も思わず、快哉を上げた。

「大事なのは理よ。あれには騎馬か徒歩か、素手か武器持ちかは理には関係ない」

とは言え、理屈が判ったからと言って、誰もがああやって出来るわけじゃない。すごい。砧さんはやっぱり達人なのだ。

「おのれえい…」

砂ぼこりにまみれ、黒い大鎧は地に這いつくばっている。自分の体重と馬のスピードで衝撃が倍加されたか、さすがの狠禎でもすぐには起き上がれそうにない。

「不死身とは聞いたがね、身体の仕組みや動きはやっぱり、二本脚が生えている人間とそう変わらんね」

「抜かせえい」

血走った瞳に憎悪をたぎらせて、狠禎は立ち上がる。砧さんはその狠禎から目を離さないながらも、凛丸たち足軽衆の後退をしっかりと見極めていた。

「そろそろか」

砧さんがぽつりとつぶやいたそのときだ。

「知切、その小癪な爺に構うな」

するとその様子を見ていた血震丸が、軍刀を振りかざして軍勢を集めてきた。

「なれば数で押しつぶすまでよ。鉄砲隊、槍隊集めよっ」

血震丸が砧さん一人のために、二隊を引き抜いてぶち当ててくる。

無論、それを見逃す虎千代ではなかった。

「和泉らに伝えよ。人数を集めよ!砧殿を死なせるなっ」

と、自らも太刀を取り、立ち上がろうとする。

「とっ、虎千代、駄目だって!」

思わず僕は彼女を引きとめようとする。

「止めるなっ、頼む」

身体はこれほど傷ついていたのに虎千代の瞳はすでに輝いていた。

「真人、ここが鍔際よ。大将が行かずして、なんとなすかっ」

本当にいくさの申し子みたいなやつだ。贄姫に傷つけられた足を引きずり、虎千代は立ち上がる。まだその身体はまったく恢復していないのに。言ってるだけじゃない。虎千代はことここに及んで、まだ前線に立つ気なのだ。

(しょうがないな)

「真人、松鴎丸殿、介添えを頼む」

虎千代は声を励ました。

「馬曳けっ」


なんと血震丸、陣借りの身で鉄砲隊を揃えていた。

鉄砲伝来当時の火縄銃の値段は、足軽十一人分の給与に相当すると言う。長篠の戦いの折り、それを数千丁集めた信長こそ桁外れだが、このとき数十名を配置して弾幕を張った血震丸も末恐ろしい。

「弾込めえい」

合図とともに一斉に銃隊が射撃の準備に入る。その射線に捉えられたなら、どんな鎧をつけた武者も、無惨な蜂の巣になる。

砧さんは戦場の迷い馬を素早く奪った。なお狗肉宗が追いすがってくる戦場を、早馬が一目散に駆け去ろうとする。

「撃てえいっ」

火縄銃の炸裂音と火薬の煙が大地を覆い尽くした。

物凄い景色だ。

一斉に発射された弾丸は、どれほどあっただろう。不穏な風切り音や着弾の不気味な音が耳を聾した。湧き上がる白煙の中でたたらを踏むように倒れこむ人や、まるでまだ生きているように跳ね上がる死体を、僕たちは目の当たりに見た。弾丸は僕たちの足もとにも容赦なく着弾してくる。砧さんは、それでも無事、最前線を脱した。

「真人、わたしの後ろにいよ」

僕より前にいる虎千代は、そんなことはまったく意に介しない。記録にものを言わせるまでもない。いつでも、すすんで僕たちの前を歩こうとする。虎千代は、こう言うやつなのだ。

「和泉、手持ちに騎馬武者はいるか」

虎千代は柿崎景家のところまで来ると、突撃の相談をした。

「次の弾込めまでに斬り込もう。我も出る」

と、虎千代が言うと、景家は目を剥いて顎髭(あごひげ)を摩った。

「鉄砲のことは判らんが、やるしかありませんでしょうな」

「だが迂闊に出て、次も何人死ぬることになるか」

二人が未知の鉄砲に躊躇っている様子を見計らって、僕は言った。

「虎千代、僕にちょっと考えがあるんだけど」

「お、なんじゃ真人、名案があるか」

「名案って言うほどじゃないんだけど」

敵方の装填から、射撃までを遅らせることは出来る。そう言うと、

「本当か、真人」

虎千代は目を輝かせた。


僕が考えたのは、松鴎丸を使ったピンポイント狙撃だ。

軒猿衆で目の利くものを連れると、僕と松鴎丸は藪の中を迂回して鉄砲隊に接近した。幸い戦場に流れる硝煙と目の前に迫った虎千代たちに気を取られ、三人の狙撃班は血震丸たちの注意の外だ。

「撃て撃てえいっ、長尾の者どもを根絶やしにせえいっ」

血震丸の金切り声が聞こえる。その姿は馬廻りに厳重に守られて見えなかった。

「狙撃の準備を」

松鴎丸はすでに火縄を手挟んでいた。僕はすぐに標的を指示する。

「弾込めえいっ」

鉄砲隊が第二の射撃の準備をしたそのときだ。

松鴎丸の放った一弾が、鉄砲隊の中へ飛び込む。

狙ったのは立膝で射撃の準備をする鉄砲足軽の横に仁王立ち、指示を叫んでいる小頭だ。狙いはあやまたず、弾丸は鉄砲大将の兜の眉庇の中に飛び込んだ。狙撃の残響音の中、その男は声もなく倒れた。

一発必中。

さすがに松鴎丸だ。

「今だ」

そして僕の思ったとおり、準備しかけの鉄砲隊はまごついた。

その瞬間を狙って、どっと虎千代と柿崎景家が率いる騎馬武者たちが槍を駆って突っ込んだ。混乱した鉄砲足軽は、一人も狙撃出来ないまま、虎千代たちに追い立てられる。

雑兵物語(ぞうひょうものがたり)』に謂う。当時の鉄砲隊は合図をする小頭の細かな指示に従って射撃を行うものなのだ。現在の銃と異なり、火縄銃の装填から発射までは複雑だ。鉄砲足軽はそれを一斉合図のもと行う。さらには標的までの距離から狙いまでその指揮官がいなければ射撃は覚束ないものなのだ。松鴎丸のように、一人で狙撃が出来ると言うのは稀有の存在なのだ。

『雑兵物語』は戦国後期の足軽の体験談集だ。鉄砲が当たり前に戦場で扱われていたその頃にそうだったのだから、鉄砲導入当初の練度の低い足軽などは、小頭が(たお)されたら、下手をしたら自分で射撃の準備も出来ないに違いない。

僕の描いた図はぴったりと当たった。松鴎丸の一弾で、血震丸の鉄砲隊はあっけなく沈黙したのだ。

「ははははっ、鉄砲など恐るるに足らずじゃあいっ!小僧め、やりおるわっ」

虎千代の横で自ら槍を取る、景家の咆哮が聞こえる。

「退けえいっ、戦う意志のないものは退くがええわいっ」

暮れかけた紅い陽に柿崎景家の十文字槍の穂が、まばゆく閃く。突然の鉄砲隊の瓦解に動揺した血震丸の軍勢はさらに何百メートルも後退した。

「おのれっ、押し返せっ押し返せっ、返さぬと承知せぬっ、逃げるものは殺すぞっ」

この頃になると血震丸ですらが槍を振って前線に駆け出し、浮き足立つ兵勢をどうにか立て直そうとする始末だった。しかし後退の流れは容易には止まらない。流れようとする濁流を置き石一つで止めようとするようなものだ。

「得たり、これぞ好機ぞ」

虎千代の声が戦場の喧噪を割いて響く。

「打ち物鳴らせえっ、全軍突撃せよっ!」

突撃を下知する銅鑼や太鼓の音が、暮れゆく戦場の陽すら追い立てるように、けたたましく鳴りさんざめく。

「心ある武者は我に続け」

どっと虎千代は単騎、敵勢に馬を乗り入れると、太刀を振るう。錐のように鋭いその一撃が敵勢と言う壁へ一本道を切り開く。その後を景家や鬼小島たち、黒姫や砧さんたちが均すように撃ちかかっていった。虎千代は馬を乗り入れ、退き返しては、何度も最前線に突撃する味方を連れて行った。

小豆長光が虎千代の手で煌めく。

そのたびに血が飛沫き、確実に敵が(たお)れる。恐ろしくも美しいその剣は。

龍の突撃旗とともに、いつも荒波立つ最前線にある。

それは常に生命の瀬戸際だ。そこでこそ、烈しく凄まじく。

今はっきりと分かる。

あの剣にこそ、みんなが集っているのが。

柿崎景家の先方衆や鬼小島が率いる力士衆、黒姫の軒猿衆も、砧さんや凛丸たちが率いる足軽衆も。

虎千代の剣を目指して、何度も死線へ向かう。

それは死よりも抵い難い破壊への衝動か、破滅的な暴力への欲求なのか。

いや、違う。

虎千代の指し示すその道こそが、まさしく生そのものなのだ。

虎千代が言うようにここは、死のうとすれば生き、生きようとすれば死ぬ、常に矛盾と混沌が渦巻く、戦場なのだ。極限とも言えるこの地獄で、虎千代が自らの命を晒して指し示してみせるのは、きらめく生をたぎらせる唯一の道標なのだ。

無数の本能が択んだ巨大な力を、止める術はない。そんなの、普通の人間には到底不可能だ。もしかしたら、虎千代自身にだって無理かも知れない。

戦国最強の軍神。

後世の人は虎千代のことをそう称するようになるだろう。しかしそれはただ、織田信長や武田信玄に勝った、と言う意味の存在ではない。

虎千代を表す軍神とは、いくさへと向かう無数の意志を受ける祠祭。

凄まじくも美しい、いくさの荒神を手なづける巫女神だ。

「押せっ、押し込めっ」

虎千代の声に無数の武者押しの声が呼応する。どよめきは大きなうねりとなって地を揺るがし、まるで大地そのものが傾きだしたかのように、血震丸の軍勢を追い立てる。巨大な音響はもはや会話もままならないほどだ。

(すごい)

みるみるうちに、血震丸の軍勢が呑み込まれ、押し戻される。

「かっ、かなわんっ、こいつら死兵やあっ」

血震丸の足下では旗指物を棄て、衝動的に逃亡しようと言う兵すら現れている。いわゆるパニック状態だ。戦場で武器を棄てたなら、どの道そこで命取りなのだが、

「たっ、大将っ、わしらもう戦えんっ、てっ、てて撤退をっ」

血迷って馬に取りついてきた足軽兵たちを、血震丸は手持ちの片鎌槍で躊躇なく突き殺した。

「逃げる者は殺すと言うたであろうがっ」


ついに味方を殺戮し始めた血震丸の禍々しいその姿を、虎千代が捉えた。

「血震丸っ、この期に及んで同士討ちとは見苦しっ」

馬上、小豆長光を携えると馬を返して、そこに殺到した。

「長尾虎千代」

血震丸は虎千代の叱咤に気づき、黒い血に濡れた槍を振り上げる。

「喧しいわっ、我が意に従わぬ者は皆殺しじゃ」

「そこまで堕ちたか。見下げ果てたる外道よ」

裂帛の気合いを放つ虎千代の馬を止める術はない。

「抜かせっ」

血震丸が繰り出した槍を、虎千代の剣はするりと受け流す。馬を駆け違う瞬間、バランスを崩しかけた血震丸に、右袈裟の一閃。辛うじて防いだ血震丸だったが、なんとその一撃で槍の柄が半分に折れ、使い物にならなくなった。

「おのれっ、ふざけおって」

血震丸は顔に真っ赤に血を上らせて槍の残骸を叩き捨てると、腰の太刀を抜き放った。

「はは、上々」

虎千代はその様子を見て、不敵な笑みを浮かべた。

「策士のおのれが我が前に、ようよう剣を抜いて現れたわ」

「…どっ、どこまでも小癪な小娘がっ」

虎千代は、血震丸がわざわざ、剣を構えるまで馬を御して待ったのだ。

「目論見、潰えたな。弾正は去った。後はこの雌雄しか残るまい」

「知った風な口を利きおって」

血震丸は鼻の頭に皺を寄せて、怒った。

「まさかっ、おのれのような小娘にっ…たかだか血気と負けん気だけが取り柄の小娘にここまでやりこめられようとは」

「諦めよ。黒田家を乗っ取り、野洲細川家を利用し、松永弾正に与し、その見境なき野望もここまでだ」

「けっ」

と言うと、血震丸は血の混じった唾を吐きつけた。

「深謀遠大なる我が策の醍醐味、分かってたまるものかよ」

「確かにおのれの策の巧緻さ(おお)きさ、我には読めなかった」

悪びれることなく、虎千代は言った。

「されど我には、心を傾けてくれる人がいる。力を尽くしてくれる家臣がいる。皆に心を尽くしてもらい、やっとここまで来れたのだ。それこそが我が欠けがえの無き宝に他なし。血震丸、おのれの策はいくら巧くても、その音、心には響かぬわ」

「おっ、おのれええええいいっ…」

堂々とした虎千代の言葉に、血震丸は顔中の血管をたぎらせて憤った。

「…青臭しっ、小便くさい小娘が血迷いごとをっ、それでも戦国大名か。その甘っちょろい戯言、この血震丸が前で得々と語るでないわ」

「はははっ、確かに我が世迷言は、乱世にあるまじき戯言よ。だがおのれにこそ、この心の音、聞かせたかった」

血震丸の誹りをものともせず、虎千代は、声を上げて堂々と言い放った。

「乱世の悪霊よ、今、おのれにこそ人の絆の強さ、思い知らしてくれん」

「ふっ、ふふふざけるなあっ」

金切り声で絶叫し、血震丸が馬を責めた。

「おのれのような小便垂れの青臭い物言いに屈してたまるかっ」

腰刀を振り上げ、虎千代を狙う。無数の返り血を浴びた月毛を御した虎千代は、小豆長光を携え、ゆっくりと血震丸の突撃に応じた。

元より、相手にならない。

上杉謙信の馬上剣の妙技こそ、戦国の世代も土地を超えてはるか豊臣秀吉の耳にまで伝わった、戦場の絶技なのだ。いや、僕自身がそんな世評など無用なほど、虎千代の技の冴えを目の当たりにしてきている。

袈裟に振り切ろうとした血震丸の剣を、鍔元で受け止め、虎千代は苦もなく受け払う。そしてその反動でよろめく血震丸の顔面に、小豆長光の柄頭が飛び込んだ。金属性の柄頭はそのまま殴りつけるだけでも十分な威力を発揮する。

「ぐうっ」

鼻血を吹きだして、あわてて後退する血震丸の鼻骨は一撃でへし折れていた。

「なんじゃ、青臭き小娘相手にこの程度で退くか。実に不甲斐なし」

その様子を嘲笑うかのように、虎千代が挑発する。

「これが贄姫なら、骨まで喰らいついてきたものだがな」

血震丸はその言葉に憎悪でどす黒くなった顔にたぎらせて、叫んだ。

「どっ、どこまでもおれを愚弄しおってからにっ」

怒りに馬を逸らせた、血震丸が二合目に挑む。しかし、あまたの強敵を斃し、絶技の域に達した虎千代の剣に一矢報いる術はない。

今度は振り下ろす血震丸に合わせて、虎千代も、放った。

小豆長光の物打ちが、血震丸の剣の鍔元を捉える。

きん、と言う金属音とともに、血震丸の剣は折れて飛んだ。もはや血震丸の剣は柄ばかりだ。

「そろそろ鍔際のようだな。その首、遠慮のう頂戴するぞ」

「くっ」

虎千代が剣を構えたときだ。その前を巨大な黒い影が牛耳る。

「おのれは」

「長尾虎千代、逃すまじ」

間一髪、知切狠禎だ。砧さんに落馬させられたこの大男は新たな替え馬にまたがり、乱戦を闊歩していたのだ。突然現れた大行者に道を遮られ、虎千代は、留めの太刀を放てなかった。

「でっ、でかしたっ」

万に一つの命を拾った血震丸は脂汗に濡れた顔を輝かせる。

「邪教祖、長尾虎千代、おのれの首だけはわしが山へ持って返らねばならぬ」

思わぬ邪魔が入り、虎千代は顔をしかめた。しかし、なんてしつこい奴だ。

「狠禎よ、ここは預けたぞ」

ぱっ、と、血震丸は馬を翻す。

「逃すかっ」

と、走り出た虎千代の前を、岩壁のような狠禎が遮る。

「逃さぬは、わしが言い分よ」

狠禎の合図でわらわらと、狗肉宗が集まりだしていた。


やはりだ。

あれだけやられたと言うのに、狠禎たちの人数はそれほど損なわれていない。ここで見ていても虎千代たちに呑みこまれ、かなりの死傷者を出したはずなのに。

「いや、違いまする」

と、銃を構えた松鴎丸が、僕に言った。

「あやつらは以前、長尾殿と相対した狠禎のときと同じ。大傷を負っても平然と動いている」

(確かに)

松鴎丸の言葉に、僕もはっと思い当るものがあった。狠禎の元に再び集まってきた獣鎧の男たちは槍の穂や折れ刀や矢が突き刺さったまま、血を滴らせても平然と歩いてくるものが目につくのだ。もしかしたらあの、血震丸が悪用した飛騨の霊薬と恐るべき秘術によって、彼らはこうした不死身に近い肉体を手に入れているのではないか。

「虎千代が危ない」

あいつらに、普通の理屈は通用しない。松鴎丸を連れ、僕たちは虎千代の近くに戻ろうとした。

不吉な予感を察知したのは、もちろん僕たちだけではない。

「お嬢、大丈夫ですかいっ」

狗肉宗を前に立ち往生した虎千代の危機に、第一に駆けつけたのは、鬼小島だ。

「腹黒から訊きやした。奴らは普通の兵じゃねえ。こいつらまともに()ってかなうような相手じゃねえんですよ」

「とっ、虎さまっ、大丈夫ですかっ…って、でかぶつっ、なに先に着いて解説してんですかっ」

軒猿衆を率いて駆けつけた黒姫は鬼小島を押しのけて、虎千代の前に出た。

「こやつらは血震丸があまたの人体実験にて大成した秘薬を用いて作り上げられた不死身の兵なのですよ。虎さまがこんな奴ら、まともに相手する必要なんかありませんですよ!」

「それより、血震丸が逃げます。お嬢、ここはおれと腹黒に任せてっ」

「弥太、黒姫…」

虎千代は尚も逡巡するように、二人の顔を眺めていたが、

「すまぬ」

と、彼方に遠ざかる血震丸に向かって、馬を出す。

「逃さぬぞ、長尾虎千代っ」

すかさずその後を追う、知切狠禎に。

「今だ」

僕の合図で、松鴎丸が発砲した。僕が操る馬の背後で銃を構え、接近しながらの一撃だ。馬上でもさすがに松鴎丸の腕は一級品だった。確かに轟音には辟易したが、弾丸は狙いあやまたず、狠禎の顔面に飛び込んだ。

ドン、と言う重たい標的への命中音がした。

弾丸は狠禎の狗の面貌を容赦なく押し砕く。わずかに身をひねって、弾丸の貫通は避けたようだが、脳しんとうを起こさせるのには十分だった。

「行けっ、虎千代」

「真人、ありがたしっ」

その間に虎千代は月毛を駆って走り抜け、まだ後姿のみえる血震丸を追う。どうにかこれで間に合いそうだ。

「おのれっ…小僧がっ、ふざけた真似をしおって」

左手で血濡れた面を覆った狠禎は怒りに燃え、すでに武器を振り上げている。弾丸の貫通は避けたとは言え、直接に鉛玉をぶつけられているのだ。失神したって不思議ではない局面なのに、やはり普通人のタフさをはるかに超えている。これが血震丸が完成させた飛騨の霊薬の力なのだ。

「ったく、なんて危険なお薬ですよ。衝撃は受けているはずですが、あの狠禎恐らく、それほどの痛みも感じてないに違いありませんですよ」

黒姫はため息をつくと、狠禎の前に立ちはだかろうとした。

「知切狠禎!さあ、そろそろ年貢の納め時ってやつですよ!先ほどあんたの部下をぶちのめしましたですから、そのお薬のことは、すべてまるっとすりっとお見通しなのですよ!飛騨の名誉を守る一族の名を代表して今、この黒姫が、きっぱり引導を渡して上げますですからねえっ!」

「おっ、おい腹黒、危ねえから勝手に出しゃばるんじゃねえよ」

思わず鬼小島が、テンションあがる黒姫を引き止めようとする。

「こんなやつに何びびってるですか、でかぶつ!ねえ、真人さ…」

と、言いかけてから何かに気づいたのか、黒姫が絶句した。途端に顔色も真っ青になって、唇が震えている。

「な、なんだよどうかしたのか?」

僕と鬼小島は後から気づいた。そうだ。知切狠禎の狗を模した天狗の面頬が弾丸によって吹っ飛んだのだった。その下にある狠禎の素顔が、黒姫を絶句させたのだ。

「ばっ、ばけものっ…」

か細い声で低く叫ぶと、黒姫はその口を両手で覆った。

狠禎の素顔は、この世界に存在するあらゆる生物とも似ても似つかないように、僕には見えたからだ。

あれは喩えるなら毛のない狗に近いが、それともまた違う。大狗が怒ったような庇の大きな瞳に、小高く野太い鼻には四方八方に向かって醜い皺が伸びていた。顔色は甘栗の渋皮のようなぞっとするほどの土気色だ。大きな口は、兎口(みつくち)に近い。しかしそれとは、また微妙に違う進化の過程を通ってきている。それが肉のまま、嘴に変化したかに見える異様な隆起なのだ。その不気味な唇の下にはまるで山の獣のような太い犬歯が唇を押し上げるようにして覗いている。

「化け物とは不敬な」

ぐふふふっ、と不気味なうめき声のような笑いを狠禎は立てた。

「我が顔が醜いとは、おのれらが目はほとほと(くた)れておるな」

「てっ、てめえっ人間か」

「無礼な。我は天から来れる瑞兆星、天狗の末裔と言ったはず。それを化け物と呼ぶおのれらこそ、世に厄災をもたらす凶兆と言わめ。邪教徒どもがっ」

「どっ、どうするよおい」

鬼小島もちょっとたじろいだようだ。

「腹黒、お前本当にあんなのとやるんだろうな、おいっ」

「くっ、黒姫、平気なの?」

僕が声をかけた瞬間だ。

「ぴっ、ぴいっ」

短い悲鳴を上げて、黒姫は背筋を立たせた。それからフナムシが物陰に退くようにわさわさと動くと、いつの間にか僕の後ろに隠れた。

「なんだよっ、腹黒!てめえが決着つけるんじゃなかったのかよ」

「わっ、わたくしにも苦手なものだってあるですよ。あっ、あっ、あの顔は反則ですよう」

よっぽど狠禎の素顔が怖かったのか、黒姫は僕の背にしがみつき、ぞくぞくと背筋を震わせている。

「小さい頃、祖母やがさんざ話してくれた怖い話に出てきたですよ。ああ言うやつが夜、森から人をさらって頭からむしゃむしゃ喰らうですよ」

「お前らしくもねえ。つーか今更しおらしいこと言ってんじゃねえよ」

「怖いものは怖いのですよ!大体、わたくしは元々しおらし恥じらい乙女なのですよ!こっ、こう言うときこそでかぶつの度胸の見せ所ではありませんかっ」

「そいつはいいけどよ。飛騨の名誉ってのはどうなるんだよ?」

「そっ、それは…そのうまた、別の機会に。とっ、とにかくわたくしはあの顔があまり、見えないところで援助しますですよ!」

と言うことは黒姫、どこにいる気なんだ。

「ったく、好き勝手言いやがって結局、やばいことは全部おれか」

狠禎に劣らない大長巻を携えると、鬼小島が進み出た。

「腹黒っ、てめえ、あいつが不死身だってのは何とか出来るんだよなあ」

いまだに僕の後ろの黒姫は、うんうんと頷く。

「だっ、大丈夫ですよ。今度こそ、あいつの息の根を止めてやれますです」

「小娘、さきに飛騨とか申したな」

ぎろりと狂犬の目が、黒姫を睨み上げる。

「我が霊薬の秘儀を知るか。こいつは、ますますは活かしてはおけぬなあ。わし自らその喉笛噛み砕いてやりょう」

ぴいっ、ともう一度悲鳴を上げかけた黒姫の声は、心なしか裏返っている。

「そんな怖い顔したって、むっ、無駄なのですよ!あんたが不死身なのはその、絶息丸(ぜっそくがん)とか言う薬のせいだって、知ってますですからねえ!」

黒姫はわたわたと袖から、何か黒い丸薬のようなものを取り出した。

「それが、絶息丸…?」

「ご明答なのですよ、真人さんっ!なんとこいつはあの鳶爪から奪ったものなのですよ。これで、ようやくこの薬のあらましが分かったのです」

ぽん、と黒姫はそれを鬼小島に投げて寄越した。

「臭っせえっ。どうでもいいけど、臭っせえなこいつは」

鬼小島は目に涙を浮かべて鼻をつまむ。確かに臭い。近くにいる僕にも堪えがたい。丸薬は胸に()せると言うか目に沁みると言うか、恐ろしく危険な刺激臭を放っていたのだ。

「つーかなんでおれに渡すんだよ!?飲めってのか」

「飲めば全身の力を余すところなく解放し、誰でも極限の力が得られるですよ」

黒姫は僕の後ろから出てくると、解説を続けた。

「そもそもこいつは、全身を極限の弛緩状態にした後に仮死状態へと移行する恐ろしい毒薬なのですよ。本来、人間の身体は毒物を克服したときこそ、より強く生まれ変わるものなのですよ。恐らくあの狠禎はこの薬を使い、何度も生と死の狭間を漂っているです。そのお陰でその生命力ですら異常なほどに強く亢進されているです。あの異常な快復力の秘密は、この絶息丸による驚異の生命力強壮にあったですよ」

何度も人為的に死にかけから立ち直ることで、極限の生命力を研ぎ澄ます。確かにその理屈は分かるが。その絶息丸こそ、おのれの命を蔑ろにする代物に他ならない。何と言う無茶苦茶な薬だ。だが実際、死んでいるはずの狠禎はこうして、僕たちの前に姿を現している。

「真人さん、わたくしたちがあの夜、弾正の本営で見たのは、その狠禎の蘇生術の施術の過程だったに違いないですよ。絶息丸を一度服用した者は、どのような傷でも再生の可能性がありますからねえ。特殊な蘇生法を用いれば身体は活性化し、治癒不能な傷口すら塞がる可能性があるのです。つまりは、戦場から遺体の区別なく集めたのは、蘇生者を探していたですよ。特殊な蘇生法を用い、何度も死から蘇る狂戦士を集めるためのね。それがあんたらの秘術の正体ですよ!」

びしっと、黒姫は狠禎に人差し指を突きつける。どうやらこれがやりたかったらしい。だが別に、それを暴かれたと言って狠禎は、困りはしないだろうが。

「ぐふふふふっ、よく悟ったな、小娘よ。門外不出の霊薬、ここまで見破られたは、初めてのことよ。しかし一つ、言い忘れたことがあるな」

「だっ、だ、なっ、なんだってんですか」

「その絶息丸、おのれらが何を知ろうと使いこなせぬわ」

と、黒ぐろとした指で狠禎は鬼小島の手の丸薬を指差した。

「絶息丸の行はこれは幼き頃より、あまたの毒を飲んで身体を鍛えて後に行ずる荒行よ。里人が飲めば、薬はたちどころにその息の根をとめ、遺骸を無惨にひしゃげ苛む」

「そう言うはったりで、おっ、脅そうたって無駄なのですよ!」

と、言うと黒姫は鬼小島を見た。

「さあっ、ひと呑みいくですよ、でかぶつ!」

「なっ、なんだよてめえ。何期待してんだよ」

「飲まないのですか」

「おれがか?大体、なんでだっつうんだよ」

「…飲めば全身の力を余すところなく解放し、誰でも極限の力が得られるですよ?」

「ふっ、ふざけんなっ!そこまで危ねえ話聞かされて誰が飲むかってんだっ!」

鬼小島は大きく振りかぶると、その丸薬をはるか遠くに放り投げた。

「あああっ、なにするですかっ!?」

「他人に飲ませる気なら、てめえが飲んでからにしやがれっ!」

危うく人体実験に供されるところだった鬼小島は顔を引き攣らせると、大きくため息をついた。

「だが話は読めたぜ。とにかく頑丈だが、不死身わけじゃねえし、その蘇生術ってのを施さなきゃ、死んだままなんだろ」

「だから何が言いたいですか?」

「単純でいいっつったんだよ。単純で」

と言うと鬼小島はついに狠禎の前に立ち、大きな長巻の鎌首をもたげた。

「ばらばらの小間切れにして、その辺にばらまいてやるよ」

「はは、それはわしの科白よ」

と、鼻の頭を歪めると、狠禎も大鉈を構える。

「行くぜ」

超重量級の斬り合いの幕が、こうして上がった。


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