絶体絶命の平地合戦へ!車懸りの戦術の謎、虎千代の決断は…?
いったいどうしたら、勝てるのか。
薄らぐ思考のまどろみの中で、僕は虎千代と話したあのことについて考えていた。
例の陣形戦術のことだ。虎千代は僕に、実際のいくさでは兵法書にあるように陣形を守って戦うようなことはほとんどない、と言っていた。戦闘のなりゆきで密集陣形や包囲陣形に人の流れが動いていくことはあっても、陣形が軍隊運動を縛ることはありえない、と。
確かに、そうなのかも知れない。戦国武将がこうした陣形戦術を用いていくさを行ったとされるのは、江戸時代に流行った軍学の影響が強い。それが判りやすいゆえに講談になったり、小説になったりして僕たちに伝わっていったに過ぎない。でも、考えてみれば軍学が流行った江戸初期ですら、すでに戦国時代は遠い過去のものだったのだ。
ただ、陣形戦術がまるで絵空事かと言われると、僕はそうではないと思う。
個人が自由に動く戦闘と違い、集団戦術には自ずから一定の運動性と言うものが存在する。例えば狭い場所で沢山の人がひしめき合って戦わなければならない場合や敵味方が入り乱れて戦う場合、その動きは一つの合図によって統一されなければぐちゃぐちゃに混乱してしまうはずだ。
そう言うときは僕自身が経験してきたように、合図や合い言葉を予め決めておき、それを使うことで味方の同士討ちを防ぐことをする。敵の運動を混乱させると同時に、味方同士の連携を整理する。陣形戦術もこの延長線上にあると考えていいのではないか。
実際、この平地に敷かれた弾正の鶴翼の陣も、立派な陣形戦術と言える。敵を待ち伏せ、しかも最終的には押し包んで逃がさないようにする配置は、味方同士のあらかじめの打ち合わせがなければ実現しない。
となればこうした包囲陣形を喰い破るべく編成する、密集陣形と言うものも、決してありえないものではないはずだ。
密集陣形で現在もっともよく知られているのは、魚麟と言う陣形だ。これはちょうど矢印の傘の形に軍勢を左右に分けて並べた形で、言うまでもなく魚のウロコのような形状からそのように呼ばれるものだ。攻撃の仕方としてはこの二手の軍勢の片方を甲矢、もう片方を乙矢と分け、左右異なる合図を用いて交互に攻め込み、敵勢に揺さぶりをかけていくと言うものだ。
だが実際、突撃の際にこうした複雑な命令が全軍に行き渡るものだろうか。とにかく大軍で敵を押し包んでしまおうと待ち構える鶴翼の陣に比べると、魚麟の陣の攻撃方法と言うものは、ちょっと複雑すぎるように思える。
「我らもっとも小さな部隊の単位は、騎馬武者に馬廻りだ」
と、虎千代も僕に言っていた。
「一家の当主が馬を駆り、その周りを郎党たちが固め、いくさに臨むのが一般的だ。普通、我ら一手の大将と言うものは、その彼らの動きにそうそう干渉できるものではない」
そう言えば徳川家康が、三方が原の戦いの折に、魚麟の陣形を用いて鶴翼の陣で待ち構える武田信玄と戦ったのだった。あれは信玄の誘き出し作戦に家康が乗る形で起こったいくさだが、徳川家康の戦史上、最大の敗北と言われるいくさになってしまった。
待ち伏せをしようと陣を構える包囲陣形に対して、それを打ち破ろうとする突撃陣形と言うものは、やっぱり本質的に不利なものなのだろうか。
いや、しかしだ。そうした包囲陣形を食い破った密集陣形の攻撃も実例がなくはない。そもそもが、川中島合戦の四回戦、八幡原で上杉謙信がそれを成し遂げているはずではないか。言うまでもなく、それが車懸りと言われる陣形戦術だ。
武田信玄の名軍師、山本勘助の啄木鳥の策略を打ち破り、霧に紛れて妻女山を降りた上杉謙信は武田の本勢にこの車懸りで奇襲作戦をかけたのだ。
このとき、武田信玄は八千余りの軍勢を鶴翼の陣に構え十二段にも渡って敷いたという。しかし謙信の車懸りは容易くその十二段を打ち破り、信玄は自分のいる本陣にまで上杉勢に攻め込まれる大惨事になった。車懸りは、いわば上杉謙信の代名詞とも言える幻の戦術なのだ。
その戦い方は謙信率いる本勢を中心に、丸鋸が喰い込むようにくるくると軍勢を展開させ次々と新手を前線に投入する戦術らしいのだが、その実態はほとんど謎に包まれている。最近では川中島合戦の実相も疑われるようになってこの車懸りも実際に行われたかどうかすら、疑問を呈する声も上がって久しいくらいだ。
この車懸りさえあれば、鶴翼の陣を打ち破れるはず。
でもな。当の虎千代本人に聞いてさえ、そんなものはない、と真っ向から否定されたし。さっきの話のように虎千代は、騎馬武者に馬廻りで編成された部隊を混乱させるような命令はそうそう出来ない、と言っていた。それももっともな話だ。
確かに左右違うタイミングで軍勢に攻め込ませる魚麟に比べると、本陣を中心に円運動を展開させていく車懸りはそれほど複雑ではないように思えるのだが、前線に投入させた部隊を次の新手が回ってくる間に引き上げさせるのは、至難の業なのだ。中途半端な撤退命令はともすれば味方の軍勢と衝突を引き起こし自壊しかねない。
そもそもぐるぐると軍勢を回転運動させることで、次々と新手を繰り出すなどと言うことが戦闘中に出来るものだろうか。考えてみれば、そっちの方が難しいんじゃないか。
黒姫には、山の下で弾正が鶴翼の陣を敷いて待ち伏せしていることは告げてある。虎千代も黒姫たち軒猿衆に弾正の陣容のあらましを調べさせているだろう。彼我の兵力差を越えても、虎千代は来ると言っている。
一体、どうする気なのだ。
疲労感が与える薄いまどろみの中で、僕は思案に暮れた。
でも、ついに結論が出なかった。
翌朝の空は霞が渡った。
身が切れるような寒気の濃霧だ。夜が明ける頃、鼻先に漂う寒気に身体を丸めながら、僕はかすかな雨音を聞いていた。みぞれ交じりの天候不順はここ数日、なりを潜めていたのだが、昨日の夜半辺りからその危うい小康状態が綻びを見せ始めていたのを僕は感じていた。
朝方は完全な曇天だ。この朝霧は夜半降った温かい雨と、大気の寒暖差によって生じた濃厚な水蒸気のせいだ。お陰で弾正の本営は、お互いに数メートル先すらも定かではない有様になった。僕も囚われている陣所も幔幕を出ると、辺り一面真っ白で空を覆う雲にそのまま呑みこまれたかのように感じた。早朝から伝令が飛び交っていたが、自陣の様子も定かではない状態で、この状態ではしばらく戦闘もままならない。こんな中、馬を走らせるのですら自殺行為だろう。そのせいか、朝から弾正の陣営は心なしか動揺しているように僕には思えた。
朝食は、大根の古漬けがふた切れと、重たい粥を菜っ葉と煮込んだ雑炊のようなものが出る。炊事場も混乱のさなか、よく捕虜の僕にまで食事を用意してくれたと思う。この意外な厚遇は、弾正に持ちかけられた取引があってのことだ。その弾正とは、あれから会ってないが、あの血震丸はじめ危険な連中から、それとなく守ってくれているのは何となく、感じていた。でなければこうして敵陣中で生き永らえて朝を迎えることは到底出来なかっただろう。今のところ、僕についている歩哨も交代制で一人ずつに過ぎない。一人なのは、僕の武力がたかが知れたものと思われているお陰でもあると思うが。
朝食を済ませると、今度は沢の水で顔を洗うことまで許された。どうなってるんだろ。僕は指示された通りに食事に使った木椀を水で濯いで返すと、桶に張った冷たい水で埃にまみれた顔を洗った。するとふいに背後に贄姫の声が。
「おはようございます。その様子ではよく眠れたようですわね。顔に似ず、お腹の太きこと」
声も上げられず、背筋が強張った。相変わらず、無駄に人を脅かすことを好む女だ。何とか声を上げずに振り向くと、贄姫は、場違いなほど明るい笑みを浮かべ僕に会釈した。
「朝からそう、怖がってもろうては困ります。心配せずとも、軍令です。うかと手出しは出来ぬ身ゆえ」
そんな言葉が信用できるはずがない。つい昨晩、僕はこの女に刃を突き付けられて、ここまで連れてこられたのだ。そして何より知っていた。こいつは、自分の欲望のためなら平然と越えてはいけない一線を破る人間なのだ。
「信用できない」
僕は間近に迫った贄姫の、色のない瞳を見つめてやっと言った。
「でしょうね。だが、あなたはあなたの今の身分をよくお判りでしょう」
随うしかないのですよ、自分があなたに何をしたとしても。
そう言い聞かせるように、贄姫は意味ありげな視線を浴びせつけた。
緊張する。なにせ、こっちは敵地で丸腰なのだ。
贄姫は昨夜と同じ色の帷子に、真新しい胴丸具足をつけていた。柄には手をかけていないが、腰にはよく手入れされた二刀を手挟んでいる。その気になれば贄姫は自由に、僕を斬り捨てることが出来るだろう。斬った後で理由はなんとでもつけられる。この状況では、贄姫に僕は生殺与奪の権利を握られていると言っても過言ではないのだ。
「そう恐れますな」
僕の緊張を見透かすかのように、贄姫は鼻で笑った。
「正直、わらわはそれほど厭わしくは思わぬようになっています。おのれの命を賭けて、弾正殿に交渉した。そのあなたは嫌いではないですよ。その考え方についてのこと、それに限っては、ね」
臆面もなく贄姫は言うと、屈託なく笑いかけて見せる。相変わらず、魂胆の読めない女だ。
「僕が血震丸の邪魔をしているとしても?」
と僕は薄氷を踏む気持ちで、問いかけた。
「ええ、そのこととは別。無論、わらわがあなたをこの先殺さぬ、と言うこととも、別ですが」
贄姫は手桶の水を一瞥すると、ふと外をうかがう仕草をした。
「さて、この霧の中、鬼姫さまは来ましょうや」
と言うと贄姫は僕の様子をうかがうように、黙った。このとき僕は気づいた。要はかまをかけているのだ。僕から何かいくさに有益な情報を聞き出すために。
「判らない」
僕は正直なところを言った。
「でも、この濃霧だ。虎千代たちは山を降りてくる。この霧では、馬を進めるのも危険なはずじゃないか」
「尋常の場合はね。あの姫さまには、それが通ぜぬ場合がありますから」
それは僕も知っている。虎千代ならやり兼ねない。この霧に乗じて、普通では考えられない血路を拓いて攻め込んでくるのではないか。贄姫が知っている通り、虎千代が率いる越後勢もそうした無茶ないくさには慣れ切った連中なのだ。
「来ればいいとは、思っているよ。でも実際、僕は何も知らされていないんだ」
贄姫の瞳を見つめることを意識しながら、なるべくきっぱりと僕は言った。これは嘘ではないし、虎千代に利するための誘導の言葉でもなかった。この聡い女には、なるべく正直でいた方がいい。ただ、そんな気がしたから言っただけだ。
「信じましょう」
すると意外にあっさりと、贄姫が言った。
「今の状況では、うかつに責め問いも出来ませぬゆえね。確かに、物事には程度と言うものがあります。この霧では、深すぎる」
贄姫は意味ありげに僕を見ると、辺りをうかがった。
「兄も往生しています。朝から先手を撃って遊撃する予定でしたから、弾正殿より出撃の許可を得るのに、苦労なされている様子」
贄姫の言う通りだ。乳白色の濃霧は、まるでこの世界を空白で埋め尽くそうとするかのように、どこまでも居座っていた。
「わらわは兄の軍勢には、従軍しませぬ」
唐突に贄姫が言った意図を、僕はすぐには理解できなかった。
「兄の了承はとってあります。あなたと居ることにしました。どうもそちらの方が、面白そうなので」
贄姫が何を言おうとしているのか、僕にもそれで分かった。彼女も考えているのだ。虎千代が必ず、僕の元へ来ると。
「僕は今、敵陣の奥深くにいる。半分の数の軍勢しか率いていない虎千代が、ここまで来れると思うのか」
「不可能でしょう。しかしそれは尋常のいくさで、ではですが」
贄姫は即答した。これは本当に皮肉だった。虎千代が本陣を突破する。この陣では、僕だけしかそう信じていないことを、敵方の、しかも僕をここまで連れてきた贄姫が同じように予感しているなんて。
「兄は頭が切れるので一笑に伏しましたが、予感や運命が馬鹿に出来ぬことは、戦場ではままあることなのです。あなたの元にいれば、わらわはあの姫さまと再び渡り合える気がするのです。そのときこそ、なんの心残りもなく殺しあえるでしょう」
「前に、言ったと思う。虎千代はそんなことは望んでいない。贄姫、お前はなぜ、執拗にそれだけを望む?」
「なぜと言われても」
これも以前、申したでしょう、と贄姫は苦笑すると、首を傾けた。
「それが一定(すでにそう決められたこと)、運命でござりまするもの。申しましたでしょう。運命や予感は馬鹿には出来ませぬ、と」
やはりだ。虎千代と殺し合う。この鬼姫はそのことしか考えていないのだ。僕はぞっとした。謀略や後の野望がある分、血震丸の方がまだ人間味がある。
「ではまたお会いしましょう。わらわがいるゆえ、警戒が甘いと言ってゆめゆめ逃げることなど考えなさいますな」
そうそう、と、贄姫は去り際思いついたように言った。
「これはお話しておきませぬと。昨晩、陣中で間者が始末されたそうですよ」
僕は、あっ、と声を上げそうになった。すんでで堪えたが、内心が表情に出ただろう。贄姫はそれを満足そうに眺めると、鼻の頭を歪め相好を崩すほどの快心の笑みを見せた。
「三好家から遣わされた堅田殿に見つかり運悪く、相討ちになったそうです。兄はその間者の遺骸を磔にかけ、出陣する予定のようですよ。我らもゆるゆるといくさ見物と参りましょうか」
昨夜、間者が殺害された。
贄姫がもたらしたその報は、さすがに僕を動揺させた。昨夜僕の寝所に侵入してきた、黒姫に会ったばかりだからだ。
それにしても相討ちになったと言う侍は、昨夜、血震丸の献策に反対していたあの三好家から遣わされた堅田と言う武者だ。血震丸は、入り込んだ間者を利用して、自らの不利になる人間をついでに葬り去ったに違いない。相変わらず、水際立った謀略の手際だ。
それから僕は幔幕のうちにまた一人軟禁されたのだが、この濃霧の晴れないうちには、松永の本営も動きが取れないらしく、気配だけでうかがう外側では相変わらず、あわただしく人が右往左往する雰囲気が感じ取れるばかりだった。
贄姫の話では、霧が晴れるのを待たず、血震丸は出撃する考えでいるようだ。人質の僕の代わりに殺害された、間者の骸を十字に架けて。
しかし本当に黒姫、大丈夫だったのかな。何があっても、ちゃっかり自分の命くらいは守っていそうには思えるのだが、見ているとたまに失敗があるので、心配してしまう。
「へまが多いからな…」
そんなことがつい、独り言に出ていたのか、
『だっ、誰がへまが多いですか。真人さんっ、もしかして虎さまの前でいっつもそんなこと言ってたりしやがってるのではないでしょうねえっ!』
黒姫の声が降った。なんだ、まだ隠れてたのか。
「生きてたんだ」
僕は内心の安堵を隠しつつ、言った。
『生きてますですよっ!ったく、真人さんは相変わらず、わたくしの忍者としての沽券を踏みにじる発言ばかりしてくれますですねえ!』
まるで忍者とは思えない馬鹿でかい声で、僕の意識に抗議する黒姫なのだった。
『馬鹿にしてもらっては困りますよ!敵陣にいてぐっすりお休みの真人さんと違い、この黒姫、徹夜で奔走してたのですからねえ』
「…で、間者が殺されたのは事実なの?」
僕はずばり訊いた。それだって、立派なへまだ。
『じっ、事実ですよ…あっ、でも、殺されたのはわたくしと一緒に入り込んでいた早崎衆の方ですからねえ。うちの軒猿衆じゃないですよお』
そんなことはどうでも良い。大事なのはその顛末だ。
早崎衆の間者が入り込んでいたのは、やはり血震丸の陣中のようだ。黒姫のもとに来た報告によると、血震丸の陣には大釜が据えられ、一帯は不気味な薬物臭が立ちこめていたと言う。夜半、そこに戸板に乗せられてある異様な物体が運び込まれたのを、その間者は見ていたそうだ。
『それがどうもあの、知切狠禎のようなのですよ』
虎千代と相対した、あの邪教集団の頭目だ。狠禎は虎千代に討ち取られたはずだ。狠禎は虎千代の必殺の太刀を全身に数十か所も受けて、やっと斃れたのだ。戸板に載せられ運び込まれていたのは、その無惨な遺骸に過ぎない。はずなのだが。
「狗肉宗どもは、狠禎の亡骸を葬ったか、そこでまた異様な催しが夜通し行われたようなのですよ。狠禎の遺骸だけでなく、奴らは戦場で死んだ他の狗肉宗の戦士たちの遺体も、一体余さず回収したらしいのです」
さらに奇妙なのは彼らがそこに、道端に放置された雑兵たちの遺体も運び込んだことだと言う。
その報告の直後、早崎衆の少女は行方を絶った。
翌朝、堅田と言う侍の寝所で斬り合って斃れているのが発見されるまで、その消息は誰も知らない。
『恐らく行われたのは、ただの邪教の儀式ではなさそうですよ』
と、黒姫は自分の見解を語った。
『真人さん、憶えてますですか。血震丸が自分の義父をも人体実験に供したあの異様な秘薬の数々。あれは、どうも狗肉宗が与えたものらしいのですよ。わたくしもその幾つかはあらましを掴んではいるのですが、まだまだどんなことを奴らが企んでいるのか、想像もつきませんです』
若者から老人まで、自在に容貌を変える薬。仮死を装う薬。そして、人間の耐久力や運動性を獣並みに強靭に変える薬。これまで僕たちは血震丸が現世に引き出し悪用した、霊薬の数々を目の当たりにした。
黒姫が言う、状況から考えて恐らくは昨晩も、その作業が行われたらしい。虎千代に斃された頭目、知切狠禎の遺体がわざわざ運び込まれたことといい、何とも得体の知れない話だ。
その直後だ。
出撃を知らせる鳴りものの音がしたかと思うと、辺りが急に騒然とした。何かあったのか。僕は、口の中でぽつり自問した。黒姫の気配はそれよりずっと前に消えている。
「さあ真人殿、わらわと行きましょう」
贄姫が捕縄を持った歩兵とともに、姿を現したのはそれから少し経ってからのことだ。
「兄の軍勢が出るのです」
と、贄姫は言った。確かにこの雰囲気は、出陣の気配だ。
「どこへ連れていく気だ?」
自然、僕の声は強張った。
「弾正殿の御前に」
贄姫は言うと、僕の顔を探るように見上げた。
「そう怖じなさいますな。いきなり、首をはねたりは致しませぬ。弾正殿の慰みですわ。真人殿に、あの鬼姫が囲み殺されるところを存分に見せてやれと」
腰縄をつけられた僕はそのまま歩かされ、弾正の元に引き立てられた。
「おお、来たか」
僕の姿を見かけると弾正は、ひとり杯を持ち上げてみせた。陣中の小高い場所にある老い松に番傘を立てて席が作ってある。たしなんでいるのは無論、茶ではなく酒だ。干し魚に菜を刻んだ味噌、干し豆などの皿が置かれていた。
「どや。少しは考え直したか」
僕は硬い表情のまま首を振った。弾正が激昂するのは覚悟だったが、
「そうか。気持ちは変わらんか」
甘ったるい息を吐いた弾正は、一瞬、温度の低い目で僕を一瞥しただけだった。
「まあええ。今日はいくさにもならんただの囲み殺しや。この席も本陣になく、憂さ晴らしの見物に過ぎん。おのれもとっくりと見ていくがええわ。今に一つずつ、お前の知った首をここへ並べてやろうほどにな」
ぞっとするようなことをさらりと言うと、弾正は杯を上げた右手を丘の彼方に向ける。見ろ、とでも言うのだろう。僕は、その場に立ち尽くして彼岸を臨んだ。
そこで初めて僕は弾正がこの川洲に構えた鶴翼の陣の全容を見たのだ。
それはまるで、絶望を象徴するかのような黒く硬い、人の波だった。
薄く霧の残る、川洲を染めあげようとするかのように軍勢がひしめいている。一万人のどよめきがおぞましい人気で大地をどよめかせ、圧倒的な殺気の群れがここまで届いてくるかのようだ。
僕は愕然とした。
こんな大軍を、虎千代は相手にしなければならないのか。
「よう見い。虎姫ちゃんたちが出てくるのはあそこやろ」
と、弾正は北西の森の口を指した。その目を凝らしてみるとそこに、ちょうどハの字型に土塁のようなものが築かれている。
「あの辺に三百。飛び道具の得意な連中が伏せてある。右と左から鉄砲と弓の雨あられや。勢いに乗って突っ込んできた連中にはええ挨拶になるやろ。鞍馬山ではおれも撃たれたさかいな。返礼の準備は十分に整っておる」
まだまだあるで、と弾正は得意そうに待ち伏せの段取りを僕に披瀝する。
「出鼻を挫かれた連中やが、その頃には逃げるにも逃げられんようになっとるはずや。後から後から山を降りてくる味方の軍勢に押されて、まずは退けん。そこを今度は、揃いの番槍を構えた槍衾の二段が迎える。これで騎馬武者はほぼ一網打尽やろ」
あとは、と弾正は言う。進路に手こずるうち、迂回した血震丸の軍勢が退路を塞ぎ、越後勢を完全に袋の鼠にしてしまう。そこからは一気に数で押し包んで追い首を狙う。
「その頃にはおのれの見慣れた馬廻りの連中や、あの虎姫ちゃんの首も届く頃やも知れんな。今の時刻からなら、もって昼過ぎと言うところやろ。昼餐の肴は決まったようなものやな」
この構えにはまれば、もはや命はない。
(虎千代)
どうする気なのだ。
「血震丸の話によるとおのれも少し、策を覚えたらしいな。名案があるなら言うてみい」
どうや、と言うように弾正は酒臭い息でけしかけてくる。
(どうしようもない)
そう、首を振らずにいるのが精いっぱいで僕は立ち尽くすしかなかった。
(いくら虎千代だって無理だ)
悔しいとは思いながら僕も弾正に反論することが出来ず、ただ眼下にざわめく殺気の波濤とそれを取り仕切る弾正と言う男の顔を、無言で見続けるしかなかった。
「そうやろ。もうこれで終いや」
弾正はその顔こそ見たかったのだと僕と贄姫に何度も放言しては高笑いを弾けさせ、酒を喰らっていた。
「兄の軍勢が出ますよ」
と、傍らの贄姫が僕の肩を小突く。黒い軍勢の波を掻き分けて砂煙をあげるように、血震丸の手勢が進んでいく。無惨な犠牲者を十字架に掲げる獣の群れは、もはやこの世のものとは思えないおぞましさだ。
「よくご覧なさいましな」
何かに気づけと言うように、贄姫はあごをしゃくる。僕は目を凝らして軍勢を見直した。
するとだ。
(あれは…)
人ならぬ獣たちの頭に馬を進めた一騎の侍大将がある。利き手に握られた禍々しい武器とその特徴的な兜の前立てを発見したとき、僕は絶句した。
知切狠禎だ。
紛れもない。あの巨体は二つとないはず。でも狠禎は昨日のいくさで虎千代に殺されたはずじゃないか。
そうか。昨夜秘かに執り行われたと思われる、異様な作業の正体は。
だが、狠禎は遺体だ。手の施しようもないはずだ。
(…まさか)
ありえない。死者を蘇らせることなど。では、でなければあれほどに傷つけられたあの巨体は、どうして今、動いているのか。
贄姫は僕を愕かせただけで、答えをくれなかった。お前が今感じている、不吉にしておぞましい予感こそその答えだと言うように、澄ました瞳で陣容を見守っている。
「さて」
と、贄姫は白々しい声を上げた。
「そろそろ山中で、何やら動きがありましょうや」
山野で戦闘が始まったのか、火薬の炸裂音のようなものが木魂したのは、そのときだ。断続的な低い地鳴りは地の底から沸かすように空気を揺るがし、遠くここまで衝撃の強さが伝わってきそうだった。
「報告はまだか」
杯を置いた弾正は、左右に何度も問いかけた。そのたび斥候が走って行ったが、深い森に隠れた戦況は、中々掴めない。
「連中が仕掛けた罠に嵌まったんやないやろな」
じろり、と弾正は贄姫を睨みつける。
「さて、どうでしょうか」
しかし、この鬼姫はそんなことでたじろいだりはしなかった。
「おのれらが上手くやる、と言うから任せたんや。昨日の二の舞は御免やぞ」
「兄とて策士です。昨日の手合わせで夜中、越後勢が罠を仕掛けておる程度は承知しておりましょう。それに狗肉宗は、一晩で出来る程度の罠は噛みつぶして進む連中です」
「ほんまやろな」
弾正はうかつには信じないが、贄姫も動じない。
結果的に、贄姫の観測が当たっていた。ようやく到着した一番物見の報告によると、あれは血震丸が虎千代たちの仕掛けた罠を破壊している音だと言う。さすがに昨日、直江景綱が作った山中の罠に手こずらせられただけに、血震丸たちも罠に備えている。
「長尾の鬼姫さまらしゅうない」
贄姫はそれを聞き、聞えよがしにため息をついて見せた。
「姑息な時間稼ぎですわ。よほど、平地合戦が億劫と見えます」
「そうか」
弾正は邪悪な笑みで片頬を歪ませた。
「まあその気持ちはわからなくもないわ」
罠、と言えば弾正がもっと大きく禍々しい罠を仕掛けている。そのためか弾正は、悠々と酒を煽り、僕や贄姫に愚痴や軽口を言っては、さらに一時間ほどを過ごした。
しかしその戦況が、一つの報告で一変することになる。
「虎千代たちが消えた」
と言う最前線の報告がもたらされると弾正はついに、顔色を変えた。血震丸たちが捜しても、そこにいるはずの長尾勢はなんと影も形もないのだ。僕も正直耳を疑った。
「阿呆言いな。よう探せ」
血震丸たちも血眼になっている。だが、すでに山野に人の気配はなく、無人の罠が炸裂する音が響いてくるだけだった。
「人質を置いて撤退したか」
じろり、と弾正は真人を睨みつける。敵情を鑑み、兵を退く。戦略上、間違った決断ではまったくない。やがて次報が続々届く。しかしそれは弾正の期待をことごとく裏切るものだった。
「虎姫、どこへ行った。人質置いて、尻尾巻いて逃げおったか」
「仕方ありませんわね」
と言うと、贄姫は柄に手を当て、僕を見た。
「薬が効いていないようですから、耳くらい送って返しますか」
「待て」
苦虫を噛み潰したような顔で、弾正はそれを留めた。
「お前。分かるやろ。虎姫は来るのか、来ないのか」
(それは…)
僕にも判らない。弾正に詰め寄られても僕は首を振るしかなかった。何しろ虎千代は一人だけじゃないのだ。五千人からの命を預かっているし、戦略的判断は、直江景綱や柿崎景家と言った歴戦の名将たちと判断して決めるだろう。そのときは、弾正に血祭りにあげられても仕方がない、と、思うしかない。
それでもだ。
虎千代は絶対来る、そう言っていた。
僕自身の手で、あのかんざしを返してくれ、と。
(信じるしかない)
彼女の意志を。
僕は最期の瞬間まで、それを諦める気はなかった。だから、ただここで、それを待つしかなかった。
もしかして、虎千代は来ないのではないか。
綺麗さっぱり虎千代たちの軍勢が消えてしまったと言う続報が届き、僕の意志が揺らぎかけていたそのときだ。
「ついに虎千代の野陣を発見した」
その続報は、弾正を席から立たせた。
「手こずらせおって。で、血震丸は虎姫をあぶりだしたか」
「そ、それが」
しかしそれは空っぽだったと言う。中身はとっくの昔に退き払われていた。長尾家の九曜紋の入った幡幕の中には、煌々とかがり火が盛っているだけだったと言う。まるで軍勢だけがそっくり消えてしまったかのように、ひと気の絶えた野陣には旗指物も床几もそのまま残されていた。
「なんや。これはっ、一体っ、どう言うことなんやっ!」
困惑する報告の兵を、弾正も錯乱気味に怒鳴りつけている。どう言うことだ。やっぱり、虎千代たちは完全に鞍馬山に退いたのか。罠を張り、追手を足留めし、野陣をそっくり残したまま。しかし、なぜ本陣にあるものを何もかも置いて消えたのか。それほど急いでいたにも関わらず、罠だけはしっかりと設置してか。やはり何か裏があるのか。
(ただの撤退なんかじゃない)
僕は必死でその意味を考え続けた。
「おい、おのれ。お前なら分かるやろ!」
弾正は怒りで顔をどす黒く鬱血させて、僕に詰め寄った。
「どうなんや、虎姫は!逃げたのか!それとも、まだどっかにおるのかっ!」
「…旗は」
そのとき。
僕の口をついて出たその言葉は、ふとした思いつきとしか言いようがない。
「旗はどうしたんだ?」
「旗やと」
弾正は怪訝そうな顔をすると、僕を見直した。
「旗がどうしたんや」
「突撃旗だ」
僕は思いつくままに言った。
「あの突撃旗もそのままだったのか。乱れ懸り龍の旗は」
あの旗、乱れ懸り龍の突撃旗は。
上杉謙信率いる長尾勢が生涯、突撃の際の目印としたものだ。いわば虎千代がいる本陣がここにあると言う象徴なのだ。
その旗を置いて、虎千代が撤退すると言うことはあり得ない。
「龍の一字の書かれた旗や。それが現場にあったのかないのか」
弾正は今度は報告者を引き出して詰め寄った。
「そ、それは」
斥候は不承不承に首を振るばかりで、答えを持たない。さすがにそこまでは確認する暇がなかったのだろう。しかし同じ疑問は最前線からもたらされた。血震丸だ。かつて長尾家にいた血震丸もまた、乱れ懸り龍の虎千代の突撃旗を知っている。
「あれを棄てて、あの姫が逃げるはずはない」
(来る)
それで、僕は確信した。
虎千代は撤退したのではない。翌日の待ち伏せを予想して夜間のうちに、山から移動したのだ。夜が明けきらないうちに敵の裏を掻いて。しかしなんと無謀な作戦行動だ。あの濃霧が立ち込めている最中、長尾勢は死を決して山を降りたのだ。普通の軍勢の常識はあの連中には通用しないのか。
霧に乗じて下山した虎千代たちは今や完全な奇襲部隊だ。ここへきて完全に弾正たちを翻弄し、逆に襲撃の機会をうかがっている。
なんてことだ。
あの絶対不利な形勢が、みるみるうちに逆転した。
「あの虎姫がもう山を降りているやと」
血震丸もついに勘づいたか、僕が考えたのと同じように、弾正に報告を寄越している。
それを聞き弾正は、呑気に一人酒と言う場合ではなかった。
「捜せ捜せ、腐っても五千の兵やぞ。見つからぬはずがあるか」
弾正は叫び散らすとあわてて方々に状況を知らせ、捜索の命を出すために何人もの使い番に状況報告を持たせ走らせた。
そのときだ。
うわあっ、と言う津波のようなどよめきが、本陣を包みこんだ。その波のような騒ぎは大きな動揺となって、辺り一帯に地鳴りを響かせ続ける。その不穏などよめきに、僕の身体の奥も何かが波立つようにうねった。不測の事態が、ついにこの本陣でも起きたのだ。
「なっ、なんや、喧嘩か」
最前線への指示書をしたためていた弾正は床几から飛び上がり、辺りに叫び散らした。
「こんなときに詰まらん騒ぎ起こすなや。岩豊、岩豊はどこや」
弾正は唾を飛ばして義弟の岩豊の名前を呼んだ。岩豊はすぐに駆け込んできた。僕はその様子を見てはっとした。その岩豊が血相を変えて飛び込んできたことに、弾正はしばらく気づいていないのだ。
「岩豊、喧嘩騒ぎや。とっとと鎮めてこい。こっちはそれどころじゃないんや」
「弾正様」
と言ったきり岩豊は絶句している。その顔から血の気が引いているのを、弾正はようやく気づいた。
「本陣に、敵襲にござりまする」
今度は弾正が絶句した。
「偽りを申すな」
「いっ、偽りになく」
完全に虚を突かれた弾正が引き攣った面持ちで目を剥く中、岩豊は驚くべき事態を決定づける一言を吐いた。
「長尾虎千代、すでに襲来してござりまする」




