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戦国恋うる君の唄  作者: 橋本ちかげ
Phase.8 ~決死の迂回作戦、確かめ合った気持ち、車懸りの正体
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決戦を前に遭難!?謎の狙撃兵に、二人きりの夜に…?

剣を取れ。

急所に突きつけた刃の殺気とともに虎千代が発した言葉は、贄姫の骨身を揺るがしたに違いない。彼女は、剣を取れと言った。だが実際のところは、贄姫が欠片でも怪しい動きを見せたのなら、ただの一刀でその首を飛ばしえただろう。

絶対有利と思われた状況が、完全に逆転したのだ。贄姫の動揺は大きかったはずだ。しかしさすがに贄姫だ。太い静脈を浮かせ蒼白に引き攣らせながらも、目線を虎千代から反らすことはない。

「無駄なあがきはやめなさい」

贄姫は、怒りで赤らんだ目で虎千代を睨み上げた。

「ようく考えることですよ、鬼姫さま。ここから、戻れるとお思いですか?ここはもう、あなたがたの戦場からはるかに離れた場所ですのよ」

嘲笑う贄姫に、虎千代は平然として応えた。

「それはおのれを斬り捨てた後で考えても、同じことよ」

贄姫の揺さぶりにも、その剣は微塵も動揺を見せない。

「わらわを斬っても、まだまだ追手はいる。わらわの手勢が必ずお二人を駆り出し、首を上げることでしょう。生きて帰れるわけがありませんわ」

「常に死すると決めて出るが、いくさ場の習いよ。おのれも弁えておろうが」

「ふん、おのれの身はどうでも越後からはるばる呼び寄せた手下の命は、かわいいでしょう。今頃は兄上が手勢に引き出され、揉みつぶされておりましょう。このいくさ、もはやどうあがいても、あなたの負けです」

贄姫は完全な丸腰だ。それでこれだけの啖呵を切れる気迫も凄まじいものがある。

「手勢を引かせよ」

大仰なため息をつくと、贄姫は僕たちから手を引くよう、合図を出した。頃合いを見計らって虎千代は、僕に言った。

「真人、この女の両手を縛れ」

僕は虎千代の言うようにした。贄姫の両手を後ろ手に縛り上げると、身動きが出来ないようにし、虎千代と一緒に馬の尻に押し上げた。

「何をされても、元の道は思い出しませぬわよ」

虎千代は冷淡な目で捕虜になった贄姫を一瞥すると、鼻を鳴らした。

「おのれが言うことが、信じられると思うか。おのれにはただ、この謀略の応報を受けてもらうまでよ。我らと同じ目に遭ってもらおうか。むざと殺してたまるものか」

僕たちは馬を駆って、山道を再び走り出した。そして幾度か坂道を上下し、道を外れたところで適当に見つけたひと際太い樫の幹に贄姫を縛りつけると、そこに放置したのだ。


贄姫に、見事にはめられた。

一体今、どこにいるのか。まったく判らない。

とりあえずがむしゃらに山道を巡ったが、不安は増すばかりだ。

「案ずるな。はぐれても必ず会える。黒姫もこの山にいれば、今あらゆる手立てを講じているはずだし、この場合、なるべく小高い場所へ行けと早崎衆とも打ち合わせてある」

たぶん、一番焦っているのは虎千代だ。でも、僕を気遣うように、何度もこう言ってくれた。

辺りは見渡す限り、木。鬱蒼とした山林しか見えない。はるかに見える山の稜線は幾重にも重なり揺るぎもせずそこにあるだけだ。ここが戦場と隣り合っているとはまるで思えない。姿の見えない野鳥の声や、風で揺れる葉鳴り以外は、何も聞こえてきそうにないのだ。僕たちは無言で、峠を上った。小さな坂道を下り、また上がったりして進むだけ進んだ。勾配が険しくなる頃、ようやく辺りを一望できる広場に出た。

「谷合いに川が見えぬか」

と、虎千代は言う。地図的に言えば、鞍馬山には二流、大きな川が流れている。片方を鞍馬川と言い、もう片方を貴船川と言うのだが、それが山を取り囲むような形で流れ、Y字形に合流し、京都市内の鴨川に流れているそうなのだ。ちなみに川の合流地点を貴船口(きふねぐち)と言う。黒姫の観測では、現在の京都府北区辺りから進攻した松永勢は貴船口にある貴船神社周辺に溜まり、山上を攻撃する本陣を張っているのではないか、と言うことだ。

しかし何しろ、この辺りは狭隘な山地だ。山底をえぐるように流れる、二つの川は、山上からは森に隠れて中々見えづらい。僕が目を凝らしていると、

「あれは」

と、虎千代が緊張した声を上げた。はるかな山肌の方角から大きく、黒い煙のようなものが上がっている。もしかしたらあそこで戦闘があったのかも知れない。しばらく見ていると、山腹から似たような黒煙が二筋、三筋と立ち上り、陽炎で空を揺らめかせた。

「大和め。火薬を使うているようだな」

直江景綱が山中に仕掛けた罠が、効果を発揮しているようだ。景綱はこのえに命じて無尽講社から大量の火薬を仕入れていた。火薬を使った罠については、僕自身もいくつか説明を受けている。鉄砲はまだしも、すでに応仁の乱以前から日本の軍事にも大陸渡来の火薬兵器が導入されているのだ。

景綱が見せてくれたのは、鍋状の扁平の土器に火薬を詰めた焙烙(ほうらく)と言う手投げ爆弾や、堤を押し崩して土砂や丸太などを軍勢に浴びせかける地雷などだった。いずれも最新鋭の装備で来るはずの松永勢に対抗したものだった。

虎千代は僕を振り返り、言った。

「あれならば数日は保とう。ひとまずは安心よ」

僕たちは方角を確認しながら馬を進め、やがて眼下に川筋が見える位置までやってきた。恐らくはそれが貴船川だと言う。鞍馬山の西側を流れる一流だ。虎千代はここで、地図を広げた。黒姫と目的地にしていた場所がすでに近くにあるはずなのだ。もしかしたら、僕たちと合流すべく、黒姫が周辺に到着している可能性がある。

崖下を流れる川をさかのぼるようにして、しばらく行くとそこに杣人(そまびと)のものと思われる小屋が見えた。虎千代が言うに、この辺りだ。僕が小屋に近づこうとしたときだ。

「真人、止まれ」

虎千代の声で僕がはたと足を止めたのは、小屋から何者かがのっそりと出てきたからだ。そこにいたのは僕と背丈が同じほどの、まだ年若い少年だったのだ。

「この山の者か」

少年はこくりと頷いた。泥で汚れた白瓜のように面長な顔の切れ上がった小さな瞳が、せわしなげに僕と虎千代を見た。たぶん年齢は僕より少し下だと思う。目の粗い麻の着物の腰に隈の毛皮を巻きつけている。

「他に誰かいるか」

少年はゆっくりとかぶりを振った。大人はいない、と言うようなことをぼそりと付け加えた。察するに、山道の案内役として侵攻してきた松永勢に拉致されたのではないだろうか。虎千代は馬を下り、慎重な動作で脇差を鞘ごと抜くと、少年に差し出した。

「道案内の代だ。里へ行けば、相応のものと替えてもらえる。これで案内を務めてもらえぬか。我ら、行きたい場所がある。安心してほしい、我ら、乱妨狼藉の類はせぬ」

少年はその脇差をじっと見つめていたが、やがてそれには手をつけずになぜか小屋の方へ戻っていく。僕と虎千代が不審そうに顔を見合わせていると、やがて少年は支度をしてきたのか、腰に山刀一本差してもう一度出てきた。しばらく行って無言であごをしゃくったところを見ると、ついてこい、そう言っているようだ。

ひどく無口な男の子だった。虎千代だけじゃなく行きたい場所を説明するのに僕も何度か話しかけたのだが、一度も返答をもらえなかった。過酷な山間を生きる杣の子供にしては色白でひょろりとした体格をしているのだが、さすがに慣れているらしく、木を伝う猿のように険しい道をどんどん進んでいく。道が険しくて馬を下りざるを得なかったので、僕と虎千代は着いていくのがやっとだった。

しかし何とか助かった。虎千代と一緒とは言え、右も左も判らない、五百年前の深い山道で迷ったなら、二度と人里に出て来れなかったところだ。やがて少し開けた場所に出ると、虎千代は何かに気づいたように地図を広げた。

「うむ、黒姫の手はず通りなればこの近くのはずぞ」

虎千代の話では、地理的特徴からしてもこの辺りに黒姫が決死隊の集結地点にしているはずの拠点があるはずだと言う。山家の小屋に見せかけてあるそれは、人目につきにくい崖下にあるようだ。少年が案内してきたのは、確かにそのような山肌のえぐられた崖下のようだった。

この辺りに来ると、火薬の炸裂する音だろうか、はるかな衝撃音が断続的に聞こえるようになってきた。戦場がほど近いことは、間違いない。

ここまで来ると少年は早足になり、みるみるうちに藪の中に消えた。あわてて後を追って行くと、大きな洞のようになっている土手の下、確かに小屋らしきものが見えた。

「あそこかな」

虎千代が頷くので、僕は自然と早足になっていた。ようやく助かった。そんな安堵感で胸が一杯だったのだ。正直に言ってこのとき僕は、少年が藪の中に消えたまま、そのまま姿を現さなかったのを不審には思わなかった。敵兵を気にせず、屋根のある場所で休める。油断が警戒心のハードルを一気に下げさせた。馬を曳きながら、僕は虎千代から少し遠ざかっていた。

「真人っ、臥せよっ」

虎千代の厳しい叱咤が何を表したものか、一瞬、理解が出来なかった。

パーン、と言う火薬の炸裂する音がやけに近くに響いたと思った瞬間、右肩を前から思い切り誰かに突き飛ばされた感じがした。その勢いで僕は倒れ込み、尻もちをついた。何が起こったのか。それは、軽いめまいとともに耳に残る不穏な風切り音の残響と、キーンと言う金属質の耳鳴り、右肩の焼けるような激痛で初めて分かった。

撃たれた。

火縄銃だ。僕は、狙撃されたのだ。まさか。信じられなかった。さらに銃声が響き、僕は今度は地面に顔をぴったりとくっつけて身体を強張らせた。狙われている。恐怖がそのときになって加速度的に胸に突き上げてきた。

「どうしたっ、どこを撃たれたかっ」

虎千代の声がする。そうだ、僕は撃たれたのだ。右肩を吹っ飛ばされた。あわてて僕は反対側の手で銃創を抑えた。

肩は。まだあった。弾丸は肩の小鰭を千切れ飛ばしたようだ。傷口は。痛い。それだけで、何がどうなっているのか判らなかった。赤黒く濡れた片袖の中でどろりと熱い血が流れ、どくどくと脈打つ感触がする。弾丸は肉の中に入ったままか。それとも、肉をそぎとって上手く逸れていったのか。どちらだ。いまだに、肉が焼けている感じがする。火薬で灼けた鉛弾が食い込んでいるせいなのか。もしかして。死の一文字が頭に浮かんだ瞬間、僕はパニック状態になって叫びだしていた。

「うわああああっ」

「落ち着けっ」

次の瞬間、ぐいっと襟首を掴み上げられ、僕は強く頬を張られた。虎千代だ。虎千代が助けに来てくれたのだ。僕は手を差し伸べてくれた虎千代にしがみついた。

「うっ、撃たれた」

「大丈夫だ。この程度で死にはせぬ。気を落ちつけて、ゆっくり立つのだ」

僕は無言で頷いた。力強いその腕に支えられて、僕は何とか起き上がった。虎千代の死なないと言う言葉に、このときの僕はしがみつくように従った。

「あやつめ、敵だった。どうやらこの辺りに鉄砲を隠してあったようだ。矢継ぎ早に撃ってくる」

やはりあの少年は敵だったのだ。当時で足軽十人分の給与に相当する高価な火縄銃を装備している時点で、ただの杣の子供じゃない。しかし少年の狙撃兵とは意表を突かれた。

弾丸は断続的に、だが確実絶えることなく、こちらへ飛んできた。銃は一丁だけじゃない、と、虎千代は言う。火縄を挟んだ数丁の銃を用意してとっかえひっかえ、撃ってきているのだ。うかつに飛び出そうと動きを見せると足下の泥が弾け、弾丸がめりこんだ幹や枝の木屑が弾け飛んできた。それらは確実に、僕と虎千代の命を狙ってきていた。

「走れるか」

僕は乾いて引き攣った咽喉を押さえながら、無言で頷いた。

とりあえず、何も考えられなくなるほどの恐怖はようやく収まった。でも、いきなり心臓を手づかみで握りしめられたような、あのぞっとした感じは命の危険を警告し続けるようにいぜん、胸の中で早鐘を打ち続けていた。

もしあのとき、万が一当たり所が悪かったら。あと少しだけ、銃口に向かって身体が開いていたら。すべてはただ、運だ。どうにか今の一瞬を、生き残ることが出来たのは。考えてみれば、虎千代はずっとそんな感じなのだろう。こんなに恐ろしいプレッシャーの中を虎千代は、平然と戦場に立ち続けているのだ。

「ゆくぞ」

虎千代は僕に向かって反対方向へ走るよう目くばせをすると、自ら射線に飛び出した。標的をばらつかせて狙撃手を躊躇させる腹積もりなのだ。しかし無謀だ。僕はずっと、飛来してくるオレンジ色の火花から、狙撃手の居場所を突き止めようと目を凝らしていたが、少年の狙撃兵の小さな身体は、どこかへすっぽり隠れてしまっている。ぐずぐずしていると、虎千代が標的にされるのでやむなく僕も走ったが、いつまた身体を突き飛ばされるかと思うと、気が気ではなかった。

腰を屈めて僕は、移動を続けた。やがて銃声が遠くなったかと思うと、後はがむしゃらに走って大きな木の陰に隠れた。火縄銃は装填に時間が掛かるのはもちろん、現代銃と比べて発射のための装備品が多い。射程を外せば、中々追いついては来ないだろうと言う目算があったので最後は走ったのだが、いつ後ろから頭を撃ち抜かれるかと思うと、気が気ではなかった。やっと命を拾って僕がほっとしていると、怪我をしていない方の肩をぐっと掴まれた。

「わあっ」

「すまぬ、驚かせたか」

なんだ、虎千代だ。違う方向に逃げたはずなのに、いつ追いついてきたのだろう。信じられない。僕より危険な射線に出たのに、虎千代はまったく傷を負ってはいなかった。こう言うのって、やっぱりとてつもない武運と言うやつ、なのだろうか。

「もう銃声は聞こえぬな」

虎千代は幹から顔を出すと、辺りを見回した。

「銃は不慣れよ。だが弓矢と違い、足取りは重いと見える」

確かに、気がつくと銃声は途絶えている。代わりに聞こえるのは沢の音だ。どうやらかなり降りてきてしまったようだ。虎千代は慎重に辺りをうかがいながら水音のする方向へ降りていくと、やがて冷たい沢の水を汲んで戻ってきてくれた。

「あ、ありがとう」

僕は夢中で渇いた咽喉を潤した。水は冷たい、と言う感触しか分からなかった。けど、気持はやっと落ち着いた。今度こそ何とか、逃げきったのだ。

「危なかったね」

ああ、と、虎千代は頷いた。だが、と言いながら辺りを見回すと、

「だがお陰でさらに迷った。さっき川へ降りてみたが、人の気配もない。松永の陣も鞍馬山の戦場も遠いようだ。これでは、どこへ行けばよいのか分からんな」

そうだ。命からがら逃げてきたはいいけど、敵に誘導された挙げ句、滅茶苦茶な道のりを行ったせいで僕たちは、さらに迷ってしまったのだ。

「もうあそこには、戻れまい。馬を離して来てしまったし、地図も喪った」

あっ、と僕は声を上げそうになった。狙撃されたとき、僕は曳いていた馬を離してしまった。僕の装備のほとんどは、虎千代の荷物とともに馬に結びつけてあったのだ。

「さて、どうしたものか」

ふと気がつくと空はもう、夕暮れの気配を含んでいる。

「これは本格的に迷い込んだやも知れぬな」

暗くなりかけた森を前に虎千代は腕を組んで、大きなため息をついた。


陽が暮れる頃、山はますます暗くなり僕たちの行動の自由を確実に奪っていった。もしかしたら敵陣に入ってしまうかも知れない状況下では、うかつに火を灯して夜間動くのは危険だ。黒姫と打ち合わせた地点まで迫っていたことを考えても、無暗に動いてさらに迷ってしまうことは結果的には墓穴を掘ることにもなりかねない。陽が落ちきる頃には、僕たちは野営の準備を始めた。人目につきにくい洞を探して、暖をとるために火を起こした。

「傷を見せてみろ」

と、虎千代は言った。僕は鎧を脱いで、血で固まった袖から腕を抜く。

「弾は入ってはいないな」

ひと目見て、それは僕にも分かった。不幸中の幸いだ。出血が派手だったのでどうなることかと思ったのだが、弾丸が鎧を千切りとっていった際に、かすかに肉を傷つけただけらしい。虎千代は消毒用の焼酎で傷口を洗うと、血留めをつけてくれた。晒し布で患部を抑えて縛ると、痛みはあったが出血はほとんどなくなったように思える。

「傷が熱を持つやも知れぬ。黒姫なら、よい薬を持っているのだが」

虎千代は僕を心配してくれたが、今のところ行動するのには問題はなさそうだ。

「黒姫たちはどうしているかな」

黙っていると不安が募るので、僕はつい、聞いてしまった。

「あやつのことだ。贄姫にやられるようなへまはせぬとは思う。どんなに時間は掛かっても、必ず我らを探し出すだろう」

虎千代はあわてず、淡々と火を起こした。鉄兜に注ぎ込んだ湯が沸くのを待っているのだ。腰兵糧と言う、携帯の食糧だけはどうにか手元に残った。湯があれば、どうにか調理に堪えるので今夜分の食事くらいは何とかなりそうだった。

「食欲はあるか」

僕は頷いた。水温が上がるのを見すまして虎千代は、具足の腰に結びつけてあった縄を脇差で刻んでいれる。その縄は芋茎(ずいき)で編まれたもので、濃いめの味噌で煮つけて硬くなってある。普段は縄のまま携帯しておいて、必要なときにはそれを刻んで湯で戻す仕組みになっている。これに、硬めに炊いた屯食(とんじき)(おにぎり)や干し飯を入れると、立派な一食として成立する。戦国時代、武士たち必携の携帯食糧のうちの一つだ。

「ほら、出来たぞ」

もうもうと白い湯気がたなびく木椀を、僕は虎千代から受け取った。ふんわりと漂う味噌の匂いで今まで麻痺していた感覚が、急速に取り戻されてくる。

「味はどうだ」

「美味しいよ」

僕は熱い汁をすすりながら言った。確かに塩気は強いが、熱い湯を足しながら身体に入れると、冷え切って疲れた身体に沁み渡る。

「そう言えば、虎千代の作ったもの初めて食べたな」

何気なく言ったのだが、虎千代はどきっとした顔をして目を丸くした。

「わっ、わたしだって女だ。人並みの家事くらい、自分で出来る。今は黒姫たちが世話を焼いてくれるが、幼き時より仏門に育ったゆえ一通りのことは、一人でやれるのだ。…掃除に洗濯、着物だって繕えるぞ。しょ、食事だって、かような野戦食ばかりでなく、芋煮や魚の煮つけとか、おみおつけくらいは」

「くっ」

不覚にも僕はくすくす笑ってしまった。だって台所に立って虎千代が料理をしている姿が、まず想像できない。基本的には家事とは無縁のお姫さまであることを差し引いても、本人にまったくそぐわない光景だ。もちろん戦場では、ひと通りのことを自分で出来ないと暮らしていけないだろうから、虎千代にだって出来ないことはない、とは思うのだが。

「うううっ、無礼ではないか。なぜ笑うかっ」

虎千代は顔を真っ赤にして、咳きこむほど笑った僕に迫ってくる。

「だってさ。虎千代はお姫さまじゃないか。戦場は別かも知れないけど、普段の家事は、自分でしなくてもいいはずだろ」

黒姫ならいざ知らず、白い割烹着を着ておさんどんしている虎千代なんて全然似合わない。僕が虎千代をからかっていると、

「何を言うか。…わたしも妻になれば、夫には、手ずから膳部を整えてやりたいものではないか」

今度は僕が、どきっとさせられる番だった。

「都上臈の娘ならばいざ知らず、わたしは(ひな)姫御前(ひめごぜ)よ。わたしの母上も、父上の陣触れ、帰陣の際には手ずから馳走を用意したものだった。わたしもそのようにするのが、憧れでもあったのだ。なにしろ、わっ、わたしの旦那さまになる人だからな…」

そこまでで限界だ。僕たちは顔を熱くして、泳いだ目を背け合った。気まずい。いつもだったらこの辺りで黒姫が割って入ったりしてくれるのに。

「と、とにかくだ」

気不味さを押し破るように、虎千代は声を上げた。

「馬はないし、明日はかなり歩くぞ。お前は怪我もしているし、早めに寝て体力を温存しておけ」

「う、うん。そうだね。黒姫たちもこの辺りにいるかも知れないし」

身体があったまったら、何だか急にだるくなってきた。僕は軽いあくびをした。緊張の連続で感覚が麻痺し続けていたけど、朝から非常事態の連続で疲れ切っていたのだ。冷たい風が沢から這い上ってくる気がする。ぱちぱちと熾る火に身体を寄せると、けだるさを振り払うように、大きくのびをした。

「先に寝てよいぞ。火の番はわたしが務める」

と、虎千代は防寒用の外套を僕に手渡してくる。布団代わりに使えと言うことだろう。虎千代の外套は舶来物のせいか、小柄な持ち主に似ずサイズが大きめなのだ。

「しばらくしたら、起こしてよ。交代で寝ないと、虎千代だって明日やばいだろ」

「わたしは大丈夫だ。三日ほど寝ずとも、普通に働ける。それだけの鍛練はしてある」

相変わらず、かわいげのない奴だ。その通りに出来てしまうだけ、余計に思う。

「でも、寒いだろ」

大きめに編まれた外套を広げると、僕はそれを虎千代の肩に掛け直した。

「わっ、わたしはいい。ちゃんと、鍛えてあると言ってるだろう」

「虎千代は女の子なんだろ。男の僕が、楽してたらかっこ悪いじゃないか」

答えに窮した虎千代は僕を見上げると、おずおずと外套の裾を差し伸べた。

「な、ならば二人で入ろう。身を寄せた方が、体力を失わずに済む」

僕は肩に外套の端をかけ、虎千代と身体を寄せる。身体を動かすと、わずかに傷が疼いた。これほど寒いのに鼻の頭に薄く汗が浮かんできているのが分かる。血で固まった感じしかしないのでよく判らないが、患部が熱を持ってきているのかも知れない。

「少し、熱っぽいのではないか」

僕の体温を感じたのか、虎千代がふいに言う。僕は小さく頷いた。

「意地を張らず、寝ろと言うに。明日、立ち往生しても助けられぬぞ」

「うん。なんか、まだ寒いね」

黙って虎千代は僕の身体を寄せた。驚いて身体が強張ったが、僕は力を抜いて身を任せることにした。温かい体温とともに、流れるように艶やかな黒髪が、僕の腕に散りかかって香る。朦朧としかけた気分のせいか、ただそこに別の熱を持った虎千代を感じられることが心地よかった。

「大丈夫か」

虎千代が、僕の顔を覗き込んでくる。それに僕は頷いたかどうか。もう分からない。

「そ、そんなに見つめるな。は、恥ずかしい」

泥のようなまどろみに後ろ髪をひかれながら、僕は見慣れたはずの虎千代の顔を見ていた。過酷な戦場を往来してきたとは思えない滑らかな白い肌、薄闇の中でも潤んで光る大きな瞳、その下のきゅっと依怙地にしめられた小さな唇。本当に不思議だ。いつ僕は、この顔を見慣れることになったのだろう。彼女と僕の、大切な場所をお互いに譲り合ったのだろう。

虎千代は戸惑い気味に僕を見上げていたが、やがて何かを決意したらしくゆっくりと小さな唇を突き出してきた。もしかしてこれって。僕は息を飲んだ。何度かそう言う展開があったし、その都度躊躇したり、お互いのリズムが噛み合わなかったりしたけど。でも今夜は、いいのかも知れないぞ。虎千代がいいなら、僕も抗う理由はない。

重たい瞼をかすかに閉じると、僕はその顔を近づけた。身を乗り出してあと一歩、進んだところに虎千代の顔があるのだ。吐息がひめやかな甘さで香る気配がした。

熾火(おきび)に照らされて、小さいけれど形のいい唇にかすかな陰影が射していた。それは、白いその肌とかすかな境界線でしかないごく薄い桃色の色素をまとっている。きめ細かいクリームでそっと作り上げられたように、その唇は僕と同じ肉で出来ているとは思えなかった。僕の唇がそのあわいに触れたら、どうなってしまうのだろう。

しかしそのあては、またしても外れた。

ふいに外套が捲りあげられ、外気の寒さを肌に感じた。突然、虎千代が立ちあがったのだ。僕は驚いて、目を開けた。

「と、虎千代?」

炎に照らされた顔には深い陰影が射していた。殺気を帯びたその二つの瞳は僕から外れて、背後をうかがっている。それで僕は自分の後ろに何者かがいるのだと初めて気づいた。

「ようやく来たか」

昼間の少年が立っていた。大ぶりの火縄銃を構え、こちらへ向けている。発射の準備は完全に整っていた。僕を見ていた虎千代が敵の接近に気づいたのは、火縄の弾けるかすかな音か、火薬の匂いが立ったせいだろう。

無謀にも小豆長光を抜いた虎千代との距離は、十メートルほどだ。言うまでもなく、身じろぎでもすれば少年は、躊躇なく引き金を絞るだろう。

「何用か。姿を現したは、意図があろう」

「流れ弾に殺されたと思われるのは、心外だったから」

少年は銃口を構えたまま、静かな声で言った。

「やはり、我に私怨あるものか。思えばその顔、見覚えがある」

闇に溶けるように立っている少年の容貌をうかがうと、虎千代は言った。

「思えば、顔が似ている。黒田秀忠血縁の者か」

かすかに、少年は頷いた。

黒田秀忠と言えば。そもそも、血震丸たちが養子に入り、陰謀によって牛耳った家だ。黒田秀忠は、虎千代の父、長尾為景の死後を狙って二度も反旗を翻した。その二度目は確か血震丸たちに誑かされてのものだと訊くが、顔を変えて京都に潜伏してからは、病を得て動けない危篤状態だと訊いたが。

「殿はすでに病死された。血震丸様たちに後事を託して」

少年は血震丸の名を口にしたが、その顔は暗く沈んでいる。

「私が最期を看取った。殿は来し方を後悔なされていた。陰謀に苛まれ、悪事を重ね、何たる、無為の一生であったかと」

「そうであったか」

その言葉に、虎千代は切なげに顔を歪めた。思えば血震丸によって人生を狂わされ、暗い穴倉の中で得体の知れない薬物の人体実験によって、命を終えた最期だったのだ。あまりにも悲惨すぎる。

「私は殿の最期をお前に伝えるべく従軍した。長尾家、すべての元凶は何より長尾景虎、お前だ。お前さえいなければ殿は血震丸様の話に心狂わされることなく、詰まらぬ謀反を企図することもなかったのだ」

それはただの逆恨みだ。黒田が謀反を起こしたのも、血震丸たちにいいようにされたのも、虎千代のせいではなく、自分の招いた結果でしかない。しかし少年の思い詰めた顔には、異論反論を受け付けない意志の強さが固着していた。

「黒田の仇を、おのれがここで、討とうとてか」

虎千代は訊いた。少年はこくり、と頷いた。

「よかろう。なれば、我が相手をするしかあるまい」

火縄銃の命中率は諸説あるが、よく七割程度と言われる。これは恐らく、当時、達人と言われた明智光秀が試し撃ちで記録された成績から割り出したものと思われる。実際に戦場で相対した場合はまた例外と考えるべきかも知れない。

しかし今の場合は別だ。

虎千代と少年の距離は、十メートル。慣れたものなら十分に、頭を撃ち抜ける。

対し、接近戦用の刃物を持った場合の人間の間合いは一般に六メートル前後と言われる。この距離ではひと呼吸で攻撃するにはやや、遠いだろう。

「よく、狙うがいい」

放胆にも射線に立ったまま、虎千代はゆっくりとした口調で挑発した。

「狙うならば、頭だ。それ以外なら我が動きはとめることは出来ないと思え」

と言いつつ、虎千代は歩を進める。脅しが効いてきているのか、少年は銃身を構えたまま、容易には撃てない。どんどん虎千代は、間合いを詰めていった。

「たった一発だ。次に装填する弾は撃てぬぞ。たとえ刺し違えようと、我はお前を斬る。そして我が仕損じようと、真人がいる。手傷を負ったお前は逃げきれぬ」

すると、なんと少年は後ずさりを始めた。

引き金に指はかけているが、そのまま撃てない。

これは圧倒的な覚悟の差だ。

虎千代は死んでも、相手を仕留めるつもりで殺気を放っている。恐らく、少年が弾を当てても骨身を断つ一撃を繰り出してくるだろう。はったりと言うには、鮮烈すぎる死のイメージを虎千代は少年に叩きつけたのだ。

そのまますでに虎千代は、少年を斬れる間合いに入っている。しかし少年はいぜん撃てずにいた。

「どうした。撃てぬか。仇をとるのだろう」

虎千代は噛んで含めるように少年に言うと、刃を上げ近づいた。

悲鳴のような声が山に木魂した。絶対的な死のイメージのプレッシャーに押しつぶされた少年が、パニック状態に陥ったのだ。がむしゃらに銃口を向け、虎千代に向かって引き金を絞ろうとする。もう銃口は虎千代の目と鼻の先だった。

その瞬間だ。

すっとつけいった虎千代が小豆長光の切っ先を上げ、一気に振り抜いた。狙いは火蓋に挟まれて煙を上げている、火縄だ。火種を断たれると、火縄銃は一切、弾丸を放つことが出来ない。驚くことに虎千代はその一瞬で、剣を使いそれを断ったのだ。しゅうしゅうと煙の上がる火縄を虎千代は足で踏みつぶした。その頃には少年は銃を取り落とし、恐怖に尻もちをついていた。

「これが、戦場よ」

剣を収めると虎千代は、少年に言った。

「逆恨みや復讐などと、生半可な情で立ち入る場所になし」


その少年の案内で翌朝、僕たちはようやく元来た道に戻ることが出来た。贄姫について従軍した少年はこの辺りの地理を叩きこまれていたようだ。僕たちが行きたい場所を言うと、打って変わって素直に案内してくれた。血震丸に人生を狂わされた黒田秀忠への情だけで、少年には血震丸の陰謀に加担する意志はもともとなかったようなのだ。

「因果は我にあれど、年端のいかぬものに復讐を吹き込んだは紛れもなく血震丸よ」

虎千代は苦い顔でこう言っていた。

「あやつめ、とことん人の性を狂わせる」

僕たちが目的の山家に到着すると、そこに黒姫たちは待っていた。僕たちがはぐれたことを知ると黒姫はすぐに手を打ち、みづち屋の直江景綱たちに作戦変更の急を報せると、不眠不休でこの辺り一帯を捜索していたようなのだ。

状況報告はさておき、僕たちは再会を喜び合った。

「とっ、虎さまっ、よっ、よかったですよおっ!」

黒姫は泣き腫らした顔に、さらに大粒の涙を浮かべて虎千代に抱きついてきた。よかった、今度こそ本当の黒姫だ。

「ここから、立て直しぞ」

虎千代は散会した兵たちをまとめると、再び号令をかけた。

「ここからが正念場と思うべし」


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