松永弾正本陣へ!影ちらつく異形の部隊、決戦迫る、虎千代が見せた将器とは…?
不眠不休の黒姫の活躍でどうにか、決死隊は目標地点まで達することが出来た。
「遅れましたが、まだまだ戦機は逃せませんですよ!」
眠っていないせいか、黒姫のテンションはますます高い。
「さあ、さっさとぶちかましてやりましょうです!」
虎千代は頷くと、とん挫した作戦を立て直すために、着々と準備を開始する。
「欠員はどうだ。陣容は」
「万事、その点は任せてくださいですよ!」
と黒姫は早速地図を拡げ、昨夜までの戦況を報告する。
柿崎勢の挑発に乗って突出した松永の前線部隊がついに登山し、山中での激しい衝突が始まった。これがちょうど午前七時頃と言うので、僕たちが贄姫によって山道をかく乱された辺りだと思われる。早崎衆に紛れこんだ贄姫の間者の陰謀で僕たちから分断された黒姫は隊を立て直すと同時に、山頂の景綱に向かって非常事態を表す狼煙を上げた。それは決死隊にトラブルがあったときに最優先で作戦を変更するために、黒姫が景綱とあらかじめ打ち合わせておいたものだ。
山頂の直江景綱はすぐに、柿崎景家に急を伝えた。
「なんじゃと、ぬしゃ今、撤退しろとほざくか」
鬼の猛将は目を剥いただろう。展開した部隊を収拾するのは、戦場でもっとも難しいことの一つだからだ。
「オヤジ、お嬢の命の急かも知れねえ。ともかく、俺たちは必死でのきやしょう」
さすがに鬼小島は迷わなかった。単身、槍を駆ってすぐに最前線へ駆け戻った。
「のけえいっ、野郎どもっ、山頂へ退避だっ!さっさとしやがれっ」
退き陣を告げる法螺貝の音が響き渡る中、鬼小島は銅鑼を叩かせ突出する兵たちを追い立て、自分は力士衆とともに迫ってくる寄せ手に立ちはだかった。
松永勢の寄せ手は長尾勢が退くと見るや、嵩にかかって反撃を開始し、逃げ遅れた足軽たちをみるみる食いつぶしてくる。中でも凛丸たち京足軽衆は松永勢を遊撃するために、かなり敵陣中に突出していたので、容易に戦線を離脱出来なかった。凛丸たちは運悪く、追撃部隊に捕まっていたのだ。
ちょうどそのとき。
鬼小島が見たのは、獣の皮の変り兜を被った異様な部隊だったと言う。彼らの具足にもびっしりと黒い毛が植えられ、その姿はまるで獣そのものだ。獣のかぶりもの、と言うと、何だか可愛らしく聞こえるが、どうもそんな生易しいものではない。それらは山で獲れたばかりと言うような、獣の皮なのだ。
熊とも猪とも猿ともつかない、松脂で塗り固められた硬い毛に血の滴を滴らせて、獣じみた声を上げて大きな野太刀を振るう男たちは、人外の化け物以外の何者でもなかった。山の狗を模したものか、長い鼻先と牙のついた不気味な黒い惣面を全員が装着していたことも、その恐ろしさに拍車をかけた。これにはさすがの鬼小島たちも、目を見張っただろう。
「ちっ、ふざけたのが居やがる」
鬼小島は兜の眉庇から目を剥いた。
男たちの武器は、極限まで太く鍛え上げた山刀のような日本刀だった。厚重ねで鍛えられたそれは野焼きに近い粗暴な作りであり、脂で曇った地肌には刃紋も浮いていはいない。どうもまるで切れ味は期待出来そうにない癖にひどく丈夫そうで、鎧の上からがむしゃらに打撃を与えるのに最適な武器だと思われた。ある意味では、頑丈な鉄鎧ごと人を叩きつぶすために開発された鋳鉄製の西洋大剣の考え方で造られたものだ。だが一つ、決定的な違いがあった。
それは、鉄板のようなその刀の先だけが鋭く尖らせてあったことだった。そのために普通の日本刀とは違う反りのほとんどない直刀の癖に、切っ先は山形に切り立っていた。
恐らくはこの工夫の意図は、鎧ごとがむしゃらに相手を叩き潰していくうちに隙あらば甲冑の隙間に切っ先を突き込み、一気に急所を狙ってかたをつけるためのものだと思われる。この武器と相対した鎧武者はどんなに厳重な甲冑で身を固めていてもまるで硬い牡蠣殼をこじ開けて貝肉をつまみ出すように、首を掻きとられてしまうだろう。
黙々と人間を噛みつぶすその仕事ぶりには、人間性と言うものが感じられない。男たちは武者押しの声を上げず、一心に何か経文のようなものを唱えながら向かってきていたのだ。それもまた、不気味な統一感だった。
彼らが通ってきた山道にはこの無節操な野太刀で叩きつぶされた具足や、へしゃげた刀や槍、凹んだ鉄兜が血と骨の欠片と脳漿にまみれて散乱していた。その悲惨な光景は、まるで巨大な肉食獣の胃の中に紛れ込んでしまったかのようだった。
鬼小島は歯噛みをすると、その異形の獣人武者たちの中に入り込んでいった。鬼小島の武器は煉介さんの大太刀よりさらに尺の長い、大身の長巻である。
「おおらあっ、散れえいっ」
鬼小島が唸りを上げて巨大な長巻を振り回すと、人獣たちは今度は潮が引くように去っていった。戦機を心得ているのか、撤退の際もまったく躊躇がない。それもまた不気味だった。
「で、そやつらはどうなったか」
「はい、松永の本勢が新手を繰り出して突出して来た時には、姿が見えなくなったそうですよ」
しかし、実はこの後、鬼小島は乱戦の中で、この異様な部隊を率いる将格の武士を見ている。それはよく肥えた黒馬に乗った、奇妙な前立てをした変り兜の武者だったと言う。黒い毛を植えた兜につけられている前立ては、牙を剥いた山犬の頭骨の形をしていた。惣面の下の赤く潤んだ眼が、鬼小島たち力士衆の動きを見極めそうとするかのように、じっとこちらをうかがっていた。
「言うまでもなく、松永の本勢にあるまい。その異様な風体、特異な戦法、血震丸が連れてきたものに相違あるまい」
と、虎千代の下問に恐らくはその通りだと、と黒姫は頷いた。
「でかぶつは気になったらしくて、わざわざわたくしに聞いてきたですよ。山のいくさに慣れ切っている様から見てもあれは、血震丸が連れてきた飛騨の部隊ではないか、と」
ふむ、と腕組みをすると、虎千代は考え込んだ。
「まるで人を喰う山の獣のような武者ぶり、飛騨山中に詳しきお前にも、聞き覚えはなきか」
黒姫は眉根をひそめ、かぶりを振った。それこそ血震丸の奥の手なのか、敵情に通じている黒姫も知らない謎の部隊だ。あの鬼兄妹だけでも大変なのに、そんな恐ろしい部隊が戦場をうろついていると言うだけでも、気が重くなる。
「しかしまあ、遅からずそやつらとも対峙することとなろう。それに正体は黒姫でなくとも、今、ここで見当のつきそうなものがおろうな」
虎千代が示唆したのは誰かは僕も黒姫も察していた。それは、言うまでもなく、あの狙撃手の少年のことだ。
僕たちを狙撃した元・黒田家の少年は、依然としてこの部隊に捕えられている。黒田秀忠の血縁と言うこの少年から、僕たちは何とか黒姫と合流するための道を探り出したのだが、それ以上の情報はと言うと、なしのつぶてで何を聞いても少年はまったくのだんまりのままなのだ。
「あやつをここへ呼んできてくれ」
黒姫は頷いた。
虎千代の命令で、黒姫はこの少年に縄目をつけていない。武器を預かり、申し訳程度の監視をつけているまでだ。それでも少年は逃げたりはしなかった。
「そろそろまずは、名なりと明かしてはくれぬか。黒田秀忠の最期を看取りし、係累の者とだけ、聞いたが、血筋のものか」
少年は頑なに、かぶりを振った。
「困りましたですねえ。これでは埒が明きませんですよ」
黒姫はため息をつくと、無表情のその少年を見やった。
「黒田があの血震丸によって、狂わされたは我も残念に思う。あやつの無念を思えば、血震丸をここでとめるが何よりの供養かと思わぬか」
虎千代の眼差しは少年を射すくめる類のものではなかった。
「こいつの始末はわたくしにお任せ下さいですよお。とにかく今夜中に知ってることは洗いざらい吐かせて見せますですよ」
「よせ」
と、虎千代はあくまでこの少年に対して高圧的な態度を取る気はないようだった。
「改めて頼む。我らに引き続き手を貸してくれまいか」
と、虎千代の言葉にいぜん、少年は応じる姿勢を見せない。まるで写真になってしまったかのような凍り付いた表情のまま、かすかに虎千代から顔を背けて見せるだけだった。
「ふっ、ふう。こいつなーかなかいい度胸してるではありませんか。畏れ多くもわたくしの虎さまに、そんなでっかい態度をとってくれるとは歯ごたえがありそうですよお。残忍な拷問は黒姫の十八番ですからねえ。虎さま、まずはだんまりがお好きなこいつに命乞いの悲鳴を上げさせてご覧にいれますですよ」
「よせと言うたであろう」
少年に掴みかかろうと身を乗り出しかけた黒姫を、虎千代が割って入り抑える。
「とっ、虎さま」
「黒田の境遇、この長尾虎千代にも一端の責任はある」
切なげに顔をしかめる虎千代の表情に、嘘偽りはなかった。
「そも、為景公死後、長尾家中さえ盤石であればこそ、黒田も血震丸が計略に乗せられることはなかったであろうからな。お前らも、杣人に身をやつして国を逃れずに済んだはずではある。血震丸を討つは、我が償いでもあるのだ」
少年は視線を虎千代に合わせない。しかし、その言葉は耳に入ったはずだ。出し抜けに僕たちを見つめると、
「天狗」
口走るように、言った。
「天狗だと?」
虎千代は片眉を引き上げた。
「…おことらの寄せ手が見たは、飯縄権現の天狗の末裔。血震丸は魔性を味方につけた。おことらに、到底、勝ち目はなかろう」
少年は謎かけのような言葉を吐くと、後は再び石像のように黙りこんだ。
天狗の末裔とは。
奇妙なことを言うと、僕も思った。天狗と言えば、山伏の姿をし、その風貌は烏天狗を代表するように、どことなく深山に棲息する野鳥を思わせる。鬼小島が目撃した、まるで猟犬のような姿をした男たちとは、似ても似つかないものだ。この少年は、僕たちを怖がらせようと思うあまり、思いつく限り支離滅裂なはったりを言っているのだろうか。さすがに虎千代も理解できないと言うように、苦い顔で首を振った。
「いい加減にするですよ。そんな妄言には付き合いきれませんです。虎さま、とりあえずこやつをしばし、貸してもらいますですよ。この黒姫の腕を尽くしますです。どうあってもこのはったり小僧には、洗いざらい、泥を吐いてもらいますですよ」
黒姫は殺気立った目で、無表情の少年を睨みつけた。虎千代はそれで、少年を下がらせた。これ以上、噛みあわない会話をして黒姫と何かあってはまずいと思ったのだろう。黒姫は眠っていないせいか、いつもに増して危険だった。
「よいわ、捨ておけ」
「とっ、虎さま、あんな奴に甘い顔を見せてはだめですよ。ああいう奴は少し痛い目を見た方がよいのですよ。この黒姫にお任せ下さいですよ」
「よいと言ったらよいわ。構うな」
虎千代は頑なにかぶりを振った。
「おのれも不休で働いておる。少しは休め。我らが標的はあくまで松永本勢ぞ」
「う…確かにそうですが」
虎千代の意見に、僕も賛成だった。鬼小島が前線で見た部隊はどうあれ、僕たちの狙いはあくまで松永本陣なのだ。もはや余計なことを気にかけている余裕はない。
「しかし、気になることが多すぎるですよ。その、異様な軍隊と言い、不吉な話が多すぎますです」
自分の失言に気づいたのか、黒姫はさっと顔色を変えた。
「す、すみませんです。かようなときに不吉、などと」
「それほど、目くじらを立てることもあるまい。我らが作戦に支障はない」
「それはそのう、そうなのですが」
と、黒姫も少し気勢を抑えた。
「それとも、他に気になることがあるか」
黒姫はなぜか、僕と虎千代を意味ありげに交互に見た。
「な、なんだ」
「あ、あのちなみにっ、あの晩はお二人きりだったのですよねえ。もっ、もしかと思いますが、まさかお二人の間に、なっ、何かあったのではっ」
「くっ、黒姫、お、おおおっ、おのれ何を気にしておるか」
さすがにそれには、僕も虎千代もふいを突かれた。た、確かに何かあったわけじゃない。決定的な出来事が僕たちの間にあったわけじゃないけど、それはその、聞かないのがエチケットと言うものじゃないか。
「わたくし気になって、ずうっと訊きたかったのですよ。考えたくもないですが、あの晩、お二人はずうっとお二人で過ごされたわけですよねえ。それを思うと気になって気になって、知ってる人間がいたら一晩中拷問してやりたいぐらいなのですよお」
黒姫落ち着け。
寝ていない上に、妄想爆発の黒姫を抑える術は僕たちにはなさそうだった。
「もはや直接聞きたいですよ。お二人とも、あの晩はどうだったのですかっ」
「あっ、あの晩…あの晩っ、と言えば、ねえ」
「あっ、ああっ」
別にやましいこともないのに、僕たちは口ごもって頷き合った。
「何もなかったのだ。黒姫、何も、な」
「う、うん、本当だって」
「なっ、なんですかその、明らかに口裏を合わせた感は」
黒姫は、血ばしった目で僕たちの気まずい顔を眺め渡した。
「こっ、この大変なときにお二人でお楽しみしてたですかっ」
「な、まさか黒姫そんなこと絶対ないって」
「そうだぞ黒姫、埒もないことを考えるな」
「じゃっ、じゃあっ、あれだけ二人長い時間いて何なかったと言うわけですか」
「それは…」
言いかけて、顔がぼっと熱くなった。確かに何かあったわけじゃない。でも、何かがありそうではあったのだ。黒姫が言う通り、僕たちがあれだけ長い時間二人でいて、何かがないなどと言うことは、ありえない。でも、結果的には僕たちの間には、決定的な何かは確かになかったわけであって。
「信じろ。あの晩には何もなかったのだぞ。真人は怪我をしているし、あの少年からさらに追撃を受けるしで、むしろ、大変だったのだ。寝る間もなかったのだぞ。ま、真人おのれも何か言わんか」
「どうなのですか、真人さんっ」
「いっ、いや、だからさ」
僕は必死でかぶりを振った。
「黒姫が考えてるようなことはなかったって。また襲撃されるんじゃないかって、あれからまた、山の中歩きまわったりしたりもしたし。そもそも僕は撃たれて怪我してずうっと熱っぽかったしさ。外套一枚しか防寒具なかったから、二人とも寒くて眠れなくて」
うんうん、と、僕と虎千代で頷き合うと、なんだかますます嘘っぽくなる。でも、それはそれで、本当に本当なのだ。
「そ、そうだ。あれは往生した。仕方なく、二人で一枚の布をまとって身体を寄せ合ってな…」
「二人、寄り添って?」
う、それは禁句だ。黒姫はじろりと僕を睨み上げた。
「いや、そのやましいあれとかじゃなくて」
「なっ」
黒姫はついに妄想を爆裂させた。
「なんと言うことですかっ。しっ、信じられませんですよ。分かってますですよ。寒くて眠れないのをいいことに、真人さんは虎さまにどんどん寄り添って。あまつさえ人肌を温めるのは人肌がいいんだみたいなことを言って、虎さまのお服を脱がせると乙女の禁断の柔肌に、どす黒い欲望をぶちまけたに決まってますですよっ」
「な、なっ、なああっ?」
僕と虎千代はぼっと顔に血の気を上らせた。まったくなんて、とんでもないことを言うんだ。
「真人さんは、不純なのですよ。鉄砲で怪我をしたのにかこつけて、あんなことや、こんなこと…なんて言うか、ふしだらなことを何も知らない虎さまに教え込んで」
不純なのはお前の妄想だ、自分の基準で考えるな。
「恥ずかしいことを言うな、黒姫っ。いっ、いつわたしがそのようなふしだらなことを許したと言うかっ」
「でもでもっ、お二人様、最近動きが怪しいのですよ!」
「ばっ、馬鹿なことを言うな、黒姫」
こうして真面目な軍議のはずが、矛先は順調に狂っていくのだ。
もちろん、こんなことをしている暇はない。
僕たちにも時間がないのだ。今度の攻撃では、失敗は許されない。何があろうと成功させなくてはならないのだ。
「景家様たちはもう、動き出しておりますですよ」
払暁からすでに、前線の動きは甚だしい。黒姫の合図で柿崎景家が攻撃を再開したのだ。
「問題は我らの侵入路か」
黒姫の案内で虎千代は自ら馬を出し、しきりに敵情をうかがっていた。目指す松永本営はすぐ下だ。見たところ松永本軍は貴船口から川沿いに満ち満ちていた。弾正のいる場所は恐らく、貴船神社辺りと言うのが虎千代たちの予想だ。
弾正の本陣、中枢の軍勢が恐らくは千名前後と見られる。対する僕たちは百名もいない。敵陣の真っただ中で、相手に先に発見されたならそれこそ一巻の終わりだ。僕たちは先を急ぎつつも必死に息をひそめ、行動していた。
「くれぐれも逸るなよ。総員、耳を澄ませて我が下知を聞くべし」
虎千代はそう、厳しく通達していた。
「怖いか」
緊張を解きほぐしてくれようとしているのか、珍しく虎千代は折を見てしきりに僕に話しかけてくる。
「わたしも怖い。だが案ずるな、これが奇襲と言うものだ。任せておれ、我が下知を聞けばやがて嘘のようにぴたりと恐れは治まる」
「あ、ありがとう」
この辺りは大将の呼吸と言うものだろう。僕だけじゃないとは思うがさっきからずっと、落ち着かない気分だったのだが、虎千代と話すうちに不思議と少しずつ気が紛れてくるのが分かった。
「そうだ、雑話をしようか」
虎千代は落ち着いた声で僕を宥め続けてくれた。
「真人、そう言えば天狗の元は、犬であったことを知っているか」
「え?」
僕は唐突なその話が呑み込めずに首を傾げた。
「さっきのあの少年の天狗の話よ。あの話、存外、ただの法螺ではないかも知れぬと言っているのだ」
何しろ天狗は鳥、と書かずに『狗』と書くであろう、と虎千代はちょっと得意そうに、話す。そう言えばいわれてみれば確かに、天狗には犬を表す文字が入っている。
「飯縄権現については、わたしも一家言あるのだ。知っておろう、これは霊験あらたかなる軍神なのだぞ」
ああそう言えば、と、僕もぴんと来た。飯縄権現と言えば摩利支天に並び、上杉謙信が深く信仰したとされる軍神なのだ。戸隠山中にあるとされる飯縄権現の本拠は修験道の聖地でもある。そのせいか平安時代に創建されたこの寺に祭られているのは、山伏の姿をした烏天狗だったのだ。
確かに一般的にも天狗と言えば赤ら顔で鼻が高く、山伏姿がポピュラーだ。妖力をもった紙団扇を使い、天を舞うとされたその姿が、烏や猛禽類と言った山の野鳥に喩えられるのは、飯縄権現を始めとした修験道の聖地で、天狗が神様としてもてはやされたお陰だと思われる。
「そも中原(中国のこと)では天狗は、夜空を掃く流星の姿をとり、地を焼いて焔となり、後には狗の姿をとるとされる。狗は凶事を防ぐと言うのだ」
虎千代が言うのは、司馬遷の『史記』にある記述らしい。中国では他にも狸の姿をとっていたり、蛇を咥えたりしているものもあるそうだ。天狗は外来神だとは聞いていたが、その元の姿は僕たちが知る天狗のイメージとは似ても似つかない。
「山伏の姿をしていたり、烏の面相をしていると言うのは、我が国土着の神と和合した姿なのだ。山伏姿は修験道、烏の顔は熊野信仰がそれぞれ関わっている。今の天狗は習合の理に従って作られた独自の神とされる。当然、原理を信奉するものとすれば、混ざり物の神のごとく映るであろうな」
ここでようやく僕は虎千代の言いたいことが分かった。虎千代はあの少年が、戦場に突如現れた謎の部隊のことを飯縄権現の天狗の末裔、と称したことの絵解きをしているのだ。
「木曾飛騨の修験者どもの交わりは複雑で、非常に奥が深い。恐らくは黒姫ですら、完全なる実態は把握してはおるまい。異形の天狗を信奉するなれば、そやつらは察するに邪教の徒と言わめ」
邪教徒の軍勢か。聞くだけで不気味すぎる。血震丸に手を貸す連中としては、これ以上に、ぴったりな存在はなさそうだ。
「だ、だが、血震丸が率いる軍勢となれば本軍にはおるまい。我らが遭遇する機会はないかも知れぬな」
気分転換に雑談しようと思ったのに僕の顔が暗くなったのを察したのか、虎千代は急に明るい声で言った。そのときだ。
「虎さま、ここより下が松永の本陣かと」
と、先を行く黒姫が虎千代に告げた。黒姫が指すのは篠藪の尽きる向こう、断崖絶壁の崖下だ。
「ふむ」
梢の向こうを虎千代はうかがった。傍らの僕にもかすかに向こうが見えた。
「確かに、揃いの番槍少なし」
と、虎千代が言うのは番槍とは支給品の槍のことだ。位の高い武士たちは、武具全般は自家で誂える。また騎馬の武将たちは、馬上のため長さも足軽たちが使うものと異なり、やや短くしたものを使う傾向にある。
「ここは、降りられそうか」
黒姫は眉根をひそめ、かぶりを振った。
「断崖の下は足場が少なく、危ないですよ。もしかしたらもう少し行けば、降りられそうな場所があるやも知れませぬ。そこがよろしいかと」
「だがここならば、相手の急はつけよう」
黒姫は難しい顔をしたが、虎千代は楽観的だ。
「合い言葉を決め、全軍に通達しておけ。旗指物など、余計なものはしておらぬであろうな」
「そこは抜かりはありませんですよ」
そうか、と、虎千代は頷くと、
「真人は我が背に乗るべし。替え太刀はよろしく頼むぞ」
ついに始まるのだ。覚悟を決めて僕は無言で頷いた。
「この者はどう致しますか」
黒姫は、あの少年兵を連れて来ている。虎千代は懐から黄金を掴みだすと、その少年に与えた。
「召し放て。どこへなりと好きに行くがいい」
少年は手に渡された黄金と虎千代の顔を、困惑したように交互に見かわしている。
「それは、始末料だ。もともとは此度のいくさも、黒滝いくさも血震丸と我らが争い、お前の一生はそれでふいになったであろう。些少だがその金で、身の始末をすべし。京でも大坂でも出れば、小商いの一つは出来るとは思う」
「なぜだ」
なぜ自分に情けをかけるのか。分からない、と少年は訴えるように虎千代に喰ってかかった。
「情けをかけるでなし。先のことで分かったまでよ。お前はこの場にいるべき人間ではない。しかし、数奇な運命でここまで追い込まれたものだ。それがよう分かるゆえ、お前の手助けをするまでだ」
「虎千代…」
僕は、このときの虎千代の苦しみをともに出来ないことを切なく思った。彼女自身、この大名と言う職を自らの欲望のためにしているわけではないのだ。しかしそれによって犠牲になる多くの悲しみを、狂わされた運命を少しでも救おうとする虎千代の想いが、僕にも辛かった。
「金で済ますがいいとは思わぬが、かようなことでしか我が責は果たせぬゆえ、差し出がましいのは曲げて受け取ってくれ」
少年は手にした黄金を握りしめた。しかしそれで駆けだすようなことはせず、なぜか押し返すように虎千代に黄金を差し出したのだ。
「これは、受け取れない」
少年はすげなくつぶやいた。
「このようなことでは、私の闇は消えはしませぬ」
「そうか」
分かっている。そう反問したかっただろう。しかし、虎千代は黙って突き返された黄金を受け取ろうとした。
「まだ私は、それだけの黄金に見合う働きを貴殿にしておりませぬ」
少年は虎千代と黄金を見つめたまま、言い募るように訴えた。
「恩賞と言う形なれば、それは頂きまする。奇襲をなさるならばもっとよき道を私が知っておりまする」
「本当か」
勢い込む虎千代の横で顔色を変えたのは黒姫だ。
「とっ、虎さま。そんな妄言を信用するですか!またもや血震丸の罠かも知れませんですよお」
黒姫の言うことはもっともだ。黒田家にいたその少年を信用すべきか。その点は、強く疑念が残った。しかし虎千代は、頑としてそれを訊かなかった。
「また騙されたならば、わたしは騙されたなりと言うことよ」
その覚悟の潔さに、はっ、と僕たちは息をのんだ。
「そうであろう」
虎千代は見極めようとするかのように、僕と黒姫を見た。
「要は」
と、虎千代は言う。
疑って安全を保つより、信じて斬られた方がいい。
虎千代が言いたいことはつまりそう言うことだったのだ。それが大将として、正しい道であるならば、彼女は迷ったりはしない。虎千代に従うのがいい。僕は確信をもって頷いて見せた。
「こやつについていく」
虎千代はすぐに少年を先導役につける。
白馬を駆る少年の速度は険しい山道でもたゆみなく、虎千代でもついていくのがやっとだった。
切り立った道はやがて果て、いくつか深い林と巨大な自然石の洞窟の下を越えた。もはやさっきまでの場所とはまったく違う場所に来てしまったかと心配するほどに、道のりを行った。
「ここだ」
と少年が言う場所に立ち、虎千代は目を瞠った。
蔦の紋の幔幕を豪奢に拡げた、敵の本営が目と鼻の先にある。しかもそれが、かすかに花を匂わせた白梅の林のすぐ下なのだ。
「しめたぞ」
少年の案内してくれた道があまりに巧妙だったためか、ここまででなんと、誰にも気づかれていない。山頂の最前線ならいざ知らず、朝餉の支度を終え、本営には朝の穏やかな気配が漂ったままだ。僕たちがいるのは少し小高い崖の上なのだが、さっきの切り立った場所と異なり、馬術に少し長けたものならば、なんと無理をしなくても難なく降りられる場所だった。
「全軍、頃はよいか」
虎千代は厳かな声で言った。すると、不思議だ。
僕の中にあった浮足立つようなそわそわとした気持ちが一瞬にして鎮まったのだ。
これが虎千代の、大将たる器の大きさか。
僕はずっと、よく見知っているはずの少女の横顔を見ていた。
「機は今ぞ。総員、覚悟を決めよ」
緊張感の沁み渡った男たちは、鎧に固めた身体の猛りを沈め、身じろぎすらしない。
虎千代はそれに雷鳴のような声を浴びせつけた。
「者どもっかかれやっ」




