虎千代、贄姫死闘の果て!菊童丸救出のゆくえは…!?
最初にその異変に気づいたのは、鬼小島だった。
「おおい小僧っ」
割れ鐘のような鬼小島の声に、僕は、はっと我に返る。
「何か来やがるぜ。お嬢の馬を曳きやがれ。てっめえ聞いてやがんのか」
気がつくと具足に返り血をしぶかせた凄絶な鬼小島がすぐ側にいて、僕はびくりと肩を震わせた。虎千代の月毛の馬の手綱を僕に預け、鬼小島は怪訝そうに顔を歪める。
「馬鹿野郎っ、てめえ何戦場でぼうっとしてやがる」
「ご、ごめん」
命がけの戦場で、一時でもぼうっとしてしまった僕に鬼小島は呆れ果てたと言うようにため息をついた。
「よく聞けよ、小僧。誰だか知らねえが新手が入り込んで来やがった。お嬢に急を報せて退却の下知を触れねえとえらいことになるかも知れねえぜ」
鬼小島は巨大な頭を巡らすと、辺りを見回す。
「あっ、新しい敵!?すぐに報せなきゃ。でも、虎千代が」
「だからお嬢がどうしたってんだ」
僕はその方向を指し示した。
「あれ…」
僕の指の先の光景に鬼小島も思わず、それまでの勢いをとめた。
この修羅場のただ中で、僕が呆然として我を喪ってしまったのは、もちろん理由があった。
虎千代と贄姫だ。
二人の壮絶な立ち合いを目の当たりにしてしまったからだ。
あいまみえた二人のいくさ姫は、互いに剣を抜き、しばし無言の対峙を続けていた。もはや誰も邪魔することは出来ない。そこは、まるでそこだけ戦場で時が停まったかのような、不可思議な死線だった。
虎千代の目にはもはや落ち延びていった血震丸の姿はなくなっていた。
ただそこに、必ず殺すと言った相手を見据え続けている。
対する贄姫も、虎千代の殺意を受け止め、悠々と剣を構えている。
二人とも剣は、身体のしなやかさとばねを活かした変則の無形だ。
虎千代は足をしっかりと開くと右半身に身体を傾け、右片手に持った剣の切っ先をぴったりと贄姫に向けたまま、呼吸を整えている。
贄姫は口元にやわらかな笑みを落としたまま、頭上はるかに構えた柄に両手を軽く添え、地に伏せた虎千代を見下すようにしている。
虎千代のそれがネコ科の野生動物が茂みに伏せて獲物を狙う姿なら、贄姫は上空から獲物をしとめる猛禽類のそれだ。二人はまるで配置された彫像のようにある地点でぴたりと動きを止め、相手の呼吸を読むことのみに専念していた。そこは気を抜けば、どちらかが一瞬で息の根をとめられるお互いの刃圏の一歩手前だ。
例えば贄姫が、一歩踏み込んだなら。
柔らかく右片手に剣を持った虎千代が左手を添えながら躍動し、横薙ぎの一閃で贄姫の頸動脈を真正面から斬り裂いただろう。
かと言って、虎千代が贄姫の刃圏を侵したなら。
頭上高く掲げた贄姫の渾身の一撃が、間合いに入り込もうとした虎千代の右肩から真っ二つにその身体を両断したはずだ。
そのどちらもごく微妙な、またたきをするほどのタイミングで決まり、はたまた狂う。二人にはお互いの死のイメージが、すぐ目の前を通り過ぎるように鮮やかに脳裏を巡っただろう。
とは言え、ここは戦場だ。
膠着は実際には、僕が感じたほど長く続かなかった。
なんと最初に仕掛けたのは、虎千代だ。彼女は大胆にもほとんど無防備に贄姫の刃圏に身体を晒して入りこんできた。それはまったく、命知らずとしか思えない無謀さだった。
当然、その瞬間を見すまして贄姫の大上段の一撃が虎千代を襲う。狙いは無防備な右肩、首筋の動脈だ。
ゆるく柄を握った贄姫の剣は、しなやかな身体の作用で見た目よりはるかに広い間合いで攻撃を可能としている。一歩踏み込めば、今さら中途半端に身体を退かせてかわすのは、むしろ逆の結果をもたらすことになる。
と言って、さらに入り込んでも、結果は同じだ。完全に呼吸を読まれていたか、気がつくと虎千代は、入っても退いても致死の一撃を喰らう場所にいた。
僕は最初、虎千代がしびれを切らせて考えなしの突撃を行ったのかと思ったほどだ。
しかし彼女が次にとった行動は、余人の予想を超えていた。
さらに一歩速く踏み込んだ虎千代は、空いている左手を伸ばすと。
剣を構えている贄姫の右腕の袖を掴み、ぐっ、と下に引いた。
虎千代の握力と腕力は、小柄な身体つきと性別に見合わない強さだ。柄を握った右手を崩され、贄姫はバランスを崩した。その顔を狙って。
虎千代の右手、片手殴りの剣の一撃が襲いかかった。
最初、その剣は贄姫の顔面に真っ向から吸い込まれたように見えた。しかしその剣を、贄姫は自分の刀の鎬で受け止めている。刃筋は流れ、刀身は下へ受け流された。
近接の間合いから、贄姫が体当たりを繰り出してくる。とっさに顔を狙った頭突きだ。避けきれず顔面にもらった虎千代は、剣で身体を庇いながら、再び間合いをとった。
二人とも信じられないような超反応だ。
十七歳の、しかも女性にして、二人とも数えきれない死線を生存し続けている。その剣は戦場で鍛え上げられて、命ひとつを守るためだけの、究極の生存術なのだ。
「さすが、やりますわね」
切れた唇から回った血を吐きだした虎千代に、贄姫が言った。
「まさかあの刹那、指をとられるとは思いもしませんでしたわよ」
最後の攻防で虎千代に体当たりを繰り出した贄姫だったが、それ以前に攻撃を受けていたのだ。二人の剣がかちあったその瞬間に、虎千代は柄を握った手で指を取り贄姫の左手の指関節にダメージを与えている。
「我ながら、嫌になるほど下品の剣よ」
大きくため息をついて、虎千代が言った。
「お前を仕留めるのに、これほど不快な気分になるとはな」
「今にもっと楽しくなりますわよ」
贄姫は微笑で応えると、無事な方の片手で柄を握った。
「時間を忘れて殺しあいましょうか」
そのまま、ゆっくり半身を開き、流れるような動作で虎千代の咽喉を突こうと狙う。虎千代がそれを下へかわし、間合いを詰める。沈み込むような姿勢から、左脇から首を切り上げる絶妙な斬撃を、贄姫は具足をつけた肘を打ちつけて軌道を反らす。胴で虎千代の刃を受けた贄姫は極限まで間合いを詰め、致命傷となる威力を殺しきっている。そこから虎千代に掴みかかろうとする贄姫が又もや頭突きを喰らわせようとするのだが、虎千代はその先はすでに読みきっている。
切り上げを受け止められるや柄から右手を放し刀を棄て、身軽な身体のばねを使って跳躍し、左の膝蹴り。
絶妙の跳び膝をもらった贄姫は吹き飛ばされ、間合いが開いた。その隙に虎千代は落ちた剣を拾い、再び構えをとっている。
その際どさは、実は打ち合わせてあるのではないかと思うくらい。
しかし斬撃と打撃の応酬は、正真正銘、一つしかない命を賭けた生死の極北のものだ。
まったくの互角だ。剣の腕も冴えも、瞬時の判断力も身体能力も。
贄姫の剣が、虎千代の頬を掠め、虎千代の剣が贄姫の首を浅く斬る。体当たりでぶつかり、弾きあい、指拳で目や咽喉を狙い、または蹴足の応酬で鎧の上から体力を削りあう。
いつしか二人は血まみれになって肩で息をついていた。
「おいっ、見惚れてるんじゃねえよ、止めろ」
鬼小島は僕を小突くと、自分も大声を張り上げた。
「お嬢っ!なんか知らねえが新手が来てますっ!早く次の下知をもらわねえと、手おくれになっちまいますぜえっ!」
「弥太、いいところで止めるな」
虎千代はちらりと鬼小島の方を見るが、視線を少し外しただけですぐに、贄姫に戻る。気づけば二人とも鎧の錣や胴のあちこちには細かい太刀傷がつき、肌が外に見える場所には手傷を負っていた。それでも二人は殺し合いをやめなそうになかった。
「案ずるな、次のひと手で仕留める」
「甘くみられたものですわね」
ふん、とひと際大きな音を立てて、贄姫は不服そうに鼻を鳴らした。
本来、真剣勝負と言うものはそう長くは続くものではない。
二人はもはや数手も繰り出す余裕もなさそうだ。
たぶん、次にどちらかが死ぬ。
そう思った瞬間だ。
ターン、と言う空気を揺るがす衝撃音とともに、二人の間に砂埃が上がった。これは鉄砲だ。二人のいくさ姫は殺し合いをやめ、銃弾が飛んできた方向を見た。
「そこを動くんじゃねえよ、両方、ぶっ殺してやるっ!」
銃口を誇示しながら現れたのは、あの火車槍首の狐刀次だ。
現代から飛ばされてきた足軽大将は、狐の毛を植えた派手な鎧を着て、右手に太刀、左手に拳銃を構えている。ニッケル加工の拳銃が天に向かって火を噴き、それが手下たちを呼び寄せた。数人の足軽たちが、僕たちを取り囲む。
「なんだよ。新手ってのはこいつらかよ」
虎千代の馬を曳きながら、鬼小島が怪訝そうに首を傾げる。
「この前で懲りなかったのかよ」
「なめてんじゃねえよ。極道ってのはな、勝つまでが喧嘩なんだよ」
眉をしかめると、狐刀次は頭一つ大きい鬼小島を睨みつけた。
「無粋だな。血震丸の差し金か?」
虎千代が聞く。
「馬鹿なこと言ってんじゃねえよ。こっちはあんたと、人質が目当てでここを突き止めたんだ」
狐刀次は言うと、銃口を贄姫の方へ近づけた。
「もう逃がさねえぞ。兄貴はどこだ。ばっくれやがって。てめえらにもきっちり落とし前つけさせてやる」
ふっ、と鼻の頭を歪めると、贄姫は苦笑した。大げさに肩をすくめると、ひどく残念そうに、
「まったくもって無粋な邪魔が入りましたわね。・・・なるほど、今日はここまでのようですわ」
「余裕こいてんじゃねえぞ。てめえ、弾かれねえと思ってたら大間違いなんだよっ」
銃を近づけながら、ゆっくりと狐刀次は贄姫に歩み寄った。その狙いは兜を被っていない、もちろん頭だ。しかし、贄姫はまったく退く様子はなかった。むしろ、銃口を歓迎するかのように、狐刀次に向き直り、
「どうぞ。そのおもちゃで楽しめるなら。でも二人は撃てませんわよ。この間合いならわらわを撃てば、その隙にあなたはあそこの姫には斬られる」
はっ、と、狐刀次が贄姫から視線を外した瞬間だった。間合いに付け入った贄姫が、突きつけられた銃身を右手の甲で撥ね上げるようにして、それをねじった。銃を片手で握っていた狐刀次は銃身ごと、贄姫に腕をねじり上げられた形になる。銃の構造を利用した逆関節技だ。この男は拳銃に過信して、贄姫に近寄りすぎた。それが命取りになった。
うめき声をあげる狐刀次の鼻先めがけて、贄姫の左の掌底打に似た虎拳があごを捉え、形成は逆転した。銃は難なく、贄姫の手に渡った。
「確かこうして、使うのでしたよね。あなたには何度か見せて頂きましたわ」
悠々とした口調で贄姫は言うとスライドを動かし、適当な方向へ向けて引き金を搾った。まるで買い物した商品を、その場で開封して使うような何気なさだ。九ミリ口径の弾丸は、狐刀次が引き連れてきた集団の中に飛び込み、一人の男の眉間に孔を開けた。
「あっ」
目の間から血を噴出した男は短くうめき声を途切れさせると、後頭部から倒れこんだ。
「悪くないおもちゃですわね。刃物に比べると、いささか味気ないですけど」
試し射ちで男を殺した贄姫はまるで気にも留めていない。銃を構えながら、その男の死体のところまで歩いていくと、動揺する周りの男たちを脅した。
「馬を一頭。この方のようになりたくなかったら、すぐに用意なさいな」
あわてふためく男たちが、自分たちが乗ってきた馬を用意する。油断なく銃を誇示しながら贄姫はそれにまたがった。
「贄姫、逃げるか」
虎千代が声をかける。馬を棹立ちにさせながら、贄姫は苦笑した。
「気持ちが冷めましたわ。せっかくの殺し合いです。続きは、またちゃんとしたときに」
地獄から来た鬼の姫の馬が、遠ざかっていく。僕たちはそれを黙って見送るしかなかった。あの虎千代との生死を賭けた殺し合い、最後の局面が展開されていたなら、今頃どうなっていただろうか。まるで悪夢のように跡形もなくその姿が戦場の喧騒に消えてしまうのを、僕は茫然と眺めていた。
「さて、我らも離脱せねばな」
虎千代は言うと、僕に自分の馬を曳かせた。
「手の空いているものに陣貝を吹かせろ。手早く退き陣の合図じゃ」
「小娘ええいっ、待ちやがれっ!てめえだけはどうあっても逃がさねえぞ」
贄姫に折られた歯を吐き出しながら、狐刀次が立ち上がったのはそのときだ。虎千代は興を失ったように激昂する狐刀次を一瞥すると、
「やめておけ。いくさ場で拾える命はまれぞ。贄姫に殺されなかっただけ、冥加に思え」
その警告はむしろ、僕と同じ戦国に迷い込んだ狐刀次を気遣ってのことだった。しかしそれは逆にこのやくざ上がりの足軽大将を逆上させる結果になった。
「ほざきやがれ!どいつもこいつも・・・人をコケにしやがってっ!てめえだけは今日絶っ対ぶっ殺してやるっ!誰だろうと、おれをコケにしたボケを生かして、帰しゃしねえんだよっ!」
どけええいっ、と、僕を恫喝しながら、狐刀次が日本刀を構えて立ち向かってくる。構わず虎千代は僕の手を引いて馬に乗せると、仕方なさそうに言った。
「弥太、後は任せた。戦場を教えてやれ」
その一言で、鬼小島の巨体が立ちはだかったのはそのときだ。狐刀次は次の瞬間、鬼小島が攻撃に使った剣の禍々しさを目の当たりにしたのだと思う。
それは幅が人の腿ほどもある、二メートル以上もの巨大な刀だ。まるで建材のようなそれが鬼小島の怪力で振り抜かれるとき、大事故が起きたような巨大な衝撃音が空気を揺るがす。
「ああああっ」
絶望的な危険を察知した狐刀次はとっさに悲鳴を漏らして、自分の剣でその一撃を防ごうとしたが、それは紙の屋根で上から降ってくる砲丸を受け止めるに等しい。狐刀次が鬼小島の剣を見た瞬間、それがすでに最期の瞬間だった。
刀身と鎧を食い破られ、辺りを血の海にしながら肉を割られた死体が真っ二つになって沈み込む。救いようのないくらい無惨な、狐刀次の死に様だった。
撤退を表す、ほら貝の合図が鳴り響く。
その音は戦場のどよめきを裂いて、血に濡れた沼沢地を揺るがすようだ。
僕は虎千代と馬に乗って、戦場を離脱した。朝来たときとはまったく違うように見える湿地帯の風景を駆け、合流する兵たちに声をかける。虎千代が命令を出す間、僕は夢のような気分でうつろな時間を過ごしていた。
魔に魅入られた、と言うのに相応しい戦場だった。恐ろしく濃密で息詰まる空気は、それだけで僕の魂をどこかへ抜き去ってしまったようだ。虎千代と贄姫の殺し合いは骨肉と言う言葉などでは到底表現しきれないほど、凄まじいものだった。まったく息が接げず、見ているこっちが、命を縮めそうだった。信じられないことに今、この短い間に生きて馬の背に揺られているのが信じられないほどの死線を何度も僕たちはくぐりぬけてきたのだ。その巨大な実感が信じられず、僕は何度も大きく息をついた。
「真人、お前、大事ないか。どこか手傷を負うたではあるまいな」
そんな様子を気遣ってか、虎千代が心配そうに僕に声をかけてくる。
「うん、大丈夫。こっちは問題ないよ」
そうか、と、微笑して彼女は頷くと、
「とりあえず、撤退は首尾よういきそうじゃ。参集した兵たちをあの丘に、とり集める。それから愛宕山の砦を襲った、黒姫の別隊と合流しよう」
その言葉を聞いて、僕は、はっとした。あれだけの戦いをして、まだ虎千代にはやることがあるのだ。
「待って馬を止めて」
僕の言葉に、虎千代は愕いて手綱を引く。
「なんだ、忘れ物なら取りにはゆけぬぞ」
「あの丘までだろ。僕が替わるよ」
その傷ついた背に、僕は言った。
「なっ、なにを言うか」
僕は先に馬を下りると、血で汚れた顔で振り返る虎千代の手を引いた。
「ほら、大丈夫だから」
「ああっ、お前っ、敵が追うてきたら何とするか」
と言いながらも、しぶしぶ虎千代は馬を下りる。僕は身体を入れ替えると馬上からまだ仏頂面をしている虎千代の手を引き、その小さな身体を引き上げた。僕の背で虎千代の身体が安定するのを確認すると、僕はゆっくりと馬を走らせる。
足取りは確かにを心がけて。虎千代みたいに危険な沼地を全力疾走は出来そうにないけど、僕にだってそれくらい出来る。
「すまぬな」
ふーっ、と僕の背で虎千代が温かい息をついたのはそのときだ。傷ついたいくさ姫は僕の腰に手を回し、ゆっくりと体重をこちらに預けてきた。
「乗り心地は」
と、僕は恐る恐る聞いてみた。
「悪くない」
「師匠がいいからね」
僕の冗談に、ふっ、と笑うと虎千代はいつもの表情を取り戻した。
「しばらくこうしていてよいか」
当たり前だろ、と、僕は言った。
「ゆっくり行くよ。て言うか危ないからゆっくりしか出来ないけど」
なにしろ僕と違って殺し合いを生き残ってきた張本人なのだ。激戦を終えた虎千代にも、心の空白は必要なはずだ。戦いは出来ないけど、しばし、自分が楯になってでも虎千代を休ませることはしてやりたかった。
「なんて、言ったらいいかだけど」
「うん?」
虎千代の顔に血で固まった髪が額にかかっていたのを払いながら僕は、言いかけて止めた。だって本当にどんな言葉をかけたらいいのか、判らなかったからだ。
「何か言いかけたのであろう」
「いいんだ。だって、なんて言ったらいいか、それも判らなかったから」
そうか、と頷くと、虎千代は目をつむった。
「なら何も言わぬでいい。それよりせっかくお前が背に初めて身を預けたのだ。少しの間、この時を楽しませてくれぬか」
「うん」
僕が馬を駆る間、最強のいくさ姫は小さな眠りについた。恐ろしく厳しい生と死のかすかなラインを、危うく潜り抜けてきたとは思えない安らかさで。目を閉じていただけではなく、なんと本当に虎千代は、少しまどろんだのだと思う。豪胆な奴だ。
やがて目を覚ましたときは、虎千代は何事もなかったかのように戦線を収拾した。
鬼小島たちを従え、怪我人を収容し、鬨の声を上げさせ颯爽と戦場を去る。
江戸時代の武士たちの語り草になるほどの伝説にもなるわけだ。一体、こんな小さな女の子のどこに、そんな強靭なエネルギーが閉じ込められているのだろうと思えるほど。その姿が、越後の死兵を惹きつけてやまないはずだ。
僕たちがついに愛宕山にある血震丸たちの砦に着いたときには、すでに日が高く上りきっていた。明け方、各所で軒猿衆が破壊工作を行い、開いた城門から新兵衛さん率いる斬人部隊が混乱して逃げ散る血震丸たちの手勢を追い散らしたその場所は、至るところで煙が上がり、近づくと生木や金属の焦げる匂いが強く鼻を突いてきた。
虎千代は城内に幔幕を張らせると、陣を整え、そこで別働隊と無事、合流した。
「首尾ようやったな、新兵衛。さすがじゃ」
虎千代が奇襲の成功を言祝ぐと、はっ、と、膝を突いたきり、なぜか新兵衛さんは答えに詰まったように固い表情になった。
「何かあったのか」
「ええ、実は…」
言い淀んだ新兵衛さんに、虎千代はさっと顔色を変えた。
「黒姫はどうした?あやつも一緒であったであろう。まさか、どこぞ手傷を負うたか」
ばたばたと、黒姫が入って来たのはそのときだ。
「おっ、遅れてすみませんです。支度に手間取りましたです」
と言う黒姫はなぜか、いつもの着物姿だ。戦場に出ていたので、もっと煤をかぶっていてもいいのだが、虎千代に会うので身を清めたのか、髪も整えている。
「支度と」
虎千代は不審そうに眉をひそめた。対する黒姫は珍しく緊張した面持ちだ。やっぱり何かあったのだろう。新兵衛さんの顔にも心なしか翳が射している。
「まずはご報告致しますですっ。菊童丸様の件なのです」
「おお、御曹司は無事か。かささぎも身を案じているぞ」
「それが…」
と、黒姫は、息を呑むと、言葉を次いだ。
「菊童丸様の身柄、黒姫御救い出来ませんでしたのです」
「なんと」
虎千代は血相を変えた。
「すでに手遅れであったのか」
「いえ、そうではありませんです」
そう言い淀んで、黒姫が語り出したのは人質救出の意外な顛末だった。
軒猿衆による急襲作戦は明け方頃から順調に行われた。雑用婦に扮した女たちが夜半、各所に火を放ち、その隙に武装した黒姫率いる軒猿衆が、城内を撹乱しながら新兵衛さんの軍勢を引き入れるため正門を開け放つ。
作戦は順調に推移し、砦は朝方の短時間で難なく落ちた。敵勢は黒姫や新兵衛さんに斬り立てられて逃げ散り、城内ではすぐに菊童丸を探すために消火活動が行われていた。
つまり、僕たちが伏見野で爆発音を聞いたときには、すでに戦闘のほとんどが終わっていたのだ。
黒姫たちは焦っていたようだ。なぜかと言うと、本格的に戦闘を行う前に菊童丸の身柄を確保する段取りでいたからだった。しかし、下調べから割り出した菊童丸が軟禁されていると思われる場所を隈なく探したのだが、一向にその姿が発見できないのだ。
血震丸がやはり人質交換の場所に連れていったのではと言う意見もあったのだが、出ていった血震丸たちが菊童丸を連れていなかったのは黒姫自身が確認している。
(むうう…いないなんてことありえないですよ)
黒姫は軒猿衆に内部をくまなく探すように命じたが、自分は最初に菊童丸が監禁されていたと思われる部屋を調べ始めた。建物の中はまだ混乱のさなかだ。逃走のどさくさに金目のものを漁るものや、それを追う残党狩りの兵でごった返している。
黒姫は、ひと際丈夫な閂が掛けられた納戸に注目していた。ここは恐らくはもっとも、菊童丸が監禁されていた可能性が高い場所だ。火が放たれるといち早く黒姫はこの場所を襲ったのだが、不思議とそこはすでにもぬけの空だった。
なぜか硬い樫材の閂が、すんなりと開けられていた。その前の間にあった鉄錠は鍵を使って開けられたものだ。しかし、と黒姫は思う。この鎖をつけた閂は、無理やり外されている。と、言うより、鉄鎖と丸太のような木製の閂がただの一撃で破壊されているのだ。
言うまでもなく黒姫がたどり着く前、誰かがここをこじ開けたと考えられる。しかし、どのような手段で、と言うのが着目すべきことだ。
黒姫は閂の断面につけられた痕跡に気づいた。これは太刀傷だ。信じられないことに、この頑丈な閂をなんと日本刀で叩き壊したものがいる。どんな武器を使い、どれほどの技量があるものならば、そんなことが可能なのか。考えるだけで黒姫の背筋に、寒気が走った。
(…まさか)
黒姫の脳裏にふと、その太刀傷から直感が閃く。常人の仕業とは思えない、大きな太刀傷。いや、しかしあり得ない。まさか、あの人がこの場にいるはずがない。黒姫は本能的に感じ取った感覚を振り払おうと、必死に首を振った。でもだ。そう言えば、彼は、そうしてこの前も自分たちの前に現れたではないか。
突然、いるはずもないところへ、偶然を装って。
格子戸からふと階下の広間をみて、黒姫は、はっ、と息を呑んだ。そこは、敵味方の兵がまだ入り乱れている。武器を棄て逃げ惑う男女が入り乱れる中。
桜色のうちかけを頭から被せられた小さな影が鎧武者に引き連れられて、外へ出ようとしていた。黒姫の目はうちかけを被った誰かではなく、鎧武者に惹きつけられていた。男の顔は白い頭巾で覆っているのでまったく見えないが、背中に装備された武器に見覚えがあったからだ。
それは二メートル以上はあろうかと言う大太刀だ。
黒姫が知る中で、あの鬼小島以外にそんなものを使って閂をぶった切れるような化け物は一人しかいない。
黒姫は広間に向かって、飛び降りた。突然、落ちてきた人間に驚いてどよめきが立つ中、さっきの二人組は振り返りもせずに雑踏に紛れていこうとする。
「そこの二人っ、待つですよっ!」
黒姫は辺りを鎮まり返らせるほどの大声で叫んだ。
意外にも、白頭巾の男はぴたり、と足を止めた。
やはり、若い男だ。
僧兵くずれに扮しているつもりか、、法衣の上に着た胴丸具足の首に数珠をかけている。
すずやかな光を宿した、力強い視線が黒姫を見返した。
「頭巾をとるですよ」
黙って、男は頭巾をとった。女性とみまがう、艶やかな黒髪がそこからこぼれでたのはそのときだった。
やはり。
そこにいたのは、煉介さんだった。黒姫が侵入するより早く、あの大太刀で閂をぶち壊し。菊童丸をさらっていこうとしたのだ。
敗残兵に紛れて落ち延びようと考えていたのだろう。それでついさっきまで城内に隠れていたのだ。
「将軍家は、諦めたのではないのですか」
「いや」
そんなことは言った覚えはないな。そう言うように、煉介さんは小さく首を振った。
「そこにいるのは菊童丸様ですね」
と、言うと、黒姫は煉介さんに一歩近づいた。
「こちらに、引き渡してもらうですよ」
ふわり、と煉介さんは背中の太刀に手をかけた。ただのそれだけだ。まだ太刀は抜いていない。そしてそれを扱うべく腰を落としてはいない。しかし。
「あ・・・」
黒姫はそこから一歩も近づけなかった。
当然だ。
目の前にあの、圧倒的な刃圏が現れたのを、黒姫は本能的な命の危機とともに感じ取ったからだ。
一度、煉介さんの剣の威力と技の冴えは目の当たりにしている。確実で無惨な死をイメージし、黒姫は息を呑んだ。
この男は何も言わない代わりに、警告だけしたに違いない。
自分を邪魔するものは、容赦なく斬るだけだと。
黒姫は打つ手を失って硬直した。
「童子切殿」
新兵衛さんが駆けつけたのは、そのときだ。
二人の息詰まる対峙に気づいた新兵衛さんは手早く、周囲に警戒を促している。
「お分かりでしょうな。このまま、ここで行かせるわけにはいきませぬ」
新兵衛さんの合図で四方から、煉介さんに攻撃が加えられる配置がすでに出来ている。煉介さん自身も、それを確認したはずだ。しかし、
「分かってるよ」
気負いもせず、煉介さんは応えた。
「だが、行かせてもらう。こっちも退く気はないのでね」
「どうしてもやりまするか」
「来るなら二対一で来るといい。弓を撃たせれば、御曹司に当たるよ」
いつもの何気ない調子で、煉介さんは言った。
(さすがは童子切殿だ)
新兵衛さんは戦慄したらしい。煉介さんがそう言ったのは、決して自信過剰の現れなどではなかったと、新兵衛さんは言う。ただ、煉介さんはそこで一歩も退かない気迫を見せたのだ。
それが新兵衛さんをも一歩退かせた。
「虎千代と真人には、よろしく言っておいてくれよ。悪いがこれが、おれの仕事なんだ」
「松永弾正の差し金にござるか」
「違うさ」
言下に、煉介さんは否定した。
「それは違う。これはおれがなすべき仕事なんだ。おれの国を作る。虎千代には分かってもらえないかも知れないが、おれはそれをするために生まれて来たんだ」
「煉介さん、見損ないましたよ」
声を上げたのは、黒姫だった。
「あなた何を言ってるか分かってるですかっ。自分の野望のために幼い菊童丸様を犠牲にしようとはそれでも武士ですかっ」
「殺しはしないさ。そんな非道な話じゃない。だが分かってくれ。おれの国のためには、彼が必要なんだ」
新兵衛さんたちはそれから、身じろぎもする様子も見せなかった。煉介さんはそれを見届けると、ゆっくりと太刀から手を離し、桜色の小袖をかけた菊童丸を促し、静かに去っていった。なんらかの因果が含められているのだろう、菊童丸はこちらをみなかったし、一言も言葉を残すことはなかったという。
やがてまもなく、二人は雑踏の中に溶けていった。
虎千代は黒姫の話を、じっと聞いていた。
「黒姫」
虎千代が声を出すと、黒姫は肩を震わせ、頭を下げた。
「もっ、申し訳ありませんですっ、黒姫、自分の目の前でみすみす菊童丸様の身柄を奪い去られてしまいましたです。軒猿衆は悪くはありませぬ。すべてはわたくしの責です。どのようなお咎めも覚悟の上です」
「おのれを咎めようと、声をかけたのではないわ。それより、煉介めは菊童丸は殺さぬ、と確かに申したのだな」
「はっ、はい。自分の国を作るために、菊童丸様が必要だと」
「なるほど」
大きく息をつくと、虎千代は考え込んだ。
「あっ、あの虎さま…ご処分は」
「なんだ、その話か」
じろり、と虎千代がなぜか身を清めている黒姫の様子を上から下へ見たので、息を呑んで顔を上げた。
「腹を切るは許さぬぞ。失態は挽回して恥をすすぐべし。末森の三座の件もおのれが、始末をつけたであろう。急ぎ、童子切めの足取りを追え。吉報を期待しているぞ」
「はっ、はいですっ」
綺麗な顔をくしゃくしゃにして黒姫は、涙ながらに頷いた。身を清めて黒姫は、すでに切腹の用意までしていたのだ。はやまらなくてよかった。
僕は持っていた手ぬぐいを思わず差し出したのだが、それで思いっきり鼻をかまれた。
煉介さんが菊童丸をさらった。
「あの男…なんと言うことを」
必ず殺す、と、かささぎなどは顔色を失っていたが、僕の前では虎千代は、沈痛な面持ちだった。
「そこまでして国が欲しいか」
虎千代は嘆くように、僕に言った。それは甲斐のない、つぶやきだけど虎千代の率直な気持ちだ。一国を担う家に生まれた虎千代には、草の根を分けて生きてきた煉介さんの分からないだろう。そう言ってしまえば、それまでだが、煉介さんだって虎千代のことを分かるはずもないと、僕は思う。
だって。
虎千代が国を率いるのは、そこに生きる人たちのためだ。長尾家によって領土を安堵されたのみならず、国が存続することで身を守られる人たちの思惑すべてを背負って、虎千代は長尾家を率いる。だからこそ黒姫や鬼小島が身を粉にして彼女に付き従うのだ。
自ら国を獲る。
煉介さんが思い描く世界は、どんなものなのだろう。
「弾正の差し金になく、煉介めは菊童丸を殺すつもりではないと言うたな」
と、虎千代は小さく息をつくとまた、考えに耽ろうとした。その直前、ぽつんとつぶやいた言葉が、僕の心の中に重たいしこりを残した。
「ついにあやつ自身と、対峙せねばならぬか」




