直接対決へ!不気味な笑みを浮かべる血震丸に虎千代の切り札とは…?
次の朝、京都に霧が渡った。
日が昇るくらいの時間帯には、景色をすっぽりと色濃い霧が包みこみ、ほとんど目の前が見えないくらいだ。すぐ近くへ行こうとしても、そのままどこかへさまよってしまいそうな濃霧だ。
まだ夢の中にいるみたいな乳白色の中を僕は、虎千代たちと歩き出している。
軍勢はすでに、夜明け前には出立の準備を整えていた。虎千代が整えた軍勢は力士衆以下、選ばれた精鋭だ。もちろん相手を警戒させないために人数も絞ってはいるのだが、黒糸縅の鎧に身を固めた男たちが虎千代のもとに群がるように集まると、思わず一歩後ろに退いてしまいそうになる強烈な圧力を感じさせた。
鬼小島たちが守る虎千代は兜は被らず、鎧の上に外套を羽織り太刀を佩いた。黒地に金色の蝶をあしらった着流しと、緑色の糸で威した胴丸に僕は見覚えがあった。それは確か僕の前に、虎千代が初めて現れたときの装束なのだ。京洛を騒がしたあの、鵺噛童子として。
巨大な狼を引き連れた、鎧姿の女の子。鵺噛童子の虎千代が、あの河原で僕の前に現れたときのことは、はっとするほど鮮やかな記憶で今でも刻まれている。
「…恥ずかしいことを言うな。そもそも鵺噛童子は、口さがなき京童が戯れにつけた忌み名ではないか」
僕が装束の話から、最初に虎千代と会った時のことを話すと、彼女は頬を少し紅潮させて顔を背けた。
「そもそもわたしは、あっ、あんな形でお前に会いたくはなかった。あれでは、いかにもわたしが…ただの、無法な荒くれ者ではないか」
無法な荒くれ者か、うん、確かに。
「ひ、否定はせぬのだな」
「うん、まあ、全然そんなことなかったって言うのも嘘だし」
僕が言葉を濁すと、虎千代は唇を歪めて切なそうな顔をした。
正直なところ、本当に最初の印象だけではそんな感じだったのだ。
「新兵衛さんに僕が似てるって、言われた時はびっくりしたな」
かわりに僕は微妙に話題の矛先を変えた。
「あれは違うぞ。絢奈が訊きちがえて、お前に伝えているのじゃ。そもそも我が似ている、と言うたは、景康兄のことぞ」
景康って確か。殺されてしまった虎千代のお兄さんだ。虎千代を救い出すために、謀反人に挑み、亡くなった年の近いお兄さん。
「新兵衛も言うていた。顔がよう似ていると言うのではないし、説明しろと言われれば、言葉に迷ってしまうのだが、お前を初めて見たとき、なぜか景康兄を思いだした」
顔も、姿も、恐らくはまるで違うのに。そう言うことがあるのかどうなのか、僕にはよく分からない。でもそれで僕は、納得したのだ。初めて虎千代が僕を見たとき、はっ、と動きを停め、目を見張った理由がそれでよく分かった。
「お前は」
と、虎千代は言った。
「どうだったのだ?五百年も未来より来て突然、出喰わした我を見てさぞや驚いたであろうに」
「うん…」
確かにあれはびっくりした。
そもそも、あのときは戦国時代に飛ばされたなんて思ってもみなくて、突然、河原に現れた虎千代のいでたちに気圧されてしまったのだけど、たぶん、僕の動きを停めたのは、そのせいばかりじゃない。
はたと、立ち止まってこちらを振り返る虎千代に、僕もまた、違う何かを見てしまったのだ。
それが何か、説明しようと思えば言葉に迷ってしまう。
ただあのとき、僕が見たものの印象をただ、信じるしかないのだ。
言うまでもなくそれは虎千代が自分で言った、無法な荒くれ者の姿などではなかった。
清げにしつらえられた、古式ゆかしい武士のいでたち。色とりどりの糸でしっかりと結びあわされた鎧に、太くたくましい吊り紐で結わえられた太刀。厳粛に整えられたいでたちに引き締められた力強い眼差しと、きらきらと川面が流れるようにゆらめく黒髪。
そしてその女の子からは、僕が子供の頃よく身を置いていた古いお寺のお香の匂いがしたのだ。
不定形の霧を押し分けるように、僕たちは進んでいく。
軍律が行き届いているため、しわぶき一つ、たてるものはいない。そこにはかちゃかちゃと、具足の小札が擦れる音と馬のひずめの高い音とが響くだけだ。先頭の集団には虎千代を中心に旗印を持つ鬼小島の力士衆、続いてかささぎの早崎衆が脇を固めている。
月毛の白馬に乗った虎千代は、まったく声を立てなかった。どこをみるともなく、前に見据えられた眼差しは本当は、どこを見ているのだろうと、僕には思えた。
僕は騎乗して、虎千代のすぐ脇にいる。戦国時代に来て自分が武装して馬に乗っているのもそうなのだが、こうして何気なくここまで来た僕は実際、すごい体験をしているはずなのだ。
今、僕はあの越後勢の中にいるのだ。
鬼小島はじめ力士衆たちは、上杉謙信に、いや、虎千代についてその生涯を大激戦に捧げることになる選び抜かれた猛者たちだ。彼らはこれから、川中島合戦に従軍し武田信玄と戦い、関東では川越野戦の名将北条氏康と戦うことになるはずだ。ある意味では戦国最強の歩兵部隊と言っても差し支えはない。
それにしても僕はそんな人たちと、しばらく一つ屋根の下で暮らしていたのだ。慣れと言うものは恐ろしいとしか言いようがない。
経験深い彼らは濃霧の中でもまったく動揺を見せない。慎重に辺りを警戒しながら、虎千代を伏見野へ運んでいく。普段は騒がしい鬼小島も黙っているだけで、周囲に張りつめた緊張感を与えていた。
指定された場所は、島洲に近い神社の一角だった。この朝は霧が渡っていてほとんど見えないが、小高い場所なら巨椋池を一望できる辺りにあるそうだ。
「やはり足が柔いか」
と、ここに至って虎千代が初めて口を開いた。一帯はぬかるみでよどんだ芦の原で至る所に窪やたまりがあるようだ。
ここではいざと言うとき馬を自在に走らせることが出来ない。虎千代が、騎兵を利用した電撃的な機動作戦を得意とすることを逆手にとった、血震丸の第一の罠がそこにあった。
もちろん虎千代もこの辺りの地形はかささぎから聞いて予測はしていたようだ。
馬に草鞋を履かせるなどして対策はとっておいたようだが、深い窪に足を取られれば歩兵すら行動ままならないこの場所では、騎馬突撃は無理だと判断したのだろう。ここで騎兵にはいざと言うとき、馬から下りて戦うことを即座に命じた。
「小僧、お前はもう降りとけ」
鬼小島が僕に忠告してくれたのは、そのときだ。
「こう言うとき、横っ腹突かれたらいくさ慣れしてるやつだって馬から落ちて犬死にするもんよ」
とは言われるが、虎千代は別格らしい。ふいに馬に鞭をくれると、
「しばし見ておれ」
と、ひょいひょい手綱を使って、泥地を乗り越えていく。虎千代が探し出した道を歩兵が踏み固めて道を作る。そうしてようやく全軍が渡ることが出来た。
ここまで来るのに、すでにかなりの一苦労だ。
「みよ」
すると、突然、虎千代の馬の足が立ち止まった。
霧混じりの空のかなただ。
そこに一際大きな大木が天を衝く、杉林があった。
霧が雲になって梢がたなびくその向こう。
すでに雲霞のようになった軍勢が旗指物をめいめいに挿して僕たちを待ち受けていた。
血震丸は油断なく野陣を張って、虎千代を待ち受けていた。
すでに廃墟と化した神社には幔幕が張られ、血震丸の旗印が樹てられている。それは、十字の槍首にほつれ髪の生えかけた髑髏を掲げた異様な紋章だ。虎千代が使い番をやって長尾家の旗印を確認させると、僕たちは血震丸たちが待ち構える幔幕の中へ入り込んでいく。
血震丸は床几に腰掛け、悠々と煙管を吸っていた。赤糸で威した、真新しい漆塗り一枚胴の具足だ。まるで植物の蔓のような長髪がふてぶてしく背筋まで伸び切り、沼沢地の湿った微風にたなびいていた。
煙管から細々と煙を吐き出すと、血震丸はそこを動きもせず、僕たちが入りこんでくるのを眺めている。やがて、かすかに細められていた刃物で切りつけたような瞳が開き、
「これは御足労」
ちらり、と、虎千代の方を窺うと、口調だけは丁寧に言った。
互いの軍勢が入り乱れるさなかで、もっとも危険な場所での対峙である。
虎千代は背に、力士衆以下、越後勢の精鋭を控えさせている。
対し、血震丸はしっかりと野陣を敷いて抜かりなく兵を配置している。
虎千代は直立不動で見下ろし、血震丸は足を開き腰かけかすかにあごを上げている。
その二人が、色のない視線を交わしお互いの状況を窺っているのだ。感情を読まれないように装ってはいるが、虎千代も血震丸も相手の器量を見極めようと、一歩も退かぬ態度で睨み合っている。
すでに斬り合いが始まったかのような緊張感に、傍らにいる僕も思わず息を呑んだ。
「そも、辞儀合い無用の仲であろう。済ませることを早々に済ませるべし」
無感動な声で、虎千代は言った。
「つれぬことを言うな、長尾の鬼姫よ。おのれとは、つい数月前まで越後で骨肉あい食む殺し合いをしたばかりではないか」
血震丸は時間を惜しむように笑みを浮かべ、対照的にじっくりと虎千代の言葉を噛みしめた。
「今は殺し合いをしに来たのではない。取引をしに来たまでのこと」
大きく息を吐いて、虎千代は言った。挑発に乗るなと言った、僕の目くばせに軽く、頷いてから静かに続けた。
「十日の約定だ。こちらもそれを違える気はない。金はすべて用意してあるのだ」
「そうか」
紫煙を吐き出すと、血震丸は言った。そして腹の底で豆を煎るようなくっ、くっ、と言う忍び笑いを漏らし、
「大分、おつむが冷えたではないか。誰ぞ頼れるものが入れ知恵でもあったか」
「お前に話す義理はない。金を拝ませてやる。それで納得するのであろう。おのれも武士なれば、約定を果たせるところを見せるがいい」
と言うと、虎千代は合図をし、荷駄に運ばせてきた千二百貫もの大金を入れた木箱を並べさせた。血震丸はその様子をじっくりと眺めつくしてから、背後に向かって合図し、
「なるほど、確かに。約定は果たさねば、だな」
と、また興味深げに虎千代の表情を窺う作業に戻った。それはまだ、何か別の切り札を懐に呑んでいるのではないかと勘ぐらせるような思わせぶりな態度だったが、その合図で運ばれてきたものを見て僕は血の気が引いた。
車に載せられ引きずられてきたのは、小さな木製の箱だった。それはちょうど子供が一人入れるくらいのものだ。箱は地面に垂直に立てられているが、蓋が開かないようにそれを漆で固めた太い麻縄でぐるぐる巻きに縛ってある。
「何の真似だ」
虎千代の質問に血震丸はにたりと笑い、
「趣向よ。少し、付きおうてもらおう」
「いつか申しましたでしょう、わたしも兄上も退屈症で悪い遊びが好きだと」
と、言ったのは贄姫だ。血震丸と同じに長い髪を背まで波打たせた鬼姫は、紺色の胴具足に身を固めている。贄姫が指図すると、その立てられた箱の周囲に薪が積みこまれ、樽一杯に注ぎこまれた液体がたっぷりとかけられた。むわっ、とたちのぼる異臭が僕たちの鼻をついた。あれは何か、想像したくもなかった。
「言うまでもなくあれは油よ。そして、おのれに返す菊童丸はあの中なのだが」
と、血震丸は身震いをして立ち上がると、愉しそうに説明を始めた。
「これから金を確認する。まあ、義勇で知られた長尾の姫には、まずはなきこととは思うが…少しでも用意した金子に疑いあるようなら、贄姫があれに火をかける」
鼻歌を歌うように、菊童丸を焼き殺すと宣言すると、血震丸は薪にかけられた木箱を指した。
「……なあに、御曹司にはあと少しの我慢よ。俺も小僧の丸焼きなど、見たくはないのではな。さっさと金を確認しようじゃないか」
ばたばたと、血震丸の手勢が虎千代の用意した箱に群がる。乱暴に蓋を開け、そこに詰め込まれた千二百貫もの大金を検める。この期に及んで人質を焼き殺そうと脅迫するとは、しかし何と言う、度外れた外道だ。怒りに堪えながら、虎千代は無遠慮な血震丸の手勢が身代金を確認する様を見守るしかなかったのだ。
「御曹司っ!」
思わず駆け出そうとしたかささぎを、僕と鬼小島がすんでで止める。今、うかつな行動を取れば、ここまで怒りに堪えてきた虎千代の労苦が無駄になる。とにかく我慢するしかないのだ。
「この外道がっ…」
虎千代が吐き捨てるように言う。僕の隣でかささぎもその屈辱に堪えていたが、顔からは血の気が引き、噛みしめた唇からは血がにじみ出していた。
「おいおい、理由は分からんが、おつむが冷えたはずじゃないか、そういきりたっては話が進めにくうて、こちらも困るぞ」
虎千代の神経を逆撫ですることが愉しくて堪らないと言うように血震丸は、話を続けた。
「我らも最大限、誠意ある対応をしている。そもそもはお前に一族を殺され、越後を追われた身だ。だが約定は果たすのが武士だ。これが誠意ある対応ではないか」
どう見ても虎千代の怒りを煽ることが目的のように、血震丸は嘲弄をやめなかった。しかし虎千代は無表情を貫き通し、まったく反応する言葉を口にしなかった。
やがて、良銭で千二百貫、総額確認しました、と言う声が上がったのは間もなくのことだった。
「よし、首尾は上々か」
満面の笑みを浮かべる血震丸に、虎千代は固い声で言った。
「約定は果たした。人質からまず、離れてもらおう」
「よかろう」
と、血震丸が言ったが、この策謀の鬼が、さらに驚くべきことを言い出したのは次の瞬間だった。
「…と、言いたいところだが、ここですぐ御曹司、渡すわけにはいかぬ。引き続き、次の取引をせねばならぬゆえな」
「おのれ無礼者っ、我らを嬲るかっ」
罵声を浴びせたのは、かささぎだ。血震丸はそれを一瞥すると、相手の意図が分からないので様子を窺うことに徹している虎千代を振り返り、
「姫よ。おのれは約定を果たしたと先ほど言うたが、一つ、我らとの取り決めを冒したであろう。暮坪道按の件よ」
贄姫の後ろから、暮坪道按がのっそりとその細長い身体を現したのはそのときだった。
「どうや、驚いたか。危ういところであったわ。もう少しでお前らに痛めつけられ、あたら命を落とすところであったのやからのう」
道按は嬲るように、虎千代を見据えた。対し虎千代は押し黙ったまま、その舐めるような視線を受け止めた。
「事情は、説明せずともよう分かろう。お前はあのソラゴトビトひとりで贄姫に使いをやらせると言う禁を破り、あまつさえ、手下のものに贄姫の跡を尾行けさせた。暮坪道按を捕え、我らが根城を突き止めようと言う魂胆まで、その罪は重いぞ」
いぜん虎千代がそれをじっ、と黙って聞いているので血震丸はかさにかかって、
「本来なればこの約定違反は重篤じゃ、取引は破談となっても致し方ない。しかし我らも時が惜しいゆえ、手早く別の取引で手を打とうと言うことだ。まずこの千二百貫、頂こう。その上で、追加の身代金を要求する」
ざわっ、とその場がどよめいたのは、次の瞬間だ。
虎千代は軍勢を制するために右手を水平に伸ばして合図し、
「虫の好い話だな。つまりは身代金は受け取る、人質は返さぬと、こう言うことか」
「あわてるな、菊童丸は返すさ。新たな身代金は別の人質のためのものだ。ただの一人でよい。それ、おのれがそこに連れているソラゴトビトよ」
と、血震丸は、僕の方へ向かい、不気味な笑みを浮かべた。
「まずはこの場でおのれを貰い受け、さらに人質交渉を行う。なに、御曹司とは違い、ソラゴトビトの命なぞ、ただの道の草と同じ。それほど高くはつかぬ。まずは良銭六百貫で手を打とうではないか」
「六百貫だと」
なんと虫の好い要求なのだ。相手の約定違反につけ入り、追加の交渉を持ちかけるとは。しかもここで、人質を取ろうと言うのだ。さすがの虎千代も首筋が粟粒立つほどの怒りで、身体が震えたのが分かった。
「そんな要求は呑めぬ、と言ったらどうする?」
感情を押し殺した声で、虎千代は尋ねた。
「知れたこと。取引は破談だ、その場で御曹司を焚き殺す」
血震丸の合図で贄姫は、松明の火をつけさせた。火の粉舞い散る松明が二つ、油で濡れた薪に嬲るように近づけられる。
「なあに、金を払えば二人とも助かる。御曹司は天下の世継だ、殺すわけにはいくまい。お前の傍らにいるソラゴトビトも、我らにとっては道の草同然だが、お前にとっては欠けがえのないものなのであろう。なにを惑うことやはある」
「虎千代」
「行くな」
僕が出ていこうと進み出ようとするのを、虎千代が止める。彼女は僕の目を上目遣いに見上げると言った。
「頭を冷やせと言うたは、お前であろう」
血震丸は揉み合う僕たちの様子を噛みしめるように眺めると、悠々とその両手を拡げた。
「さて我らも時が惜しい。早々に決めてもらえるか。御曹司も、さぞや息苦しかろう。待たせるは不忠に当たるぞ」
「大丈夫、わたしは冷静だ」
と、虎千代は言うと、僕の手を握った。
「長尾殿、どうする…?」
菊童丸が焚き殺されると知って、かささぎは息も詰まりそうだった。
「任せろ」
虎千代はそれを目で制すると、血震丸に向き直った。
「さてどうする」
虎千代は大きく息をすると、きっぱりと言い放った。
「その取引だが、結論を言おう。断る」
「長尾殿っ、血迷ったか」
「ほう」
興味深げに虎千代の顔を窺うと、血震丸は腕を組んだ。
「小僧の丸焼きを見たいくちか。それもまあ、よかろう」
「約定違反と、お前は我らを詰ったがすでにお前らからして約定を破っているのを、我は知っておるわ。我らに人質交渉を持ち掛けておきながら、朽木谷の幕府には使者を送り、我らを菊童丸略取の逆賊として、追討の御内書を出させようと働きかけた件、すでに底が割れておる」
「下らぬな」
と、言う血震丸の前に虎千代はかささぎに、用意させた小さな文を広げて見せさせた。
「これは朽木谷からの報せだ。こたび菊童丸様略取に加担し、朽木谷で策謀を繰り広げたお前の手の者らは、我ら早崎の衆にて早晩捕縛されている。血震丸、おのれが越後長尾家の転覆を企むがゆえに、御曹司の略取を企て幕府を操作しようと考えたこと、委細明らかになっている」
「ふん、苦し紛れに奇態なことを申すわ」
「飛騨左京の名は、存じておろう」
と、虎千代が突然、誰も聞いたことのないその名を口にすると、ぴたり、と血震丸は表情を固めた。
「飛騨古折家からお前に付き従う股肱の家臣であろう。この男が名を変えて暗躍し、人質事件の罪を我に着せ、御内書を越後に送り、兄長尾晴景に追討の兵を出させようと言うこと、すでに割れておる。私事によって、幕府をかく乱しようとしたその罪、そうそう軽くはないぞ。幕敵として断罪されるは血震丸、むしろお前のようだな」
虎千代はじっ、と血震丸を見据えると、話を続けた。
「おのれが国に放った御内書の意を伝える密使も、こちらの手で捕えた。もはや兄、晴景が追討の兵を挙げることはない。あてが外れたな」
「くっ」
虎千代の思わぬ反撃に、いつのまにか血震丸はさっきの饒舌がなりを潜め始めている。僕たちが見通した血震丸の死手詰みが食い破られようとしているのだ。まるで自分のはらわたを食い荒らされているように、血震丸が苦しげな表情に変わっていることに、僕は気づいていた。
さらに虎千代は懐から、何か紙束を取り出すと、血震丸の足もとに放り投げた。そこには放射線状に人の名前がずらりと描かれている。
「これはおのれが越後の豪族どもの間を暗躍して取りつけた、連判状よ。血震丸、おのれのことを話せば罪を赦す、と言う条件を出したら、あやつらは容易にお前を売ったぞ。裏で人を貶める策を弄するものの信望なぞ、この程度のものと言うことよ。おのれは、到底、国を治める器とは言えぬ。お前の策では人は、心までは動かさぬ」
まるで鋭い刃で斬りつけるような虎千代の弾劾に、血震丸はついに崖際にまで追い詰められたかのように、僕には見えた。
「はっきりと言おう。お前の野望は、もはや潰えたのだ。我は断じてお前等に屈せぬ。だから先ほど、こう応えたのだ。お前の要求に随うことは断る、と」
悪鬼は虎千代の闘気に満ちた視線に、しばらく堪えていたが、やがてふーっと、ひとつ、腹立たしげに大きく息をつくと、
「ふ…やはり残忍無類の鬼姫よ。天下人の人命よりも、銭とおのれの想い人の命の方が惜しいと見える」
血震丸の顔には癇癖を表すどす黒い血管が、太く浮き上がっている。鼻の頭に皺を寄せると、悪謀の鬼は、背後を怒鳴りつけた。
「道按、贄姫、なにをしておるっ、火を放て!餓鬼を焚き殺せ」
「暮坪道按よ」
虎千代に声で刺され、道按はぴたりと松明を持つ手を止めた。
「なっ、なんや」
「おのれが生きていたことなぞ、先刻承知ぞ。すべては我が手のひらのうちで起きたことに過ぎぬ。牢内に差し入れた薬、あれは黒姫が作ったものだ」
「そっそれがどうかしたかっ」
道按の声が上擦っている。まんまと出し抜いたと思っていた、自分が実は虎千代に泳がされていた、その事実がほのめかす結果の正体の恐ろしさに思わず、動揺したのだ。
「そろそろか」
虎千代がふいに、不可解なことを言い、視線を外した。
「どうだ、何か聞こえぬか」
「なんだと」
怪訝そうに血震丸たちが、顔をしかめたときだ。僕にもしっかり感じられた。地鳴りだ。どこかで空気が大きくどよめいている。それがなにを表しているか、すぐに察したのは血震丸だ。憎悪に歪めた顔が首を絞められたようにますますどす黒くなり、
「なっ、なにをしたっ」
「おのれらの愛宕山の根城に、朝駆けを命じたのよ。今頃黒姫が、軒猿衆を率いておのれらの根城に火をかけて回っているはずよ」
と、虎千代が西の空を指し示すと同時に、黒い煙が上がり、地鳴りの音は地響きに変わった。真水に墨を溶かしたように、空を焦がす黒雲はますます強まり、緊急事態が起きている緊張感がそれだけでも伝わってくる。
「道按、お前のお陰よ。まんまと引っかかってくれて礼を言う。奇襲、首尾よくあいなったわ」
「ひっ、卑怯な」
「非道なおのれらの物言いとは思えぬな」
松明を持ったままおどおどと動揺する道按を嘲笑うように虎千代は言った。
「これで終わりだ」
虎千代が黒姫の報告を聞いて、暗号を使って命じたのは、まさにこのことだったのだ。黒姫が爆弾をばらまいているのか、西の彼方の惨事はますます急を増していく。もはや立場は逆転し、血震丸は別人のように顔色を変えて動揺していた。
「くっ、見え透いた流言を弄しおって」
血震丸は持っていた煙管をかなぐりすてて狂い立つと、叫び散らすように言った。
「なにをしよるかっ、ものども早う火を放てやあっ」
「やれるものならばやってみよ。その中に菊童丸がおらぬであろうことは、黒姫の調べからすでに見通しておるわ。見え透いたはったりはもう通じぬぞ」
虎千代がさっ、と手を挙げると、鬼小島が持っていた巨大な十字槍をぶん投げた。
槍はがんじがらめにされた木箱を狙い誤たずぶち破り、薪の上から吹き飛ばした。
木箱はその一撃で木片になって砕け散った。
その木片からはなにもでてきたりはしなかった。
なんと箱の中身は最初から空っぽだったのだ。
「口臭きものの田舎芝居に付き合うはここまでよ」
と、言うと虎千代は柄に手をかけた。
「おのれも武士ならば、干戈を交えて雌雄を決すべし」
「兄上っ、もはやこれまでですっ」
贄姫は言うと、松明を棄て刀を抜いた。
「者ども、長尾の鬼姫を活かして返すでないぞっ、押しこめて皆殺しにしや」
男たちが贄姫に呼応して、いくさの声を上げる。叫びとどよめきは四隣に満ち、どこまでも敵兵に押し包まれているような錯覚に陥る。
「弥太、出番じゃ」
虎千代の声に鬼小島は頷くと、野獣の咆哮を上げた。
「クソ野郎ども、待たせたなあっ!もう我慢するこたあねえっ」
力士衆の咆哮は、贄姫が鼓舞した手勢の声を一気に押し返す。続く、雷鳴のような虎千代の突撃命令が命知らずの野獣たちの堰を切らせた。
「死ねや者どもっ、揉みつぶしに押しつぶせえいっ」
それが合図のように、ついに両軍が相乱れた。
虚を突かれた血震丸たちが攻め込まれた形になったので戦況は初めから決していた。
もともと敵陣深く喰い込んでいた力士衆が暴れ出したのだ。みるまにゾウが暴れ出したような大混乱になった。幔幕は斬り破られ、幟は踏み倒され、悲鳴と金属音が入り乱れた。巨大な日本刀を担ぎ上げ、鉄筋のような槍や長巻を振るう男たちに跳ね飛ばされ、そこらじゅうに瞬く間に死人やけが人が満ちた。
戦国最強の呼び声が高い、力士衆のいくさぶりはやはり半端ではない。だって手勢の数からしたら、一見して血震丸が用意した兵たちの方がずっと多いはずなのだ。
あわてふためく人々の中を今度は暴れ出した馬がいななきをあげて雪崩れ込み、逃げ惑う血震丸の手勢を踏み潰して回る。突撃を機に、誰かがつないであった馬の手綱を残らず切ったのだ。あらゆる手で越後勢はゆすぶりをかけられるのだ。いくさの場数も引き出しも、血震丸の兵たちとはまるで違っていた。
「畿内で寄せ集めた兵など、このようなものよ」
虎千代は挑発するように言った。この大惨事のさなか、血震丸が一歩も動けずにいたのは、太刀を引きつけた虎千代が、一足飛びに斬りかかろうと身を低くしていたからだ。
「崩れる兵は多いほど、立て直しに苦労するぞ。よいのか、このままぼうっとしていれば総崩れになるぞ」
「くっ」
血震丸は歯噛みをすると、腰の太刀に手をかけ、立ち上がった。
「おのれえええいいっ、おのれえいっ!どいつも生かして返すかあっ!」
それが合図のようなものだ。
さっ、とつけいった虎千代が抜き打ちに血震丸の肩口に斬りつけた。
首筋の急所から、胴丸ごと斬り下げる致死の一撃だ。
「ううっ」
辛うじて太刀を抜き、それを鎬で受けた血震丸だったが、撥ね上げた刃にこめかみを傷つけられる。額から血をしぶいた傷は意外に深くぼたぼたと血が地面に滴り落ち、血震丸の視界を塞いだ。今の一瞬で勝負はあったのだ。
膝を突いた血震丸は剣を片手で握ってはいたが、反撃をする間も余裕もない。その咽喉を狙うように、虎千代が血に濡れた刃を突きつけた。
「どうする。腹でも切るか」
傲然と言い放った虎千代に、憎悪で煮えたぎるような視線を血震丸は叩き返す。しかし勝負は決したかに見えた。いくさがどう転ぼうと、ここで虎千代に血震丸は斬られることは動きそうにない。詰み手をかけた血震丸が、虎千代に逆に詰み手を指されたのだ。
もしここでこれ以上、血震丸が少しでも妙な動きをすれば、虎千代が狙いあやまたずこの悪謀の鬼を斬って棄てただろう。
しかしそれでもまだ、天運は血震丸を見離してはいなかった。
「兄上、早う逃れなさいませっ」
そこに、折よく贄姫が駆けつけたのだ。
鬼姫の放った鋭い突きが、虎千代の顔を掠めた。
頬を傷つけた紅い痕をものともせず、虎千代は贄姫を睨みつける。
「やってくれましたわね」
怒りにぎらついた視線を、贄姫は虎千代に叩きつける。
「今さら何を言うか」
と、虎千代は肩をすくめた。
「そもそもこれが望みであったのだろう」
阿鼻叫喚のいくさ場を眺め渡すと、虎千代は鼻を鳴らす。
「必ず殺してやると言ったな。存分に斬り結ぼうではないか」
二人のいくさ姫が、ついに戦場で対峙する。血で汚れた太刀を構え、二人とも寸毫も相手から目を離す気はないようだ。
その隙に立ちあがった血震丸が逃げようとするのを僕は目撃した。
「血震丸が逃げるぞっ」
と、僕が声を上げかけた瞬間、横から影が走り出る。
それは三条宗近の刀身を構えた、かささぎだ。
「逃さぬぞ」
血濡れた額を抑え、逃げようとする血震丸にかささぎは立ちふさがろうとした。
「たびたび将軍家を愚弄してくれたな。お前だけは、わたしが斬る」
ふん、と鼻を鳴らすと、血震丸は怒りによどんだ形相を歪めた。
「役者不足よなっ」
脇目もふらず走り出した血震丸にかささぎが追いすがって、その背に斬りつけようとする。そこに暮坪道按が手勢を数人、引き連れて割り込んできた。
「のけっ」
「御大将を討たせてたまるかやっ」
胴丸をつけた男たちが躍りかかったが、かささぎは一瞬でそれを斬り抜けた。
早崎一刀流の剣は、常人の理解を超えている。
すれ違う数瞬でかささぎは、男たちの鎧の急所を的確に斬った。狙いは頸、脇、太ももの下、手足の動脈などだ。見る間に戦闘不能になった男たちはそこに転がった。
その剣を、辛うじて防ぐことが出来たのは暮坪道按一人に過ぎない。
「やるな」
かささぎは血ぶるいをすると、道按の喉元に切っ先を突きつけた。
「長尾殿から話は聞いている。ここで斬っておいても悪くはあるまい」
「吹きよるわっ」
道按が突き出した剣を、かささぎは寸前でかわす。流れるような動きの冴えは、道按にも捉えられるものではなかった。横殴りの一撃が煌めくと、道按は右手首を斬り割られ、あの異様な長い刀を取り落とした。
(…すごい)
苦もなく道按を完全に封じた。虎千代は煉介さんの剣技が凄みを増したのを褒めたが、かささぎの剣の精妙さも、実戦経験でさらに冴えつつあるようだ。
このとき、戦局はすでに佳境を越えたように僕には見えた。
血震丸は敗走し、僕たちを押し包んでいた敵勢は見る影もなく崩れ立とうとしている。
しかし、僕が感じたようにいくさは虎千代たちの完全勝利に終わったりはしなかった。
その不吉な予感はすでに忍び寄っていた。
それは、戦局を決したとは思えない、新しい鬨の声によって姿を現した。




